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藤原道長展

2007年05月30日 | 平安時代

金峯山埋経千年記念・藤原道長展

「極めた栄華・願った浄土」

 2007/5/26に宇治と京都国立博物館へいってきました。目的は藤原道長を感じるためです。 メインは京都国立博物館で開催されている「道長展」と「土曜講座」です。 実は先週の19日に「この世をば」で有名な永井路子さんの土曜講座にいきたかったのですが、応募葉書を出し忘れて(悔やみきれない失敗です)いけなかったために、大原嘉豊さん(博物館の研究員)の講座を聞きにいったのでした。 講義内容は「道長の時代の仏画」です。 かなり難解な内容であったので内容紹介は省略させていただきますが、興味深い講座であったことは確かです。 道長三昧をするには、まずはお墓に・・・ということで、午前中は宇治陵へ! 宇治陵の詳細は前回の紹介ブログを参照いただくとして、道長のものといわれている32号墳墓へいきたかったのですが、発見できず、全部で37基まであるうちの13基を巡り、当時を実感したあとに、京都国立博物館へいったのです。 博物館は三十三間堂の隣にあって、昔平清盛、滋子等が住まいとしていたあたりに位置します。 

 

 タイトルにもあるように今年は藤原道長が吉野の金峯山に詣で、諸処の経筒を埋めて約千年目にあたり、今回の特別展になったらしく出品されている数々の遺品も金峯山から出土されたものが数多くありました。 ↓奈良・吉野の金峯山寺

 

 博物館では「永井路子さんの女帝の歴史を裏返す」(思わず買ってしまいましたが・・)などの歴史本が数多くありましたが、一際目を引いたのはこれです。 道長の全てが記載された300余ページに及ぶ記念本です。

 歴史、系図、仏教絵画、金峯山での出土品など盛りだくさんですが、ここではかの有名な日記を紹介します。 まずは、道長の「御堂関白記」です。 長保二年二月二十五日彰子が立后した日のものと寛弘五年九月十一日中宮彰子が一条天皇との間に敦成親王を出産した日のものです。 因みにこの御堂関白記は国宝です。 見ての通り、細かいことは余り気にせず自由奔放に書いています。誤字・脱字が多かったと聞いていますが、ほんとうにそんな感じで後から文章の挿入も気にせず行っています。血液型はB型と思われます。(謎) 

 

 次は藤原実資の「小右記」 (重要文化財)です。 道長よりも9歳年上で才能の溢れた実資であったが、藤原氏の主流になれずに最後まで道長を意識した御方です。 道長の日記とは違って、見るからにその性格が滲み出ています。 文字の構成からして道長のような乱れは全くありません。 

 

 そして以下のは藤原行成の「権記」 (国宝)です。藤原公任・斉信・俊賢とともに寛弘の四納言といわれ道長の右腕として政治の辣腕ぶりを発揮しましたが、書の道でも傑出した才能を見せており、小野道風、藤原佐理とともに三蹟といわれた書道の達人でもあります。 実物を前にしてしばらく見とれておりました。

 これは東三条院(円融天皇・妃 藤原詮子 : 道長の姉であり、道長に最大の運気をもたらした)が石山寺に御幸した際に、中宮太夫であった道長が直衣姿でお供をする様子を描いたものです。 もちろん牛車(檳榔毛唐庇車)には詮子がのっています。 道長の拡大版と葵祭での檳榔毛唐庇車(少し違うかも)。

 

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宇治陵

2007年05月27日 | 陵 古墳 墓 遺跡

宇治陵

 京都の南郊、宇治の木幡の地にある藤原氏の墓所は1877年、宮内省によって調査され、藤原氏出身の皇室関係者17陵3墓を「木幡陵」に治定し、のちにその陵域をさらに広げて「宇治陵」と改められましたが、どの塚が誰のものかは明らかではなく、案内板もありません。 塚は1号から37号までのブロックにわけられ、皇族以外の北家藤原氏(基経から頼通まで)の墳墓も17箇所含まれていて、1号陵がその総遙拝所になっているようです。 東に離れた37号墓は光孝天皇の在位時の関白藤原基経の墳墓、 35号墓は醍醐天皇の在位時の左大臣藤原時平の墳墓といい、北に少し離れた丘陵を登りつめた32号墓か33号墓が道長墓と伝承されているそうです。  また、37箇所の平安時代の陵墓として治定されている「宇治陵」は宇治古墳群に含まれていて、大きな盛り土は古墳時代のもの(金比羅山古墳・坊主山古墳、隼上り古墳、伊勢田塚古墳等)で200基余り存在し、小さな盛り土のものが、平安時代の墳墓とのことです。 というわけで、早速「宇治陵」に行ってみました。

 私が想像していたのは「宇治陵」といわれる一画に37箇所の小さな陵墓が整然と並んでいるものでした。 ところが想像に反して実際は、小さな陵墓が1km四方の中に点在しているといった具合です。 また、北家藤原氏の主流であり、皇后でもあった御方の墓であるのに墓石・墓碑といったものは何もなく、立ち入り禁止の門があるだけのなのには驚き、実質上、陵墓扱いをしていないところにはがっかりしました。 そういった中でなんとか37箇所のうちの13箇所を見つけ、 わかりやすいように地図に印を付けてみました。 再度訪れるときに効率よく廻れるようにというのが目的ですが、残りの24墳墓がこの地図のどこかにある・・・と思うと、探索制覇が至難の業であると同時に心がわくわくするのも感じています。  

15号地:最初に訪れたところで、住宅地の一区画40m平方くらいの墳墓で、立派な参道までついています。

 



16号地:両隣は住宅です。狭い階段をあがったところにある50坪くらいの墳墓。ほとんど偶然見つけたという感じ。

  

17号地:住宅地にある公園に隣接した墳墓。

 

18号地:住宅地にある公園に隣接した陵墓で17号の隣でもある。

 

19号地:石碑に刻んだ十九の文字が欠けていて読みにくい。

 

20号地:住宅に挟まれた50坪程度の墳墓。16号地と同じでじっくり探さないと見逃してしまいます。

 

21号地:ここの参道(50mほど)には苔が生えていて参拝する人はほとんどいないらしい。

 

22号地:地図のプロットに自信がありません。いたってわかりやすいところにありました。

 

24号地:狭い歩道の南端にある陵墓。二十四の字はほとんど見えず触診で確認。陵の大きさは住宅4区画分くらい。

 

24号から27号までの南北に走る狭い歩道

 

26号地:陵墓の大きさは不明

 

27号地:歩道を西に入った住宅地に挟まれた50坪ほどの小さな陵墓

 

28号地:ここを通り抜けると27号

 

28号の横に何号か不明の陵墓門がありました。

 

 寛弘2年(1005年)に藤原道長は宇治群木幡の地に浄妙寺三昧堂を建立した。 木幡は基経以来藤原氏の墓地であり、藤原道長は若い頃から兼家に従って木幡を訪れて、その荒廃ぶりに落胆している。 1004年に木幡を建立の地と決め、藤原行成に鐘銘を書かせて鐘を鋳造した。 そして10月のある日、藤原氏の公卿のほとんどが参集して天台座主覚慶を証者、前大僧正観修を導師として供養を行っている。 この日の願文は式部大輔大江匡衡と菅原輔正が作り、藤原行成が書した。 また堂の仏像は仏師康尚の作である。  御堂関白記では、この供養の願意はここに眠る父母、基経(貞信公記に忠平が何度か木幡の父基経の墓を詣でたことが記されている)以来の先祖の菩提の為であり今後一門の人々を極楽へ導くためであると述べている。 9世紀までは葬儀の場が重要であり、葬所はさほど重要ではなかったことが忠実の談話を記した「中外抄」に残っているが、藤原実資は一族の骨をひとところに集めると子孫繁栄をもたらすと「小右記」で主張していることから、道長が実資に一目置いて意見を採用し、墓所に寺を建てるに至ったのである。 そして1017年、長男頼通を大臣に任ずる前日に木幡浄妙寺に行って父母、姉詮子の墓を詣でている。  こうして一門埋骨の処である木幡に浄妙寺・法華三昧堂を建てた。 二年後には釈迦・多宝如来を安置する多宝塔の供養会を行った。 この頃墓所に寺堂を建てることは初めてであり、先例を重視するこの時代において道長の独創性は評価に値する。 これ以降天皇家の墓所に一対一で法華堂が建つようになり、これは道長の浄妙寺を受け継いだものである。

