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uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


奇妙な果実~鉄道ヲタクの事件記録~ 第15話 空襲

2024-07-21 05:36:51 | 日記

 はじめに

 

 

 第12話 『近衛文麿首相』が公開停止になっています。

 

 これはGoo blog編集当局から

『現在この記事は公開を停止させていただいております。

この記事の投稿は以下の行為に該当しまたは該当する恐れがあり(詳しくは「gooブログサービス」利用規約第11条をご確認下さい)、又はこの記事に対してプロバイダ責任制限法等の関連法令の適用がなされています。

  • 【理由1】差別表現などの不適切な表現

一部のお客様には、「ブログIDの連絡先メールアドレス」 または 「gooメールアドレス宛」にgoo事務局から お知らせをお送りしている場合がございますので、併せてご確認をお願いします。』

 

とのメッセージ(通知)が届いたからです。

 

 ですが私はこの回を改めて読み返して見ても、どの箇所が『差別表現などの不適切な表現』なのか判断できません。全くの青天の霹靂な事態と思っています。

 また私には差別表現などの不適切な表現をした覚えもありません。

 まぁ、私がこのblogにて投稿を続けるのには、『社会を扇動する』意図と動機があるからであり、その刺激的な表現及び内容がgooblog編集部の趣旨にそぐわないと云うのであれば仕方ないと思っています。

 だから、この問題回を修正して再投稿するつもりはなく(何処をどう修正したらよいのかも 分からないし)今回(第15回含め)今後、わたしのblogの複数個所が追加で公開停止処分を喰らっても私の姿勢を変えるつもりはありません。

 故にこの物語『奇妙な果実』は残り2話で終了する予定ですが、その後の新たな投稿はどうするか未定です。

 多分私はこのアカウントを閉鎖はせず、そのまま放置でいると思います。(私の日記全部が公開停止になってもです。)

 ですが少なくとも新たな投降ペースは確実に減少するでしょう。

 

 取敢えず。この問題回(第12話 近衛文麿首相 )はこのblogと平行して投稿している『小説家になろう』と同一内容なので、もし読み返してみたいとお思いなら、そちらでご確認ください。

 

奇妙な果実〜鉄道ヲタクの事件記録〜 - 第12話 近衛文麿首相 (syosetu.com)

 

奇妙な果実〜鉄道ヲタクの事件記録〜 - 第12話 近衛文麿首相

奇妙な果実〜鉄道ヲタクの事件記録〜 - 第12話 近衛文麿首相

123大賞5 男主人公 明治/大正 昭和 職業もの バッドエンド HJ大賞5 ESN大賞6 下山事件 R15 残酷な描写あり

小説家になろう

 

 

 今のところ『小説家になろう』のサイトではまだ公開停止にはなっていないので。

 

 

 

それでは第15回 空襲 本文です。

 

公開停止処分になる前に【お早めに】お読みください。

 

 

 

 

 

 

 1942年日米開戦を知った翌年の1月、再び百合子の妊娠を知った。

 次の子で4人目。

 今間借りしている借家が手狭になり、かねてから考えていた自宅を建てる計画を実行に移す。

 場所は今住んでいる場所から直ぐ近く、大田区池上の端正な住宅地に決めている。

 土地は数年前から抑えていたし。

 そこは白金にある僕の実家である影山家にも、百合子の実家の藤堂家にも近いから。

 

 百合子の出産に間に合わせるように大急ぎで大工を選定、ギリギリの工期で間に合った。

 二階建てで、当時は珍しい2階にお風呂がある。

 つまり薪で湯を沸かすのではなく、2階までガスを通し湯を沸かす画期的な最新式の風呂ではない『バス』なのだ。

 これは僕の自慢であり、友人・知人に大いに自慢するつもりである。

 これで出産後の向かい入れは万全。毎日赤ちゃんをお風呂に入れられるぞ!

 僕は新たな家族と新築の家を手に入れ、今こそ幸せの絶頂だと心から思う。

 愛する妻と順調な仕事。これ以上、一体何が必要だというのか?

 戦争一色の時節柄、大っぴらに幸せそうな顔はできないが。

 

 妻とは未だにラブラブであり、子供達もヤンチャでうるさい分、将来が頼もしく人一倍父としての幸せを噛み締めている。

 仕事は確かに忙しくなかなか構ってやれないが、充実した仕事をこなす様子を肩越しに見せられる分、父に誇りをもってくれそうだし。

 企画院事件の影響など、一編のやましいところの無い自分には関係ないし、むしろ技師としての力量を発揮するには、この戦時中の環境が合っているのかも知れない。

 スピードと合理性と整合性を一挙に解決・実現するのは、今が一番求められる。

 軍も公安もライバル技師も関係ない。

 自分の描くやり方を推進できる環境に出会い、水を得た魚のような気分である。

 

 

 その年の10月、百合子はまたしても男子を出産した。

 言葉には出して言わないが、今度こそ女の子であろうと期待していた自分は、男の子と聞き一瞬顔が引きつった。

 だって、今はもう既に我が家は男の子だらけの野戦場であり、けたたましい雄叫びや野獣のような奇声の嵐、家中バタバタ走り回る状態なのだから。

 ここにきてもうひとり加わる?

 先が思いやられた。

 でも直ぐに思いなおす。先に生まれた3人の男の子たちは皆可愛く、健やかに育った掛け替えのない息子たちではないか。

 僕にとって彼らは妻百合子と共に、生きるためのよすがであり希望なのだ。

 

 

 四人目の子も個性的な顔立ちで、不思議な事に兄弟それぞれ違った表情をしている。

 百合子もさすがに四人目の出産という事で、産後の表情に余裕すら伺えた。

「あなた、ほら、この子の耳は福耳なのよ。きっと立派な大人になると思うわ。

 そう思いません?」

「そうだな、こりゃ立派な耳だ!オイ、識也ひろやすくすく育ってくれよ。

 将来が楽しみだな。」

「え?父さん、もう名前を考えていたの? 

識也ひろや識也ひろやってつけたの?」

「そうだよ、博識の『識』を『ひろ』と読んで識也ひろやだ。

 な、良い名だろ?」

「どうして生まれてくる子が男の子だと分かったの?」と秀彦。

「それは・・・、いくら父さんでも分からないさ。

 ただ、男の子だったら『ひろし』か『ひろや』。

 女の子だったら『ひろこ』か『ひろみ』にしようと決めていたんだよ。

 その時の『ひろ』は博識の『識』を『ひろ』と読もうとね。」

「どうして『識』なの?

「それはね、これからの世の中、他人に流されちゃいけない。

 自分で考え、自分の判断に責任をもって生きなきゃならないんだ。

 特にこの戦争のような世の中ではね。

 だから、ただぼんやり他人に与えて貰っただけの情報や知識に惑わされず、広く自分で取り込んでいく気持ちを持って貰いたいんだ。

『あっちの水は甘いぞ』に釣られてそそのかされたり、流されてしまっては身の破滅を招くこともある。

 お前たちにはそうなって欲しくないからね。分かるかい?

自分で考え、自分の責任で正しいと思う行動を貫ける大人になるんだよ。」

「よく分からないけど、分かった!」

 いかにも秀彦らしい、頼もしい返答だった。

 

「あなたらしい命名の理由ね。」と百合子。

「そうだよ。それにね、もうひとつ命名の理由があるんだ。」

「それは何ですか?」

「百合子のように賢く優しく聡明であって欲しいと思ってさ。」

「アラ、私ってそんなじゃなくってよ。」と恥ずかしそうに伏し目になる。

「そして(百合子のように)策士になれ!ってさ!」

「アラ、本音はそっちね?あとで怖いわよ、」

 首をすくめる僕だった。

 

 

 

 それにしてもさかのぼること半年前、新しい我が家を建てる地鎮式の日。

 幸先(?)悪い出来事があった。

 1942年(昭和17)4月18日、 B-25双発爆撃機ミッチェル16機が航空母艦ホーネットから発進、東京・横須賀・横浜・名古屋・神戸等を空襲したのだ。

 

 日中戦争が勃発してからもう5年、空襲なんて一度も無かった。

 それなのに日米戦争になって僅か5カ月。もう空襲?

