uparupapapa 日記

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シベリアの異邦人~ポーランド孤児と日本~連載版 第28話「ワルシャワ市民蜂起」

2023-02-01 14:08:25 | 日記

 

 1944年6月22日ソビエト赤軍がバグラチオン作戦を決行、ドイツ中央軍団が壊滅的敗北を期し、敗走を始めた。

 

 7月29日以降、モスクワの放送局からワルシャワ市民に対し、決起を呼びかけるラジオ放送を流し続けた。 

 赤軍は7月30日、ワルシャワまであと10km地点まで迫っている。

 

 ラジオから赤軍がすぐそこまで迫ってきたとの情報を得、ワルシャワ国内軍は赤軍の位置から進撃からワルシャワ到達には時間はかからないと判断、赤軍の呼びかけに呼応して、8月1日ワルシャワに於ける武装決起を実行する事を申し入れた。

 

 しかしその7月30日、実は危機感を抱いたドイツ軍が反撃、赤軍は甚大な損害を被っていた。更に補給が行き詰まり、結果赤軍は進撃をそこで停止する。

 

 だが赤軍側は進撃停止の情報を故意に隠匿し、ポーランド国内軍に伝えなかった。

 

 

 その事実を知らされていない国内軍は8月1日17:00 約5万人が参加、決起を開始してしまう。

 そして重要官庁、駅、橋をいち早く確保、ドイツ軍の拠点である兵舎、補給所を襲撃した。

 

 決起時間は後に『W』と呼ばれ、サイレンと共に黙とうを捧げる日となった。

 

 

 

 決起開始後、重要拠点確保の報を受け、決起指導者のタデウシュ・コモロフスキはワルシャワ市民に対しラジオ電波でこう呼びかけた。

 

 

 

 

 

 親愛なるワルシャワ市民よ!

 

 

 

 諸君は市内の異変にもうお気づきかもしれない。 

 

 承知の通り、再び抑圧からの解放のため

多くの同志が立ち上がっている。

 父が、兄が、弟が、友が、隣人が

あなたのため、戦いの渦中へ身を投じている。

 私たちの手から無残に奪われてしまった

愛する祖国と自由を再び取り返すため、

持てる力とありったけの勇気を振り絞り、

自らの生も死もいとわない

苦難の道を突き進んでいる。

 

 誰のためか?何のためか?

 

生きてきたあかしを残すため、

砕かれた誇りを取り戻すため、

生まれ育ったこの地に咲く花々と

営みを蘇えらすため、

そして何よりも大切な母、愛しい妻や恋人、

何としても守りぬかねばならぬ我が子たち!

 今まさに銃をとり、歯を食いしばり、

銃弾の飛び交う中、敵陣に向かって

突っ走ろうとしているのだ!

全ては守るべきものがあるからだ!

 では何故なぜ今立つのか?

 

 それは気の遠くなるほど

長い苦難の道のりを歩み続け、

ようやく終わりの扉に辿り着いたからだ!

 

 その扉の向こうは自由なのか?

 明るい未来なのか?

 誰もが望む希望なのか?

 それは誰も分からない。

 

 だが私は確信する!

 

 扉の向こうの世界は、その先に続く道は、

自分で切り開いてゆくべきところだと。

 父祖が築いてきた脈々と流れる栄光と挫折と喜びと悲しみと

つつましくも幸せな暮らしだった昨日を、そして今日を

誰もが望む輝ける明日へと変え、

後に続く者たちにその力と望みを託すために。

 

 

 親愛なる市民よ!

 

 我が同志たちは立ち上がっている。

後に続く者たちよ!

自らの成すべき役割を自覚し、

今できる事に全力を尽くしてほしい。

 これを聞く諸君の力は決して微力なんかではない!

 

 神が授けた尊い奇跡を起こす鐘を鳴らすのだ。

 高らかに打ち鳴らせ!歓呼の声を聴け!

暗雲を吹き飛ばす嵐を巻き起こせ!

決して後悔してはいけない。

 立つときは今なのだ!