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菟道稚郎子皇子

2007年05月26日 | 平安時代

菟道稚郎子皇子墓(宇治墓)

京都・宇治橋のすぐ北にある宇治天皇の陵 (撮影:クロウ)

 

 

 

                                                                                    春日大娘皇女
           宮主宅媛                  ┣橘仲皇女 
葛城高額媛       ┣雌鳥皇女    荑媛(葛城蟻臣娘)    ┣白香皇女 
 ┣神功皇后170-269   ┣菟道稚郎子皇子   ┣ 飯豊青皇女440-484┣武列天皇 
息長宿禰王┃      ┣矢田皇女      ┣ 億計王(24代仁賢天皇)449-498 
       ┣ 15代応神天皇-394(誉田別尊) 黒媛 ┣ 弘計王(23代顕宗天皇)450-487
1414代仲哀天皇┣ 荒田皇女         ┣ 市辺押磐皇子-456
 ┣ 坂皇子  ┣ 16代仁徳天皇257-399    ┣ 御馬皇子
 ┃      ┣ 根鳥皇女┃       ┃
 
 ┣ 忍熊皇子┏仲姫命   ┣ 17代履中天皇319-405(阿智使主、平群、物部が舎人)
 
大中姫     ┣高城入媛   ┣ 住吉仲皇子(安曇連、倭直の海人族が舎人)
 品陀真若王┛┣大山守   ┣ 18代反正天皇336-410
  
         応神天皇   ┣ 19代允恭天皇  -453
  
         ┏━   磐之媛命   ┣ 木梨軽皇子━━━━━━━━━━┓
 
 
          ┃ 仁徳天皇      ┃長田大郎女                     ┃
 
 
         ┃   ┃        ┏ ┃┻眉輪王┣                     ┃ 
   
         ┃   ┣ 大草香皇子┣ 20代安康天皇(穴穂皇子)401-456 ┃
 
          ┃   ┣ 若日下部命┣ 軽大娘皇女━━━━━━━━━━┛
         ┃  日向髪長媛 ┃ ┣ 境黒彦皇子   和珥童女君

甘美内宿禰   ┃       ┗ ┃━┓       ┣ 春日大娘皇女
武内宿禰
   ┣ 葛城葦田宿禰   ┣ 21代雄略天皇418-479
  ┣葛城襲津彦-347┃      ┃ ┣ 磐城皇子  ┃
  ┣巨勢小柄宿禰 ┃      ┃ ┣ 星川稚宮皇子┃
 ┣蘇我石川宿禰 
┣葛城玉田宿禰┃ 吉備稚媛      ┣ 22代清寧天皇444-484
 ┣平群木菟宿禰  ┃ ┣葛城円 ┣ 八釣白彦皇子  ┣ 稚足姫皇女
 ┣紀角宿禰      ┃ ┗毛媛  ┃        ┣葛城韓姫
 ┣羽田矢代宿禰
  ┣黒媛    ┣ 坂合黒彦皇子 葛城円  
            ┣葛城蟻臣  ┏忍坂大中姫      
                   ┣荑媛  ┗衣通姫(そとおりひめ

 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族で、『播磨国風土記』では宇治天皇とも云われています。 応神天皇の皇子で、母は和珥臣祖の日触使主(ひふれのおみ)の女 ・宮主宅媛である。 同母妹には八田皇女・雌鳥皇女がいる。 父・応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたが、異母兄の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる皇子です。  皇太子となった翌年に天皇が崩じたが、太子は大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとして即位せず、両者互いに譲り合っっていました。 一方、応神天皇と妃・高城入媛(仲姫命の姉にあたる)との間に生まれた大山守皇子(仁徳天皇とは異母兄弟にあたる)は、 自らが太子に立てなかったことを恨み、太子を殺そうと挙兵するのであるが、大鷦鷯尊により察知され、太子の謀略に遭って殺されます。 この後、太子は菟道宮(京都府宇治市の宇治上神社が伝承地)に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年、永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ太子は決着をつけるべく自ら果てることになります。 尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、太子は蘇生し、妹の矢田皇女を献ずる旨の遺言をして、再び薨じたといいます。  同墓は現在、宇治市莵道丸山の丸山古墳(前方後円墳・全長約80m)に比定されています。

「菟道」は宇治市の地名で、一般には「とどう」と読み、稚郎子が住んだ菟道宮は、今の宇治神社のところといい、上社も共に応神、 仁徳、稚郎子を祭神としています。 近くには源氏物語ミュージアムがあり、自然歩道のコースにもなっています。

稚郎子皇子が住んだ菟道宮があったといわれる宇治上神社(撮影:クロウ)

 

                                  宇治橋の近くにある稚郎子皇子の墓石碑    

 

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源氏物語ゆかりの明石市

2007年05月21日 | 平安時代
 明石には源氏物語にゆかりのある善楽寺、朝顔光明寺などがあります。 JR明石駅から南西へ徒歩でもすぐのところにあり、明石の「たこ焼き 20個で800円」を食べた後、「魚の棚」 という新鮮な魚介類でいっぱいの市場を闊歩しながら、源氏物語に触れるというコースはお勧めです。 ちなみに明石の南には港がありますが、ここからは明石海峡大橋も望むことが出来てすばらしい眺めを堪能できることと思います。 写真は五色塚古墳から見た明石海峡大橋 (撮影:クロウ)
 
 

源氏物語 須磨・明石の巻

 政治的にもどんどん窮地に追い込まれ、落ち込んでいた源氏は、ふと、かって一度関係があった、亡き桐壷院の女御の一人麗景殿女御の妹(花散里:年齢不詳)のことを思い出します。いつもの性格から、五月雨の晴れ間に会いにでかけました。麗景殿女御や花散里と、昔話しに花を咲かせ、桐壷院を懐かしみ、心和むひとときをすごします。その後、源氏はその一生でもっともわびしかった須磨での生活を始めることになります。  源氏26才。事態はますます険悪となり、自主的に須磨への退去を決意します。紫の上を、ひとり京に残し、花散里、朧月夜らに別れを告げ都を去ります。  須磨の住居は、在原行平の伝説で名高いあたりで、風流ところではありますが、秋がきて須磨のわび住まいはあわれもひとしおで、源氏は琴をひき、絵を描き、和歌を詠みすごします。都では、月日がたつにつれ、帝をはじめ人々が源氏を惜しみ懐かしく思い出しますが、弘徽殿大后の意向をはばかって都からの便りも途絶え、須磨の冬がやるせなく過ぎていきます。

 一方、源氏の血続きでもある、明石入道(桐壷更衣の従兄弟)が、源氏の噂を聞き、最愛の娘を源氏に奉りたいと願っています。ある日、源氏は海辺で開運の祓えをさせていました。海辺はうららかに一面凪いで、源氏は過去のこと将来のことなどを次々に思い出していました。不思議なことに、にわかに空がまっくらとなり、風雨は一晩中吹き荒れ、明け方源氏は、怪しい夢におびやかされます。何やら気味わるく、急にこの地を去りたいと思い始めます。 二条院(都の源氏の邸)からの知らせで、京都でも暴風雨が吹き荒れ、奇怪な何かのお告げだとして、政(まつりごと)も途切れている・・とのこと。源氏が、ふとまどろんだ夢に、故桐壷院が現れ、住吉の神のお導きに従って、早くこの地を去れという。翌朝明石の入道の一行が住吉の神のお告げと称して、源氏を迎えにきます。