 僕は無意識に戦争慣れしてしまったのだろか?

 まさか東京が空襲に晒されるなんて!迂闊なことに、実は全く想定していなかった。

 いくら相手が国力に圧倒的な差のある米英だからって、さすがに動きが早い!早すぎる!!

 きっとこれはまぐれ?例外だよね?まさか帝都がそう何度も空襲に遭うなんて有り得ない。そう、あってはならない。

 卑しくも僕は技師として企画院の端くれにいる身。

 あまり詳しくはないが、『帝国国策遂行要領』の概要くらい聞かされている。

 南部仏印を侵攻するはずが、何故か真珠湾を攻撃してしまったとは言え、国策の作戦に遺漏や過ちがあろうはずはない。だから大丈夫。

 そう!きっともう大丈夫さ!だから、今家を建てても何の問題もない。

 そう思い込もうとしている自分がいた。

 

 その時は気づかずにいたが、不吉な暗雲は天空の半分以上を覆っていた。

 新しい子が生まれる!その明るい希望が僕の目を曇らせていたのかもしれない。

 

 

 

 真珠湾攻撃から目覚ましい進撃を続けていた連合艦隊は、そこでやめときゃいいのに調子に乗って更に太平洋西海岸にまで展開、12月20日から約10日間で航行中のタンカー及び貨物船を5隻撃沈、5隻大破させ、西海岸沿岸の住宅街のわずか数キロ沖で、貨物船を撃沈、 1942年(昭和17年)2月24日 伊17大型潜水艦にてカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所を砲撃、一連の本土へ先制攻撃をした。

 

 これらの日本軍による一連の本土への先制攻撃は大きな衝撃を与える。

 ルーズベルト大統領は日本軍の本土上陸は避けられないと判断、ロッキー山脈で阻止する作戦を指示、日系人の強制収容を断行。

 次いでアメリカ政府は日本軍の本土攻撃及び国民の動揺と厭戦気分を防ぐべく、マスコミに対する報道管制を敷く。

 にも拘らず、その後も日本軍の上陸や空襲の誤報が相次ぐ。

 更に砲撃作戦の翌日、どういう訳か日本軍がロサンゼルスを空襲したと誤報が有りそれを信じた軍がなのを誤認したか、高射砲にて見えない敵(存在しない敵)に対し応戦、その結果民間人に6人の死者を出した。

 アメリカの国内はその恐怖によるパニックから、大きな混乱をまき起こしたのだ。

 

 

  真珠湾で止めときゃアメリカの本格的参戦のペースを遅らせられたのに、ルーズベルト大統領ならずとも、アメリカ国民を完全に怒らせ本気にさせてしまった。

 

 それからは歴史が示す通り、死にもの狂いで体制を立て直したアメリカは、ミッドウェー海戦で連合艦隊をうち負かしてから、日本は連戦連敗となる。

 

 前話で紹介した通りアメリカはオレンジ計画に沿ってその後の大まかな作戦を実行した。

つまりハワイを拠点にミクロネシアの日本軍守備隊を一つ一つ潰し占領、フィリピン・グアムを奪回、日本本土に迫るというものである。

 実際日本はアメリカとどうしても直接対決したいとの野望を持った山本五十六と彼が率いる海軍・連合艦隊の一連の抜け駆け暴走により、『帝国国策遂行要領』の計画外の負担を強いられ、それらの島嶼に多数守備隊を配置。

 日本は満州への関東軍、中国戦線、南太平洋と戦線を拡大した事により、当初考えていた大東亜戦争の目的から大きく外れる事となったのが仇となり、どの戦線も十分な戦力を配置する事も、兵站供給も中途半端となった。

 それに加え次第に日米間の国力差が現れ、その後の史実が示す通りサイパン島・ペリリュー島など、マリアナ・パラオ諸島の戦いに勝利したアメリカはそれらの島に大規模航空基地を建設、日本本土の大半がB-29の攻撃圏内となり、日本本土への本格的空襲が可能となる。

 

 1944年(昭和19)11月24日以降本土への空襲が本格化。

 一般市民を含む大規模な無差別爆撃が実行され、その結果東京を始め、大阪、名古屋など日本の主要都市はほぼ総て焦土と化した。

 

 連日空襲警報が発令され逃げ惑う国民。

 

 アメリカの空襲は執拗且つ残忍であった。

 

 特にアメリカが空襲に使用したのは、日本向けに新たに開発した油脂焼夷弾と、マリアナ諸島から日本全土を空襲のため往復可能にした長距離爆撃機B-29である。

 特に油脂焼夷弾はヨーロッパ戦線での炸裂弾とは違い、木造建築が多い日本で極めて強い殺傷能力を発揮した。




 1945年3月10日の東京大空襲では、この日から焼夷弾による絨毯爆撃が実行され、夜間低空飛行で正確に目標地点を捕捉、1665トンもの油脂焼夷弾を軍の施設や軍需工場が殆ど無い江東地区や神田、築地などの他、東京・上野駅などの鉄道を標的に爆撃が実行された。

 その方法はまず目標地区の外周を火の海で囲み、その後中の標的をくまなく絨毯爆撃を徹底する、明らかに一般市民を目標とした皆殺し作戦であった。

 しかもこの空襲では折からの強風に煽られ、目標地区を超え、本所、深川、城東、浅草、神田、日本橋、下谷、荒川、向島、江戸川等、下町と呼ばれる地域が消失。

 犠牲者95000人、罹災家屋27万、罹災者100万人もの被害を出した

 

 その後も東京を標的にした空襲は続けられ、4月、5月には山の手が空襲された。

 この時の爆撃規模・消失面積は3月10日の下町空襲を上回っている。

 犠牲者の数は約8000人で3月10日空襲を大幅に下回っているが、それは疎開が進み強風に煽られた罹災が少なかったためである。

 

 影山一家も秀則を残し、妻の実家である藤堂家の伝手を頼り、遠い親戚の居る長野に疎開した。

秀則はひとり新居に残り、日増しに多くなる空襲を耐えた。

 その都度上空に展開するB29を恨めしい表情で睨みつけ、自宅庭に設置した防空壕に避難する。

いつ自宅が焼失するか分からない。

 しかし、それを言っても始まらない。

 僕の家以外にも夥しい家屋が焼失し、多くの犠牲者が出ているのだから。

 僕は多くの犠牲者に手を合わせながら、仕事に向かう。

 自分には空襲で被害を受けた鉄道や駅の再建に全力を挙げて再建しなければならない使命がある。

 今ここで踏ん張らねば、いつやる?

