主張
「レッド・パージ」
名誉回復と国家賠償を今こそ
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日本共産党員やその支持者であるというだけの理由で「企業破壊者」などのレッテルを張られ、職場を追われた「レッド・パージ」被害者の人権救済申し立てを受け、日本弁護士連合会(宇都宮健児会長)があらためて被害者の名誉回復と補償などの措置を政府に勧告しました。2008年10月に続き2回目の勧告です。
長崎や横浜の弁護士会でも勧告がだされており、国家賠償を求めた裁判も始まっています。申立人の救済にとどまらず、3万人ともいわれる犠牲者すべての名誉回復と補償が急いで求められます。
歴史の誤りをただす
「レッド・パージ」は、戦後の日本が、連合国軍総司令部(GHQ)の支配の下、事実上アメリカの単独占領下に置かれた1949年から50年にかけ、労働運動が活発だった公務員や民間の職場などで無法・不当な解雇や免職処分を受けた事件です。有無をいわせず職場から追い出された人は、苦しい生活のなか解雇の撤回を求め、粘り強くたたかってきました。
日弁連の勧告は、日本共産党員かその「同調者」であることだけを理由にした「レッド・パージ」について、「思想・良心の自由及び結社の自由の侵害であり、重大な人権侵害行為であった」と指摘しています。それは文字通り、歴史の誤りへの断罪です。
「レッド・パージ」は、米占領軍と日本政府による労働運動の右傾化と民主運動の弱体化をねらった日本共産党への大弾圧でした。日本政府はGHQの指示を絶好の機会として、閣議決定まで行い、使用者・経営者を扇動し、解雇を強行しました。
勧告は、この歴史的経過について、レッド・パージは「日本政府も自ら積極的にその遂行に関与し、または支持して行われた」として、日本政府の責任を明らかにしています。08年の日弁連勧告は自公政権の麻生太郎首相に提出されました。麻生政権は勧告にこたえませんでした。今回の勧告は、民主党政権の菅直人首相にあてられています。菅政権が2度目の勧告にどうこたえるかが問われます。
日弁連勧告が前回も今回も、52年のサンフランシスコ条約で日本が形のうえでは独立を回復した後、「日本政府として…被害回復措置を容易に行うことができたにもかかわらず、今日までこれを放置してきた」とし、「国の責任は重い」とのべていることは重大です。
これまで日本政府は、「レッド・パージ」が占領軍による超法規的な命令だったことをたてに解雇された人たちの救済を認めてきませんでした。人権侵害を救済すべき司法も、その責任を果たしてきませんでした。そうした誤りはいまこそ正されるべきです。
民主主義をすすめるため
弁護士会という日本の司法の一翼を担う法律家の公的組織が、再三の勧告で「レッド・パージ」被害者の救済を求めたことは重く受け止められるべきです。憲法にもとづき民主主義を前にすすめるために、歴史の誤りはあいまいにされるべきではありません。
同時に日弁連の勧告が、職場の思想差別が克服されていない現状をあげ、思想信条の自由、法の下の平等の保障を「現代的な人権課題」としていることも重要です。「レッド・パージ」被害救済の今日的な意義も、ここにあります。
(出所:日本共産党HP 2010年9月4日(土)「しんぶん赤旗」)
日本共産党 知りたい聞きたい
レッド・パージってなんですか?
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〈問い〉 レッド・パージとはなんですか? どれくらいの人が職を追われたのですか?(千葉・一読者)
〈答え〉 レッド・パージとは1949年~50年、アメリカ占領軍の指示で政府や企業が強行した日本共産党員とその支持者にたいする無法・不当な解雇のことです。推定で4万人以上が職場を奪われました。
戦後、日本を占領したアメリカは、労働運動や民主的運動の発展、49年総選挙での日本共産党の躍進(35人当選)、中華人民共和国の成立(同年10月)などに直面して対日政策を180度転換させました。48年12月のA級戦犯容疑者釈放につづき、戦争協力者約20万人の公職追放を解除する一方、49年4月には、「団体等規正令」を公布して、共産党員を登録制にし、戦前の特高警察の流れをくむ公安警察を復活させるなど、民主的な勢力にたいする凶暴な弾圧にのりだしました。
とくに、職場や労働組合への共産党の影響力をいっきょに壊滅させるため、松川事件(49年8月)など一連の謀略事件をでっちあげ、国民に共産党への恐怖心をあおりたてました。
レッド・パージは、こうした情勢のもとで3つの段階を経て強行されました。49年の定員法による官公庁の「行政整理」のなかで1万人以上、民間の企業整備のなかで2万人以上の活動家が追放され、つづいて一方的な「不適格者リスト」によって、民主的な教員1100人が教壇から追われました。
朝鮮戦争の勃発(50年6月25日)を前後し、連合国軍最高司令官マッカーサーは共産党中央委員の公職追放を指令するとともに公然とレッド・パージを指示し、政府は「共産主義者等の公職からの排除に関する件」を閣議決定しました。こうして、新聞、放送を皮切りにした文字通りのレッド・パージはやがて電力、石炭、化学、鉄鋼、造船、国鉄、電通など全産業に広がり、「企業の破壊者」「暴力分子」の烙印(らくいん)を押され職場から追われた犠牲者は1万3000人を超えました。
レッド・パージは国民の基本的人権を明確にうたった憲法をふみにじった無法な弾圧でした。いま各地で犠牲者が名誉回復と国家賠償を求めて立ち上がっているのは当然です。多くの労働組合などがこれに協力しているのは、ふたたびこんな無法を許さない保障をつくる上で重要な意味をもつからです。(喜)
(出所:日本共産党HP 2005年4月2日(土)「しんぶん赤旗」)