明石入道の浜辺の館とされている「善楽寺」      善楽寺にある「明石入道の碑」

 

 源氏(27歳)は、昨夜の夢の桐壷院のお告げを思いだし、入道の申し出を受けて明石に移ることにします。 明石入道の住まいは、須磨にくらべ人けも多く、都の住まいにも劣らない凝ったたたずまいでした。藤壷宮や紫の上に、明石に移った一部始終を知らせ、ようやく身も落ち着きを取り戻します。明石入道は、源氏を厚遇し、しきりに自分の娘(明石の君 17歳)のことを話します。源氏も入道の人柄と、その娘にだんだん興味をもち始めます。ある夜、源氏がひさしぶりに琴を弾いていると、入道も自ら琴を弾き、娘も琴が上手だと、娘の話しをします。源氏はそれを聞いて、自分が都からこの地にやってきたのは、その娘に逢う運命であったのかも知れないと悟り、入道の望みを入れて、その娘に手紙を送ります。しかし、娘はなかなか気位が高く、そうやすやすとはなびきません。それがかえって刺激となり、源氏は次第にこの明石の君にのめりこんでいきます。

光源氏が明石の君のいる「岡辺の館」へ妻問う時に通った道とされる「蔦の細道」


 一方、京都は太政大臣がなくなり、皇太后まで病床に臥すなど、凶事が続き、弱気になった帝は、源氏が無実の罪で逆境にいるその報いではないかと思うようになります。 明石の源氏は、ひとり寝もわびしく、ときどき入道に娘と合わせるようにけしかけます。入道は、こっそりと吉日を見計らって、ひとり勝手に事をはこび、八月十三夜の月明かりの夜、源氏は明石の君と結ばれます。しかし、その後、都にいる紫の上のことを思うと明石の君とも疎遠がちとなり、明石の君は、それを嘆きます。身ごもった18歳の明石の君に、源氏は琴を残して別れを惜しみ、帰京します。帰京した源氏には、華々しい復権と栄華の路が待ち受けていました。 光源氏が「秋風に 波やこすらむ 夜もすがら あかしの浦の 月のあさがほ」と詠んだ「朝顔光明寺」の「月見の池」

 

 須磨での2年と4か月のわびしい生活に終止符がうたれ、源氏や昔の左大臣家の人々に再び明るい春が訪れてきました。「冷泉帝」が即位し、源氏も内大臣となります。その喜びの中で、これまで出会った数々の女君たちのその後が語られます。
朱雀帝は、長からぬ余命を心細く思い、退位を決断します。翌年2月。東宮が元服し、冷泉帝となります。それを機に、朱雀帝は譲位し、源氏は内大臣となり、前左大臣も太政大臣に復帰して、かくて源氏方の人々が政界の主流にすわるようになります。  三月、明石の君に姫君が誕生しました。明石入道は、源氏の配慮をありがたく思い、源氏と別れて物思いに沈んでいた明石の君も、源氏の心配りに慰められていきます。心おだやかでない紫の上ですが、その嫉妬の姿に、源氏はかえって魅力を感じるのでした。 

 藤壷が、我が子冷泉帝の即位により、異例の女院となり、権中納言(もとの頭の中将)の娘が、冷泉帝に入内して弘機殿女御となります。 その秋、源氏が住吉詣でをしたその地で偶然に参詣に来合わせた明石の君は、源氏一行の栄えばえしい盛儀を目の当たりにして、あまりの身分差に、そのまま逢わずに引き返してしまうのです。源氏はこのことを供人から聞いて悲しみ、明石の君を都へ迎えようと文を届けますが、明石の君は決心がつかず、また物思いを重ねる日がつづいてしまいます。 

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清水寺の昼と夜

2007年05月20日 | 奈良・飛鳥時代

清水寺

 清水の舞台、さぞかし難工事であっただろうと思わせるその造りは「懸造り」といって特殊な木造柱組を編み出し、急峻な崖に作り上げたものである。高さは12m、舞台を支える柱数は78本。 で、その目的はというと観音様に舞楽奉納するための舞台である。奈良東大寺、薬師寺等のお寺では格別な法会には舞楽奉納を行うが、清水寺や奈良・長谷寺のような条件の場合は崖に張り出す形であらかじめ造っておくのである。 そしてこの能舞台の左右には楽人が演奏する楽舎といわれる小屋根があり、三方は崖で、本堂の十一面千手観音様ただひとりのための能舞台である。 

 広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ清水寺はいつでも観光客でいっぱいの名所です。 北側には「ねね様」が庵とした高台院があり、南側には六条・高倉天皇陵があります。 また西側の四条大橋と五条大橋に挟まれた一角は平家の面々が邸を築いた場所でもあります。 平清盛の泉殿、教盛・通盛邸、頼盛の母・池の禅師の池殿、平滋子が暮らした七条殿などなどが1000年前にはあったのですが、現在では京都国立博物館などができています。

 清水寺の縁起はさまざまな伝本があり、『今昔物語集』『扶桑略記』などによれば、778年、大和国子島寺の僧・延鎮上人が、夢のお告げで霊泉を訪ねてたどりついたのが、今、清水寺の建つ音羽山であった。そこにいた行叡居士という修行者が、東国へ旅立っていった後、延鎮は霊木に観音像を刻み、草庵に安置した。 これが清水寺のはじまりという。 また、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂が延鎮より殺生の罪を説かれた逸話や、源義経と弁慶との逸話が残る舞台なども含め、清水寺は『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』、『梁塵秘抄』などの古典文学にも言及されており、 平安時代、既に多くの参詣者を集めていたことが伺われる。 清水寺は、長らく興福寺の支配下にあったが、本堂をはじめとする伽藍はたびたび火災にあっており、現在の本堂は1633年徳川家光の寄進による再建である。(撮影:クロウ)

真夏の本堂・舞台              夜桜と三重塔

 

 

清水寺近くのおしゃれなてんぷら屋         高台寺前の「ねねの小路」

 

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楠木正成

2007年05月18日 | 鎌倉・室町時代

河内源氏を祖とする楠木正成

河内の 観心寺にある楠木正成像(撮影:クロウ)

 


 南河内地方は河内源氏発祥の地で、「壺井」の里(南河内郡太子町)には、頼信・頼義・義家の源氏三代の塞があります。 その子孫が南河内地方の守護を代々つとめ、その下で地頭職を預っていたのが楠木氏です。  南北朝時代の軍記『太平記』では、「左大臣橘諸兄公の後胤たり」と、楠木氏の系譜を説明し、1190年、源頼朝が奥羽平定後上洛した時、随行した武士の中に楠木四郎という名がみえます。 正成が当主になる頃には、衰退した源氏に代わって、河内国一帯に勢力を持つようになり、近隣の和田氏や坂上氏等との姻戚関係を利用しながら、和泉・紀州地方まで浸透していたようです。

 源氏と繁りのあった観心寺と楠木氏は結びつきが強く、観心寺塔中院は楠木家代々の菩提寺であり、正成の曾祖父成氏が再建するなど、幼少時から正成が度々この寺に参詣していたようです。  正成はこの寺で生涯に最も大きな影響を与えた二人の人物との邂逅を得、(滝覚坊と大江時親) 院生滝覚坊につき文学を修め、七年の間多感な少年時代を観心寺で修行に励んだことを伝えている。 師の一人滝覚坊は、鎌倉幕府別当で、後年北条氏によって滅ぼされた和田義盛の後裔である。 

 正成は弘法大師請来の『心地観経』の中にある四恩の教え(国王、父母、衆生、三宝に対する四つの恩) を習い、天皇のために一命を賭して忠誠を尽した正成の生き方は、後世忠孝の祖として、坂本竜馬、西郷隆盛等明治維新で活躍した志士達の精神的支柱となるが、その根底にあったのがこの四恩の教えなのである。 敵味方の区別なく戦死した兵の菩提を弔ったことや、恩顧のあった寺院社寺に対する敬虔な態度なども、この教えの影響であるといえます。

