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歴史のウラ話&「今日は何の日」です!

2011-06-02 21:02:13 | 重大ニユース

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!






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2006年07月07日




盧溝橋事件 昭和12年(1937)

盧溝橋事件を巡る日中間の情勢はやや複雑である。

まず、この盧溝橋事件というのは、昭和12年(1937)7月7日22時40分ごろ、北京西南約6キロ地点の永定川にかかる盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍の一個中隊が、中国軍のいる方向から突然実弾射撃を浴びせられたという事件である。これを口実にして、日本は中国に戦争を仕掛け、やがては日中戦争へと突入していくことになる。

まず、背景として、日本が満州国という傀儡国家を通して、華北の分離を進めていたことを踏まえなくてはならない。1931年にはじまった満州事変は、1933年5月の塘沽停戦協定(日中軍事停戦協定)で一応の終結を見ていたが、その後も日本は華北支配への意欲をゆるめず、昭和10年(1935)10月には協定で定められた非武装地帯に冀東政権を誕生させて、華北分離を進めていた。さらに翌年には広田内閣が、華北5省支配の方針を発表し、中国でも抗日運動は激化していた。

そこにきてこの盧溝橋事件である。この事件の時、日本軍の兵士1人が、一時行方不明になっている。清水中隊長は、これを大隊長である一木清直に報告した。夜間のことであり、射撃を浴びせてきたのが確実に中国軍であるかどうかははっきりしなかったのだが、報告は「中国軍の不法射撃により、兵士一名行方不明」だったという。一木大隊長は、さらに上役の牟田口連隊長に報告。
すると、牟田口連隊長の返事は「敵に撃たれたのなら撃ち返せ」だった。これにより、翌日明け方から日中両軍は砲撃の応酬となった。

しかし、実は行方不明だった兵士は早い段階で帰還していたらしい。最初の砲撃で負傷者が出たわけでもなかったので、実はなんとか穏便に済ませることもできたのである。

日中両国は緊張状態となったが、11日には早くも中国側が譲歩して和平が持たれた。ところが、日本本土では、近衛内閣が、これによる中国への増兵を決定しており、中国側も抗戦気運を高め、17日、蒋介石が応戦を決定。7月28日には日本軍が北京、天津地帯に総攻撃を仕掛け、本格的な戦争状態に突入する。ここに始まったのが日中戦争であり、戦争は太平洋戦争で日本がポツダム宣言を受諾する1945年まで、足掛け8年にも及んだのである。

ちなみに現在では、事件の原因は軍事演習中の偶発的ミスと目されている。

※写真は『日清戦争から盧溝橋事件』。同時代の複雑な流れも日清戦争から振り返れば理解できます。
⇒こちらもオススメ『柳条湖事件から盧溝橋事件へ―一九三〇年代華北をめぐる日中の対抗』。こちらはさらに時代を絞った研究本です。
ただしどちらも内容は深いです(笑)。


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(キーワード)

●満州国(まんしゅうこく)
中国東北の黒竜江、吉林、遼寧の3省と熱河省に日本が立てた傀儡国家。1932年成立。清朝最後の宣統帝・愛新覚羅溥儀を執政とする。

れっきとした一つの新国家として樹立させた国家だったが、その実、政府の実権は日本人官吏が握り、ことに樹立の立役者ともいうべき日本の関東軍が、政府の「内面指導」を行っていたとされる。1934年に帝制となり、溥儀が皇帝の座についた。

傀儡政権であったので、日本の、ことに軍部には対ソ連戦線への準備として、いいように利用されている。また、抗日運動は徹底して弾圧を加え、現地民衆の権利はほとんど認めず、さらに日本人の満州国移住を積極的に進めた。また、日中戦争・太平洋戦争勃発後は、物資の産出に利用される。

1945年8月にソ連が侵攻して壊滅的となり、日本も敗れて、満州国は消滅した。


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最近、北朝鮮のミサイル発射が問題になっています。朝ズバッなんかではみのもんたが、経済制裁を決定した政府を「そんなことを聞く相手なのか」と批判してますが、まあとりあえずそこからやるしかないと私は思います。散々、ミサイルだの核だので問題になってる国ですから…。みのもんたはどうしてほしくて批判してるのだろうか。

今の北朝鮮とは異なりますが、日本も昔は国際社会から逸脱しようとした国家でした。北朝鮮は戦争解決というような事態にならないといいですけどね。もちろん今のままじゃ困るわけですが…。