 希望の扉はすぐ目の前にある!

 

 

『神が我らと共にあるならば、

誰が我らに逆らうか!』

 

 最後に諸君に問う。

 

 祖国は誰のものぞ!!

 

 

 

 

 

 市民は奮起した。

 

 

 

 

 ヨアンナはフィリプやイエジキ部隊からの情報で、決起の計画を事前に知らされていた。

  

 

 作戦決行を受けて、市民の参加を呼び掛け流されるラジオ放送。

 多くの市民がその声に耳を傾けた。

 改めてそのラジオ放送を傍受して、ヨアンナ夫妻とエヴァ夫妻は、互いに助け合いこの戦局を乗り切ろうと固く誓い合う。

 

 しかし総じてこの決起は一糸乱れぬ統一した行動がとれたとは言えない。

 

 ラジオの呼びかけの前の決起の主体となる国内軍の足並みに、あまりに落差があり過ぎた。

 武器を持つ市民は限られ、丸腰のまま集まる者たち。

 

 決起の時間17:00に間に合わない者、図らずも予定時間前に戦闘が始まってしまった地区さえもあった。

 

 また決起当時、ラジオ等の呼びかけを聞いた者以外の一般市民は勿論決起が始まる事を知らされておらず、戦闘が始まって初めて知った者も多かった。

 

 

 そんな状況ではあったが、市民の士気はすこぶる高い。

 ドイツ軍の占領支配はそれほど過酷な状況だった。

 

 

 ワルシャワ市内には、治安部隊を中心とした12000名の駐留ドイツ軍がいた。 

 しかしそのうちの戦闘実働部隊はわずか1000名のみだった。

 

 決起当時、武器を持たない国内軍は、数で圧倒しても目標のうち兵舎と補給所のみしか占領できなかった。

 貧弱な武装ではやはり無理があったのだ。

 

 それでも急襲した占領地から武器と小火器と軍服を奪い国内軍に配られ、多少の改善はできた。

 それは決起のメッセージに呼応し、多くの市民が国内軍に参加した結果成された賜物である。

 ドイツ軍の反撃に備え、バリケードを築き張り巡らす。

 その中にはもちろん国内軍のフィリプと、イエジキ部隊のメンバーでもあるヨアンナの姿もあった。

 当初フィリプはヨアンナの参加に猛烈に反対する。

 夫婦初?の険悪な夫婦喧嘩を展開した。

 だがヨアンナは一歩も引かず、強引に補給・伝達係として参加した。

 

 ヨアンナの働きは朗らかな笑顔と、優しく伝わる美しい声で一般市民を含む蜂起軍の兵士たちの心の支えとなる。

 

 戦時中ドイツ軍、連合軍に共通した奇跡のヒット曲、『リリーマルレーン』のように彼女の笑顔は周囲を照らし、蜂起軍兵士ひとりひとりのささくれ立った心と、圧倒的に不足している補給物資への不満を埋め、大いに士気を上げる効果があった。

 

 彼女の言葉は兵士を勇気づけ、凛とした振る舞いは明日への生きる希望をもたらした。

 

 

 

 一方ドイツ軍には赤軍との戦闘に於いて度重なる敗走が続き、すでにワルシャワ市民の反乱を一機に鎮圧する余力は無い。

 

 苦渋の決断であったが、拠点を地区ごとにひとつずつ根気よく鎮圧していく策を取らざるを得なかった。

 そんな状況の中で、ドイツ軍の鎮圧軍司令官エーリヒ・フォン・デム・バッハSS大将はヒトラーの命を受け、蜂起した国内軍の鎮圧を徹底した。

 ワルシャワ市内の破壊を忠実に実行すべく、作戦を決行する。

 

 (参考までにほぼ同時期、ヒトラーはドイツ軍西部戦線のフランス、オランダ、ベルギーでのノルマンディー上陸作戦以降の連合軍反抗戦闘で次々に敗北したとの報を受け、占領していたパリからの撤退命令と共に、司令官に付帯命令も出している。