 大江時親は兵法を中心に正成に伝授する。平城天皇を祖とする大江家は、文筆家の血筋として知られているが、兵法家の家系としても著名である。時親の曽祖父広元は源頼朝の家臣であり、そのまた曽祖父が源義家に兵法を伝授した大江匡房である。諸国歴訪の後、家督を継いで河内国加賀田郷に居を定め、大江家に伝わる兵書研究に没頭していた時親は、滝覚坊の依頼により正成に兵法を伝授する。元弘の乱においての赤坂城や千早城の攻防で、多数の敵軍と対峙しながらも、妙案奇趣の戦術を用いて相手方を翻弄した正成の兵法家としての基礎は、この時培われたものである。

 元弘の乱は、天皇親政を目指した後醍醐天皇による鎌倉幕府執権北条氏討滅の戦いである。未然に発覚した正中の変(1324)の後も、天皇と北条氏の軋轢は日増しに強まり、たび重なる討幕計画に憤激した北条氏は武力で天皇を威圧する。これ耐えかねた天皇は元弘元年(1331)八月、京都を脱出して笠置山に向かう。元弘の乱の始まりである。この乱を契機にして、正成の名が頻繁に歴史に登場するようになる。 楠木氏は河内地方の土豪にすぎないにも拘らず笠置山に避難した天皇が頻りに正成を頼るようになるのである。 この笠置山での出合いの時、天皇の眼にとまったであろう正成の軍旗が観心寺に保存されている。

 正成勢の参集にも拘らず、笠置山の攻防は幕府軍の勝利に終わり、天皇は捕われ隠岐に、同道した尊良親王は土佐、尊澄法親王は讃岐にとそれぞれ配流される。正成は護良親王と共に赤坂城を抜け出し、捲土重来を期して幕府軍の前から姿を消す。 結果的に幕府軍の勝利に終わった笠置山の攻防であったが、それまで態度を保留し、形勢を観望していた、本来天皇方につくべき武士達に決起を促すことになった。 

 1332年、正成と共に赤坂城を抜け出していた護良親王の吉野での挙兵に呼応して正成も挙兵し赤坂城を奪還、その奥に千早城を構築する。 翌年二月、三十万騎近い兵を西上させた幕府軍は吉野攻撃を開始、頑強に抵抗する親王軍を攻略すると、親王は千早城へと向かう。(千早城は現在の大阪と奈良の県境、金剛山の中腹から西に走る尾根の末端に位置する) 正成はわずか一千余人の手兵で、数万の幕府軍を悩ました。 その間、天皇方の武士の蜂起が続出し天皇が隠岐を脱出したこともそれにはずみをつけた。 当初は幕府方であった足利尊氏も天皇方に帰順し、東国では新田義貞が挙兵、鎌倉に進撃を開始し、鎌倉幕府は滅亡した。

 翌年建武新政が成立する。最高の功労者は正成である。後醍醐天皇自ら正成に向かい、その功労を称えている。 正成は検非違使、左衛門尉として従五位に叙せられ、河内、摂津の両国を賜わる。 新田義貞は、上野、播磨の両国、尊氏は、武蔵、常陸、下総の三ヶ国を賜わり、それぞれ従四位、左兵衛督と従二位参議に任ぜられた。 

 護良親王との対立を契機として尊氏は反朝廷の旗色を鮮明にしてゆき、事態は尊氏の弟直義による親王殺害にまでエスカレートし、正成は天皇と尊氏の和解を真剣に考える。 都に押し寄せた尊氏勢が、正成、義貞の連合軍に破れて船で九州へ敗走した時にも、両者の和解を上奏している。 九州へ敗走した尊氏は逆賊であったが、新政の失策を目の当たりにした正成には、全国の武士の動向が手に取るようにわかったのであろう。これは天皇を思えば最善の方法ではあったが、到底公家達が納得できる案ではなかったのである。  正成の予測通り尊氏は、新政に失望した全国の大小名を味方につけ東上を開始した。これを阻止せんとした義貞勢が、兵庫湊川に弧立してしまう。 天皇は義貞救援を正成に諮問する。この時、正成は史上有名な献策をする。 結局、この献策は坊門宰相清忠によって一蹴され、正成は勅命により兵庫へと出陣し、尼ヶ崎で最後の上奏を行う。 もはや戦いの帰趨は正成にとって明らかであり、死を決意しての悲愴な出陣だったのである。 湊川に出陣した正成は義貞に会い、その任務は君を守護し聖慮を安んずべきであることを説き、身を挺して脱出を助けることを進言する。 総勢七百騎余の正成勢は七十三騎になり、正成は壮絶な自害を遂げる。 

 天皇への忠勤を果たすため、自ら肉壁となって兵庫湊川に散華したのは、桜井の駅で正行と別れてから十日後の延元元年(1336)五月二十五日。正成四十三歳の男盛りであった。その首級は、敵将尊氏の命によって観心寺に送り届けられ、大楠公首塚として今に残る。戒名「忠徳院殿大圓義龍大居士」は後醍醐天皇より賜わったものである。

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歴代天皇・皇后総覧

2007年05月17日 | 陵 古墳 墓 遺跡

歴代天皇・皇后総覧

 約1年前から天皇陵めぐりをしていますが、大変役に立っているのがこの本です。ぎっしり500ページにその内容が網羅されていて2000円というお買い得な本でもあります。 前半は天皇に関し、後半は皇后に関する情報が満載です。 天皇陵をめぐるときにはまずこの総覧にて前もってある程度の知識を得ておいて、当日に望みます。 帰ってきたら再度目を通して復習を・・・というところでしょうか。 ほとんど耳にしたことのない皇后様のことも簡単ではありますが知ることができて参考になります。 もちろん当ブログの内容についても総覧の中から抜粋させて頂いております。

 

 歴史に興味があるあなたも、一冊手に入れては如何ですか? さて、わたくし天皇陵のほとんどを巡り、今度は皇后陵を制覇すべく、奮起してみようかな、と思っています。 もちろん今までも天皇陵をめぐりながら、皇后・皇子・皇女の陵も参りましたが、制覇するとなると、天皇陵に比べて数倍困難であるということもわかってきました。 なぜならば、124人+5人(南北朝時代)の天皇の皇后陵もしくはお墓が全て存在するのかどうかが、不明です。 存在するということがわかっても見つけ出すのに一苦労しそうです。 

 たとえば、京都・宇治にある宇治陵は平安時代を象徴する藤原氏一族の墓があるらしいのですが、どれが誰の墓であるのかが不明だそうです。 ということで、可能な限りやってみようかと。。。  御陵・墓・火葬塚・灰塚・陵墓参考地など総計900に及ぶらしいのですが、今まで訪れたのは皇后・皇子・皇女陵墓あわせて約200箇所なので、ん~~・・・残りは700・・・。可能な範囲をどのあたりに設定しようか、悩みます。。 時代設定を平安に絞れば、どんなもんだろう。

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仁和寺宮墓地

2007年05月17日 | 陵 古墳 墓 遺跡

仁和寺宮墓地(11墓1塔)

 京都府京都市右京区花園扇野町の花園西陵に接してあるこの墓地には、仁和寺の門跡として歴代に名を残した御方が眠っています。(撮影:クロウ)

春の仁和寺

 

秋の仁和寺

 

 

後陽成天皇第一皇子・覚深親王

 天正16年(1588)誕生、若宮と称され、秀吉により儲君に治定。文禄3年(1594)親王宣下(諱良仁)。後陽成院は良仁親王への譲位を拒み、皇弟智仁親王への譲位を望んだが家康などに引き止められ、結局のところは女御近衞前子所生の三宮(後の後水尾院)へ譲位となった。慶長6年(1601)入寺得度。同19年(1614)叙一品。正保5年(1648)遷化61。母は藤原(中山)親子

