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第59代宇多天皇陵

2007年05月13日 | 天皇・皇后陵

第59代宇多天皇大内山陵

 京都で一番平安時代を感じることが出来る仁和寺を創建したのが仁和寺(888年に創建)で、法親王が住持し「御室御所」と呼ばれました。 御室というのは、「皇室の住居」という意味です。 朱塗りの中門をくぐると、御所の紫宸殿を移築した金堂の他、五重塔や観音堂等が見えてきます。 門跡寺院として格式が高く、また、「徒然草」「方丈記」など古典にも数多く登場します。そしてここ仁和寺の北側にあるのが宇多天皇陵です。 仁和寺の外周に沿って天皇陵への参道は続きます。

宇多天皇と陽成上皇

 876年、病身で政治に倦んだ父・清和の譲りを受けて貞明親王は陽成天皇として9歳で即位し、母・高子とその兄・基経の庇護の下に成長する。 政界の兄・基経と内廷を支配する妹・高子は連携どころか対立を深めた。 兄は学問好きの実直な性格、妹は自由奔放な人柄である。高子は当代きっての花形・在原業平を蔵人頭に抜擢する。業平は和歌は作るが才学は無く、基経に評価されるはずもない。陽成の乱行に業を煮やした基経は陽成を廃位し、皇族の長老・時康親王を立てて光孝天皇として即位させた。基経と光孝天皇は母同士が姉妹であり古くからの友人であり、その温厚で優雅な人柄は正史に「性、風流多し」と記されたほどである。基経は光孝を立てることにより群臣の総意を纏めることができ、存分に権力を振るうことが出来たが、光孝帝は死に臨んで第7皇子の源定省を次期皇位に就けることを望み、また基経の妹で尚侍・淑子(定省を養子にしていた)の政治力にも押されて承認せざるを得なかった。思いもよらず、王位についた光孝帝と宇多帝は、後に陽成上皇に罵声を浴びせられている。陽成上皇にしてみれば、格が違うというところだろう。

宇多上皇と醍醐朝

 醍醐朝は897年から930年までの30年余り続いたが、中でも延喜元(901)年から延喜九(909)年までの9年間は、道真を追放した時平が、国政に力を注いだ時期である。延喜元(901)年「日本三代実録」の完成、延喜二(902)年の荘園整理令の発布、延喜五(905)年の「古今和歌集」の編纂、延喜七(907)年の貨幣の改鋳と「延喜式」の編纂、目に見える形での律令制再建の動きが活発になっていたことを表している。法令の目的の一つは、王臣家や諸院、諸宮などの権門と地方の有力者が結びついて、地方の荘園が増加するのを食い止めることだった。時平自身、権門の一人であるから自分で自分の首を絞めるようなものだが、それを敢えてしなければならないというところに、当時の律令制の崩壊が見えるようである。効果のほどはともかく、若い時平の意気込みが窺われて、後世の人々の心を捉えたのかもしれない。  だが、時平の死でそれらのほとんどは挫折した。延喜十四(914)年、醍醐天皇が公卿から国司まで、官人らに政治に関する意見を募ったところ、前文章博士三善清行が意見封事を提出した。12箇条から成るこの意見は、地方政治の弛緩や奢侈に流れる風潮などを指摘したものである。けれども、この意見は現実の政治には反映されなかった。醍醐天皇は、父宇多上皇の享楽的な生活に影響を受け、政務より風流文事にいそしむようになっていたらしい。形の上では天皇親政ということではあるが、天皇が積極的に政治に参与しないばかりか、忠平らまでが時平の後を継ごうとはしなかったという。  

宇多天皇と藤原氏

 三条右大臣・藤原定方(父は藤原高藤)と中納言・兼輔(父は利基)であるが、ふたりは藤原良門の孫で従兄弟同士にあたる。 良門は栄華を極めた長良とは年の離れた弟にあたり、早死にしたために子息は将来有望ではなかった。 ところが定方(873-932)の同母妹・胤子(-896)が宇多天皇女御となり、醍醐天皇(885-930)をもうけたのである。 これにより一躍、高藤は三位となり内大臣に任ぜられた。 高藤の次男・定方も右大臣まで昇ったのであるが、この親子は温和で、従兄弟の中納言兼輔(877-933)とともに風流を好んだ。 中納言・兼輔に臣従した歌壇の第一人者が紀貫之である。 面白いことに、この3人を中心とした風流に集まった連中には、伊勢姫と醍醐天皇の弟・敦慶親王(二人の間には中務が生まれている)などがいる。

宇多天皇と伊勢姫

 伊勢姫は、藤原基経の娘・温子(七条の后)が宇多天皇の女御になった前後に出仕し、温子の相手をすることになります。 定子と清少納言、彰子と紫式部のような関係です。 伊勢姫は、女御・温子の弟の藤原仲平と兄の時平からも愛されますが、温子の夫である宇多天皇の寵愛を得て皇子・行明親王を産んだことにより伊勢生涯の名誉を得ることになります。 しかし後に、皇子を幼くして亡くし、伊勢がもっとも敬愛していた温子皇后が崩じ、その娘の均子内親王も世を去ってしまう中、敦慶親王(宇多天皇皇子)の寵を受け、一女・中務をもうけます。

宇多天皇と褒子

 六条河原院で宇多法皇と褒子が月夜の晩に仲むつまじく愛を交わしていた時、河原左大臣(源融)の亡霊が現れて宇多の腰にしがみつき、褒子は失神したという。 源融はもともと河原院の持ち主であったが、孫姫・源貞子を宇多の更衣として入内させている。そして寵愛を受けさせたかったこともあり、ここ河原院を献上したのであるが、宇多は源貞子をあまり寵愛しなかったために、亡霊として現れたという史実が残っている。 この話は、源氏物語の「夕顔」の巻きの素材として使われた話と考えられている。

宇多天皇と周子

 道長が政務に奮闘しかけているとき、土御門邸では倫子が身篭っていた。最初は道長との結婚に反対していた69歳の源雅信もご満悦である。こういうとき、身篭った妻を持つ主人は他に女を囲って遊ぶものであるが、道長はそれをしなかった。後に源高明の娘・明子を妻とするが、倫子と明子以外のところに通うことがなかった。道長の性格にもよるであろうが、二人の妻の愛らしさに飽きることもなかったのであろう。土御門邸でいささか手持ち無沙汰の道長は、久しぶりに東三条邸の詮子を訪ねた。当時の公卿の館は一町四方というから4千坪であるが、東三条院はその倍である。かの有名な嵯峨天皇の皇子・源融の六条院が一万坪というから丁度それに匹敵する。歩き慣れた邸内を行くと琴の音が伝わってくる。御簾越しにほのかな人影が見えたかと思うと琴の音が止み、「だめ・・・」という幼い声が聞こえた。詮子の命で男気から遠ざけられて育てられたその女性こそ宮の御方、つまり不遇の人生を送った源高明の姫君である。故実に明るく才長けた源高明は醍醐天皇の第十皇子で母は源周子(第58代光孝天皇の娘で宇多天皇の妹でもある)である。

 

 

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