『古今集遠鏡 巻一』 16 古今集遠鏡 はしがき 八オ 本居宣長
『古今集遠鏡』6冊。寛政5年(1793)頃成立。同9年刊行。
はしがき 八オ
わがごとく、「人や意しき、音のミ 鳴らん」などハ、「人が恋シイヤラ声ヲアゲテヒタスラナク」
とうつす、「これハ」とちぢめの「らん」の疑ひを、上へうつして、「や」と合わせて、「ヤラ」といふ也、
「ヤラバ すなわちやらん」といふこと也、「又玉かづら 今ハたゆとや、吹風の春にも
人のきこえざるらん」 などのたぐひも、同じく上へうつして、「や」と合せて、「ヤラ」
と訳して下ノ句をば、一向ニ「オトヅレモセヌ」と、落としつけてとぢむ、これらハ「らん」
とうたがつる事ハ、上にありて、下にはあらざれバ「なり」
◯「らし」ハ、「サウナ」と訳す、「サウナ」ハ、さまなるといふことなるを、春便りに「サウ」と
いひ、「る」をはぶける也、然れバ言の本のことを、「らしく」と同じおもむきに
あたる辞也、たとへば「物思ふらし」を、「物ヲモウサウナ」と訳すが如き、「らし」も
「サウナ」と共に、人の物思ふさまなるを見て、おしはかりたる春なれバ也、さてついで
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わがごとく、「人や意識、音のみ 鳴らん」などは、「人が恋しいやら声を上げてひたすら鳴く」
と写す、「これは」と縮めの「らん」の疑ひを、上へ写して、「や」と合わせて、「やら」と言う也、
「やらば すなわち やらん」と言う事也、又玉葛(たまかずら) 今は絶ゆとや、吹風の春にも
人の聞こえざるらん」 などの類も、同じく上へ写して、「や」と合せて、「やら」
と訳して下の句をば、一向に「訪れもせぬ」と、落とし付けて閉じむ、これらは「らん」
と疑つる事は、上にありて、下にはあらざれば「なり」
◯「らし」は、「そうな」と訳す、「そうな」は、「さまなる」と言う事成るを、春便りに「そう」と
言い、「る」を省ける也、然れば言の本の事を、「らしく」と同じ趣に
あたる辞也、例えば「物思うらし」を、「物思うそうな」と訳すが如き、「らし」も
「そうな」と共に、「人の物思う様成るを見て、推しはかりたる春なれば也」、さてついで
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たゆ (絶ゆ)
[動ヤ下二] 絶えるの文語体
玉葛(た巻かずら)[名]
1 つる草の美称。「―はふ木あまたになりぬれば絶えぬ心のうれしげもなし」〈伊勢一一八〉
2 [枕]つるがのび広がるところから、「長し」「延(は)ふ」「繰る」「絶えず」などにかかる。
謡曲『玉葛』あり。
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古今集遠鏡
はしがき一オ 2
雲のゐるとほきこずゑもときかゞ
せばこゝにみねのもみちば
此書ハ、古今集の歌どもを、こと/″\くいまの無の俗語(サトビゴト)に訳(ウツ)せ
る也、そも/\此集ハ、よゝに物よくしれりし人々の、ちうさくども
のあまた有て、のこれるふしもあらざなるに、今更さるわざハ、い
かなれバといふに、かの注釈といふすぢハ、たとへばいとはるかなる高き
山の梢どもの、ありとバかりハ、ほのかにみやれど、その木とだに、あや
めもわかむを、その山ちかき里人の、明暮のつま木のたよりにも、よ
く見しれるに、さしてかれハと ゝひたらむに、何の木くれの木、も
はしがき一ウ 3
とだちハしか/″\、梢の有るやうハ、かくなむとやうに、語り聞せたらむ
がそとし、さるハいかによくしりて、いかにちぶさに物したらむにも、人づて