後水尾天皇第七皇子・性承親王

 寛永14年(1637)誕生、豊宮と称する。正保4年(1647)親王宣下(諱周教)、入寺得度。明暦2年(1656)叙二品、延宝6年(1678)叙一品。遷化42。母は藤原(水無瀬)氏子

霊元天皇第二皇子・寛隆親王

 寛文12年(1672)誕生、二宮と称する。天和3年(1683)親王宣下(諱師永)、入寺得度。元禄2年(1689)叙二品。宝永4年(1707)叙一品。遷化36。(かんりゅう) 母:源福子

霊元天皇皇孫・守恕親王

 宝永3年(1706)誕生、稲宮と称する。享保3年(1718)霊元院の養子となり、親王宣下(諱周典)、入寺得度。同11年(1726)叙二品。同14年(1729)叙一品、遷化24。父は京極文仁親王

中御門天皇第四皇子・慈仁親王

 享保8年(1723)誕生、四宮と称する。同9年(1724)曼珠院相続。同14年(1729)仁和寺に転居。同17年(1732)親王宣下(諱良視)。同19年(1734)入寺得度。同20年(1735)叙一品、遷化13。母は小森瀬季・娘

中御門天皇皇子・遵仁親王

 享保21年(1736)誕生、政宮と称する。元文3年(1738)仁和寺相続。寛保3年(1743)親王宣下(諱寛全)。延享4年(1747)入寺得度、叙一品、遷化12。

霊元天皇皇孫・覚仁親王

 享保17年(1732)誕生、菅宮と称する。延享4年(1747)桜町院の養子となり、仁和寺相続、親王宣下(諱敬典)。同5年(1748)入寺得度、叙二品。宝暦4年(1754)叙一品、遷化23。父は有栖川職仁親王

東山天皇皇曾孫 鏗宮

東山天皇皇玄孫 喜久宮

東山天皇皇曾孫 深仁親王

霊元天皇皇曾孫 済仁親王

後伏見天皇十九世皇孫 彰仁親王髪塔

中山親子
 ┣良仁親王(覚深法親王) 櫛笥隆子(逢春門院)

107後陽成天皇        ┣桂宮3穏仁親王  明子女王(好仁親王娘)
 ┣聖興女王 水無瀬氏子  ┣光子内親王     ┣八条宮(桂宮4)長仁親王 
 ┣清子内親王 ┣性承法親王有栖川宮2良仁親王(111後西天皇)┏有栖川宮4正仁親王
 ┣政仁親王(108後水尾天皇)1596-1680       ┣有栖川宮3幸仁親王
 ┣尊英女王   ┃┃┣興子内親王(109明正天皇) 清閑寺共子
 ┣近衛信尋   ┃┃┣昭子内親王
 ┃       ┃┃┃  ┣近衛基熙(左大臣)  ━┓
 ┃       ┃┃┃  ┣好君(伏見宮貞致親王妃)┃
 ┃       ┃┃┃┏近衛尚嗣(関白・左大臣)  ┃
 
有栖川宮初代 ┃┃┃┗泰姫君(水戸藩主・光圀室) ┃
 ┣高松宮好仁親王┃┃┣高仁親王          ┃
 ┣一条昭良   ┃┃徳川和子(東福門院)      ┃
 ┣貞子内親王  ┃┣紹仁親王(110後光明天皇)    ┃
 ┣庶愛親王   ┃┣守澄法親王          ┃         
 ┣尊蓮女王   ┃園光子(壬生院)        ┃        
近衛前子(中和門院)┣常子内親王           ━┛      
         ┃             ┏8幟仁親王       鷹司吉子      
 
        ┃           ┏7韶仁親王       随願院┣5愛仁      
 
        ┃           ┃不明           ┣4孝仁親王      

         ┃松室敦子    不明 ┃┣済仁親王        ┃女房むめ
         ┃ ┃ 不明    ┣有栖川6織仁親王   大江磐代┃┣喜久宮
         ┃ ┃ ┣覚仁親王 ┃  幸子女王(承秋門院) ┣閑院宮3美仁親王
         ┃ ┣有栖川宮5職仁親王 ┣秋子内親王    ┃女房りて 
         ┣識仁親王(112霊元天皇) 
┃ 讃岐(伊藤一中娘)┃┣深仁親王
  園国子(新広義門院)┃ ┣栄子 ┣朝仁親王(113東山天皇) ┣閑院宮2典仁親王┓  
           ┃ ┃   ┃        ┃   ┃    ┣鏗宮  ┃
           ┃ ┃   ┣京極文仁親王  ┃   ┃    交野    ┃
           ┃ ┃   ┃ ┣守恕親王  ┃   ┃ 五条寛子    ┃
           ┃ ┃   ┃家女房     ┃   ┃ ┣遵仁法親王
           ┃ ┃   ┃        ┃閑院宮┃ ┃小森頼季娘 ┃
           ┃ ┃  松木宗子(敬法門院)┣1直仁親王 ┃┣慈仁親王
            ┃鷹司房子(新上西門院)   ┣慶仁親王(114中御門天皇)┃    
           ┣寛隆法親王   櫛笥賀子(新崇賢門院) ┃        ┃
          愛宕福子               ┣昭仁親王━┓   ┃
                           近衛尚子    ┃   ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛   ┃
┃姉小路定子(開明門院)       近衛維子(盛化門院)            ┃
┃      ┣遐仁親王(116桃園天皇)  ┣欣子内親王(光格天皇中宮)     ┃  
┗昭仁親王(115桜町天皇)     ┣英仁親王(118後桃園天皇)         ┃  
  ┣智子内親王(117後桜町天皇) 一条富子(恭礼門院)             ┃        
 二条舎子(青綺門院)                            ┃
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃大中臣祐智女 欣子内親王                  
 ┃ ┣美仁親王   ┣温仁親王 鷹司繁子(新皇嘉門院)           
 ┗典仁親王    ┣悦仁親王 ┣安仁親王       
  ┣兼仁親王(119光格天皇) ┣慈悲心院宮    九条夙子(英照皇太后)         
  大江磐代(蓮上院)┣恵仁親王(120仁孝天皇)  ┣122明治天皇                 
         勧修寺婧子┃ ┣恵仁親王(121孝明天皇)    
              ┃正親町雅子(新待賢門院)     
              ┣摩尼珠院宮     
             鷹司祺子(新朔平門院)

仁和寺宮墓地と待賢門院・藤原璋子花園西陵

 

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第59代宇多天皇陵

2007年05月13日 | 天皇・皇后陵

第59代宇多天皇大内山陵

 京都で一番平安時代を感じることが出来る仁和寺を創建したのが仁和寺(888年に創建)で、法親王が住持し「御室御所」と呼ばれました。 御室というのは、「皇室の住居」という意味です。 朱塗りの中門をくぐると、御所の紫宸殿を移築した金堂の他、五重塔や観音堂等が見えてきます。 門跡寺院として格式が高く、また、「徒然草」「方丈記」など古典にも数多く登場します。そしてここ仁和寺の北側にあるのが宇多天皇陵です。 仁和寺の外周に沿って天皇陵への参道は続きます。