「レッド・パージ」
名誉回復と国家賠償を今こそ
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日本共産党員やその支持者であるというだけの理由で「企業破壊者」などのレッテルを張られ、職場を追われた「レッド・パージ」被害者の人権救済申し立てを受け、日本弁護士連合会(宇都宮健児会長)があらためて被害者の名誉回復と補償などの措置を政府に勧告しました。2008年10月に続き2回目の勧告です。
長崎や横浜の弁護士会でも勧告がだされており、国家賠償を求めた裁判も始まっています。申立人の救済にとどまらず、3万人ともいわれる犠牲者すべての名誉回復と補償が急いで求められます。
歴史の誤りをただす
「レッド・パージ」は、戦後の日本が、連合国軍総司令部(GHQ)の支配の下、事実上アメリカの単独占領下に置かれた1949年から50年にかけ、労働運動が活発だった公務員や民間の職場などで無法・不当な解雇や免職処分を受けた事件です。有無をいわせず職場から追い出された人は、苦しい生活のなか解雇の撤回を求め、粘り強くたたかってきました。
日弁連の勧告は、日本共産党員かその「同調者」であることだけを理由にした「レッド・パージ」について、「思想・良心の自由及び結社の自由の侵害であり、重大な人権侵害行為であった」と指摘しています。それは文字通り、歴史の誤りへの断罪です。
「レッド・パージ」は、米占領軍と日本政府による労働運動の右傾化と民主運動の弱体化をねらった日本共産党への大弾圧でした。日本政府はGHQの指示を絶好の機会として、閣議決定まで行い、使用者・経営者を扇動し、解雇を強行しました。
勧告は、この歴史的経過について、レッド・パージは「日本政府も自ら積極的にその遂行に関与し、または支持して行われた」として、日本政府の責任を明らかにしています。08年の日弁連勧告は自公政権の麻生太郎首相に提出されました。麻生政権は勧告にこたえませんでした。今回の勧告は、民主党政権の菅直人首相にあてられています。菅政権が2度目の勧告にどうこたえるかが問われます。
日弁連勧告が前回も今回も、52年のサンフランシスコ条約で日本が形のうえでは独立を回復した後、「日本政府として…被害回復措置を容易に行うことができたにもかかわらず、今日までこれを放置してきた」とし、「国の責任は重い」とのべていることは重大です。
これまで日本政府は、「レッド・パージ」が占領軍による超法規的な命令だったことをたてに解雇された人たちの救済を認めてきませんでした。人権侵害を救済すべき司法も、その責任を果たしてきませんでした。そうした誤りはいまこそ正されるべきです。
民主主義をすすめるため
弁護士会という日本の司法の一翼を担う法律家の公的組織が、再三の勧告で「レッド・パージ」被害者の救済を求めたことは重く受け止められるべきです。憲法にもとづき民主主義を前にすすめるために、歴史の誤りはあいまいにされるべきではありません。
同時に日弁連の勧告が、職場の思想差別が克服されていない現状をあげ、思想信条の自由、法の下の平等の保障を「現代的な人権課題」としていることも重要です。「レッド・パージ」被害救済の今日的な意義も、ここにあります。
(出所:日本共産党HP 2010年9月4日(土)「しんぶん赤旗」)
日本共産党 知りたい聞きたい
レッド・パージってなんですか?
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〈問い〉 レッド・パージとはなんですか? どれくらいの人が職を追われたのですか?(千葉・一読者)
〈答え〉 レッド・パージとは1949年~50年、アメリカ占領軍の指示で政府や企業が強行した日本共産党員とその支持者にたいする無法・不当な解雇のことです。推定で4万人以上が職場を奪われました。
戦後、日本を占領したアメリカは、労働運動や民主的運動の発展、49年総選挙での日本共産党の躍進(35人当選)、中華人民共和国の成立(同年10月)などに直面して対日政策を180度転換させました。48年12月のA級戦犯容疑者釈放につづき、戦争協力者約20万人の公職追放を解除する一方、49年4月には、「団体等規正令」を公布して、共産党員を登録制にし、戦前の特高警察の流れをくむ公安警察を復活させるなど、民主的な勢力にたいする凶暴な弾圧にのりだしました。
とくに、職場や労働組合への共産党の影響力をいっきょに壊滅させるため、松川事件(49年8月)など一連の謀略事件をでっちあげ、国民に共産党への恐怖心をあおりたてました。
レッド・パージは、こうした情勢のもとで3つの段階を経て強行されました。49年の定員法による官公庁の「行政整理」のなかで1万人以上、民間の企業整備のなかで2万人以上の活動家が追放され、つづいて一方的な「不適格者リスト」によって、民主的な教員1100人が教壇から追われました。
朝鮮戦争の勃発(50年6月25日)を前後し、連合国軍最高司令官マッカーサーは共産党中央委員の公職追放を指令するとともに公然とレッド・パージを指示し、政府は「共産主義者等の公職からの排除に関する件」を閣議決定しました。こうして、新聞、放送を皮切りにした文字通りのレッド・パージはやがて電力、石炭、化学、鉄鋼、造船、国鉄、電通など全産業に広がり、「企業の破壊者」「暴力分子」の烙印(らくいん)を押され職場から追われた犠牲者は1万3000人を超えました。
レッド・パージは国民の基本的人権を明確にうたった憲法をふみにじった無法な弾圧でした。いま各地で犠牲者が名誉回復と国家賠償を求めて立ち上がっているのは当然です。多くの労働組合などがこれに協力しているのは、ふたたびこんな無法を許さない保障をつくる上で重要な意味をもつからです。(喜)
(出所:日本共産党HP 2005年4月2日(土)「しんぶん赤旗」)