の耳(ミヽ)ハ、かぎりしあれバ、ちかくて見るめのまさしきにハ、猶にるべくも
あらざめるを、世に遠めがねといふなる物のあるして、うつし見るに
はいかにとほきも、あさましきまで、たゞこゝもとにうつりきて、枝さ
しの長きみじかき、下葉の色のこきうすきまで、のこるくまなく、見
え分れて、軒近き庭のうゑ木に、こよなきけぢめもあらざるばかり
に見るにあらずや、今此遠き代の言の葉のくれなゐ深き心ばへ
を安くちかき、手染の色うつして見するも、もはらこのめがね
のたとひにかなへらむ物を、やがて此事ハ志と、尾張の横井、千秋
はしがき二オ 4
ぬしの、はやくよりこひもとめられれたるすぢにて、はじめよりうけひき
てハ有ける物から、なにくれといとまなく、事しげきにうちまぎれて、
えしのはださず、あまたの年へぬるを、いかに/ \と、しば/″\おどろかさる
るに、あながちに思ひおくして、こたみかく物しつるを、さきに神代のまさ
ことも、此同じぬしのねぎことこそ有しか、御のミ聞けむとやうに、
しりうごつともがらも有べかめれど、例の心も深くまめなるこゝ
ろざしハ、みゝなし心の神とハなしに、さてへすべくもあらびてなむ、
◯うひまなびなどのためのは、ちうさくハ、いかにくはしくときた
るも、物のあぢハひを、甘しからしと、人のかたるを聞たらむやう
にて、詞のいきほひ、「てにをは」のはたらきなど、たまりなる趣にいたり
はしがき二ウ 5
てハ、猶たしかにはえあらねどば、其事を今おのが心に思ふがごとハ、里
りえがたき物なるを、さとびごとに訳(ウツ)したるハ、たゞにみづからさ思ふ
にひとしくて、物の味を、ミづからなめて、しれるがごとく、いにしへの雅事(ミヤビゴト)
ミな、おのがはらの内のおとしなれゝバ、一うたのこまかなる心ばへの、
こよなくたしかにえラルことおほきぞかし、
◯俗言(サトビゴト)ハかの国この里と、ことなきとおほきが中には、みやびごとに
ちかきもあれども、かたよれるゐなかのことばゝ、あまねくよもには
わたしがたれバ、かゝるとにとり用ひがたし、大かたハ京わたりの
詞して、うつすべきわざなり、ただし京のにも、えりすつべきハ有
て、なべてハとりがたし、
はしがき三オ 6
◯俗言(サトビゴト)にも、しな/″\のある中に、あまりいやしき、又たハれすぎたる、又
時ゞのいまめきことばなどハ、はぶくべし、又うれしくもてつけていふと、
うちときたるもの、たがひあるを、歌ハことに思ふ情(こゝろ)のあるやうのまゝに、廠
眺め出たる物なれば、そのうちときたる詞して、訳(ウツ)すべき也、うちとけ
たるハ、心のまゝにいひ出したる物にて、みやびごとのいきほひに、今すこ
しよくあればぞかし、又男のより、をうなの詞は、ことにうちとき
たることの多くて、心に思ふすぢの、ふとあらハなるものなれバ、歌のい
きほひに、よくかなへることおほ彼ば、をうなめ きたるをも、つかふべ
きなり、又いはゆるかたしも用ふべし、たちへばおのがことを、うる
はしくハ「わたくし」といふを、はぶきてつねに、ワタシともワシともい日、ワ
はしがき三ウ 7
シハといふべきを、「ワシヤ<」、それを「ソレヤ」、すればを「スレヤ」といふたぐひ、又その
やうなこのやうなを、「ソンナコンナ」といひ、ならばたらバを、ばをはぶきて、ナ
ラタラざうしてを「ソシテ」、よかろうを「ヨカロ」、とやふにいふたぐひ、ことにうち
ときたることなるを、これはた いきほひ にしたがひてハ、中/\にうるハしく
いふよりハ、ちかくあたりて聞ゆるふしおほければなり、
◯すべて人の語ハ、同じくいふとも、いひざるいきほひにしたがひて、深くも浅
くも、をかしくも、うれたくも聞こゆるわざにて、歌ハことに、心のあるようをたゞ
