河内源氏を祖とする楠木正成
河内の 観心寺にある楠木正成像(撮影:クロウ)
源氏と繁りのあった観心寺と楠木氏は結びつきが強く、観心寺塔中院は楠木家代々の菩提寺であり、正成の曾祖父成氏が再建するなど、幼少時から正成が度々この寺に参詣していたようです。 正成はこの寺で生涯に最も大きな影響を与えた二人の人物との邂逅を得、(滝覚坊と大江時親) 院生滝覚坊につき文学を修め、七年の間多感な少年時代を観心寺で修行に励んだことを伝えている。 師の一人滝覚坊は、鎌倉幕府別当で、後年北条氏によって滅ぼされた和田義盛の後裔である。
正成は弘法大師請来の『心地観経』の中にある四恩の教え(国王、父母、衆生、三宝に対する四つの恩) を習い、天皇のために一命を賭して忠誠を尽した正成の生き方は、後世忠孝の祖として、坂本竜馬、西郷隆盛等明治維新で活躍した志士達の精神的支柱となるが、その根底にあったのがこの四恩の教えなのである。 敵味方の区別なく戦死した兵の菩提を弔ったことや、恩顧のあった寺院社寺に対する敬虔な態度なども、この教えの影響であるといえます。
大江時親は兵法を中心に正成に伝授する。平城天皇を祖とする大江家は、文筆家の血筋として知られているが、兵法家の家系としても著名である。時親の曽祖父広元は源頼朝の家臣であり、そのまた曽祖父が源義家に兵法を伝授した大江匡房である。諸国歴訪の後、家督を継いで河内国加賀田郷に居を定め、大江家に伝わる兵書研究に没頭していた時親は、滝覚坊の依頼により正成に兵法を伝授する。元弘の乱においての赤坂城や千早城の攻防で、多数の敵軍と対峙しながらも、妙案奇趣の戦術を用いて相手方を翻弄した正成の兵法家としての基礎は、この時培われたものである。
元弘の乱は、天皇親政を目指した後醍醐天皇による鎌倉幕府執権北条氏討滅の戦いである。未然に発覚した正中の変(1324)の後も、天皇と北条氏の軋轢は日増しに強まり、たび重なる討幕計画に憤激した北条氏は武力で天皇を威圧する。これ耐えかねた天皇は元弘元年(1331)八月、京都を脱出して笠置山に向かう。元弘の乱の始まりである。この乱を契機にして、正成の名が頻繁に歴史に登場するようになる。 楠木氏は河内地方の土豪にすぎないにも拘らず笠置山に避難した天皇が頻りに正成を頼るようになるのである。 この笠置山での出合いの時、天皇の眼にとまったであろう正成の軍旗が観心寺に保存されている。
正成勢の参集にも拘らず、笠置山の攻防は幕府軍の勝利に終わり、天皇は捕われ隠岐に、同道した尊良親王は土佐、尊澄法親王は讃岐にとそれぞれ配流される。正成は護良親王と共に赤坂城を抜け出し、捲土重来を期して幕府軍の前から姿を消す。 結果的に幕府軍の勝利に終わった笠置山の攻防であったが、それまで態度を保留し、形勢を観望していた、本来天皇方につくべき武士達に決起を促すことになった。
1332年、正成と共に赤坂城を抜け出していた護良親王の吉野での挙兵に呼応して正成も挙兵し赤坂城を奪還、その奥に千早城を構築する。 翌年二月、三十万騎近い兵を西上させた幕府軍は吉野攻撃を開始、頑強に抵抗する親王軍を攻略すると、親王は千早城へと向かう。(千早城は現在の大阪と奈良の県境、金剛山の中腹から西に走る尾根の末端に位置する) 正成はわずか一千余人の手兵で、数万の幕府軍を悩ました。 その間、天皇方の武士の蜂起が続出し天皇が隠岐を脱出したこともそれにはずみをつけた。 当初は幕府方であった足利尊氏も天皇方に帰順し、東国では新田義貞が挙兵、鎌倉に進撃を開始し、鎌倉幕府は滅亡した。
翌年建武新政が成立する。最高の功労者は正成である。後醍醐天皇自ら正成に向かい、その功労を称えている。 正成は検非違使、左衛門尉として従五位に叙せられ、河内、摂津の両国を賜わる。 新田義貞は、上野、播磨の両国、尊氏は、武蔵、常陸、下総の三ヶ国を賜わり、それぞれ従四位、左兵衛督と従二位参議に任ぜられた。
護良親王との対立を契機として尊氏は反朝廷の旗色を鮮明にしてゆき、事態は尊氏の弟直義による親王殺害にまでエスカレートし、正成は天皇と尊氏の和解を真剣に考える。 都に押し寄せた尊氏勢が、正成、義貞の連合軍に破れて船で九州へ敗走した時にも、両者の和解を上奏している。 九州へ敗走した尊氏は逆賊であったが、新政の失策を目の当たりにした正成には、全国の武士の動向が手に取るようにわかったのであろう。これは天皇を思えば最善の方法ではあったが、到底公家達が納得できる案ではなかったのである。 正成の予測通り尊氏は、新政に失望した全国の大小名を味方につけ東上を開始した。これを阻止せんとした義貞勢が、兵庫湊川に弧立してしまう。 天皇は義貞救援を正成に諮問する。この時、正成は史上有名な献策をする。 結局、この献策は坊門宰相清忠によって一蹴され、正成は勅命により兵庫へと出陣し、尼ヶ崎で最後の上奏を行う。 もはや戦いの帰趨は正成にとって明らかであり、死を決意しての悲愴な出陣だったのである。 湊川に出陣した正成は義貞に会い、その任務は君を守護し聖慮を安んずべきであることを説き、身を挺して脱出を助けることを進言する。 総勢七百騎余の正成勢は七十三騎になり、正成は壮絶な自害を遂げる。
天皇への忠勤を果たすため、自ら肉壁となって兵庫湊川に散華したのは、桜井の駅で正行と別れてから十日後の延元元年(1336)五月二十五日。正成四十三歳の男盛りであった。その首級は、敵将尊氏の命によって観心寺に送り届けられ、大楠公首塚として今に残る。戒名「忠徳院殿大圓義龍大居士」は後醍醐天皇より賜わったものである。