宇多天皇と陽成上皇

 876年、病身で政治に倦んだ父・清和の譲りを受けて貞明親王は陽成天皇として9歳で即位し、母・高子とその兄・基経の庇護の下に成長する。 政界の兄・基経と内廷を支配する妹・高子は連携どころか対立を深めた。 兄は学問好きの実直な性格、妹は自由奔放な人柄である。高子は当代きっての花形・在原業平を蔵人頭に抜擢する。業平は和歌は作るが才学は無く、基経に評価されるはずもない。陽成の乱行に業を煮やした基経は陽成を廃位し、皇族の長老・時康親王を立てて光孝天皇として即位させた。基経と光孝天皇は母同士が姉妹であり古くからの友人であり、その温厚で優雅な人柄は正史に「性、風流多し」と記されたほどである。基経は光孝を立てることにより群臣の総意を纏めることができ、存分に権力を振るうことが出来たが、光孝帝は死に臨んで第7皇子の源定省を次期皇位に就けることを望み、また基経の妹で尚侍・淑子(定省を養子にしていた)の政治力にも押されて承認せざるを得なかった。思いもよらず、王位についた光孝帝と宇多帝は、後に陽成上皇に罵声を浴びせられている。陽成上皇にしてみれば、格が違うというところだろう。

宇多上皇と醍醐朝

 醍醐朝は897年から930年までの30年余り続いたが、中でも延喜元(901)年から延喜九(909)年までの9年間は、道真を追放した時平が、国政に力を注いだ時期である。延喜元(901)年「日本三代実録」の完成、延喜二(902)年の荘園整理令の発布、延喜五(905)年の「古今和歌集」の編纂、延喜七(907)年の貨幣の改鋳と「延喜式」の編纂、目に見える形での律令制再建の動きが活発になっていたことを表している。法令の目的の一つは、王臣家や諸院、諸宮などの権門と地方の有力者が結びついて、地方の荘園が増加するのを食い止めることだった。時平自身、権門の一人であるから自分で自分の首を絞めるようなものだが、それを敢えてしなければならないというところに、当時の律令制の崩壊が見えるようである。効果のほどはともかく、若い時平の意気込みが窺われて、後世の人々の心を捉えたのかもしれない。  だが、時平の死でそれらのほとんどは挫折した。延喜十四(914)年、醍醐天皇が公卿から国司まで、官人らに政治に関する意見を募ったところ、前文章博士三善清行が意見封事を提出した。12箇条から成るこの意見は、地方政治の弛緩や奢侈に流れる風潮などを指摘したものである。けれども、この意見は現実の政治には反映されなかった。醍醐天皇は、父宇多上皇の享楽的な生活に影響を受け、政務より風流文事にいそしむようになっていたらしい。形の上では天皇親政ということではあるが、天皇が積極的に政治に参与しないばかりか、忠平らまでが時平の後を継ごうとはしなかったという。  

宇多天皇と藤原氏

 三条右大臣・藤原定方(父は藤原高藤)と中納言・兼輔(父は利基)であるが、ふたりは藤原良門の孫で従兄弟同士にあたる。 良門は栄華を極めた長良とは年の離れた弟にあたり、早死にしたために子息は将来有望ではなかった。 ところが定方(873-932)の同母妹・胤子(-896)が宇多天皇女御となり、醍醐天皇(885-930)をもうけたのである。 これにより一躍、高藤は三位となり内大臣に任ぜられた。 高藤の次男・定方も右大臣まで昇ったのであるが、この親子は温和で、従兄弟の中納言兼輔(877-933)とともに風流を好んだ。 中納言・兼輔に臣従した歌壇の第一人者が紀貫之である。 面白いことに、この3人を中心とした風流に集まった連中には、伊勢姫と醍醐天皇の弟・敦慶親王(二人の間には中務が生まれている)などがいる。

宇多天皇と伊勢姫

 伊勢姫は、藤原基経の娘・温子(七条の后)が宇多天皇の女御になった前後に出仕し、温子の相手をすることになります。 定子と清少納言、彰子と紫式部のような関係です。 伊勢姫は、女御・温子の弟の藤原仲平と兄の時平からも愛されますが、温子の夫である宇多天皇の寵愛を得て皇子・行明親王を産んだことにより伊勢生涯の名誉を得ることになります。 しかし後に、皇子を幼くして亡くし、伊勢がもっとも敬愛していた温子皇后が崩じ、その娘の均子内親王も世を去ってしまう中、敦慶親王(宇多天皇皇子)の寵を受け、一女・中務をもうけます。

宇多天皇と褒子

 六条河原院で宇多法皇と褒子が月夜の晩に仲むつまじく愛を交わしていた時、河原左大臣(源融)の亡霊が現れて宇多の腰にしがみつき、褒子は失神したという。 源融はもともと河原院の持ち主であったが、孫姫・源貞子を宇多の更衣として入内させている。そして寵愛を受けさせたかったこともあり、ここ河原院を献上したのであるが、宇多は源貞子をあまり寵愛しなかったために、亡霊として現れたという史実が残っている。 この話は、源氏物語の「夕顔」の巻きの素材として使われた話と考えられている。

宇多天皇と周子

 道長が政務に奮闘しかけているとき、土御門邸では倫子が身篭っていた。最初は道長との結婚に反対していた69歳の源雅信もご満悦である。こういうとき、身篭った妻を持つ主人は他に女を囲って遊ぶものであるが、道長はそれをしなかった。後に源高明の娘・明子を妻とするが、倫子と明子以外のところに通うことがなかった。道長の性格にもよるであろうが、二人の妻の愛らしさに飽きることもなかったのであろう。土御門邸でいささか手持ち無沙汰の道長は、久しぶりに東三条邸の詮子を訪ねた。当時の公卿の館は一町四方というから4千坪であるが、東三条院はその倍である。かの有名な嵯峨天皇の皇子・源融の六条院が一万坪というから丁度それに匹敵する。歩き慣れた邸内を行くと琴の音が伝わってくる。御簾越しにほのかな人影が見えたかと思うと琴の音が止み、「だめ・・・」という幼い声が聞こえた。詮子の命で男気から遠ざけられて育てられたその女性こそ宮の御方、つまり不遇の人生を送った源高明の姫君である。故実に明るく才長けた源高明は醍醐天皇の第十皇子で母は源周子(第58代光孝天皇の娘で宇多天皇の妹でもある)である。

 

 

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第97代後村上天皇陵

2007年05月12日 | 天皇・皇后陵

第97代後村上天皇檜尾陵

 後村上天皇陵は河内・富田林市にある観心寺内にあります。 伝承では、700年頃、開創され、雲心寺と称されたとする。 その後、808、815年に空海がこの地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、「観心寺」の寺号を与えたという。 観心寺の実質的な開基とみられるのは、空海の一番弟子にあたる実恵であるという。

 後村上天皇は南朝第二の天皇で、後醍醐天皇の第7皇子。 母は阿野廉子(新待賢門院) 。 元弘討幕の後、新政府の策に従って北畠親房親子に擁せられ陸奥多賀城府へ赴き足利尊氏の叛乱により西上、叡山にいる父天皇のもとで元服し、再び多賀城にもどるが北軍に攻撃され霊山に移った。 1337年吉野にはいり、皇太子となった後、父の崩御後に即位した。 一時南北朝が統一され、北朝の崇光天皇が廃立されたことにより全日本の天皇となったが、南軍が京都・鎌倉の同時奪回に失敗すると、光厳・光明・崇光の北朝3上皇と廃太子直仁親王を賀名生に連れ去り、京都を回復した幕府は崇光の弟・弥仁親王を後光厳天皇として即位させた。 勢力を回復した南朝は金剛寺を行宮に、また河内観心寺、摂津住吉まで北上して崩御した。

 後村上天皇には藤原勝子との間に第一皇子寛成親王(後の長慶天皇)、第二皇子熙成親王(後の後亀山天皇) の他に第五皇子で後亀山の皇太弟・泰成親王がおり、南北朝統一後の足利義満との対面でも知られている。  また、女御・源顕子との間に第一皇女:憲子内親王(新宣陽門院)がいる。

 

 

観心寺内の天皇陵へ参拝する時には200円の参拝料は不要です。(撮影:クロウ)

 

 

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円恵法親王が長官を務めた三井寺

2007年05月10日 | 平安時代

園城寺(三井寺)

