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宇治陵

2007年05月27日 | 陵 古墳 墓 遺跡

宇治陵

 京都の南郊、宇治の木幡の地にある藤原氏の墓所は1877年、宮内省によって調査され、藤原氏出身の皇室関係者17陵3墓を「木幡陵」に治定し、のちにその陵域をさらに広げて「宇治陵」と改められましたが、どの塚が誰のものかは明らかではなく、案内板もありません。 塚は1号から37号までのブロックにわけられ、皇族以外の北家藤原氏(基経から頼通まで)の墳墓も17箇所含まれていて、1号陵がその総遙拝所になっているようです。 東に離れた37号墓は光孝天皇の在位時の関白藤原基経の墳墓、 35号墓は醍醐天皇の在位時の左大臣藤原時平の墳墓といい、北に少し離れた丘陵を登りつめた32号墓か33号墓が道長墓と伝承されているそうです。  また、37箇所の平安時代の陵墓として治定されている「宇治陵」は宇治古墳群に含まれていて、大きな盛り土は古墳時代のもの(金比羅山古墳・坊主山古墳、隼上り古墳、伊勢田塚古墳等)で200基余り存在し、小さな盛り土のものが、平安時代の墳墓とのことです。 というわけで、早速「宇治陵」に行ってみました。

 私が想像していたのは「宇治陵」といわれる一画に37箇所の小さな陵墓が整然と並んでいるものでした。 ところが想像に反して実際は、小さな陵墓が1km四方の中に点在しているといった具合です。 また、北家藤原氏の主流であり、皇后でもあった御方の墓であるのに墓石・墓碑といったものは何もなく、立ち入り禁止の門があるだけのなのには驚き、実質上、陵墓扱いをしていないところにはがっかりしました。 そういった中でなんとか37箇所のうちの13箇所を見つけ、 わかりやすいように地図に印を付けてみました。 再度訪れるときに効率よく廻れるようにというのが目的ですが、残りの24墳墓がこの地図のどこかにある・・・と思うと、探索制覇が至難の業であると同時に心がわくわくするのも感じています。  

15号地:最初に訪れたところで、住宅地の一区画40m平方くらいの墳墓で、立派な参道までついています。

 



16号地:両隣は住宅です。狭い階段をあがったところにある50坪くらいの墳墓。ほとんど偶然見つけたという感じ。

  

17号地:住宅地にある公園に隣接した墳墓。

 

18号地:住宅地にある公園に隣接した陵墓で17号の隣でもある。

 

19号地:石碑に刻んだ十九の文字が欠けていて読みにくい。

 

20号地:住宅に挟まれた50坪程度の墳墓。16号地と同じでじっくり探さないと見逃してしまいます。

 

21号地:ここの参道(50mほど)には苔が生えていて参拝する人はほとんどいないらしい。

 

22号地:地図のプロットに自信がありません。いたってわかりやすいところにありました。

 

24号地:狭い歩道の南端にある陵墓。二十四の字はほとんど見えず触診で確認。陵の大きさは住宅4区画分くらい。

 

24号から27号までの南北に走る狭い歩道

 

26号地:陵墓の大きさは不明

 

27号地:歩道を西に入った住宅地に挟まれた50坪ほどの小さな陵墓

 

28号地:ここを通り抜けると27号

 

28号の横に何号か不明の陵墓門がありました。

 

 寛弘2年(1005年)に藤原道長は宇治群木幡の地に浄妙寺三昧堂を建立した。 木幡は基経以来藤原氏の墓地であり、藤原道長は若い頃から兼家に従って木幡を訪れて、その荒廃ぶりに落胆している。 1004年に木幡を建立の地と決め、藤原行成に鐘銘を書かせて鐘を鋳造した。 そして10月のある日、藤原氏の公卿のほとんどが参集して天台座主覚慶を証者、前大僧正観修を導師として供養を行っている。 この日の願文は式部大輔大江匡衡と菅原輔正が作り、藤原行成が書した。 また堂の仏像は仏師康尚の作である。  御堂関白記では、この供養の願意はここに眠る父母、基経(貞信公記に忠平が何度か木幡の父基経の墓を詣でたことが記されている)以来の先祖の菩提の為であり今後一門の人々を極楽へ導くためであると述べている。 9世紀までは葬儀の場が重要であり、葬所はさほど重要ではなかったことが忠実の談話を記した「中外抄」に残っているが、藤原実資は一族の骨をひとところに集めると子孫繁栄をもたらすと「小右記」で主張していることから、道長が実資に一目置いて意見を採用し、墓所に寺を建てるに至ったのである。 そして1017年、長男頼通を大臣に任ずる前日に木幡浄妙寺に行って父母、姉詮子の墓を詣でている。  こうして一門埋骨の処である木幡に浄妙寺・法華三昧堂を建てた。 二年後には釈迦・多宝如来を安置する多宝塔の供養会を行った。 この頃墓所に寺堂を建てることは初めてであり、先例を重視するこの時代において道長の独創性は評価に値する。 これ以降天皇家の墓所に一対一で法華堂が建つようになり、これは道長の浄妙寺を受け継いだものである。

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