にうち出したる趣なる物なるに、その詞の、いまさま いきほひハ しも
よみ人の心をおしえかりえて、そのいきほひを訳(ウツ)すべき也、たとへバ「春
はしがき四オ 8
されバ野べにまづさく云々、といつるせどうかの、訳(ウツシ)のはててに、へゝ/\
へゝ/\と、笑ふ声をへそたるなど、さらにおのづがいまの、たハぶれにはあら
図、此ノ下ノ句の、たハぶれていへる詞なることを、さとさせりとてぞかし、かゝる
ことをダウぞへざれバ、たハふ(ム)れの善(へ)なるよしの、わらハれがたけれぞかし、
かゝるたぐ日、いろ/\おほし、なすらへてさとるべし、
◯みやびごとハ、二つにも三つにも分れたることを、さとび言には、合をて一ツ
にいふあり、又雅言(ミヤビゴト)ハ一つながら、さとびごとにてハ、二つ三つにわかれたる
もあるゆゑに、ひとつ俗言(サトビゴト)を、これにもかれにもあつるとある也、
◯まさしくあつべき俗言のなき詞には、一つに二ツ三ツをつらねてう
はしがき四ウ 9
つすこちあり、又は上下の語の訳(うつし)の中小、其言をこむることもあり、あるハ
二句三句を合わせて、そのすべての言をもて訳(ウツ)すもあり、そハたとへバ「ことな
らバさかずやむあらぬ桜花などの、ことならばといふ詞など、一つはなち
てハ、いかにもうつすべき俗言なれバ、二句を合わせて、トテモ此ヤワニ早ウ散(ル)クラい
ナラバ一向ニ初(メ)カラサカヌガヨイニナゼサカヌニハヰヌゾ、と訳(ウツ)せるがごとし、
◯歌によりて、もとの語のつゞきざま、「てにをは」などにもかゝハらで、すべて
の言をえて訳(ウツ)すべきあり、もとの詞つゞき、「てにをハ」などを、かたくまも
りてハ、かへりて一かたの言にうとくなることもあれバ也、たとへば「こぞと
やいはむ、ことしとやいはむなど、詞をまもらバ、去年ト云(ハ)ウカ今年トイハ
ウカ、と、訳すべけれども、さてハ俗言の例にうとし、去年ト云タモノデアラウカ
はしがき五オ 10
今年ト云タモノデアラウカとうつすぞよくあたれる、又春くることを「たれ
かしらまし」など、春ノキタトヲ云々、と訳(ウツ)さゞれバ、あたりがたし、「来(ク)る」と
「来(キ)タ」とハ、たがひあれども、此歌などの「来(キ)ぬる」と有べきことなるを、
さはいひがたき所に、「くる」とハいつるなれバ、そのこゝろをえて、「キタ」と訳(ウツ)
すべき也、かゝるたぐひ、いとおほし、なすらへて、さとるべし、
◯詞をかへてうつすべきあり、「花と見て」などの「見て」ハ、俗語には、「見て」と
ハいはざれバ、「花ヂヤト思ウテ」と訳すべし、「わぶとこゝろへよ」、などの類の「こ
たふる」ハ、俗言には、「こたふ」とハいはず、たゞ「イフ」といへば、「難-儀ヲシテ居ルト
イヘ」と訳すべし、又「てにをは」をかへて訳すべきも有リ、「春ハ来にけり」な
どのエモジハ、「春ガキタワイ」と、ガにかふ、此類多し、又「てにをは」を添(フ)べ
はしがき五ウ 11
きもあり・「花咲にけり」などハ、「花が咲いタワイ」と、「ガ」うをそふ、此類ハ殊におほし、す べて俗言にハ、「ガ」と
いふことの多き也、雅言のぞをも、多くハ「ガ」といへり、「花なき」
などハ、「花ノナイ里」と、「ノ」をそふ、又はぶきて訳すべきも、「人しなけれバ」「ぬきて
をゆかむ」などの、「しもじ」を「もじ」、訳言(ウツシコトバ)をあゝハ、中々にわろし、
◯詞のところををおきかへてうつすべきことおほし、「あかずとやなくや山郭公」
などハ、「郭公」を上へうつして、「郭公ハ残リオホウ思フテアノヤウニ鳴クカ」と訳し、「よるさ
へ見よ」とてらす月影は、ヨルマデ見ヨ」トテ「月の影をテラス」とうつし、「ちくさに物