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2006年07月07日




盧溝橋事件 昭和12年(1937)

盧溝橋事件を巡る日中間の情勢はやや複雑である。

まず、この盧溝橋事件というのは、昭和12年(1937)7月7日22時40分ごろ、北京西南約6キロ地点の永定川にかかる盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍の一個中隊が、中国軍のいる方向から突然実弾射撃を浴びせられたという事件である。これを口実にして、日本は中国に戦争を仕掛け、やがては日中戦争へと突入していくことになる。

まず、背景として、日本が満州国という傀儡国家を通して、華北の分離を進めていたことを踏まえなくてはならない。1931年にはじまった満州事変は、1933年5月の塘沽停戦協定(日中軍事停戦協定)で一応の終結を見ていたが、その後も日本は華北支配への意欲をゆるめず、昭和10年(1935)10月には協定で定められた非武装地帯に冀東政権を誕生させて、華北分離を進めていた。さらに翌年には広田内閣が、華北5省支配の方針を発表し、中国でも抗日運動は激化していた。

そこにきてこの盧溝橋事件である。この事件の時、日本軍の兵士1人が、一時行方不明になっている。清水中隊長は、これを大隊長である一木清直に報告した。夜間のことであり、射撃を浴びせてきたのが確実に中国軍であるかどうかははっきりしなかったのだが、報告は「中国軍の不法射撃により、兵士一名行方不明」だったという。一木大隊長は、さらに上役の牟田口連隊長に報告。
すると、牟田口連隊長の返事は「敵に撃たれたのなら撃ち返せ」だった。これにより、翌日明け方から日中両軍は砲撃の応酬となった。

しかし、実は行方不明だった兵士は早い段階で帰還していたらしい。最初の砲撃で負傷者が出たわけでもなかったので、実はなんとか穏便に済ませることもできたのである。

日中両国は緊張状態となったが、11日には早くも中国側が譲歩して和平が持たれた。ところが、日本本土では、近衛内閣が、これによる中国への増兵を決定しており、中国側も抗戦気運を高め、17日、蒋介石が応戦を決定。7月28日には日本軍が北京、天津地帯に総攻撃を仕掛け、本格的な戦争状態に突入する。ここに始まったのが日中戦争であり、戦争は太平洋戦争で日本がポツダム宣言を受諾する1945年まで、足掛け8年にも及んだのである。

ちなみに現在では、事件の原因は軍事演習中の偶発的ミスと目されている。

※写真は『日清戦争から盧溝橋事件』。同時代の複雑な流れも日清戦争から振り返れば理解できます。
⇒こちらもオススメ『柳条湖事件から盧溝橋事件へ―一九三〇年代華北をめぐる日中の対抗』。こちらはさらに時代を絞った研究本です。
ただしどちらも内容は深いです(笑)。


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(キーワード)

●満州国(まんしゅうこく)
中国東北の黒竜江、吉林、遼寧の3省と熱河省に日本が立てた傀儡国家。1932年成立。清朝最後の宣統帝・愛新覚羅溥儀を執政とする。

れっきとした一つの新国家として樹立させた国家だったが、その実、政府の実権は日本人官吏が握り、ことに樹立の立役者ともいうべき日本の関東軍が、政府の「内面指導」を行っていたとされる。1934年に帝制となり、溥儀が皇帝の座についた。

傀儡政権であったので、日本の、ことに軍部には対ソ連戦線への準備として、いいように利用されている。また、抗日運動は徹底して弾圧を加え、現地民衆の権利はほとんど認めず、さらに日本人の満州国移住を積極的に進めた。また、日中戦争・太平洋戦争勃発後は、物資の産出に利用される。

1945年8月にソ連が侵攻して壊滅的となり、日本も敗れて、満州国は消滅した。


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最近、北朝鮮のミサイル発射が問題になっています。朝ズバッなんかではみのもんたが、経済制裁を決定した政府を「そんなことを聞く相手なのか」と批判してますが、まあとりあえずそこからやるしかないと私は思います。散々、ミサイルだの核だので問題になってる国ですから…。みのもんたはどうしてほしくて批判してるのだろうか。

今の北朝鮮とは異なりますが、日本も昔は国際社会から逸脱しようとした国家でした。北朝鮮は戦争解決というような事態にならないといいですけどね。もちろん今のままじゃ困るわけですが…。


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