このイラストは私のblogの読者様であり、
イラストレーターでもあられる
snowdrop様に描いていただいた作品です。
#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…
(snowdrop様のblogリンク先)
Snowdrop様
素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。
第35話 大阪会議
大久保利通は追い詰められていた。
維新政府から次々と要人が下野し、
反政府の反乱が起きるなど、
不満が国中に充満している。
征韓論で西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、
江藤新平、副島種臣らが下野。
やむを得ず維新政府の残留組、
岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・大隈重信
伊藤博文・片岡健吉らが
政府を再編する。
しかし6月政変の影響は大きく、
下野し、即座に帰郷した西郷らが、
鹿児島に私学校結成。
県政の壟断問題が起きる。
一方退助、象二郎らは
1874年(明治7)1月12日愛国公党を結成、
民撰議院設立建白書を提出した。
同年1月14日、土佐の不平武士による
岩倉具視暗殺未遂事件が起き、
更に2月江藤新平の佐賀の乱が勃発した。
追い打ちをかけるように
台湾出兵が議論されると、
征韓論を否定しておきながら、
台湾への出兵は矛盾であるとして、
4月18日、征韓論に反対していた
長州閥トップ、木戸孝允までもが
参議の職を辞し下野した。
台湾出兵とは
1871年(明治4)
年貢を輸送していた琉球御用船が
台風による暴風で遭難、
台湾南部に漂着、遭難した乗組員は
先住民の集落に拉致される。
しかし遭難者たちは現地先住民との
意思疎通の不備から集落を逃走。
同年12月17日先住民は
逃走者54名を斬首した。
その事件を受け、
台湾蕃地事務都督西郷従道が
独断で出兵を強行、
征討軍3,000を出動させた。
6月3日には事件発生地域を制圧、
現地を占領した。
孤立を深める大久保は、
事態の打開を模索しなければならない。
この時援軍が現れる。
当時官界から実業者に転身していた井上馨が、
この情勢を憂い、混迷した政局の解決には
大久保には木戸・板垣との連携が必要であると、
盟友・伊藤博文と仲介役を買って出た。
大久保はわたりに舟と仲介策に応じ、
大久保・木戸の会談の斡旋を依頼、
自ら大阪へ向かう。
ここにきて
井上と同じく官界を去り実業界入りしていた
五代友厚の申し出があり、
五代邸が大阪会議の準備会談の場として使われた。
この五代邸に大久保や伊藤らは下準備に
一か月もの間何度も往復している。
五代は実に献身的に協力した。
彼もまた国を憂う有志だったのだ。
これを受け井上馨は、
山口に帰った木戸を大阪に招聘、
更に自由民権運動の小室信夫・古澤滋らに依頼し、
東京にいた退助も招く。
1875年(明治8)1月22日、退助・木戸が会談。
井上・小室・古沢の同席のもと、
民選議院設立が議題に上った。
つづく29日、大久保と木戸が会談、
木戸の政府復帰が決定された。
ここまでの会談では
大久保・退助に直接の接触はない。
三者三様の思惑を抱いた会談であった。
大久保は退助が掲げる民撰議院には消極的であった。
何故なら富国強兵殖産興業のため
一貫した政策を安定して継続するには、
薩長による藩閥政治が必要である事。
自由民権運動は不平武士のうっ憤のはけ口であり、
現状に於いて本格的政党政治への移行は、
小党分立が想定され、国政が混乱、政策遂行の遅滞を招く。
以上の理由から退助との会談には二の足を踏んでいた。
しかし、退助の民権運動が過激化、
先鋭化するのを放置するより、
政府に取り込んでおいた方が、
運動を分断、コントロールできると踏んだ大久保は、
木戸とセットでの復帰を望んだ。
木戸は退助と復帰する事により
大久保の専横に対抗できるとの思惑から、
退助の復帰を強く望んでいた。
会談の結果立憲政体樹立や
三権分立、二院制議会など、
政府改革の要求が認められる成果をみた。
これにより退助は、政府に協力する決断をする。
2月11日、木戸が井上と伊藤が同席の上
大久保と板垣を北浜の料亭に招待した。
この三者会談を大阪会議という。
ただし、この会議という名の会談は、
政治の話は一切していない。
退助が登場するこの手の会談が
どのようなものだったかは、
読者の皆様はもう想像できるだろう。
但し、この時すでに彼らは明治の元勲であり、
お互い相手の急所を直接攻撃する様な
無粋で卑怯な真似はしない。
話し合いがついて、
仲直りしようと云うのだ。
かといって喧嘩別れした彼らが、
幼稚園や小学校の仲良しクラブ然とした
会話で満足する?
