第83代土御門天皇金原陵
土御門天皇金原陵は長岡京市、長岡天満宮のすぐ西の住宅地の端にあります。 土御門天皇は、後鳥羽天皇の第一皇子で、母は内大臣・源通親の養女承明門院・在子。 在子は後鳥羽天皇の乳母・藤原範子と平清盛の妻・時子の異父弟・法印能円との間に生まれた。 実父が平家の都落ちに同行したため、母が通親と再婚し、その養女となったものである。 中宮には大炊御門(藤原)麗子、皇妃には土御門(源)通子がおり、春子女王、覚子内親王、仁助法親王、静仁法親王、邦仁王(後の後嵯峨天皇)、秀子女王をもうけた。 1198年、後鳥羽天皇の譲位により4歳で即位するが、事実上後鳥羽上皇による院政がしかれていた。 しかし、穏和な性格が幕府との関係上心許ないと見た後鳥羽上皇は、1210年退位を迫り、弟の順徳天皇に譲位した。 1221年の承久の乱のおりには、土御門上皇は何も関与していなかったので処罰の対象にはならなかったが、自ら申し出て土佐に流され、後に阿波に移された。 1231年に出家し、崩御する。 鎌倉幕府は後鳥羽、順徳と違って阿波の守護に御所を造営させるなどして厚遇している。 また、土御門天皇には19人の皇子、皇女がいたが、多くは仏門にはいった。 しかし、通子との間の邦仁王だけは仏門にはいらず、のちに後嵯峨天皇となった。
後鳥羽天皇には3人の皇子がいたが、譲位の時に誰を皇太子にするかを占いで決めたために、 歌人の藤原定家は日記「明月記」のなかで、このような占いが軽率に行われたことを非難している。
藤原立子(東一条院)
修明門院藤原重子 ┣85仲恭天皇
憲仁親王80代高倉天皇1161-1181 ┣84順徳天皇(守成親王) 麗子1185-1243
┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239 ┣- 平棟子
┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇(為仁親王)┣宗尊親王
┃ ┃ ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃ ┣88後嵯峨天皇(邦仁王)1220-1272
┃ ┃ ┃ ┣87四条天皇 ┃ 源通子-1221┃┣89後深草天皇
┃ ┃ ┃ 藤原竴子 ┃ ┃┣90亀山天皇
┃ ┃北白河院・藤原陳子 承明門院源在子 ┃西園寺姞子
┃ ┃持明院基家┛ ┃
┃藤原殖子(七条院) ┣宗尊親王
┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185) 平棟子
徳子1155-1214(建礼門院)