を思ふゝろかな」のたぐひは、「こゝろ」を上にうつして、「コノゴロハイロ/\」ト物思ヒノ
シゲイ「カナ」とやくし、「うらさびしくも見てわたるかな」ハ、「すてる」を上へう
つして、「見ワタシタトコロガキツウマアものサビシウ見エル」「カナ」と訳すたぐひにて、これ
はしがき六オ 12
雅事(ミヤビゴト)と俗事(サトゴト)と、いふやうのたがひ也、又「てにをは」も、ところをかへて訳
すべきあり、「ものうかるねに鶯ぞなく」など、「ものうかる春にぞ」と、「ぞ」も
じハ、上にあるべきことなれども、さいハひがたき所に、鶯の下におけるなれば、
其こゝろをえて、訳(ウツ)すべき也、此例多し、皆なすらふべし、ふべし、
◯「てにをは」の事、「ぞ」もじハ、訳すべき詞なし、たとへバ「花ぞ昔の香ににほひける
のごとき、殊に力(ラ)を入(レ)たるぞなるを、俗言にハ、花ガといひて、其所にちからを入れ
て、いきほひにて、雅語のぞの意に聞(カ)することなるを、しか口にいふいきほひハ、物
にハ出るべくもあらざれバ、今ハサといふ辞を添(ヘ)て、ぞにあてゝ、花ガサ昔
ノ云々と訳す、ぞもじの例、みな然り、こそハ、つかひざま大かた二つある中に、
「花こそちらめ、根さへかれねや」などやうに、むかへていふことあるハ、さとびごと
はしがき六ウ 13
も同じく、こそといへり、今風にこそ見ざるべらなれ、「雪とのみこそ花ハ
ちるらめ」などのたぐひこそハ、うつすべき詞なし、これハ「ぞ」にいとちかければ、「ぞ」の例によなり、「山風ぞ」云々、「雪とのミぞ」云々、とひたらむに、いく
ばくのたがひもあらざれバ也、さるをしひていさゝかのけぢめをもわか
むろすれバ、中々にうとくなること也、「たがそでふれしや、どの梅ぞ」と、「恋も
するかな」などのたぐひの「も」もじハ、「マァ」と訳す、「マァ」ハ、やがて此もの訳(ウツ)れる
にぞあらむ、疑ひの「や」もじハ、俗語にハ皆、力といふ「春やとき、花やおそき」とハ、「春が早イ
ノカ、花ガオソイノカ」と訳すがごとし、
◯「ん」は、俗語にはすべて皆「ウ」といふ、来んゆかんを、「ゴウイカウ」といふ類也
はしがき 七オ 14
「けんなん」などの「ん」も同じ、「花やちりけん」ハ、「花ガチッタデアラウカ」、「花や
ちりなん」は、「花ガチツタデアラウカ」と訳す、さて此、「チツタデ」といふと、「チルデ」といふと
のかハりをもて「けん」と「なん」とのけぢめをも、さとるべし、さて又語の
つゞきたるなからにあるは、多くハうつしがたし、たとへば「見ん人」は「見よ」、
「ちりなん」後ぞ、「ちりなん」小野のなどのたぐひ、人へゞき、後へつゞき、小野へ
つゞきて、「ん」ハ皆「なからう」有り、此類は、俗語にハたゞに、見る人ハ、「チツテ」後二、
「チル」小野ノとやうにいひて、「見ヤウ(ん)人」ハ、「チルデ(なん)アラウ」後二、「チルデ(なん)アラウ」小野ノ、などハいは
ざれバ也、然るに此類をも、「しひてんなんらん」のことを、こまかに訳さむ
とならバ、「散なん」後ぞハ、「オツゝケチチルデアラウガ散タ後二サ」と訳し、「ちるらん
小野の」は、「サダメテ此ゴロハ萩ノ花ガチルでアラウ(らん)ガ其野ノ」、とやうに訳すべし、然
はしがき 七ウ 15
れども、俗語に さ はいハざれバ、中々にうとし、同じことながら、「春露たち
かくすらん、山の桜をなどハ、山の桜は露がカクシテアルデアラウ二」、と訳してよ
ろしく、又 「かの見ん人は見よ」なども、「見ヤウト思フ人ハ」と うつれバ、俗語にも
かなへり、歌のさまによりてハ、かうやうにもうつすべし、)
◯「らん」の訳(ウツシ)ハ、くさ/″\あり、「春たつけふの風や とくらん」などハ、「風ガトカスデア