まさかね。
ただ、ここで退助は圧倒的不利である。
彼、脇が甘く隙が多いから・・・。
頑張れ!退助!!
事前二者会談で合意していたとは言え、
ここで退助と大久保が顔を合わせるのは
あの日あの日以来である。
会場である料亭の部屋には
先に木戸と大久保が到着していた。
少し後からやってきた退助。
大久保と視線が合う。
暫く見つめ合うふたり。
まず大久保が、
「よう退助どん、久しぶり。
元気にしちょったか?
そんなに見つめられたら、惚れてしまうがな。」
「大久保どんは関西人か?」
とボケと突っ込みで会談がスタートした。
「いや、噂に違わず退助どんは元気よのう。
随分勇ましい演説をぶっこいたそうじゃなかか?」
「いえいえ何をおっしゃる!
大久保どんの熱弁には敵(かな)いませぬぞ!
ワシャいつもタジタジじゃき。」
「そんなこつあらへんがなぁ~、
おいどんはいつも退助どんに何か言われると
グサッ!とくるきに。」
「大久保どん!今宵おはんの話言葉はおかしいぞ!
何故に鹿児島と土佐と関西が混じっちょる?」
「ソゲンコツなか。」
どうやらもう酒に酔っているみたいだ。
木戸が口を挟む。
「ここ大坂でも、退助はんは偉い人気のようじゃの。
大阪日報にも勇ましい図が載っておったぞ。
ほら、こんな風に。」
と、前のめりになり、
人差し指を突き上げて演説する姿勢を真似た。
「ワシャそんな恰好はしちょらせん!
ワシが人前でしゃべるときは、東海林太郎のように
直立不動じゃき。」
注:東海林太郎=昭和の大歌手。
直立不動の姿勢で歌うのがトレードマーク。
因みに作者の私は東海林太郎と島倉千代子が歌う
「すみだ川」が得意です。(知らんがな)
「そうかぁ?いつもの退助はんをみていると、
そうは見えんぞ。
おはんは議論に熱がはいると、
オーバーアクションが凄いけん。」
「何をおっしゃる!
木戸はんだって、凄い顔で迫るじゃなかか。
ほら、こんな風に。」
(顔を想像してみてください)
「まあまあ、熱が入った時はお互い様。
あん時(征韓論で対立した時をさす)を見ろ、
互いに掴みかからんばかりじゃったろう。」
「とにかく、アクションと甘いマスクは
退助どんが一番じゃな。
聴衆の男どもならいざ知らず、
女性ファンも多いと聞くぞ。
黄色い声援が飛び交ったそうじゃなか。」
「演説会に女はおらん!
話を盛り過ぎじゃ!
誰がそんなガセネタを?」
と顔を赤くした退助が反論するが、
しかし間髪入れず、木戸が
「そうそう、ファンレターが毎日山のように届くと
聞いたぞ。羨ましいかぎりじゃ。
ハハハハハ!」
それを受けて退助が
「何をおっしゃるウサギさん、
そんならあなたたちと人気比べ。」
木戸が
「向こうのお山の麓まで・・・・って、
何を歌わせるんじゃ!
まあ飲め!
今宵はその辺の武勇伝をとことん尋問するぞ、
覚悟しちょれ。」
大久保も負けずに、
「暴露合戦じゃ!
お互い恥ずかしい話で盛り上がろうぞ!
まあ、もう一杯!」
状況と雲行きが怪しくなってきたので
退助が話題を変える。
「木戸はんと大久保どんは
ワシに隠れて昨日まで
連日囲碁三昧だったそうじゃの。
何でワシにも声を掛けん?」
(三者会談の前、木戸と大久保は
何度も囲碁をいそしんでいた。)
「だって退助どんの囲碁は弱いじゃろ?
そう聞いたぞ?」
「そげな事ないきに。
結構強いぞ!」
「ほぉ、そげなら、いっちょ勝負するか?」
「おう、いくらでも受けてたつ!」
ボロ負けの退助であった。
「今宵は酒が入っていたから
こんなもんじゃろ。
この辺で許してやる。」
「それが負けたもんの云う言葉か?
負けん気の強いやっちゃ!」
「今後はまた閣議で勝負じゃ。
そん時にゃ、コテンパンにしちゃるけん。」
「何をおっしゃるウサギさん」
堂々巡りの酒宴であった。
日本のその後の方向性を決めた
重要な三者会談だったが、
実はこんな具合の低次元な歓談に終始した。
(・・・って、
作者の知能と想像力と
会話能力が低次元だからじゃろ?
しかし、人は何故大阪に行くと
関西弁を話したがる?)