 被害を受けた鉄道は東京以外の各都市にもたくさんある。

 それらの再建にも陣頭指揮をとらねばならない。

 

 幸か不幸か僕が所属していた企画院は1943年(昭和18)10月31日に廃止され、僕は1944(昭和19)鉄道監に任ぜられていたから。つまり鉄道業務に全力で取り組めるのだ。

 僕はこの時、そういう立場になっていた。

 

 僕は東京だけでなく、その他の罹災都市を回り陣頭指揮をとったり、手の廻らないところは部下に直接指示を出し迅速な復興に力を注いだ。

 自分で言うのも何だが、その復興させるスピードは目を見張るものがあり、国家の流通動脈を幾度も寸断されながらも何とか支え続ける事が出来た。

 

広島と長崎に原爆を投下された時も、信じられない短期間で鉄道運行を再開させている。

 

 それにしても、米軍の空襲には疑問が残る。

 軍需工場や軍関係施設の破壊は当然として、空襲の主眼が一般市民を標的にしている事。

 油脂焼夷弾では一般家屋の火災は引き起こせるが、鉄道駅舎や鉄道施設、線路への効果は限定的だから。

 ヨーロッパ戦線と比べると、あちらでは鉄道、橋梁などの破壊が極めて重要であり、真っ先に狙われていたが、日本では(何度も言うが)標的が一般市民であった事。

 一般市民を攻撃する事は戦時国際法で禁じられ、戦争犯罪に該当するハズなのに、である。

 敢えてそうした作戦を実行したところにルーズベルト大統領や、その後を引き継いだトルーマン大統領の日本人への憎悪が見て取れる。

 彼の国の黒人差別が奇妙な果実を生んだように、その差別と憎悪・嫌悪の感情がこの戦争で日本人にも向けれられていたのがよく分かる。

 白人至上主義者が、その考えと立場を打ち砕こうと挑戦した有色人種の代弁者『日本人』を徹底して潰そうとする強固な意思を実行したのだ。

 

 

 僕はこうした背景の中、こうして度重なる空襲を受け自宅の消失を覚悟していたが、何と!奇跡的に罹災を免れた。

 近所の家々がいくつも焼失していたのに拘わらず、である。

 

 戦争が終わり暫くして、ようやく家族が戻って来た。

 そして焼け野原の中、数件の焼け残った家の中に我が家を見つけた時は、一同が飛び上らんばかりに驚いた。

 何故我が家は助かったのか?

 それは自宅一帯が人口過密地帯ではなかったのが幸いしたから。

 家が密集していたら、油脂焼夷弾の威力が最大限発揮できたが、山の手地区の比較的広い庭のある家が一般的な地域では、類焼効果が低いのが大きな原因であった。

 

 

 自分の家が無事に残ったからといって、多くの被災者・犠牲者たちを前にして手放しで喜ぶ訳にはいかない。

 一家の無事を感謝しながら、ただひっそりと慎ましく暮らす影山家であった。

 

 

 

 

 

   つづく

 

 


自殺を考えている全ての日本人へ〜カメルーンからのメッセージ〜

2024-07-19 08:28:00 | 日記

「日本人、死なないで欲しい」アフリカから全身全霊で訴える理由 「世界はとても広い。アフリカに来い」(withnews)




 奇妙な果実〜鉄道ヲタクの事件記録〜第15話の前にどうしても紹介したい記事を見つけたので共有し、紹介させていただきます。
(第15話は明後日、今度の日曜日の早朝にアップできそうです。現在半分以上書けました)



 私たちが普通に暮らす日本という国は、外国人の目から見ると決して普通じゃないようです。

 自動車や先進的なインフラを生み出す凄い人々が人生に悩み、仕事に悩み、人間関係に悩み、自らの生命を絶つ現実を知り、温かく呼びかけてくれている。

 とても有難い事です。


 同時に私たちは、私たちの社会は、私たちの国は、どこかで道を誤っているのではないでしょうか?

 日本を応援してくれる外国の人の存在は有難い。
 でもこんな事、日本人同士で解決できなきゃダメだとも思う。
 悩む人に寄り添い、困った人に手を差し伸べる人であるべきだとも。


 ただ、それには問題もある。
 この国の役人や為政者たちは自国の民を弱らせ、精神的にも経済的にも追い詰めるくせに、反日外国人を積極的に受け入れ優遇する。
 そんなお人好しの日本の心を悪用し、容赦なく悪さをする反日外国人がドンドン増え、国民が迷惑を被るような本末転倒の事態が多発しているから。
 彼らに良い顔をし、国民に鞭打つ姿勢を続ける国は真に優しい国とは言えない。
 日本人に自殺が多いなんて、絶対どうかしている!
 そんな状態を放置するのは異常だと思う。

 外に対する表面的な偽りの優しさと打算と私欲で、国の舵取りをしてもらいたくない。

 この国で
 真摯に正直に頑張る人。
 生きることに懸命な人
 ズルをしない人

 これらの人には、日本人も外国人もなく応援して、手を差し伸べる社会であって欲しい。

奇妙な果実~鉄道ヲタクの事件記録~ 第14話 太平洋戦争

2024-07-14 04:17:18 | 日記

 秀則が企画院専任になるのと同時期、第二次企画院事件と言われた『高等官グループ事件』が起きる。

 1938年の判任官グループ事件での『判任官』とは、秀則の『技師』の上位の官職等級であり、『高等官』は更に上位の官職である。

 調査官及び元調査官である高等官が治安維持法違反容疑で逮捕され、検挙者17名を出したのだ。

 『高等官』の任免には天皇の裁可を要し、その高等官を逮捕するという事は、天皇の裁可に異を唱えるのと同様の恐れ多い処断であったと云える。

 それ程財閥・商工省と内閣直属の企画院の権力争いは熾烈しれつを極め、食うか食われるかの権力闘争であった。

 企画院は軍部(主に陸軍)の(実務上の必要性から)全面的なバックアップを受け、この時点では何とか生き延びる事が出来た。

 但しこの事件以降、企画院の主導権は軍部が握る。

 その後、戦争激化のため限られた予算の争奪をめぐり、陸軍と海軍が対立。

 戦争遂行のためには更に強力な権限を必要とし、事件の発端となった商工省と企画院を喧嘩両成敗として両者を軍需省に再編、統一した。

 つまり最終的に軍部による独裁体制の最終的完成を果たし、国家財政をほしいままにする事が出来るようになった。とは言え、まぁ最終的には敗戦を迎え軍は解体、戦後は官僚の天下となったのは前話でも語った通り。

 

 

 秀則の職務は、ひとえに戦争遂行目的に限定されている。

 仏印・タイ視察も朝鮮・中国視察も結局は戦争継続が目的であり、その後の作戦遂行の下準備であった。

 

 嵐のような職場環境の中、秀則は淡々と職務をこなす。

 そしてその翌年の1941年12月、日中戦争が対英米戦争に発展拡大する。

 

 

 

 

 

    太平洋戦争

 

 

 

 この戦争を多くの人が『大東亜戦争』と呼ぶ。

 確かに当初の目的はアジア解放を求める大東亜共栄圏建設構想に基づく戦いである。

 しかし開戦当初から、意図せず戦争の性質が捻じ曲げられてしまった。

 米国を攻撃してしまった事で主戦場が南部仏印から太平洋全域に拡大、本来の作戦とは大きく変質してしまったから。

 だからこの戦争の(目的ではなく)全容を現わすなら『大東亜戦争』ではなく、正確には『太平洋戦争』なのだ。

 

 

 

 

 国や軍の調査機関は大東亜戦争を想定し、開戦へ至るずっと前から戦争への調査・準備をしていた。

 

 それらは仏印・タイに於ける鉄道敷設は可能か?等の調査が主目的であった。

 

 

 

 当時の日本の喫緊の課題は、日本に対する欧米の締め付け『ABCD包囲陣』に対処するため、及び同時にアジア諸地域を欧米の植民地支配から解放するための方策『帝国国策遂行要領』を断行する事。

 

 特に米の強硬な要求に対処するための策であった。

 

 当時のアメリカの国内事情は、まだ国民の多くに第一次世界大戦のトラウマが色濃く残り、ヨーロッパで起きているナチスドイツと戦争に自分達が参戦するのは嫌だという厭戦感が国の雰囲気を支配していた。

 ただルーズベルト大統領とその一派を除いて。

 ルーズベルトは日本にとって到底受け入てられない条件、『ハルノート』を突きつけ脅し、屈伏する事を迫った。

 

 その好戦的なルーズベルト大統領の動きを封じ込めるため、日本はアメリカに対し、戦争回避を目的とした最低限の要求を伝え、交渉の余地を残す。

 

 その主な要求とは?