 大津市の弘文天皇陵へ行ったときに、ここ三井寺に立ち寄りました。天皇陵からはほんのすぐ近くです。 その昔、後白河天皇の皇子である円恵法親王が三井寺の長官を務めたところです。 また保元の乱では惨敗した上皇側の源為義が隠れたところであり、以仁王も行家の裏切りにあって隠れているところでもあります。

 園城寺(三井寺)は天台寺門宗の総本山で、いにしえより日本四箇大寺の一山に数えられています。その昔、天智・弘文・天武三帝の勅願により、弘文帝の皇子・大友与多王が田園城邑を投じて建立され、天武帝より『園城』の勅額を賜り、長等山園城寺と称したのにはじまります。 俗に三井寺と呼ばれているのは、当時天智・天武・持統三帝の御産湯に用いられた霊泉があり、『御井の寺』と呼ばれていたものを、後に開祖智証大師が当時の厳儀・三部灌頂の法水に用いられたことに由来しています。
 長い歴史の上で当寺は再三の兵火にあい焼失したが、豊臣氏や徳川氏の手によって復興し、現在も国宝・重要文化財・名園など貴重な寺宝を数多く伝えています。

 

 

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昌子内親王岩倉陵

2007年05月09日 | 陵 古墳 墓 遺跡

昌子内親王岩倉陵

 京都市左京区、宝ヶ池公園の北のある岩倉実相院のすぐ近くに昌子内親王陵が、またここから北へ数キロのところに鞍馬寺があります。 岩倉陵よりさらに奥には後西天皇皇子・義延親王、霊元天皇皇子・峯宮塔、後伏見天皇十五世皇孫・義周親王、東山天皇皇曾孫・建宮の墓はあります。 

 昌子内親王は第61代朱雀天皇第一皇女で、母は女御・煕子女王(醍醐天皇の孫)。第63代冷泉天皇の中宮です。 父朱雀天皇退位後の950年に生まれたが、母煕子女王が間もなく没したため、父朱雀上皇は一人娘・昌子内親王の行く末を案じつつ、952年に30才で崩御する。 幼くして両親を亡くした内親王を叔父村上天皇が憐れんで手厚く庇護したといいます。  963年、皇太子憲平親王(後の冷泉天皇)に入内し、967年の冷泉天皇即位に伴い中宮に立后するが冷泉天皇は在位わずか2年で退位し、その後昌子内親王は973年皇太后、986年太皇太后を経て、1000年享年50にて崩御します。

 藤原元方は娘・祐姫を村上天皇に入内させたが、孫・広平親王を即位させることはできなかった。 外祖父になりそこねた元方の怨念が冷泉天皇の奇行の原因とされた。 一方、藤原伊尹の娘・ 懐子は師貞親王(後の花山天皇)を、特に藤原兼家の娘・超子は居貞親王(後の三条天皇)をもうけ、後に藤原道長が栄華を極めるのに大きな役割を担っているから、昌子内親王が冷泉を嫌って子をもうけなかったことが元方の怨念となったのも頷ける。

 かくして昌子内親王は狂気の夫冷泉天皇を恐れて殆ど里邸に過ごしますが、資質淑慎で后妃の徳ありと言われ、篤く仏教に帰依した后であった。 北岩倉山大雲寺に観音院を創建したことから、観音院太后とも称される。 昌子内親王の御所には越中守平保衡女とその娘の和泉式部が仕えており、また晩年には歌人藤原為頼(紫式部の伯父)が太皇太后宮大進をつとめたということだそうです。

 

 

                       801-861
                   伊都内親王(桓武皇女)
       是公娘・吉子-807    伊勢継子┣ 在原行平818-893
    ┣ 伊予親王       ┃   ┣ 在原業平825-880
      ┃乙牟漏皇后 760-790   ┣阿保親王792-842 ┃
      ┃┣ 高志内親王789-809 ┣高岳親王799-865 *5
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)        
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇) 
 ┃   ┃┃   ┃┃┏藤原乙春842-866 
 ┣山部王(桓武)┃┃┗藤原沢子   -839 830-887  
 ┃ 737-806   ┃┃  ┣時康親王58光孝天皇 
白壁王709-781 ┃┃  ┃┃   ┣源旧鑑    藤原穏子885-954(時平・妹)
(49代光仁天皇) ┃┃  ┃┃   ┣源和子-947    ┣ 康子内親王919-957(師輔妻) 
         ┃┃  ┃┃   ┣忠子┃     ┃ 藤原安子(師輔娘)
         ┃┃  ┃┃   ┗周子┃     ┃   ┣63冷泉天皇
          ┃┃  ┃┣為子内親王┃藤原淑姫 ┃-948┣64円融天皇 壮子女王 
 ┏━━━━━━┛┃  ┃┃高藤    ┃┃┃藤原桑子┃    ┣為平親王  ┣具平親王
 ┣有智子内親王 ┃  ┃┃┣定方  ┃┃┃┃和香子┣ 成明親王(62村上)926-967
 ┃母交野女王斎院┃  ┃┃┃┗能子┃┃┃┃┃-935┣ 寛明親王(61朱雀)923-952 
 ┃         ┃  ┃┃┗胤子┃┃┃┃┃┃  ┃      ┣昌子内親王950-1000---岩倉陵
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃藤原仁善子┃(和泉式部奉仕)┣-
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃ ┣ 煕子女王-950  冷泉天皇
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┣保明親王901-923
 ┣源潔姫809-856 ┃  ┃┃   ┣60代醍醐天皇885-930延喜帝 ┗ 慶頼王920-925
 ┃    ┣明子  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃┣克明親王,宣子内親王(斎院)
 ┃藤原良房┗文徳┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃源封子(源旧鑑娘)
 ┣源信810-869  ┃  ┃┃  ┃ ┃┃┣代明親王904-937(邸宅は伊尹,行成の邸とす)
 ┣源常812-854  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃藤原鮮子 ┣源重光 923-998
 ┣源弘812-863  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃     ┣恵子女王925-992(伊尹妻 義孝母)     
 ┣源定816-863  ┃  ┃┃   ┃ ┣重明親王   ┣壮子女王930-1008(村上帝妃具平母)
 ┗源融823-895  ┃  ┃┃   ┃ ┃源昇娘    ┣厳子女王(頼忠妻 公任母)
  ┗源昇    ┃  ┃┃   ┃ ┣勤子内親王 定方娘 
           ┃  ┃┃   ┃ ┣雅子内親王909-954(斎宮 師輔妻)  
           ┃  ┃┃   ┃ ┣源高明914-982
           ┃  ┃┃   ┃源周子 ┣俊賢959-1027
          ┃  ┃┃    ┃-935  ┣明子
          ┃  ┃┃   ┃   愛宮 ┣頼宗、能信、寛子
           ┃  ┃┃   ┣敦実親王  藤原道長
          ┃  ┃┃   ┃  ┣源雅信┣彰子、頼通、教通
          ┃  ┃┃   ┃  ┃ ┣源倫子   藤原温子
           ┃  ┃┃   ┃  ┃穆子    ┃橘義子
           ┃  ┃┃   ┃ 時平娘     ┃┃
           ┃  ┃┣ 源定省(59宇多天皇) 867-931
           ┃  ┃┃            ┃┃ 
           ┃  ┃┃            ┃菅原衍子
            ┃  ┃斑子女王         源貞子
          ┣正良親王(54仁明天皇)810-850  
          ┃               ┃┣
          ┣正子内親王       ┃小野吉子(更衣)      *5
          橘嘉智子             ┃紀名虎娘・静子 ┏━━━━━┛ 
                                ┃    ┣ 紀有常女              
                           ┃   ┣ 惟喬親王(第1皇子)   
                              ┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858        
                        藤原順子(冬嗣・娘) 

