鶴岡八幡宮の樹齢1000年と言われる大木が倒れました。
そのニュースを聞いて、いったいどんな地震や災害が起こったのか?と気になって新聞を読むと、
風が吹いて、倒れたらしい。
風、たかがそんなもので倒れたのか…。という「な~んだ」という気持ちで一晩眠り、
いやいやそういうことではない、と今朝思った。
たいぼくはおそらく既に死んでいたのだ。と。
木というもの、特に樹齢1000年近い木の外壁部分は、人間で言えばカチカチになった皮膚であり、その働きはほぼ消滅し、ただの構造物に変質している。
1000年の月日で根から腐敗し、おそらくはいつ倒れてもおかしくない状態でただただ立っていただけなのだ。
そんな危ない様子のたいぼくと言えど、お宮のたいぼくともなれば人為的に切ることは憚られるだろうし、どうしようかなあ、と思っていたところ運良く風が吹いて倒れたのではないかしら。
1000年の木が倒れることは、とてもいいことだと僕は思う。
根が腐り、もはや死に体ながら立っていた木。
そんな木に引導を渡したのが一陣の風であったことは象徴的で、
自然こそが、おそらくすべてに解決を与えるのである。
城破れて山河あり。その山河を形成する樹木や河川は、「常」と呼ばれたが、
「常」とは「連鎖」である。
木が倒れ、その死体の養分で新しい生命が育つ。
大きな流れの中で、命の連鎖が永遠の生命を形作っているように見えるが、
個別に見ればそれらはそのつどそのつど変質しているのだ。
くりかえすけれど、1000年の大木が倒れたことは悪いことではない。
僕らはそのような変質する「永遠」のなかにいる、ということだと思う。
そのニュースを聞いて、いったいどんな地震や災害が起こったのか?と気になって新聞を読むと、
風が吹いて、倒れたらしい。
風、たかがそんなもので倒れたのか…。という「な~んだ」という気持ちで一晩眠り、
いやいやそういうことではない、と今朝思った。
たいぼくはおそらく既に死んでいたのだ。と。
木というもの、特に樹齢1000年近い木の外壁部分は、人間で言えばカチカチになった皮膚であり、その働きはほぼ消滅し、ただの構造物に変質している。
1000年の月日で根から腐敗し、おそらくはいつ倒れてもおかしくない状態でただただ立っていただけなのだ。
そんな危ない様子のたいぼくと言えど、お宮のたいぼくともなれば人為的に切ることは憚られるだろうし、どうしようかなあ、と思っていたところ運良く風が吹いて倒れたのではないかしら。
1000年の木が倒れることは、とてもいいことだと僕は思う。
根が腐り、もはや死に体ながら立っていた木。
そんな木に引導を渡したのが一陣の風であったことは象徴的で、
自然こそが、おそらくすべてに解決を与えるのである。
城破れて山河あり。その山河を形成する樹木や河川は、「常」と呼ばれたが、
「常」とは「連鎖」である。
木が倒れ、その死体の養分で新しい生命が育つ。
大きな流れの中で、命の連鎖が永遠の生命を形作っているように見えるが、
個別に見ればそれらはそのつどそのつど変質しているのだ。
くりかえすけれど、1000年の大木が倒れたことは悪いことではない。
僕らはそのような変質する「永遠」のなかにいる、ということだと思う。