 

一、米英は帝国の支那事変処理に容喙し又は之を妨害せざること

一、米英は極東に於いて帝国の国防を脅威するが如き行動に出でざること

一、米英は帝国の所要物資獲得に協力すること

 

 その回答最終期限を12月初旬に定め、その期限を迎える。

 

 

 

 『帝国国策遂行要領』を実行するにあたり、その内容とは如何なるものか?

 

 

 実際の歴史では山本五十六連合艦隊司令長官率いる連合艦隊が真珠湾を攻撃して日米戦争が勃発したことは誰もが知る事実であるが、実はその陰であまり注目されていないが、日本軍は当日仏印にも侵攻している。

 本当ならそちらが作戦計画の主たる目的であった。

 

 山本五十六の行動は個人的野心による抜け駆けであり、余計な戦闘であった。

 結果その際の奇襲攻撃が『卑怯なり!』との怒りを買い、最悪の結果となる。

 アメリカ国民を大いに怒らせ、日米戦争に参戦させる口実を作ってしまったのだから。

 おかげで兵力を予定していなかった対米対処に割かねばならなくなり、計画は大きく狂ってしまう。

 

 

 ではその大元の『帝国国策遂行要領』とは?

 

 

 計画中の情勢分析では、日米の国力差は如何ともし難く、直接相まみえるのは無謀であり、現時点では自殺行為である。

 したがって、出来るだけ米との戦闘は避け、主たる敵をイギリスに定める。

 イギリスは大英帝国として栄華を誇ったが、その国力は植民地からの補給が生命線であった。

 その補給路を断ち、本来脆弱な体力しか持たないイギリス本国を屈伏させる。

 そんな事、果たして可能なのか?

 それを実現させるためには十分な情報分析と情勢分析が必要。

 

 そのため陸軍上層部は1939年秋丸次郎中佐を中心に、新たな特務機関『陸軍省戦争経済研究所』(秋丸機関)を立ち上げ、総力を挙げ分析した。

 

 

 その分析内容がイギリス主戦論である。

 仏印方面に侵攻するにあたり、通り道であるフィリピンに拠点を持つマッカーサー率いるアメリカ海軍との戦闘は極力控え、どうしても戦わざるを得ない場合でも出来るだけ小競り合い程度に留め、対日参戦にエスカレートさせない。

 そしてイギリスに対しては、英海軍との直接衝突は避け、英輸送船のみを狙い撃ちする。

 ひたすら輸送船を攻撃し本国への補給を断絶させ戦争継続を困難に。

 最終的には英の主たる敵、対ドイツ戦で敗北させる。

 同時に陸地に於いてはタイ・ビルマを攻略、インドに燻る独立運動を支援し、イギリスのアジアの一大拠点を喪失させる。

 そしてインド北東部アッサブ地方からヒマラヤ山脈を空から抜け、中国を支援するアメリカの空路拠点『援蒋ルート』を遮断、蒋介石国民党支援の補給を経ち日中戦争に勝利する。

 更に英を追い出した後の空白に乗じてインド独立を達成させ、日本軍は更に西へ進軍。

 中東サウジアラビアに到達、ソ連の補給路も絶つ。そして中東石油利権を獲得、対米依存を完全に断ち切る。

 

 資源獲得により資源小国としての日本のアキレス腱を強化し日本の国力を高め、米の脅しに屈することなく対峙する状況を作り上げる。

 

 これが『帝国国策遂行要領』計画内容の大筋であった。

 

 

 

 

 ここで何故『帝国国策遂行要領』について解説したのか。

 私(作者)は、自作の他の物語でも度々『帝国国策遂行要領』の概要に触れている。

 どうして同じ事を何度も言うのか?

 それは太平洋戦争へのくだりに突入するにあたり、どうしても伝えておきたい事があるから。

 

 この戦争でボロ負けした事が悔しくて、負け犬の遠吠え宜しく口癖のように言いたいからではない。

 確かにこの戦争では完膚なきまでに叩きのめされた。

 そして多くの人々を亡くしてしまった。

 この戦争は人命軽視が甚だしかった。

 

 でもこの戦争が後世の人の言う、無計画で無謀で残念だった訳ではない。

 充分に勝算があり、定石通り攻めれば勝てた戦争だったのだ。

 たった一人の司令官の暴走が勝敗を分けたが、この戦いで死んでいった者たちは皆、勝利を確信していた。

 各々の意に添う、添わぬに関わらず、たった一つの大切な命を捧げる結果となったが、それは無謀・無駄な死などでは決してない。

 例え戦闘ではなく、マラリアや飢餓による戦死であったとしてもだ。

 現地の悪条件は敵も同じ。

 そんな苦しい中で共に戦った。

 そう信じて死んでいった人たち。

 

 私は彼らの辿った運命とその命に敬意を表したい。

 そして戦後レジームが、日本人から誇りと自信を奪った現状に訴えたい。

 

 私たちがいじける必要など、どこにもない!

 

 彼らが築いた累々と重なる屍から目を背け軽視することなく、自分の考えに信念と誇りを持った日本人として、先祖から受け継がれてきた強靭な特質を胸に、日本国内及び国際社会の逆風にたじろぐことなく、雄々しく立ち向かう現代の戦士であれ!との思いを込めて訴えておきたいのだ。

 アメリカに潰された産業や自信や誇りを取り戻し、再び立ち上がれ!と。

 

 

 ただし、この戦争中もそれ以前からも過ちはあった。

 日本人が持つ特有の性格からくる歪な精神状態も。

 現在に続き繰り返される悪しき習わしはその都度反省し正さなければならない。

 

 

 

 

 秀彦は11歳になり国民学校初等科5年の年、太平洋戦争が勃発した事で学校教育も戦時体制一色となった。

 

 そんな頃、秀彦はテストの答案用紙を家に持ちかえった。

 それを見た百合子は仰天した。

 何と0点だったから。それは白紙の答案用紙だったのだ。

「秀彦、これは何ですか?」

「この前のテストの結果です。」

「・・・・・。」

 秀彦は学業優秀な子。授業について行けないなんて有り得ない。

 母として頭ごなしに叱ったり、ヒステリックになって詰め寄るのではなく、冷静になにがあったのか聞く事にした。

 でも秀彦は応えようとしない。

 いくら尋ねても頑として話さない。

 

 思い余った母百合子は秀則に相談する事にした。

 秀則が帰宅草々、百合子から聞いた0点事件に驚く様子もなく秀彦に話しかける。

「秀彦、何が聞きたいか分かるな?

 お前にも男としてのプライドがある。

 だから父さんも同じ男として聞く。何があった?」

 長い沈黙の後、秀彦は重い口を開いた。

 その内容とは、

 

 秀彦の同級生たち男の子の遊びといえば、戦争ごっこ一択。

 銃に見立てた棒を抱え突撃するなど、誠に勇ましい。

 

 ある時、級友たちと「どんな武器が一番か」談笑というか、雑談を始めていた。

「それは勿論戦闘機だろ!空を飛びながら『ダダダダ!』だぜ!」

「いや、戦車の大砲の『ズドーン』だろ!」

「戦車?違うだろ!戦艦に決まってるじゃないか!戦艦の主砲からぶっ放される砲弾なんか『ズッド~ン』だぜ!」

「いやいや、僕はどれも違うと思うな。

 戦争は兵隊さんがやるものだ。兵隊さんが戦地に行くのも、武器や食べ物を運ぶのも鉄道が無ければ立ち行かないだろ?

 だから、それらを運ぶ機関車が一番さ!」

「機関車じゃ、直接敵を倒すことはできないよ!大体機関車は武器じゃないじゃないか!

