大和武士と 大和の戦国時代
大和武士について拝聴する機会があった。
『庁中漫録』などの江戸時代の文献や絵巻物を読んで、衆徒や僧兵に多少の興味を持っていた私は講演を聴く。
興福寺や春日大社における大和武士の様子や存在意義を聞き、『庁中漫録』の記述に納得した。
大和の戦国時代 監修:奈良大学文学部文化財学科 千田嘉博教授
大和にも戦国時代があった
大和では興福寺が守護職を務めていたこともあり、核になる戦国武将は存在しませんでした。
しかし、奈良盆地の北側では筒井・古市・箸尾氏が、奈良盆地の南側では越智・十市・楢原氏が、宇陀地区では秋山・沢・芳野氏が勢力を伸ばしていました。
なかでも、筒井氏と越智氏の勢力が強まり、応仁の乱が起こると、筒井氏は東軍に、越智氏は西軍に与して、大和の国衆も両陣営に分かれて戦いました。
討ち続く戦乱は、国人衆はもとより、一般民衆にも多大な犠牲をもたらしました。大和にも戦国時代があったのです。
お寺が守護職に! 興福寺を長とする統治システム
鎌倉時代以降、大和では、武家が守護職ではなく、大和最大の荘園領主である興福寺が実質的な守護職にあたっていました。
当時の武家には、分割相続を防ぐために家督を長男に相続させ、
次男・三男をお寺に出すという慣行がありました。そこで、興福寺には大和や畿内の武家の次男・三男が集まってきました。
武家にとっては次男・三男を安全な場所に置くことができる一方、興福寺にとっては寄進がもらえるなど、両者の間には良好な関係が成立していました。
興福寺は地侍を従わせるため、大和国内の武士に僧侶の資格を与えることによって、興福寺を長とする統治システムに組み込みました。
興福寺は、地侍らに荘園の管理、経営にあたらせていましたが、後に彼らは、「衆徒」、「国民」と呼ばれる大和武士に成長していきました。
実は風流人だった? 松永久秀
松永久秀(1510-1577)は多聞城(奈良市法蓮町)を築いた武将ですが、「大和乱入」や「爆死」という言葉とともに語られることが多く、風流人とはほど遠いイメージがあるかもしれません。
しかし、久秀は多聞城内に多くの茶室をつくり、そこは畿内屈指の文化サロンとなっていました。あの千利休も訪れたといいます。
また、いわゆる三好三人衆(大仏殿炎上の原因となった「東大寺大仏殿の戦い」で久秀と戦闘を繰り広げた)が東大寺に陣取る前に、東大寺の茶室を丁寧に解体して保護したのも久秀でした。
このように、久秀には、風流人として文化を大切にする一面もありました。
信長も降参? 今井町の巧みな外交戦術
橿原市今井町は、当時日本人の約1割がその信者であったとされる一向宗の寺院を中心にした計画的な町で、防衛のために周囲を環濠で囲み、直交する街路を備えていました。
その上、大坂本願寺と同じ自治の町として光を放ちました。
1570年、織田信長が一向宗の本山であった大坂本願寺を攻撃すると、今井町は信長に敵対しました。
信長は半年かかっても今井町を攻め落とすことができず、ついには武装解除を条件に今井町の自治権を認めました。あの信長に要求を認めさせるほど、今井町の外交戦術は巧みであったということができます。
高山右近(1552-1615)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍したキリシ0タン大名として知られていますが、父高山友照は松永久秀に仕えていました。
その友照が現在の宇陀市榛原澤に築いたのが沢城です。
城の中には教会があり、イエズス会のルイス・デ・アルメイダが訪れるなど、当時の沢城は世界的に知られた城でした。
そして、何とその城の教会で、高山右近が洗礼を受けたのです。
キリシタン大名としての右近のルーツは、沢城にあったといえるでしょう。
今回ご紹介した場所に限らず、奈良には、戦国時代の面影をとどめる場所が数多く残されています。
その中には、地域の人々の努力によって、今日まで大切に受け継がれている場所もあります。
地図を片手に戦国時代ゆかりの場所を訪ね、往時に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
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