つづく
つづく
大阪会議が始まる前
圧倒的不利な退助を応援する作者😆🌸✨ナイス!
退助と大久保の
顔を見合わせてからの会話から
ボケと突っ込み😆🎵
退助が演説した時の話が
また面白く😆🌸✨🎵
土佐弁?関西弁?
面白い😆🌸
「すみだ川」
知らなかったけれど
YouTubeで探してみたら、あって
聴きました😆👍
直立不動ね🎵
木戸と、その後の会話も
恥ずかしい話
楽しませてもらいました😆🌸✨🎵
その後、囲碁で
退助が実は弱かったという😄
>日本のその後の方向性を決めた
>重要な三者会談だったが、
>実はこんな具合の低次元な歓談に終始した。
真面目過ぎた討論よりも
それは、それで必要な時もあるけれど
笑いを含めた
楽しい場面になるのは
いいですね〜😆🎵
>しかし、人は何故大阪に行くと
>関西弁を話したがる?)
電線しやすい からかな?😄
私、関西生まれ だけれど
人生の半分と少し、大阪離れて
また最近、大阪戻ってきて
確かに、関西弁の話し方に釣られそうになる😆🌸
釣られて関西弁で話したくなるのかも?😄
作者は土佐弁が、お上手🎵
物語の人物に、なりきる🎵
素晴らしいと思う😆🌸✨
また続きを楽しみにしています😆🎵🌸✨
こんにちは😃
私は北海道生まれで北海道育ちです。
縁あって今は東京在住ですが、
方言は難しいと思います。
今回一番苦心したのも方言です。
鹿児島弁も土佐弁も山口の方言も(長州弁と言うのでしょうか?)
TVの幕末時代劇でしか接した事がありません。
大阪の関西弁も大体お笑い系でしか耳にしないので、
どの方言もメチャクチャだなぁ、と自覚しています。
でもこの辺が私の限界です。
実はこの回は一昨日下書きが完成していました。
でも、会話の内容が気に入らず、昨日、今日の早朝と
書き直しています。
その結果がこの程度だったので、力不足を感じています。
その分、次回で挽回しようと決意を新たにしています。
正直、snowdrop 様が大阪在住とお聞きしていましたので、
この回の言葉遣いにはご不満であろうと思いながらも
適当に誤魔化すような内容にしてしまいました。
その点、自己嫌悪に陥っています。
だから言い訳をするように、「何故大阪に来たら関西弁で話したくなるのか?」
と、UPして数時間後に付け加えました。
実に姑息な手段で逃げてしまったと思っています。
時代考証を無視した名称や表現を登場させているのは、
ワザとです。
お読みいただく皆様に色々感じて貰いたいのと、面白さを狙っています。
でも、方言をいい加減に扱うのは不遜だと自覚しています。
ご不快に思われた方々に、申し訳なく思います。
snowdrop 様におかれましても、どうぞお許しいただけたら、
と思います。
私にはまだまだ知識も実力も不足しています。
こんな未熟者ですが、今後もお付き合いいただけたら、
幸いに思います。
次回はもっと良い内容をお見せできるよう、最善を尽くして頑張ります。
(とは言っても、連載のペースを落とすつもりもありませんので、
限界もあります。その辺もどうぞご容赦を)
先程、改めてsnowdrop 様の blogを遡って読み返しました。
私などが軽々しく言及できませんが、過去に体験した悲しい出来事と、
困難な状況をお察しし、エールを贈らせていただきたいと思います。
私も心から応援させて頂きます📣
先程の私の返信コメントには
宛先のsnowdrop 様の名称が抜けていましたね。
大変失礼いたしました。
どうもこの返信欄を上手く使いこなせません🤷♂️
因みにカラオケ🎤で時々「すみだ川」を歌う事はありますが、
いつもそんな古い歌ばかりではありませんので、誤解なきように。
といっても、70年代、80年代が中心のニューミュージックなど
様々なジャンルですので、若い人には十分古い歌ばかりですが。
(知らんけど)
再びコメント失礼します😊🌸
uparupapapaさん
言葉遣い、方言、
時代考証を無視した名称や表現など
私に至っては、全然
不快なんて思ってないですよ‼️
創作なら、そのほうが面白さが増して
私は凄くいい(≧∇≦)b🌸✨
と思っております🎵
私自身は方言 分からないので😅
大阪出身であっても例外で
松山に長くおりましたが
大阪って私から言わない限り
誰も気が付かないぐらい
むしろ驚かれるぐらい
なので😆
今、大阪にいても浮いてます😅
馴染めないですね😓
子供の時からも浮いてます😅
長く関西の人と接していると
釣られそうには、なるけれど〜
私自身は、染まろうとは
あまり思わず
珍しいかもしれません😄🌸
uparupapapaさんは