ラウカ」と訳す、アラウランにあたりガ上のやに あたれり、「いつの人まに うつろひぬら
ん」などハ、「イツノヒマ二散テシマウタ「ヤラ」」と訳す、「ヤラ」らんにあたれり、「人に知られ
ぬ花やさくらん」などハ、「人二シラサヌ花が咲タカシラヌ」と訳す、「カシラヌやとらん」
とにあたれり、又 「上にや何」などといふ、うたがひことばなくて、「らん」と結びたる
にハ、「ドウイフことデ」といふ詞をそへてうつすも多し、又 「相坂のゆふつけ鳥も
れども、俗語に さ は 言わざれば、中々にうとし、同じ事ながら、「春露たち
隠すらん、山の桜を などは、山の桜は露が隠してあるであろうに(カクシテアルデアラウ二)」、と訳して よ
ろしく、又 「かの見ん人は、見よ」なども、「見ようと思う人は」と うつれば、俗語にも
かなえり、歌の様に依りては、この(こう)ようにも写すべし、
◯「らん」の訳(ウツシ)は、種々(くさぐさ)あり、「春立つ今日の風や とくらん」などは、「風がとかすであろうか(風ガトカスデア
ラウカ)」と訳す、「あろうらん(アラウラン)」にあたりが上の「や」に 当たれり、「いつの人まに うつろいぬら
ん」などハ、「いつの日に散してしもうた「やら」」と訳す、「やら」「らん」に当たれり、「人に知られ」
ぬ花や咲くらん」などは、「人に知らさぬ花が咲たかしらぬ」と訳す、「かしらぬ やとらん」
とに当たれり、又 「上にや何」などと言う、疑い詞無くて、「らん」と結びたる
には、「どう言う事で」と言う詞を添えて写すも多し、又 「相坂の夕つけ鳥も
八オ 16
わがごとく、「人や意しき、音のミ 鳴らん」などハ、「人が恋シイヤラ声ヲアゲテヒタスラナク」
とうつす、「これハ」とちぢめの「らん」の疑ひを、上へうつして、「や」と合わせて、「ヤラ」といふ也、
「ヤラバ すなわちやらん」といふこと也、「又玉かづら 今ハたゆとや、吹風の春にも
人のきこえざるらん」 などのたぐひも、同じく上へうつして、「や」と合せて、「ヤラ」
と訳して下ノ句をば、一向ニ「オトヅレモセヌ」と、落としつけてとぢむ、これらハ「らん」
とうたがつる事ハ、上にありて、下にはあらざれバ「なり」
◯「らし」ハ、「サウナ」と訳す、「サウナ」ハ、さまなるといふことなるを、春便りに「サウ」と
いひ、「る」をはぶける也、然れバ言の本のことを、「らしく」と同じおもむきに
あたる辞也、たとへば「物思ふらし」を、「物ヲモウサウナ」と訳すが如き、「らし」も
「サウナ」と共に、人の物思ふさまなるを見て、おしはかりたる春なれバ也、さてついで
わがごとく、「人や意識、音のみ 鳴らん」などは、「人が恋しいやら声を上げてひたすら鳴く」
と写す、「これは」と縮めの「らん」の疑ひを、上へ写して、「や」と合わせて、「やら」と言う也、
「やらば すなわち やらん」と言う事也、又玉葛(たまかずら) 今は絶ゆとや、吹風の春にも
人の聞こえざるらん」 などの類も、同じく上へ写して、「や」と合せて、「やら」
と訳して下の句をば、一向に「訪れもせぬ」と、落とし付けて閉じむ、これらは「らん」
と疑つる事は、上にありて、下にはあらざれば「なり」
◯「らし」は、「そうな」と訳す、「そうな」は、「さまなる」と言う事成るを、春便りに「そう」と
言い、「る」を省ける也、然れば言の本の事を、「らしく」と同じ趣に
あたる辞也、例えば「物思うらし」を、「物思うそうな」と訳すが如き、「らし」も
「そうな」と共に、「人の物思う様成るを見て、推しはかりたる春なれば也」、さてついで
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