清水寺
清水の舞台、さぞかし難工事であっただろうと思わせるその造りは「懸造り」といって特殊な木造柱組を編み出し、急峻な崖に作り上げたものである。高さは12m、舞台を支える柱数は78本。 で、その目的はというと観音様に舞楽奉納するための舞台である。奈良東大寺、薬師寺等のお寺では格別な法会には舞楽奉納を行うが、清水寺や奈良・長谷寺のような条件の場合は崖に張り出す形であらかじめ造っておくのである。 そしてこの能舞台の左右には楽人が演奏する楽舎といわれる小屋根があり、三方は崖で、本堂の十一面千手観音様ただひとりのための能舞台である。
広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ清水寺はいつでも観光客でいっぱいの名所です。 北側には「ねね様」が庵とした高台院があり、南側には六条・高倉天皇陵があります。 また西側の四条大橋と五条大橋に挟まれた一角は平家の面々が邸を築いた場所でもあります。 平清盛の泉殿、教盛・通盛邸、頼盛の母・池の禅師の池殿、平滋子が暮らした七条殿などなどが1000年前にはあったのですが、現在では京都国立博物館などができています。
清水寺の縁起はさまざまな伝本があり、『今昔物語集』『扶桑略記』などによれば、778年、大和国子島寺の僧・延鎮上人が、夢のお告げで霊泉を訪ねてたどりついたのが、今、清水寺の建つ音羽山であった。そこにいた行叡居士という修行者が、東国へ旅立っていった後、延鎮は霊木に観音像を刻み、草庵に安置した。 これが清水寺のはじまりという。 また、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂が延鎮より殺生の罪を説かれた逸話や、源義経と弁慶との逸話が残る舞台なども含め、清水寺は『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』、『梁塵秘抄』などの古典文学にも言及されており、 平安時代、既に多くの参詣者を集めていたことが伺われる。 清水寺は、長らく興福寺の支配下にあったが、本堂をはじめとする伽藍はたびたび火災にあっており、現在の本堂は1633年徳川家光の寄進による再建である。(撮影:クロウ)
真夏の本堂・舞台 夜桜と三重塔
清水寺近くのおしゃれなてんぷら屋 高台寺前の「ねねの小路」