uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(39)

2021-03-24 03:32:50 | 日記











このイラストは私のblogの読者様であり、
イラストレーターでもあられる
snowdrop様に描いていただいた作品です。


#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…
 (snowdrop様のblogリンク先)

Snowdrop様
素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。











   第39話 「板垣死すとも自由は死せず」

 
 1882年(明治14)
伊藤博文と大隈重信の確執の結果、
明治十四年の政変が起きる。
 参議の大隈は、国会の早期開設を唱えていた。
しかし時期尚早派の同参議、伊藤博文との
主導権争いに敗れ下野したのだ。
 大隈は自由党を結成した退助に次いで、
1882年3月14日、新党結成趣意書を発表、
4月16日、東京明治会堂で
立憲改進党の結党を宣言した。
 初代党首(総理)は大隈重信、
副総理に河野敏鎌、
これに自由党から分裂し
立憲改進党の立党に合流した
都市士族民権派、沼間守一、
尾崎行雄(父行正は断金隊2代目隊長であり、
本人は国会議員在位世界最長の記録保持者)、
前島密(郵政創設の父)など、
草々たるメンバーが参加し、
盛大に結党式が行われた。

 これで自由党と立憲改進党の
二大政党が出そろい、
政府と対峙する事となる。

 新たなライバル政党の出現により、
俄然奮起した退助は、
全国遊説を精力的に行い、党勢拡大に努めた。

 そんな情勢の中、
1882年(明治15)4月6日、
『岐阜事件』が起きる。

 東海道遊説旅行で遊説中に、
暴漢・相原尚褧(あいはらなおぶみ)
に左胸を刺されたのだ。

 詳しくは、

退助が午後6時頃、
自由党懇親会の演説を終え、
午後6時半頃、
帰途に就こうと
中教院の玄関の階段を下りた。
その時、「将来の賊」と叫びながら
暴漢・相原が、刃渡り9寸(約27cm)
の短刀を振りかざし、
襲い掛かったのだった。
 退助はとっさに相原の腹部に肘で
当身(あてみ=肘鉄砲)を喰らわす。
(退助は呑敵流小具足(柔術)を会得していた。)
 しかし総てをかわし切れず
負傷してしまった。

 この時、あの有名な
「板垣死すとも自由は死せず」
の言葉を発したと各新聞は報じている。
事件後すぐに発刊された
4月11日付『大阪朝日新聞』は、
「板垣は、
『板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ』
と叫んだ」と記されており、
他の報道機関でも
これを否定する報道は一つも無いばかりか、
事件現場の目撃者ら及び、
兇漢の相原自身もこれを否定していない。

 退助には平素から自由主義に命をかける
覚悟があった故に、
咄嗟の場であの発言が出来たのだった。
 


 後の取り調べで犯人の相原が
警察に脾腹が痛いと云うので、
調べて見ると黒いアザになっていた。
 それ程退助の肘鉄砲は
強力な反撃であった。

  一方、退助を詳しく診察すると、
命に別状は無いが、
左胸、右胸に各1ヶ所、
右手に2ヶ所、左手に2ヶ所、
左頬に1ヶ所の、計7ヶ所に傷を負っている。



 その日の夜、
東京の自由党本部に板垣遭難の第一報が入った。
「板垣が殺された!」
それがその内容である。
 一報を受けた大石正巳は、
直ちに象二郎にその事を伝えた。

 唖然とする象二郎。

 激しく狼狽し、
男泣きの涙を拭おうともせず、
退助の許、岐阜に馳せ参じようとした。

 第二報で無事だと知ると、
その場にへたり込む。
 暫く立ち上がることもできないほどであった。
 この第二報を受け自由党総代として
谷重喜が岐阜へ向かう。
 更に大阪の幹部党員十数名、
高知の片岡健吉、植木枝盛、
その他愛知、土佐からも
自由党志士が多数終結した。
 設立したばかりのライバル
立憲改進党総理大隈重信でさえ
使者を岐阜へ送った。