 お前のオヤジが鉄道に勤めているからといって、余計なものをねじ込んでくるんじゃないよ!」

 秀彦以外はウンウン、と頷き同意した。

「余計なもの?君らは本気でそう思っているのか?」

「思っているさ!だって機関車は武器じゃないジャン!」

「人を殺すだけが武器じゃないぞ!兵隊さんたちを一度に早くたくさん運べる機動力が勝敗を決するって知らないのか?」

「機動力って何だ?勝敗を決する?敵をやっつける武器の話をしてんのに、関係ない道具を持ち込むなよ!」

「人を殺す事が偉いんじゃない!皆が力を合わせて勝利する事が大事だって言ってるんだ!国民ひとりひとりが自分に出来ることを精一杯やり抜かなければ、この戦争には勝てない!相手は鬼畜米英だぞ!死にもの狂いで戦わなければ負けちゃうんだぞ!目の前の武器の事だけしか考えない者は負けるんだ!」

 

 そのやり取りを偶然担任の先生が聞いていた。

 そして秀彦の言動には問題があると感じた。

 そして秀彦を職員室に呼び出し、問題発言を叱る。

「秀彦!今は戦時中だぞ。兵隊さんがたくさん戦っている。なのに、人を殺す事が偉いんじゃない?死にもの狂いで戦わなければ負けちゃう?『負ける』を連発していたな。   

 お前のような小国民がそんな軟弱な心構えでどうする!『敵は幾万有りとても』だ!

 明日の朝礼でみんなの前で謝れ!いいな!」

「イヤです!ボクは間違っていない!だから謝りません!」

「貴様!」そう言ってビンタした。

「謝ると言うまでまで他の者たちとの会話を禁ずる!」

 そう言って秀則は先生の厳命により、クラス内で村八分にされた。

 戸惑うクラスメイトたち。

 だが先生の命令とあらば仕方ない。命令を破って話しかけたら、自分も村八分にされる。

 自分たちに選択の余地は無いのが悲しい。

 

 そうしてひと月が経過。問題の小試験の日がやってくる。

 納得のいかない秀彦は抗議の意味を込め、白紙答案を出した。

 ひと月もの間、クラスの誰も秀彦に話しかけてくれない。

 誰も助けようとしない。(内緒で声をかける子はいたが)

 

 

 秀彦はそうした集団同調を強制される理不尽な処分を担任から受け、さぞかし孤独と口惜しさの中、暮らしていたのだろう?父として気づいてやれなかった自分が悔やまれる。

 しかし、だからと言って学校に怒鳴り込むのも親としてどうかと思う。

 

 秀彦が0点の答案を親に見せたら、親がどう思うか?自分が担任として生徒に何をしたか?家族にバレてしまう。

 多分その時点で担任としての指示・命令を後悔し、戦々恐々としているだろう。

 

 秀彦には励ましと、自分が正しいと思う事は顔をあげ正々堂々としていろ!と諭した。

 そして担任の先生宛に、「愛国教育もいいが、教師は聖職である。聖職としてのやり方に深慮と配慮を示す教育を進言する。」との書簡を秀彦に託した。

 さすがに担任も自分がやり過ぎだと感じていたのだろう、それ以降秀彦への村八分は解除された。

 クラスの皆が喜んだ。

 そして机の下で両手を握り、「ヨシ!」とガッツポーズをした。

 皆、鉄道ヲタク二世の秀彦が嫌いじゃないから。

 

 秀彦の0点は0点のままだったが。

 

 

 

 

 

          つづく


奇妙な果実~鉄道ヲタクの事件記録~ 第13話 企画院事件

2024-07-07 04:42:38 | 日記

 1938年(昭和13)5月、戦時統制を目的とした『国家総動員法』が施行される。

 この法律により、日中戦争総力戦のため、政府が国家に於ける全ての人的・物的資源を統制運用する旨が規定された。

 これは日中戦争早期講和失敗により、泥沼化・長期化する事となった事態に対応する施策である。

 

 近衛首相は「この戦争、俺のせいか?」との思いも強く、自身の持つ社会主義思想を実践に活かす、いわばやけくそ的推進の部分も見られる。

 後に(戦後)この法律が治安維持法と並ぶ天下の悪法としての代名詞を冠される事となったが、これは戦争遂行を何としても維持しなければならない(おっ始めたからには絶対に負ける訳にはいかない使命と責任を負った)軍部と、企画院首脳の思惑が一致した施策であった。

 

 企画院首脳の思惑?

 

 実は企画院、東京帝大卒業後、京都帝大に進学して以降、左翼思想に傾倒していた近衛首相の意向に沿った人事が色濃い。

 企画院メンバーの中には、左翼思想の他、進歩的発想を持った者たちが多く登用され、後の共産党活動家やリーダーとして活躍したものも多く含まれている。

 故に左翼的政策を国家統制の名の下、大っぴらに実行できる下地を利用したとも言えるのだ。

 もちろん秀則のように思想的背景とは無縁の者たちが大多数を占めていたが、それでも革新的発想を実行できる人材の牙城であったのは間違いない。

 

 

 企画院ができる少し前、2.26事件が起きているが、この事件とも深い関りがあった。

 と云うのもこの事件、軍部内の主導権争いであり、皇道派が統制派に対して勢力巻き返しのために起こした右翼クーデターである。

 この結果は東条などを中心とした統制派が勝利を収めたが、実はどちらが勝っても軍部が政権(実権)を握るよう、仕組みが整っていた。

 クーデターに負け、多くの将兵が処断されたが、それに同情的な近衛が大赦を画策するほど、当時の右翼と左翼には垣根が薄かったとも言える。

 思想は180度違うが、国家統制による平等な分配を目指すという点に於いて、両者は一致しているからである。

 (実際2.26皇道派の掲げた主張は、戦後GHQの施策が進めた革新的政策である『財閥解体』や『不在地主制度の廃止』など、当時の革新的政策と驚くほどよく似ている。GHQは後にレットパージ(共産主義者公職追放)を実行するだけあって、決して左翼などではないが。)

 国をどうするか?その方法論は右翼も左翼も革新もなく、国家の発展を進める際の障壁となる旧態依然とした格差や、社会矛盾を正さなければ発展が望めない時の改革の施策は大差ないのかもしれない。

 

 以上のことから意外なことに日中戦争の最中の政府内は、同床異夢の異なる勢力がしのぎを削って主導権を握ろうとする不安定な集合体であった。

 

 

 

 

 

 こんなどんどん暗くなる統制的社会情勢の中、百合子が第3子を産む。

 

 またも男子であり数日後、『康三』と命名する。

 三男で健やかに育てとの願いから健康の『康』の字と三男の『三』から康三。

 三番目の息子ともなれば、命名も多少安直になっても仕方ない。

 

 僕は勿論喜んでいるが、心の中のどこかに(次は女の子でも良かったな)との思いがよぎった。

 満面の笑みを浮かべて喜びを表現しているのに、勘の鋭い百合子は、

「ホントは女の子が良かったですか?」と大胆にも聞いてくる。

 家の中、やんちゃな男の子が二人で縦横無尽に駆け回る環境に居たら、気が休まる暇はない。

 だからつい、そういう想いが湧いてくるのも確か。

「イヤイヤ、決してそんな事はない!こんなに玉のようにかわいい男子を産んでくれて、心から感謝しているよ!ありがとう。

 そして百合子、でかした!」

 そう言ってねぎらう僕。

 その心に嘘がないのもホントの気持ちである。

 それを聞いて百合子は水色の笑みを浮かべた。

 

 新生児の康三を飽きもせず、ずーっと眺める秀彦と早次。

「康三、いつも寝ているね。つまんない!」

「早く起きて僕の顔を見てくれないかなぁ~」

「ダメですよ、起こしちゃ!赤ちゃんは寝るのと泣くのがお仕事なんですからね。

 それに今はまだ生まれたてだから、起きていても目は見えていないのよ。

 だから見ているようで、秀彦も早次も見てはいないのです。

 だからね、そっとしておきましょうね。」

 

