1938年(昭和13)5月、戦時統制を目的とした『国家総動員法』が施行される。
この法律により、日中戦争総力戦のため、政府が国家に於ける全ての人的・物的資源を統制運用する旨が規定された。
これは日中戦争早期講和失敗により、泥沼化・長期化する事となった事態に対応する施策である。
近衛首相は「この戦争、俺のせいか?」との思いも強く、自身の持つ社会主義思想を実践に活かす、いわばやけくそ的推進の部分も見られる。
後に(戦後)この法律が治安維持法と並ぶ天下の悪法としての代名詞を冠される事となったが、これは戦争遂行を何としても維持しなければならない(おっ始めたからには絶対に負ける訳にはいかない使命と責任を負った)軍部と、企画院首脳の思惑が一致した施策であった。
企画院首脳の思惑?
実は企画院、東京帝大卒業後、京都帝大に進学して以降、左翼思想に傾倒していた近衛首相の意向に沿った人事が色濃い。
企画院メンバーの中には、左翼思想の他、進歩的発想を持った者たちが多く登用され、後の共産党活動家やリーダーとして活躍したものも多く含まれている。
故に左翼的政策を国家統制の名の下、大っぴらに実行できる下地を利用したとも言えるのだ。
もちろん秀則のように思想的背景とは無縁の者たちが大多数を占めていたが、それでも革新的発想を実行できる人材の牙城であったのは間違いない。
企画院ができる少し前、2.26事件が起きているが、この事件とも深い関りがあった。
と云うのもこの事件、軍部内の主導権争いであり、皇道派が統制派に対して勢力巻き返しのために起こした右翼クーデターである。
この結果は東条などを中心とした統制派が勝利を収めたが、実はどちらが勝っても軍部が政権(実権)を握るよう、仕組みが整っていた。
クーデターに負け、多くの将兵が処断されたが、それに同情的な近衛が大赦を画策するほど、当時の右翼と左翼には垣根が薄かったとも言える。
思想は180度違うが、国家統制による平等な分配を目指すという点に於いて、両者は一致しているからである。
(実際2.26皇道派の掲げた主張は、戦後GHQの施策が進めた革新的政策である『財閥解体』や『不在地主制度の廃止』など、当時の革新的政策と驚くほどよく似ている。GHQは後にレットパージ(共産主義者公職追放)を実行するだけあって、決して左翼などではないが。)
国をどうするか?その方法論は右翼も左翼も革新もなく、国家の発展を進める際の障壁となる旧態依然とした格差や、社会矛盾を正さなければ発展が望めない時の改革の施策は大差ないのかもしれない。
以上のことから意外なことに日中戦争の最中の政府内は、同床異夢の異なる勢力がしのぎを削って主導権を握ろうとする不安定な集合体であった。
こんなどんどん暗くなる統制的社会情勢の中、百合子が第3子を産む。
またも男子であり数日後、『康三』と命名する。
三男で健やかに育てとの願いから健康の『康』の字と三男の『三』から康三。
三番目の息子ともなれば、命名も多少安直になっても仕方ない。
僕は勿論喜んでいるが、心の中のどこかに(次は女の子でも良かったな)との思いがよぎった。
満面の笑みを浮かべて喜びを表現しているのに、勘の鋭い百合子は、
「ホントは女の子が良かったですか?」と大胆にも聞いてくる。
家の中、やんちゃな男の子が二人で縦横無尽に駆け回る環境に居たら、気が休まる暇はない。
だからつい、そういう想いが湧いてくるのも確か。
「イヤイヤ、決してそんな事はない!こんなに玉のようにかわいい男子を産んでくれて、心から感謝しているよ!ありがとう。
そして百合子、でかした!」
そう言って労う僕。
その心に嘘がないのもホントの気持ちである。
それを聞いて百合子は水色の笑みを浮かべた。