北海道の方だったのですね( ^ω^ )🌸✨
北海道には私
一度も踏み入れたことないので
私にとっては未踏の地ですが
素敵なところですよね😆🎵
この板垣退助の話が
教科書に載るほど史実に基づいたもので
それを忠実に書かれているものであれば
”事実とは違うことを書く”
そうなれば
問題になるかも しれないけれど
そうじゃなくて
史実に沿いつつも
”創作物語”というのであれば
それは
uparupapapaさんの世界観で書かれて
全然、問題ないと私は思います‼️
もし「事実と違うんじゃないか!」
と訴える人が、いるなら
『これは、あくまで創作物語です。』
と言えば
問題ないと思うし😄🎵
プロフィールのところにある
メッセージを書く欄に
創作であること
加えておいても、いいかも しれないですね😊🌸✨
また記事の冒頭か、末尾に小さな文字で
例として『これは、フィクションです』とか
ま、そういう感じで書いていれば😄
作者にとっても
読者にとっても
問題に、なることは ないのでは?と
私は思います😊🌸✨
uparupapapaさんの判断で決められてください😊
僭越ながら語りましたが
あくまで参考までに😆🌸✨
だから
uparupapapaさんの自由な表現で書かれて
大丈夫ですよ😆👍
創作とは言え
当時のこと、色々調べられて
歴史やら文化やら背景など
人物の背景も性格なども考えられて
書かれていると思うし
たくさんの時間と精神力も描けて
ここまで素晴らしいものを
書かれているのですから
今後も、楽しみにしております😆🎵🌸✨
私のブログ
遡って読んでくださって
また応援
ありがとうございますm(_ _)m🎵🌸✨♡
すみだ川の歌🎤
uparupapapaさんの18番なんですね?😆
80年代以降〜だったら分かるかな(笑)😄
ご返信いただきありがとうございます😊
北海道には北海道の方言があり、
今、東京にいますが、時々指摘されます。
私は故郷の方言に特別なこだわりは無く、
かと言って 消すつもりもありません。
でもsnowdrop様からアドバイスをいただき、
こだわり方とスタンスを変えて行こうかと思います。
大阪ご出身の方でも千差万別なのですね。
私は永く北海道で過ごしてきたので、大阪や松山のような温暖の地に憧れます
いつか松山城を訪れ、道後温泉に入ってみたいと人生の目標にしています。
大阪の本場の串カツやお好み焼きを食べに行きたいと思っています。
snowdrop 様にいつもお力をいただくだけで無く、
私からもお返しできるような応援者のひとりになるべく、
頑張る所存でございます。
ありがとうございました😊
方言は、なかなか
指摘されても難しいですよね〜😣
生まれ育ったもの、
何十年と染みついているからね
その人の個性だと思っております😆🎵
是非、機会があれば
大阪も松山にも来てみてください😆🌸✨
その頃 私は、大阪案内、出来るぐらい
おそらくなってないなぁ(笑)😄
今でも30年ぶりの大阪になるので
もう初めてと同じなので(^^ゞ
生まれ育った場所の変わってないところなら
憶えているところ
あったりするけれど
もう、ほとんど変わってしまっているのと
生まれ育った場所から
遠くではないけれども
離れた場所に住んでいるので
知らない場所での生活ですね😄
uparupapapaさん
お気持ち嬉しいです(*´ω`*)🌸🎵
ありがとうございます🎵🙇🌸✨
引き続き、お話楽しみにしております😆🌸✨🎵
ありがたい貴重ないアドレスいただき、ありがとうございます😭
早速試してみます。
私は普段 blog upはPCを使い、
返信はタブレット、職場の休み時間の閲覧はスマホを使っています。
タブレットもスマホも扱いが未熟で、まだまだ初心者です。
こんな時の助け舟は本当にありがたいですね。
心から感謝いたします。
そして今後もアドバイス宜しくお願い致します。🙏
ありがとうございました😊
方言を上手く使いこなせませんが、
この物語の終結まで使用する事になりそうです。
北海道にいた時、地図や統計年鑑を眺めるのが好きだった私は、
愛媛や大阪の地図もよく眺めていました。
一年の半分が冬の北海道にいると、
温暖な地に憧れます。
特に歴史的名勝や、思い入れのある聖地は尚更です。
ただ訪れるのではなく、事を成し、
意義を持った訪問ができたらな、と思います。
ただの自己満足でも構わない。
今後の生き様に達成感を添えた仕事ができたら、と思います。
私の作品をこうまで正確に分析し、評価していただいたsnowdrop 様に
何とかして報いたい。
それが正直な気持ちです。