 ウン!と頷くふたり。

 でも無言のままいつまでも可愛い弟を眺め続けるのだった。

 

 

 

 

 

 

 そんな平和で幸せな影山家とは裏腹に、秀則の職場には突然の災害級の嵐が吹き荒れた。

 

 企画院事件である。

 

 企画院と軍部と公安のパワーバランスが崩れ瞬間、企画院から次々と逮捕者が出たのだ。

 それも、その波は二度に渡って。

 

 一度目は1938年10月、京浜工業地帯労働者研究会の一斉検挙(世に言う「京浜グループ」事件)これを第一次企画院「判任官グループ事件」という。

 二度目は1940年10月、企画院発表の「経済新体制確立要綱」が赤化思想として攻撃され、原案作成にあたった中心的な企画院調査官および元調査官(高等官)が治安維持法違反容疑で逮捕され、検挙者17名の第二次企画院「高等官グループ」事件。

 一度目に検挙された判任官と二度目の高等官の力が削がれ、近衛内閣のブレーンである政策実行部隊の企画院解体(1943年)のキッカケとなった。

 そもそも企画院は国の重要な政策の企画・実行策定を担う人材の集まりであり、特に予算や法のエキスパートである官僚の発言力が強く、その分野においては素人である軍部は主導権を握れないでいた。

 だが、それでは官僚のひとり舞台だったかと云うとそうではない。

 官僚に対抗できるもうひとつの勢力が存在したから。

 その勢力とは財界。

 当時の日本は財閥が資本を独占しており、三井・三菱・住友・安田・五代の資本力、工業力等が実際の産業や国策の実行を支えていた。

 そしてその財界と結託していたのが内務省。

 

 軍部は官僚に実質的に追従する立場にいて、企画院の政策遂行には協力的だったが、そこに待ったをかけたのが財界と治安維持を司る内務省(公安)勢力という図式だった。

 

 

 1940(昭和15)第2次近衛内閣が提出した「経済新体制確立要綱に関する企画院案」に対し、小林一三商工大臣らの財界人らが「赤化思想の産物」であると非難、企画院はアカの巣窟と断じ対立の挙句、商工次官として実質的官僚の代表だった岸信介が更迭される。

 そして原案は骨ぬきとなり、更に平沼内務大臣の方針によって企画院調査官・職員が共産主義者として検挙されることとなった。

 

 

 ただこの事件により共産主義者が排除されるという組織変容はあったが、官僚の持つ主導権はまだ健在であり、後の動きとして太平洋戦争後半の敗色が見え始めた1943年(昭和13)、「軍需会社法」によって企業の利益追求を事実上否定、企業目的を利潤から生産目的に政策を転換させるという財界に対する画期的勝利を得た。

 その直ぐ後(1943年)の企画院廃止、一年後に敗戦を迎える。

 そして省庁改変を経て形を変えながら経済官僚はGHQの公職追放でもほぼ生き残り、戦前の強力な統制政策を転換する。

 そして行政指導・許認可制度、優遇税制・政策減税、予算手当てや補助金などを駆使、大蔵省・通産省・経済企画庁に渡って戦後の国家を牛耳る事となるしぶとさを見せた。

 

 

 それら企画院の大騒動を尻目に、秀則は着々と自分の足場を固めていた。

 

 1939年(昭和14)仏印へ約二週間、1940年(昭和15)3月タイへ二、三週間、更に朝鮮・中国まで足を延ばし企画院技師兼鉄道調査員の資格で視察した。その時は軍部から参謀本部の小森田中尉が同伴している。

 何故参謀本部が?

 それは秀則に思想的背景が見当たらないとはいえ、企画院技師としてマークされていたから。

 それともう一つ。

 今後の戦争の行方によっては、鉄道輸送が成否を決する可能性が高く、作戦の策定に大きく作用するかもしれないため。

 実際この後も企画院事件の余波を受けて、高等官グループの元職員である満鉄調査部員が検挙されている。

 このことから影響は同調査部にも波及。これを満鉄調査部事件という。

 国家統制と治安維持の名の下、企画院メンバーは徹底的に監視の対象とされたのだった。

 だが秀則はこの機会をチャンスと受け取り、各国、各地域の実情を意欲的に見学した。

 それは後の鉄道行政に生かすべく、俯瞰的視点を養う必要があったから。

 決してこの視察は物見遊山ではないのだ。

 

 ここからは余談になる。

 太平洋戦争(大東亜戦争)勃発後の世界では、南部仏印地域での日本軍の侵攻は目覚ましく、予想を超えた勢いで進軍した。

 そこで問題になったのは、映画でも有名になった『泰緬鉄道』建設に軍部がどう関わるか?等の課題を想定し、秀則がせっかく戦時下での鉄道建設計画の立案を任されたのに、その計画の下準備等が生かされなかった事。

 物資輸送の動脈確保が、如何に戦争の作戦遂行の死命を制するかが重要なのだから。

 なのに実際の歴史を見ると、インパール作戦等、物資補給(兵站)の失敗は明らかである。

 というか、この作戦に於いては、参謀本部ははなから兵站輸送を想定していない。

『兵站は現地調達を旨とする』とし、パラシュート部隊に対し、補給路が設けられてはいないのだ。

 その結果は歴史が示す通り。

 作戦に参加した兵の中から夥しい程の餓死者を出し、作戦は失敗している。

 秀則がいくら輸送路の充実確保に奔走しようとしても、作戦参謀に無謀な作戦を策定する無責任な者が居れば、傷ましい結果を産む。

 

 秀則の不幸は軍部の中の有能な人物と出会えなかった事。

 せっかくの鉄道利用の治験を活かせず、多くの犠牲者を出してしまった。

 

 これらは1940年当時の秀則から見た『後の世』の話。

 

 

 話を秀則が無事視察を終え、帰宅した時に戻す。

 

 

 

「ただいま。」

「あなた、お帰りなさいませ。」と百合子。

「お父さん、お帰り!」

「秀彦、早次、元気にしてたか?」

「うん!ボクたち、ケンカしないでちゃんと康三のお世話をしてたよ!」

「そうか?偉いな!」と云いつつ、(本当か?)と確かめるように百合子に目をやる。

 残念ながら百合子は視線を逸らす。その様子から子供達の留守中を察した。

 だがそれには触れず、

「父さんは満州で、ド偉い機関車開発の計画を聞いてきたぞ!

 夢のような超特急が数年後にできるそうだ。」

 今年10歳になる秀彦は目を輝かし、

「夢の超特急?それって凄いの?どんな感じ?」

「それはな、物凄くカッコよくてな、そして物凄く早く走るんだ。

 アメリカにもヨーロッパにもない、超華麗な機関車なんだぞ。

 満州は遠いけど、その汽車が出来たら家族みんなで乗りに行こう。」

「ワ~イ!楽しみだな!」

 飛び上って喜ぶ秀彦たち。

「あなた、そんな開発計画、口外しても良いの?」と百合子が不安げに聞いてくる。

「多分、大丈夫だろう。具体的な詳細まで明かした訳ではないし。

 夢のような計画があるくらいなら、知っていても問題ないレベルだしな。」

 

 だが、秀則一家がその新開発の列車に乗る機会はついぞ無かった。

 戦争が激化し、満州まで渡航するには幼子を連れた一家には難しい情勢だったから。

 

 その新開発計画の超特急が完成し、運用されるのは1943年。

 その機関車の名は『アジア号』といい、当時の世界最高レベルの傑作だった。

 この最新鋭機は何と!島村と彼の父が開発に参加している。

 完成した時の彼の鼻高々の自慢話を、後に嫌という程聞かされたのは言うまでもない。

 