新生児の康三を飽きもせず、ずーっと眺める秀彦と早次。
「康三、いつも寝ているね。つまんない!」
「早く起きて僕の顔を見てくれないかなぁ~」
「ダメですよ、起こしちゃ!赤ちゃんは寝るのと泣くのがお仕事なんですからね。
それに今はまだ生まれたてだから、起きていても目は見えていないのよ。
だから見ているようで、秀彦も早次も見てはいないのです。
だからね、そっとしておきましょうね。」
ウン!と頷くふたり。
でも無言のままいつまでも可愛い弟を眺め続けるのだった。
そんな平和で幸せな影山家とは裏腹に、秀則の職場には突然の災害級の嵐が吹き荒れた。
企画院事件である。
企画院と軍部と公安のパワーバランスが崩れ瞬間、企画院から次々と逮捕者が出たのだ。
それも、その波は二度に渡って。
一度目は1938年10月、京浜工業地帯労働者研究会の一斉検挙(世に言う「京浜グループ」事件)これを第一次企画院「判任官グループ事件」という。
二度目は1940年10月、企画院発表の「経済新体制確立要綱」が赤化思想として攻撃され、原案作成にあたった中心的な企画院調査官および元調査官(高等官)が治安維持法違反容疑で逮捕され、検挙者17名の第二次企画院「高等官グループ」事件。
一度目に検挙された判任官と二度目の高等官の力が削がれ、近衛内閣のブレーンである政策実行部隊の企画院解体(1943年)のキッカケとなった。
そもそも企画院は国の重要な政策の企画・実行策定を担う人材の集まりであり、特に予算や法のエキスパートである官僚の発言力が強く、その分野においては素人である軍部は主導権を握れないでいた。
だが、それでは官僚のひとり舞台だったかと云うとそうではない。
官僚に対抗できるもうひとつの勢力が存在したから。
その勢力とは財界。
当時の日本は財閥が資本を独占しており、三井・三菱・住友・安田・五代の資本力、工業力等が実際の産業や国策の実行を支えていた。
そしてその財界と結託していたのが内務省。
軍部は官僚に実質的に追従する立場にいて、企画院の政策遂行には協力的だったが、そこに待ったをかけたのが財界と治安維持を司る内務省(公安)勢力という図式だった。
1940(昭和15)第2次近衛内閣が提出した「経済新体制確立要綱に関する企画院案」に対し、小林一三商工大臣らの財界人らが「赤化思想の産物」であると非難、企画院はアカの巣窟と断じ対立の挙句、商工次官として実質的官僚の代表だった岸信介が更迭される。
そして原案は骨ぬきとなり、更に平沼内務大臣の方針によって企画院調査官・職員が共産主義者として検挙されることとなった。
ただこの事件により共産主義者が排除されるという組織変容はあったが、官僚の持つ主導権はまだ健在であり、後の動きとして太平洋戦争後半の敗色が見え始めた1943年(昭和13)、「軍需会社法」によって企業の利益追求を事実上否定、企業目的を利潤から生産目的に政策を転換させるという財界に対する画期的勝利を得た。
その直ぐ後(1943年)の企画院廃止、一年後に敗戦を迎える。
そして省庁改変を経て形を変えながら経済官僚はGHQの公職追放でもほぼ生き残り、戦前の強力な統制政策を転換する。
そして行政指導・許認可制度、優遇税制・政策減税、予算手当てや補助金などを駆使、大蔵省・通産省・経済企画庁に渡って戦後の国家を牛耳る事となるしぶとさを見せた。
それら企画院の大騒動を尻目に、秀則は着々と自分の足場を固めていた。
1939年(昭和14)仏印へ約二週間、1940年(昭和15)3月タイへ二、三週間、更に朝鮮・中国まで足を延ばし企画院技師兼鉄道調査員の資格で視察した。その時は軍部から参謀本部の小森田中尉が同伴している。
何故参謀本部が?