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橋姫伝説と貴船神社

2007年05月07日 | 平安時代

貴船神社と橋姫神社

 宇治の橋姫伝説と言えば、平家物語の剣の巻に登場する物語です。 丑の刻参り・・・。 ある公家の娘が嫉妬のあまり貴船神社へ詣でて鬼になることを願った。そして七日目に貴船の神託があり、姿を変えて宇治川に二十一日間浸かれば鬼と化すという。 そこで女は髪を松脂で固めて五つの角を作り、顔には朱、身体に丹を塗り、頭に鉄輪をかぶってその三本の足に松明をつけ、さらに両端に火をつけた松明を口にくわえて京の南へと走り、宇治川に浸かって生きながら鬼となったという。 その後、橋姫は阿倍晴明によって封じ込められ、源頼光四天王の渡辺綱らによって退治された。そして祀ってくれるならば京を守護すると言って宇治川に身を投げて龍神となったという。

 また、一方で伝説の橋姫は、愛しい人を待ち続けるか弱き女性ともいう。この悲劇のヒロインは「源氏物語第45帖 橋姫」に登場する大君と中の君である。 橋姫は宇治拾帖の初巻で、でてきます。  桐壷帝の第八皇子で、光源氏の父である桐壷帝の皇子でありながら、不遇な人生を送っていた「八の宮」殿を中心に、宇治での物語が綴られており、「宇治十帖」とも呼ばれています。二人の娘「大君(おおいぎみ)」「中の君」と、その異母妹「浮舟」に、「匂宮」「薫」とが、複雑にからんで多彩な関係を展開します。 薫と大君、匂宮と中の君、の四角関係は、大君の死によって崩壊し、中の君をめぐっての危険な三角関係に発展していきます。しかし、薫は亡き大君へのやり場のない想いがたえず漂い、それを悲しくかみしめるのでした。

 ここ貴船神社は京都の鞍馬山のまだ奥に位置しています。 山国地域の常照皇寺からやっと車が1台通れるような山道を走ること1時間、やっと到着した貴船神社は、いかにも清らかな気持ちで望まなければ・・・と、思わせるような雰囲気がただよう秘境にあります。 ところが驚いたことに、すごい人の波です。 というのも叡電鞍馬線というのがあり、京都御所のちかくから、鞍馬まで伸びているのです。 そして鞍馬駅からは貴船神社まで徒歩となりますが、ひんやりしたマイナスイオンを浴びれば苦にならない感じです。 貴船川沿いの山道には多くの旅館が軒を並べ、鴨川の納涼床と同じ床が貴船川に敷き詰められて、ここでの夕食はさぞかし風情をかもしだすことだろうと感じました。

貴船神社

 

 

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北朝第1代光厳天皇陵

2007年05月07日 | 天皇・皇后陵

北朝第1代光厳天皇山国陵

 光厳天皇山国陵と後花園天皇後山国陵は京都市内から車で約1時間北へ向かった山国の、『常照皇寺』というほとんど人の訪れそうもない寺内にあります。 今回は京都の嵐山→保津峡→清和天皇陵を経由して行ったのですが、常照皇寺は山国地域を代表する寺院なのです。(撮影:クロウ)

 

 

 常照皇寺の正式名称は『大雄名山万寿常照皇禅寺』と言い『臨済宗天龍寺派』に属する禅寺だそうです。寺院によると創建されたのは、南北朝時代、北朝側の光厳天皇が、この山深き里に草庵を結ばれたのが『常照皇寺』の始まりで、天皇没後、光厳の菩提を弔うため、光厳を開山として禅刹に改め常照万寿皇禅寺とされたといいます。 その後、戦国時代には、明智光秀が周山城建設の為、木材を集めを目的に周辺の社寺を取り壊し、それ以降衰退の道を辿り荒廃していきます。 江戸時代に入ると、後水尾天皇・徳川秀忠、からの援助を受け復興され、明治時代には、皇族寺として保護され復活していきます。

 

 開山とされている光厳天皇は、南北朝時代を生き抜いた天皇です。 父・第93代後伏見天皇と母・西園寺寧子(広義門院)の第一皇子で、後醍醐天皇の皇太子にたてられた。 後醍醐天皇の笠置出奔により三種の神器なしで即位します(北朝初の天皇)が、隠岐に流されていた後醍醐天皇が京都に戻り鎌倉幕府を倒すと、光厳は、討幕側に捕らえられて1333年廃位となります。 その後1336年に足利尊氏に請われて執政上皇に擁立され、後醍醐討伐の院宣を発し、弟の豊仁親王を光明天皇として皇位につけると、自らは院政を敷いた。院政は15年に及び、1351年には治世は後村上天皇(後醍醐天皇の第7皇子)に移った。 この時に弟・光明上皇、嫡子・崇光上皇、廃太子・直仁親王とともに拉致された。 そして出家後、南軍に幽閉されること5年、1357年に帰京を許され、嵯峨小倉に隠凄した。1362年には巡礼のたびに出、法隆寺、高野山を経て吉野に入り、かつて自らを拘禁した後村上天皇に対面し、種々懐述したという。晩年には山国の常照寺に隠凄し52歳で崩御。 

 

 

第102代後花園天皇後山国陵

 さて、光厳天皇とともに、ここ山国に祭られている御方に後花園天皇がいます。 後花園天皇は、伏見宮第三代・後崇光院(貞成親王)の第一皇子で母は源幸子(敷政門院)である。 第101代称光天皇の病状が悪化すると、次期将軍足利義教の支持で後小松院の仙洞御所に移り、称光天皇が崩御すると即位した。

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天皇陵訪問記録

2007年05月06日 | 陵 古墳 墓 遺跡

天皇陵訪問記録

 なにかをやり始めたら、そこそこやって何かを残したいと思うのがいいところでもあり、悪いところでもある私の性格。 天皇陵を全て行ってみようとは思いもしなかったが歴史の散策をしているうちに、こうなってしまいました。 訪問の前には下調べをすると旅の面白さも倍増します。 その下調べ結果をブログに書きとめて、いつでも閲覧できるようにと心がけてきたのですが、その全てを記録に残すことと致しました。

 とはいえ、まだ達成していないところが・・・・次の7箇所です。 孝謙天皇陵(成務天皇陵、日葉酢媛命陵にいっておきながら、お隣の孝謙天皇陵の写真が無い・・・。行った記憶はあるのですが記録が無いので今年の正倉院展に行ったついでに、再度行こうと思っています。)、 淳仁天皇陵(今年の6月に四国へ行く予定があるので、淡路南を経由し淳仁天皇陵を訪問する予定です)、 光仁天皇陵(光仁の父・施基皇子陵へ行きながら隣接する光仁天皇陵を逃したのは不覚でした。 孝謙天皇陵を訪問するときに、ここへも行く予定)、 淳和天皇陵(2回挑戦しようと近くまでいきながら、時間の都合で断念。 ここは天皇陵の中でも最難間な場所ですので、1日かける必要がありますので、いまのところ予定なし)、 安徳天皇陵(下関旅行を計画して、そのときに訪問予定ですが、今は未定。 平家物語散策の旅をまずは計画する必要があります)、大正天皇陵(武蔵陵墓地の一角にある多摩陵へ行く予定は今のところありません)、 昭和天皇陵(武蔵陵墓地の一角にある武蔵野陵へ行く予定は今のところありません。多摩陵とあわせて近いうちに行かねば。。) 

 一段落したところで、今までの記録を見やすいようにという意味で、(実は他にも理由があるのですが。。)纏めてみました。 全部で300ページくらいになるので、上巻は長岡京まで、下巻は平安京からと2分冊とし、旅のときにも携帯できるようにと単行本サイズにしてみました。 こんなことをするのははじめてで、要領を得ない割には上出来ではないかと喜んでおります。

 監区事務所で御陵印を一通り(多摩は除く)頂いたのですが、再度この記録本に押印して完成にしたいと考えています。 次は新・平家物語をテーマに散策記録を纏めてみようかと思いは馳せるばかりなり。

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