 

 

 当の秀則はと云うと、仏印・タイの視察から帰還後すぐに鉄道調査部技師から外れ、企画院専任となる。

 

 第二次企画院「高等官グループ」事件が1940年10月に起きたが、そのタイミングの人事だった。

 嵐が吹き荒れる職場に敢えて身を投じざるを得ない秀則。

 

 正直、逃げ出したい想いを胸に、理想と信念と大切な家族を支えに踏ん張り続けようと思った。

 

 政治的思想とは無縁な自分は、軍部や公安に臆する必要は何もない。

 そう気持ちを奮い立たせるのであった。

 

 

 

 

 

     つづく

 


奇妙な果実~鉄道ヲタクの事件記録~ 第11話 島村の愚痴

2024-06-23 04:51:23 | 日記

 秀則一家が家族旅行から一週間ぶりに帰る。

 おアキさんにお土産を持参して。

「ただいま、おアキさん。留守中変わりはありませんでしたか?」

「旦那様、奥様、お帰りなさいませ。

 特に何もございませんでした。お帰りになられるこの瞬間までは。」

 帰ってくるなり騒々しい秀彦と早次を見て、ため息交じりにそう言った。

「ねぇねぇ、おアキさん!海ってね、とっても大きいんだよ!海の向こうはね、また海で、そのまた向こうもまだまだ海なんだ!そのずーと向こうには雲がモクモクってこ~んなに広がっているんだ!ね、凄いでしょ?

 ほんでもって、大っきな波がザッバーンって何度も何度もやって来るんだよ!ボクは『ワ~!』って慌てて逃げても、凄っごい速さで追いかけてくるんだ。

 おアキさんにもみせたかったなぁ~!

 あ!そうだ!これこれ!」

 そう言ってリュックの中から四つ折りにした画用紙を取りだして、秀彦が描いた海の絵を見せる。

「アラアラ、お上手だこと!この絵の下の砂浜に居るのは家族の皆さまですか?」

 麦わら帽子を被った人の姿が大小並んでおり、まるで単純化された記号に見える。

 それにしても入道雲が大袈裟なくらい大きい。

「そう、これがお母さんで、こっちのいちばん大きいのがお父さん。このちっちゃいのが早次だよ。夏休みが終わったら、この絵を学校に持っていくんだ!夏休みの宿題だよ。」

「そうですか、良かったですね。宿題の絵をチャンと描けて。」

「他にもこんなに描いたんだよ!」

 そう言って他の画用紙を3枚ほど見せる。

 人間らしき記号が真ん中に居る虫取りの絵に花火の絵、それに芝生の上で一家がお弁当やおにぎりを食べている絵もある。

「こんなに描かれるのなら、来年の宿題は絵日記がよろしいようですね。」

「絵日記?」

「そうですよ。その日あった出来事を絵と作文で描くんです。」

「へぇ~、それ面白そう!」

もう来年の夏休みも家族旅行に出かける想像をする秀彦であった。

(だけど、お母さんに叱られた時のことも書かなきゃダメ?

そんなの嫌だな。恥ずかしいし。)と思い浮かべ、真剣に悩む秀彦であった。

 

 早次はその間、ずーっとふたりの会話を聞いていたが元気なのは最初だけ。

 直ぐに百合子に抱っこをせがみ、たちまち夢の中に入ってしまった。

 

 こうして藤堂家の家族旅行は無事終了。

 またいつもの都会の喧騒と、繰り返される日常に埋没してゆくのであった。

 

 そして約3か月後。

 百合子が第3子の妊娠を告げる。

 その辺の具体的なやり取りは、もうこれで3度目になるので敢えて省略する。

 え?聞きたかった?

 ・・・ヤッパリ止めとく。

 だって今は戦時中の非常時なので。

 イチャイチャした惚気のろけ話は軍人さんに叱られそうだし。

 

 

 そして百合子から妊娠を告げられたのとほぼ同時期の10月25日付、秀則に新たな人事異動の命令が下る。

 それは鉄道調査部技師として、更に企画院技師を兼任するというもの。

 

 企画院?

 

 それは戦争遂行をスムーズにするため、国家経済の企画・調整を担当する内閣直属の事務機関。

 

 日中戦争が勃発したすぐあとの10月25日、内閣資源局と統合してできたのが企画院。

 第34代近衛文麿内閣の時に発足された機関で、国家総動員機関及び、総合国策企画官庁としての機能を併せ持ち、重要政策・物資動員の企画立案を統合した強大な機関である。

 

 戦時下の統制経済諸策を一本化し、各省庁に実施させる機関であり、国家総動員法(1938年(昭和13)5月5日)制定以降はその無謬性を強めている。

 

 つまり秀則は鉄道省に籍を置いたまま、内閣中枢の最高機関での活躍を求められる存在となったのだ。

 

 企画院での彼の身分はやはり技師。

 企画院内では一般的に帝大出身者のポストである。

 やることは今までと大きな違いは無いが、鉄道省内でのものの見方と論理と、企画院の非常時での国家全体を俯瞰した見地の論理は違う。

 企画院では内閣が直面する様々な事情が直接見え、軍の動向、それらを見据えた先手先手の政策を奏上しなければならない。

 

 

 時は内蒙古に自治政府が成立、11月には9カ国条約会議開催。(日本は不参加)

 日中戦争とはいえ、日本、中国の二国間戦争の枠を超え、欧米列強が中国に加担する図式が会議にて決定された時期であった。

 孤立する日本。

 まさに国家非常事態の危機感満載の雰囲気が充満していた。

 

 

 

 僕は戦争の是非とは関係なく、自分がどんどん政府の中枢に引き込まれていく危うさと不安が増してきた。

 僕は鉄道が大好き。

 だから趣味も志しも鉄道に傾倒したのは当然である。だから真っ直ぐに鉄道省に入った。

 なのに、いつの間にか自分が望んだ訳ではない戦争遂行政府の中枢に居る事に違和感を覚える。

 もちろん僕は普通の一般的な日本国民として、日本のためになるならこの身を捧げるつもりである。戦争遂行も厭わない。

 だが、何故か釈然としない。

 自分の夢や理想が、いつの間にか戦争に利用されるという事実に。

 その純粋な気持ちを、心ならずも理想とは違う現実に引っ張られるのは、何かが違う気がする。

 鉄道経営は、もっと人のための楽しい存在であるべきだろう。

 兵員や軍需物資を最優先に遅滞なく輸送するのが至上命題だなんて、僕が夢見てきたのと違う。

 こんなこと他人に言ったら甘いと非難され、非国民と罵られるだろう。(当時は『非国民』と非難するのが流行りだった)

 だから決して誰にもこの気持ちは打ち明けられない。

 

 だけどヤッパリ、自分の信念は曲げられない。

 

 鉄道は人的総合力の結晶である。

 運営にあたるすべての部署・人員が心と力を合わせ、足並みをそろえて邁進するのが理想で円滑な鉄道運営である。

 だから皆が納得し、希望を以って仕事をする職場環境が大切であり、命なのだ。

 明日の食事にも事欠くような劣悪な賃金・経済環境や、差別や不当なパワハラが横行するような職場環境では経営は絶対にたちゆかない。

 だからと言って過度な保護や、権利の乱用を奨励するべきとも言っていない。

 今できる事を、誰もが納得できる常識的の範囲で最大限努力すべきなのだと言っている。

 

 職場をタコ部屋にしてはいけない。

 働く者の人権を蹂躙してはいけない。

 誰もが出来得る限りの最高な技術習得の機会を閉ざされてはいけない。

 

 この世の中は、あまりにも人の命と権利が軽い。

 下層民の生活環境が劣悪過ぎる。

 