 「パリを火の海にせよ」と。

 そして撤退完了の報告を受けた時、ヒトラーは「パリは燃えている

か?」とわざわざ命令貫徹確認報告を求めていた。

それ程敗走する時の占領地域での徹底破壊にこだわる危険な変質者でもあった。)

 

 

 興味深いのは、ワルシャワ市内が決起によっていきなり市内全域が地獄と化した訳ではないと云う事。

 

 ワルシャワ市内は大きく分けて8つのセクターに分類される。

 ドイツ軍と交戦したセクターのひとつが殲滅されるまでの間、他の地区は飢餓に悩まされず比較的食料事情は悪くなかった事実が知られている。

 

 

 8月3日、ドイツ軍側は近隣に駐屯していた部隊をかき集め臨時戦闘団を編成、西から攻撃を開始した。

 攻撃部隊の中には素行の悪いカミンスキー旅団やディルレヴァンガーSS特別連隊が含まれ、彼らは戦闘には目もくれず、略奪、暴行、虐殺に励んだ。

 そのさまはすでに軍隊と呼べる組織に非ず。

 血に飢えたおぞましいけだものであった。

 

 しかし皮肉にも、戦闘より略奪に明け暮れていた結果、その分ドイツ軍の反攻は遅れ、時を稼ぐ結果となる。

 また、そのまともな人間の行為とは思えぬ汚辱に満ちた行状を目撃し、市民は怒りを新たに結束、戦意高揚の効果が生まれた。

 

 7日。激しい市街戦が続き、国内軍占領地が分断され、包囲されていたドイツ部隊が解放された。

 19日国内軍猛反撃。電話局占領。

 120名のドイツ兵捕虜となる。

 カミンスキー旅団やディルレヴァンガー部隊に対する報復として、国内軍は捕虜のうち彼らを全員その場で処刑した。

 

 敵意と憎悪。

 

 空腹と不安と危険と恐怖。

 

 ドイツ軍も蜂起軍も明日を生きる保証はない。

 特に蜂起軍を構成する国内軍も市民も、生死ギリギリの中で生きてきた。

 

 次第に物資の不足が深刻化する中、攻撃を受け仲間が死に、支配エリアを奪われ必死に反撃を繰り返す。

 

 家は焼かれ瓦礫と化す。

 

 追い詰められ、戦力が無に近くなる。

 

 

 

 

 一方ソ連赤軍に追従していた第一ポーランド軍は国内軍支援のため、ヴィスワ川の渡航を許された。

 

 しかしその頃には物資も戦力も補強された赤軍は余裕があったにも拘らず、自らはまったく動かず力も貸さず静観した。

 

 やむなく第一ポーランド軍は、必死に国内軍レジスタンスへ手持ちからできるだけの支援をしたが、全く不足していた。

 彼らは国内軍よりちょっとマシな程度の装備。

 支援の機動力は持たされない。

 彼らの目に瓦礫と燃え盛るワルシャワ市街が見え、涙の中に口惜しさから唇から血が滲むほど噛み締めたという。

 

 ここで新たに登場した第一ポーランド軍とは何者?

 

 第二次世界大戦のキッカケとなるドイツ軍のポーランド西半分への侵攻。

 その後ドイツ・ソビエト不可侵条約をドイツが一方的破棄、二分されたポーランドの東国境を越え、ソ連支配地域へ怒涛の侵攻を決行する。

 その破竹の勢いにたちまちポーランド東側ソ連支配地域全土が飲みこまれ、更に余勢をかってソビエト本国領内まで攻撃の手を伸ばした。

 しかしやがて無敵だったドイツ軍の勢いにも陰りが見られ、退却に退却を重ね、ついにソビエト領内から駆逐、更に元の支配地域、ポーランド領の東半分をソビエトが占領すると、ソビエト政府によるルブリン傀儡政権が打ち立てられた。

 そして直ぐさまソビエト赤軍にうち従う軍隊が組織された。

 それが第一ポーランド軍である。

 

 

 