それは秀則に思想的背景が見当たらないとはいえ、企画院技師としてマークされていたから。
それともう一つ。
今後の戦争の行方によっては、鉄道輸送が成否を決する可能性が高く、作戦の策定に大きく作用するかもしれないため。
実際この後も企画院事件の余波を受けて、高等官グループの元職員である満鉄調査部員が検挙されている。
このことから影響は同調査部にも波及。これを満鉄調査部事件という。
国家統制と治安維持の名の下、企画院メンバーは徹底的に監視の対象とされたのだった。
だが秀則はこの機会をチャンスと受け取り、各国、各地域の実情を意欲的に見学した。
それは後の鉄道行政に生かすべく、俯瞰的視点を養う必要があったから。
決してこの視察は物見遊山ではないのだ。
ここからは余談になる。
太平洋戦争(大東亜戦争)勃発後の世界では、南部仏印地域での日本軍の侵攻は目覚ましく、予想を超えた勢いで進軍した。
そこで問題になったのは、映画でも有名になった『泰緬鉄道』建設に軍部がどう関わるか?等の課題を想定し、秀則がせっかく戦時下での鉄道建設計画の立案を任されたのに、その計画の下準備等が生かされなかった事。
物資輸送の動脈確保が、如何に戦争の作戦遂行の死命を制するかが重要なのだから。
なのに実際の歴史を見ると、インパール作戦等、物資補給(兵站)の失敗は明らかである。
というか、この作戦に於いては、参謀本部ははなから兵站輸送を想定していない。
『兵站は現地調達を旨とする』とし、パラシュート部隊に対し、補給路が設けられてはいないのだ。
その結果は歴史が示す通り。
作戦に参加した兵の中から夥しい程の餓死者を出し、作戦は失敗している。
秀則がいくら輸送路の充実確保に奔走しようとしても、作戦参謀に無謀な作戦を策定する無責任な者が居れば、傷ましい結果を産む。
秀則の不幸は軍部の中の有能な人物と出会えなかった事。
せっかくの鉄道利用の治験を活かせず、多くの犠牲者を出してしまった。
これらは1940年当時の秀則から見た『後の世』の話。
話を秀則が無事視察を終え、帰宅した時に戻す。
「ただいま。」
「あなた、お帰りなさいませ。」と百合子。
「お父さん、お帰り!」
「秀彦、早次、元気にしてたか?」
「うん!ボクたち、ケンカしないでちゃんと康三のお世話をしてたよ!」
「そうか?偉いな!」と云いつつ、(本当か?)と確かめるように百合子に目をやる。
残念ながら百合子は視線を逸らす。その様子から子供達の留守中を察した。
だがそれには触れず、
「父さんは満州で、ド偉い機関車開発の計画を聞いてきたぞ!
夢のような超特急が数年後にできるそうだ。」
今年10歳になる秀彦は目を輝かし、
「夢の超特急?それって凄いの?どんな感じ?」
「それはな、物凄くカッコよくてな、そして物凄く早く走るんだ。
アメリカにもヨーロッパにもない、超華麗な機関車なんだぞ。
満州は遠いけど、その汽車が出来たら家族みんなで乗りに行こう。」
「ワ~イ!楽しみだな!」
飛び上って喜ぶ秀彦たち。
「あなた、そんな開発計画、口外しても良いの?」と百合子が不安げに聞いてくる。
「多分、大丈夫だろう。具体的な詳細まで明かした訳ではないし。
夢のような計画があるくらいなら、知っていても問題ないレベルだしな。」
だが、秀則一家がその新開発の列車に乗る機会はついぞ無かった。
戦争が激化し、満州まで渡航するには幼子を連れた一家には難しい情勢だったから。
その新開発計画の超特急が完成し、運用されるのは1943年。
その機関車の名は『アジア号』といい、当時の世界最高レベルの傑作だった。
この最新鋭機は何と!島村と彼の父が開発に参加している。
完成した時の彼の鼻高々の自慢話を、後に嫌という程聞かされたのは言うまでもない。
当の秀則はと云うと、仏印・タイの視察から帰還後すぐに鉄道調査部技師から外れ、企画院専任となる。
第二次企画院「高等官グループ」事件が1940年10月に起きたが、そのタイミングの人事だった。
嵐が吹き荒れる職場に敢えて身を投じざるを得ない秀則。
正直、逃げ出したい想いを胸に、理想と信念と大切な家族を支えに踏ん張り続けようと思った。
政治的思想とは無縁な自分は、軍部や公安に臆する必要は何もない。
そう気持ちを奮い立たせるのであった。
つづく