 自分にはそれらを改善する力はない。

 でも、せめて鉄道環境だけでも理想を実現したいのだ。

 

 海外視察で見てきた諸外国も、日本の現状も僕の目からみたらまだまだ途上にある。

 だが本当なら、人種差別も貧富の差の階層差別も鉄道には要らない。

 

 日本国内にも貧困層は多く存在する。

 更に朝鮮・満州の労働環境を見ても、決して褒められたものではない。

 

 確かに日本人の中には自分はエライのだと勘違いして、現地の人間を見下す輩は意外と多い。

 ただ自分は日本人というだけで、支配者階層と思い違いをしている者たち。そんな自分に一体どれだけの力があるというのか?威張れるだけの実力と根拠があるのか?そう問いたい。

 そんな輩には、日本がアジアで先遣を切って走る民主国家の主権者となるべき、自覚ある市民としての意識改革の努力が足りないとの誹りを肝に銘ずるべきであると思う。

 だから半島労働者の扱いも、満州での人材発掘も人権をおざなりにしてはいけないのだ。

 もちろん朝鮮人や満州の中国人の間には反日思想が渦巻いているのも事実である。

 そして彼らの労働意欲がそのせいで損なわれていることも。

 

 実際、戦争が終わった後世(今現在)で、中国人や朝鮮人がありもしない日本による残虐行為や人権に関わる差別をでっち上げ、歪曲し日本を執拗に攻撃している。

 どれだけ理詰めでかれらの言いがかりを論破しても、一向に意識と主張を変えることは無い。

 それが彼らの本質であるのも確か。

 後世だから言えることだが、彼らには関わるべきでなかった。

 つくづくそう思う。

 

 だが、今はそんな後悔している場合じゃない。

 気を取り直して敢えて言うが、それらダメな部分が彼らの民族全ての意識であるとは言えない。

 純粋に意欲と良識と理想を持った者も存在するから。

 職場と仕事に無気力や悪意を持つ者は排除しなければならないが、崇高な理念や志し、努力を惜しまない者たちは正当な評価を受けるべきだと思う。

 それが僕の基本スタンスである。

 その考えが絶えず企画院の同僚たちや軍部との衝突を産む。

 今は戦時の非常時であり、そんな悠長な意見を受け入れている場合でない!と。

 

 

 

 秋の深まるある日、島村と飲む機会を設けた。

 島村は大層腐っている。

「島村、どうした?何か気にくわないことでもあったか?」

「ああ、気にくわないね!お~い、おねぇさん、ジャンジャン酒を持ってきてくれ!」

 手招きしながら女給さんに注文する。

「何だか荒れてるな。今は戦時中だってこと、忘れるなよ。深酒は禁物だし。」

「これが飲まずにいられるか!ってんだ!」

「何をそう怒ってるんだ?仕方ないから僕が聞いてやる。何でも言ってみぃ?」

「随分上から目線でいうな。

(気を取り直して)おぅ!今日は俺の愚痴を聞いてくれ。こんな事話せるのはお前だけだしな。」

「愚痴を打ち明けられるのは僕だけ?友は僕だけか?お前って本当に友達が少ないな。」

「ほっとけ!人付き合いが下手で不器用なお前に言われたくない!」

 お互いの交友関係の狭さを熟知した昔からの友同士、無駄に傷口に塩を塗るおバカなふたりであった。

「実はな、俺が2年前開発したD51が機関士の間で不人気でな。」

「ほぅ、不人気?まるでお前のようだな。

 人気のないお前が作るのだから作品も不人気なのは必然だろ?」

「やかましい!俺は不人気なんかじゃないわ!巷で鉄道省の『大河内傳次郎』と呼ばれているこの俺様を捕まえて、人気が無い?何が不人気なもんか!」

「大河内傳次郎?そんな根も葉もない出鱈目な評価を誰がした?有り得ないだろ?」

「エェ~い!そんな事はどうでもいい!話の本題はD51だ!」

「そうだったな・・・。D51だったな。で?D51がどうした?」

「あれはな、単式2気筒過熱式のテンダー式蒸気機関車でな、俺としては傑作だと思っているんだが、勾配線を担当する各機関区の連中から、D51形じゃなくて前世代のD50形の配置を要求してきたんだ。半ば公然と受け取りを拒否してきたんだよ。」

「そりゃまた豪気な話だな。何でまた受け取り拒否を?」

「それなんだ。D51の何が気にくわない?って聞いたら、ボイラーの重心が極端に後方に偏っているんだってよ。しかもその傾向を助長する補機配置のせいで、動軸重のバランスが著しく悪いし。って言うんだ。」

「専門的な事はよく分からんが、そのバランスの悪さが致命的ってことか?」

「致命的って・・・、開発者の前なんだからもう少し気を使ってくれないか。

 要するにそれが原因で列車牽き出しの時に空転が頻発するんだってよ。

 その上更に軸重バランスの悪化の辻褄合わせで、運転台の寸法を切り詰めて狭くしただろって指摘してきたんだ。

 しかもテンダーの石炭すくい口の位置が焚口に近過ぎて、窯たき乗務員に劣悪な環境での乗務を強いてるって言うんだ。

 そんなの仕方ないだろ!」

「ヤッパリよく分からんが、要するに使いにくく、狭くてダメってことか?」

「おいおい、身も蓋もない容赦ない言い方だな。」

「でも彼らの言い分はそういうことだろ?」

「まぁ、そう言っちゃ、そうだけど・・・。」

「事前に試運転とかしなかったのか?」

「勿論したさ!俺だって入省時の新人時代は窯たき修行から始めているし。」

「じゃぁ、何でクレームが来たんだ?

 動力性能だけを追求し過ぎたんじゃないのか?」

「ある程度の欠点があるのは事前に分っていたけど、そんなの許容範囲だし。それに軍の要求には逆らえないだろ?開発には期限があったし。」

「軍の我儘と横暴には困ったもんだな。その辺はよ~く分るよ。

 でもな、だからって使えないものを造るって本末転倒だろ?

「使えないって・・・」

「現場から受け取り拒否されるって、そういうことじゃないか?

 厳しいこと言うけど、ダメなものはダメ、出来ないものはできないってキッパリ主張しなきゃ。

 軍の要求なんて、理詰めで対抗しなきゃ押し切られるだけじゃないか。」

「気合と根性で凝り固まった筋肉脳の軍のお偉いさんたちに理詰め?無理!」

「まぁ、確かに。」(そこで納得するんかい!)

「でもここで問題点が浮き彫りにされたのだから、これをラッキーと思わなきゃ。」

「ラッキー?」

「またはチャンスさ。」

「チャンス?」

「だって改善点を指摘されて使えないと云うのなら、いい機会じゃないか?

 それを錦の御旗に堂々と改良できるだろ。

 軍も流石にそれじゃ文句も言えないし。」

「それもそうだな。藤堂、お前100年に一度は良い事いうな。」

「100年に一度かい!」

「お前がそんなに老獪な策士だとは思わなかったよ。」

「企画院の魑魅魍魎ちみもうりょうの中でもまれていたら、自然とそうなるよ。」

「そういゃ、奥さんも策士だったな。お前も苦労してんだな。」

「ここで愛する妻の百合子を引っ張り出すな!」

「よくも俺の前で『愛する妻』なんて恥ずかしい事、堂々と口に出せるな!」

「実は百合子は今、三人目を妊娠中なんだ。」

「お盛んな事で。

 ヤッパリお互い苦労するな。」

「そうだな・・・。」

 

 

 お開きにして家に帰ると、妻がまだ起きている。

 百合子をマジマジと見つめていると、

「何ですの?」と恥ずかしそうに聞いてくる。

「百合子、愛してるよ。」と囁く僕。

 

「バカ!」

 

 

 

 

 

 

     つづく