 憎むべき事に、ソ連はアメリカ、イギリスが承認したポーランド亡命政府の息のかかる国内軍の支援を申し出たが同意せず、ドイツ軍のワルシャワ鎮圧に手を貸した。

 ワルシャワ市民に蜂起を焚き付けておきながら裏切り、ワザと見殺しにしたのだ。

 

 やがてワルシャワ市内の国内軍は敗色が濃くなり、街は瓦礫の山となる。

 弾薬も枯渇し、もはや援軍の希望も消え去った9月18日、ようやくアメリカ軍の空輸が始まった。

 

 110機の輸送機から編成され作戦は実行された。

 

 しかし、その頃はすでにせっかく国内軍が確保したセクターがドイツ軍によって鎮圧され、蜂起軍に渡ったのはわずか15機分の物資のみである。

 空輸された物資はほぼドイツ軍の手に渡った結果、作戦の意味を成さなかった。

 

 遅い!遅すぎる!!

 

 しかも国内軍にも市民にも空輸作戦は事前に知らされず、空輸された物資確保の方策がとられることもなかった。

 この方面からも失敗だった。

 

 その結果、ワルシャワ市民の消沈した士気が再び燃え盛る事はなかった。

 ゲットー蜂起の時と同様、絶望が市民を支配する。

 ユダヤ人が降伏したとき、彼らはどうなったか?

 彼らの思考は停止した。

 

 細々とドイツ軍の目をかいくぐり、供給されていた食料も最後まで抵抗を貫いていたセクターまで行き届くこともなく、飢餓は最悪の状態を迎えていた。

 市内に張り巡らされた下水道は、ドイツ軍により障害物を置かれたり毒ガスが注入されていたため、流通や作戦遂行には使えず孤立を深めた。

 

 ヨアンナ夫婦が立てこもる北部エリアが主たる戦場となり、食料も弾薬も尽きかけると、ヨアンナの眼前には繰り広げられる悲惨な惨状が見られた。

 

 幼少時のシベリアの飢餓の記憶が呼び起こされる。

 

 今日の食事は一度だけ。

 ジャガイモ一個を細かく切り刻み、塩で味付けされただけのスープが総てである。

 

 それでもまだまだマシであった。

 

 他の人たちの多くは、ここでは決して言えないものまで口にした。

 そしてもしこの戦いで生き残れることができても、記憶にさえ残してはいけない物までも。

 

 やがてドイツ軍の物量に圧倒された国内軍は鎮圧され、蜂起は終息に向かった。

 8月31日国内軍は北側解放区放棄、9月末にはほぼ壊滅する。

 1944年10月2日蜂起指導者タデウシュ・コモロフスキの降伏を鎮圧軍司令エーリヒ・フォン・デム・バッハが受け入れ蜂起は終結した。

 結果蜂起参加者はテロリストとして処刑。

 レジスタンス、市民合わせ22万人が戦死、若しくは処刑された。

 そしてワルシャワ市内はドイツ鎮圧軍により破壊を徹底、ヒトラーの厳命は忠実に守られた。

 

 しかしその後、イギリス政府がラジオを通じ、レジスタンスへの処刑は戦犯と見なすとの放送を流し警告した。

 ヨーロッパ戦線全体の戦局を見通し敗色が濃いと悟ったドイツ軍将校たちは、自分たちの保身から、処刑を途中で中止した。

 

 間一髪で処刑から逃れたフィリプ。

 ヨアンナとの生還を神に感謝した。

 

 一般市民として身を隠すように生き抜いたエヴァ夫妻とイエジキ部隊の残存組織がヨアンナを守り抜き、国の英雄フィリプを助けたのだった。

 

 1945年1月12日ようやく進撃してきた赤軍は進撃と同時にレジスタンス幹部を逮捕。

 1月17日ワルシャワを表向き解放し、新たな支配者となる。

 ポーランド自由主義政権の可能性の芽を摘むため、鎮圧傍観と弾圧の裏切りに終始した。

 

 

 彼らは解放者ではなく、ドイツに代わる悪魔の征服者だと知る市民たち。

 

 

 

 

        つづく