 4月7日、
政府首脳にも板垣受難の報が入る。
政府は直ちに閣議を中止。
山縣有朋が明治天皇に事件を上奏した。
 それに対し明治天皇は、
『板垣は国家の元勲なり。
捨て置くべきにあらず』
との御辞、御見舞金三百円の下賜を命じ、
直ちに勅使を派遣した。

 この日、各地の民権主義者の集結で、
さながら岐阜は革命前夜のようになり、
この状態は明治天皇勅使到着まで続いたという。

 4月15日傷が癒えた退助は、
(ええ!もう??!!)
幹部たち主催の演説会に出席、
演説と懇親会では
群衆3000人が集まった程の盛況で、
その関心と人気の高さを物語っていた。

 その事件の余韻が冷めやらぬ12月、
明治13年12月2日号の朝野新聞には、
唯、余(退助)は死を以て自由を得るの
一事を諸君に誓うべき也。
   板垣退助
との記事が掲載されている。

 相原尚褧は愛知県東海市横須賀の
小学校の教員であり、温和で寡黙な性格、
政治運動には関心が薄かったが、保守主義に傾倒、
自由党を敵視し、退助の殺害を計画していた。

 後に退助は
自ら国事犯の相原尚褧に対する
助命嘆願書を提出した。
 これにより相原は
極刑を免れ無期懲役となった。

 後日、(もちろん数年後のことだが)
東京芝区愛宕町の(当時の)退助の寓居に
刑期を終え、改心した相原が訪れる。

 退助は、
「この度は、つつがなく罪を償はれ
出獄せられたとの由、
退助に於ても恭悦に存じ参らす。」
と、温かい声をかけた。
 相原は畏まり
「あの時の事は
今更申すまでもございませんが、
更にその後も小生の為に幾度も
特赦のことを働きかけて下さった
御厚意につきましては、幾重にも
感謝している次第であります。」
と礼を述べた。



 退助は相原に、  
「併(しか)しながら若(も)し此後、
退助が行う事にして
如何にも國家に不忠なりと思はるゝことあらば
、その時はこう斬らるゝとも、刺さるゝとも
君が思ふが儘に振舞ひめされよ」



 (もし、この退助が今後、
国家に不忠な行為をしたと思うなら、
私をもう一度刺してくだされ。)

と云っているのだ。

普通自分を刺した相手に
そんなこと言う?


 それが板垣退助という男だった。



 蛇足ながら、
退助が全快し、東京に戻った時の
象二郎のハシャギぶりは尋常ではなかった。

 
 その喜びようは、
妻の鈴でさえ、嫉妬するほどである。

「ありゃ!退ちゃん!!
ほんまに退ちゃんか?
幽霊とチャうんか?」
「何を云う!こうして生きて帰ったじゃろう?
ワシゃ不死身じゃき。
チャンと足も有るじゃろ?」
「確かに足はあるが・・・・。
足はあっても、
顔に締まりが無か。」
「じゃかましか!
締まりがないのは生まれつきじゃ!
・・・って、
おまんにだけは謂れとうなか!
何が締まりの無い顔じゃ!
こう見えてワシは不死身の
『梅干し食べて酸ッパマン』じゃぞ!
ほれ!!!キリリと引き締まった
正義のヒーローの顔をとくと見よ!」
と、梅干しを食べた後の
酸っぱい顔😖をしてみせた。
(しかしその顔は、
ポポポポとした時の顔だった。)
一同呆れ、しばし無言。
 気まずい雰囲気が漂い、
その空気に耐えきれず
植木枝盛が口を挟む。

「後藤はんは、第一報で先生が死んだと聞いて
えらく取り乱しておりましたぞ。
百里四方に轟く程、大きな声で
泣き叫んでおりました。」
「こら!枝!!
何、でまかせを云う!
ワシがいつ泣き叫んだ!」

顔を真っ赤にし、
あからさまに狼狽する象二郎であった。

 退助は、そんな我を忘れ
アタフタする象二郎を初めて見た。

 全快祝いを「むろと」で行った時も、
お約束の、有り金全部供出の儀式から始まり、
恥ずかしい話のオンパレードだった。

 しかし、今回の宴会は、
明治天皇から下賜された見舞金三百円がある。

の筈だったが・・・、
そんなものいつまでも後生大事に
懐にいれている退助ではない。
 とっくに党の活動費に消えていた。

ううん、残念!
やはり懲りない面々であったか。

女将のお菊の苦労もいかばかりか・・・。

 つづく



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2 コメント

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Unknown (snowdrop)
2021-03-24 22:43:52
uparupapapaさん

