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北朝第1代光厳天皇陵

2007年05月07日 | 天皇・皇后陵

北朝第1代光厳天皇山国陵

 光厳天皇山国陵と後花園天皇後山国陵は京都市内から車で約1時間北へ向かった山国の、『常照皇寺』というほとんど人の訪れそうもない寺内にあります。 今回は京都の嵐山→保津峡→清和天皇陵を経由して行ったのですが、常照皇寺は山国地域を代表する寺院なのです。(撮影:クロウ)

 

 

 常照皇寺の正式名称は『大雄名山万寿常照皇禅寺』と言い『臨済宗天龍寺派』に属する禅寺だそうです。寺院によると創建されたのは、南北朝時代、北朝側の光厳天皇が、この山深き里に草庵を結ばれたのが『常照皇寺』の始まりで、天皇没後、光厳の菩提を弔うため、光厳を開山として禅刹に改め常照万寿皇禅寺とされたといいます。 その後、戦国時代には、明智光秀が周山城建設の為、木材を集めを目的に周辺の社寺を取り壊し、それ以降衰退の道を辿り荒廃していきます。 江戸時代に入ると、後水尾天皇・徳川秀忠、からの援助を受け復興され、明治時代には、皇族寺として保護され復活していきます。

 

 開山とされている光厳天皇は、南北朝時代を生き抜いた天皇です。 父・第93代後伏見天皇と母・西園寺寧子(広義門院)の第一皇子で、後醍醐天皇の皇太子にたてられた。 後醍醐天皇の笠置出奔により三種の神器なしで即位します(北朝初の天皇)が、隠岐に流されていた後醍醐天皇が京都に戻り鎌倉幕府を倒すと、光厳は、討幕側に捕らえられて1333年廃位となります。 その後1336年に足利尊氏に請われて執政上皇に擁立され、後醍醐討伐の院宣を発し、弟の豊仁親王を光明天皇として皇位につけると、自らは院政を敷いた。院政は15年に及び、1351年には治世は後村上天皇(後醍醐天皇の第7皇子)に移った。 この時に弟・光明上皇、嫡子・崇光上皇、廃太子・直仁親王とともに拉致された。 そして出家後、南軍に幽閉されること5年、1357年に帰京を許され、嵯峨小倉に隠凄した。1362年には巡礼のたびに出、法隆寺、高野山を経て吉野に入り、かつて自らを拘禁した後村上天皇に対面し、種々懐述したという。晩年には山国の常照寺に隠凄し52歳で崩御。 

 

 

第102代後花園天皇後山国陵

 さて、光厳天皇とともに、ここ山国に祭られている御方に後花園天皇がいます。 後花園天皇は、伏見宮第三代・後崇光院(貞成親王)の第一皇子で母は源幸子(敷政門院)である。 第101代称光天皇の病状が悪化すると、次期将軍足利義教の支持で後小松院の仙洞御所に移り、称光天皇が崩御すると即位した。

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