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橋姫伝説と貴船神社

2007年05月07日 | 平安時代

貴船神社と橋姫神社

 宇治の橋姫伝説と言えば、平家物語の剣の巻に登場する物語です。 丑の刻参り・・・。 ある公家の娘が嫉妬のあまり貴船神社へ詣でて鬼になることを願った。そして七日目に貴船の神託があり、姿を変えて宇治川に二十一日間浸かれば鬼と化すという。 そこで女は髪を松脂で固めて五つの角を作り、顔には朱、身体に丹を塗り、頭に鉄輪をかぶってその三本の足に松明をつけ、さらに両端に火をつけた松明を口にくわえて京の南へと走り、宇治川に浸かって生きながら鬼となったという。 その後、橋姫は阿倍晴明によって封じ込められ、源頼光四天王の渡辺綱らによって退治された。そして祀ってくれるならば京を守護すると言って宇治川に身を投げて龍神となったという。

 また、一方で伝説の橋姫は、愛しい人を待ち続けるか弱き女性ともいう。この悲劇のヒロインは「源氏物語第45帖 橋姫」に登場する大君と中の君である。 橋姫は宇治拾帖の初巻で、でてきます。  桐壷帝の第八皇子で、光源氏の父である桐壷帝の皇子でありながら、不遇な人生を送っていた「八の宮」殿を中心に、宇治での物語が綴られており、「宇治十帖」とも呼ばれています。二人の娘「大君(おおいぎみ)」「中の君」と、その異母妹「浮舟」に、「匂宮」「薫」とが、複雑にからんで多彩な関係を展開します。 薫と大君、匂宮と中の君、の四角関係は、大君の死によって崩壊し、中の君をめぐっての危険な三角関係に発展していきます。しかし、薫は亡き大君へのやり場のない想いがたえず漂い、それを悲しくかみしめるのでした。

 ここ貴船神社は京都の鞍馬山のまだ奥に位置しています。 山国地域の常照皇寺からやっと車が1台通れるような山道を走ること1時間、やっと到着した貴船神社は、いかにも清らかな気持ちで望まなければ・・・と、思わせるような雰囲気がただよう秘境にあります。 ところが驚いたことに、すごい人の波です。 というのも叡電鞍馬線というのがあり、京都御所のちかくから、鞍馬まで伸びているのです。 そして鞍馬駅からは貴船神社まで徒歩となりますが、ひんやりしたマイナスイオンを浴びれば苦にならない感じです。 貴船川沿いの山道には多くの旅館が軒を並べ、鴨川の納涼床と同じ床が貴船川に敷き詰められて、ここでの夕食はさぞかし風情をかもしだすことだろうと感じました。

貴船神社

 

 

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北朝第1代光厳天皇陵

2007年05月07日 | 天皇・皇后陵

北朝第1代光厳天皇山国陵

 光厳天皇山国陵と後花園天皇後山国陵は京都市内から車で約1時間北へ向かった山国の、『常照皇寺』というほとんど人の訪れそうもない寺内にあります。 今回は京都の嵐山→保津峡→清和天皇陵を経由して行ったのですが、常照皇寺は山国地域を代表する寺院なのです。(撮影:クロウ)

 

 

 常照皇寺の正式名称は『大雄名山万寿常照皇禅寺』と言い『臨済宗天龍寺派』に属する禅寺だそうです。寺院によると創建されたのは、南北朝時代、北朝側の光厳天皇が、この山深き里に草庵を結ばれたのが『常照皇寺』の始まりで、天皇没後、光厳の菩提を弔うため、光厳を開山として禅刹に改め常照万寿皇禅寺とされたといいます。 その後、戦国時代には、明智光秀が周山城建設の為、木材を集めを目的に周辺の社寺を取り壊し、それ以降衰退の道を辿り荒廃していきます。 江戸時代に入ると、後水尾天皇・徳川秀忠、からの援助を受け復興され、明治時代には、皇族寺として保護され復活していきます。

 

 開山とされている光厳天皇は、南北朝時代を生き抜いた天皇です。 父・第93代後伏見天皇と母・西園寺寧子(広義門院)の第一皇子で、後醍醐天皇の皇太子にたてられた。 後醍醐天皇の笠置出奔により三種の神器なしで即位します(北朝初の天皇)が、隠岐に流されていた後醍醐天皇が京都に戻り鎌倉幕府を倒すと、光厳は、討幕側に捕らえられて1333年廃位となります。 その後1336年に足利尊氏に請われて執政上皇に擁立され、後醍醐討伐の院宣を発し、弟の豊仁親王を光明天皇として皇位につけると、自らは院政を敷いた。院政は15年に及び、1351年には治世は後村上天皇(後醍醐天皇の第7皇子)に移った。 この時に弟・光明上皇、嫡子・崇光上皇、廃太子・直仁親王とともに拉致された。 そして出家後、南軍に幽閉されること5年、1357年に帰京を許され、嵯峨小倉に隠凄した。1362年には巡礼のたびに出、法隆寺、高野山を経て吉野に入り、かつて自らを拘禁した後村上天皇に対面し、種々懐述したという。晩年には山国の常照寺に隠凄し52歳で崩御。 

 

 

第102代後花園天皇後山国陵

 さて、光厳天皇とともに、ここ山国に祭られている御方に後花園天皇がいます。 後花園天皇は、伏見宮第三代・後崇光院(貞成親王)の第一皇子で母は源幸子(敷政門院)である。 第101代称光天皇の病状が悪化すると、次期将軍足利義教の支持で後小松院の仙洞御所に移り、称光天皇が崩御すると即位した。

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