こんばんは😃

ライバル政党が出現したのですね😱

それにより…というか
事件が起きて😣
退助が刺されてしまう事件が😫

その事件の詳細
細かい点まで
記録が残ってるんですね😲

そして
タイトルにも なっている
『板垣死すとも自由死せず』
退助には命をかける覚悟が、
いつでもあった
ということ。

その覚悟は凄いですよね❗

自由は亡びない
その強い意志
それも凄いですね❗


”板垣が殺された”
という報道は
退助を支持している人たちは
もちろんのこと
象二郎にとっては、
居ても立っても居られなかった
だろうね😫


退助が、さらに凄い人物だった
そう言えるところは
やはり
自分を刺した相手に対して
憎んだり復讐したりってことをせず
助命嘆願書まで提出して
おまけに
もし今後、国家に不忠な行為を
したと思うなら
もう一度、私を刺してくれ
などと言えるなんて
退助の人柄というか
凄さというか
素晴らしい人物だったんだなーと
改めて思いますね🎵


退助の怪我が治ったというか
全快した時の様子
面白かったです😆🎵🌸✨


>こう見えてワシは不死身の
『梅干し食べて酸ッパマン』じゃぞ!
ほれ!!!キリリと引き締まった
正義のヒーローの顔をとくと見よ!」
と、梅干しを食べた後の
酸っぱい顔😖をしてみせた。
(しかしその顔は、
ポポポポとした時の顔だった。)


この場面、いいね(≧∇≦)b🌸

『梅干し食べて酸ッパマン』🎵

ドクタースランプ
アラレちゃん だったかな?😄
その名ゼリフ😆🎵

酢ッパマンを知らない人も居るから
梅干し食べた後の酸っぱい顔
と説明入れるところも
いいと思います😆


天皇からもらった見舞金も
活動資金に消えちゃったのですね😄
なんとも退助らしい😄



話の終盤
終わりが近づいてきている
ちょっぴり寂しい気が…
次なる話も期待して
楽しみにしています😆🎵🌸✨
返信する
Unknown (uparupapapa)
2021-03-25 06:14:36
snowdrop様

おはようございます😃

いつもコメントありがとうございます😊

岐阜事件の記録は、その詳細をネットで検索できます。
本当はもっと書き記したいのですが、
物語の本質から外れてしまうのと、
進行が遅くなるので割愛しました。

この物語も終盤に差し掛かったのは確かですが、
どうしても描きたいエピソードが多すぎて
進行が遅れがちになっています(^^;

予想より最終回までの回数が増えてしまいそうです。

ドクタースランプアラレちゃんの
キャラをご存知で良かったです(^^)

この場面も本当は、「酸っぱい顔にしたら
キリリと締まって見えるだろ?」
との説明的なセリフを入れようか迷ったんです。

どうやら私の意図が伝わったようで、とても嬉しく思います♪

退助の懐具合に関しては、後日別の回で触れますが、
段々逼迫し、追い込まれます。
自分の財産を全て自由民権運動に捧げ、
暴漢に遭っても決して怯まず、
最後まで国家の事を思う政治家なんて
私は他に知りません。

明治天皇からの信任も厚く、
大隈重信に対する不信感と、退助に対する全面的な信頼は
退助が如何に大人物だったのかを如実に表しています。
(この件(くだり)も詳しく描きたいところですが、
また進行が遅れるので迷っています。)

話がダラダラと続き、
スピード感のある物語に仕上げる当初の目標は
達成できませんでしたが、こうなってしまった以上、
悔いのない作品にしようと、気持ちを切り替えています。

snowdrop 様の応援コメントにいつも助けられ、
力をいただいております。


次回のupはもしかしたら
いつもより多少遅くなるかもしれません。

でも全力でご満足いただける作品を
お見せできるよう頑張ります。

いつもありがとうございます😊
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