知り合いに「梓の真似はここがポイント」みたいな話をしたら「そんな細かすぎるところ誰もわかんねーよ」的に云われたので、「うなかじま梓の小説道場」がどういうところに注意して書いたものなのか、軽く解説してみようと思ったのでした。
道場をはじめる!
基本形。出だしにこれをつけるだけで小説道場っぽくはなる。
が、これは回を重ねるごとにその時の気分によっとどのように変化をつけていくかが腕の見せ所となる。
……などと気合を入れて始めてはみたが、小生、少々緊張しておる。
(略)そしてそうすることにしたのである。
前置きでだらだらくだらないことを云うと一気に道場指数がアップします。
で、へんへは(あっあっ、一気に楽になった)久しぶりの道場で床なぞきゅっきゅっと磨きつつ「ちゃんと門弟が来てくれるかしらん」なんて思っていたのだけれど(略)ここは枯淡の境地で達人風指導をさせてもらいますかのう。ふぉっふぉっふぉっ。
一番のポイントは見ての通り「あっあっ」である。終わりのほうの「ふぉっふぉっふぉっ」も同類のものだが、こういう恥ずかしい中学生の一人芝居のようなものをどれだけ平然と投与できるかが道場主になれるかどうかの分水嶺である。
「道場の床を~」にも通ずるポイントなのだが、道場主はかわいこぶることに躊躇してはいけないのだ。一方で、作家生活三十年など、自分がちょっと気にしている歳のこととかもネタにしつつ、かるく自分の経験を誇示して権威づけする図太さも忘れてはいけない。
こけらのことを恥じらいもなく堂々とやることで、道場主特有のコケティッシュさが生まれるのだ。
さて、復活道場最初の投稿作は、広瀬未知門弟希望の 『ジャパニーズの恋人』原稿用紙換算100枚。(タイトルをクリックすると作品ページに跳ぶようになっておる。21世紀を迎え当道場もワールドワイドに進化したのだ! いやあ便利便利)
やはりカッコ内のポイントだ。こういうギャグとしてあまり成立していないはしゃぎ方が道場主らしさを加速させていく。またカッコ自体が多いことも道場主のアイデンティティーである。本当は傍点もたくさん打ちたいのだが、ブログで傍点を打つやりかたがわからないのでやっていないのは秘密だ。
まずは門番二人の評を。
とと、失敬、門番二人の説明をしていなかった。
この「とと、失敬」がやはりポイントで、普通ならば文章なんだから書き直せばいいところを、失敬とかいってそのまま続けることによって、中島梓の異能であった「ライブ感あふれる文章」が生まれるのだ。
今回、残念ながら門番頭は多忙のため(なにせ門番頭、今では教授さまでケーコたんの同僚なのである)新しく二人の門番、MとHを用意した。このようなことははじめての二人ではあるが、なんの、二人とも年季の入った読書家(もちろんJUNEもよく読んでおる)であるので、そこは安心してよろしかろう。
24年組等の大物先輩作家たちの名前を気安く出すことによって、自分の大物感を演出することを忘れるな。
で、評の内容はずっと飛ばして
きみがこの物語で目指したものが、大仰でドラマティックな世界(例えば栗本薫のような)ではないのはわかるが
栗本薫の名前をまるで他人のように出す、しかも油断すると褒めの対象として出すのが梓の恐ろしいところである。
そもそもゲイバーでナンパしてきた相手の世間体をいつまで気にしとるんじゃい。
時々、語尾を崩すことを忘れるな。
いつも「おる」「である」しか使えないようでは道場主失格である。
ただし、ここの「じゃい」はちょっと失敗したかも、と思っておるんじゃい。
例えば、せっかく攻めの方が教授なんだから、恩師の娘と結婚させられそうになっていて、ウィルくんは出世のことを考えて身をひこうとする。しかしその結婚を捨ててウィルくんのもとに戻ってきてめでたしめでたし、くらいのことはしなくては。
呼吸をするようにテンプレストーリーを語れ。この部分に関しては、たくさん読んでテンプレストーリーの量産ができるようになることが望ましい。栗本薫・中島梓を支えていたのは無節操な読書量であることを忘れるな。
四行も使っているが、これはいらない。二行目だけで十分だ。(略)だから門番H云うところの「心理状態などをくどくど言葉で説明されると興醒め」になってしまうのだよ。
文の具体的な添削を一箇所だけでもやることによって、あたかも「この人は作品全体にこれくらいの分析をしているのか」という威圧感を読者に与えることができる。その添削が多少的外れでも気にしてはいけない。やってやるのだ。
それをさらに作者の人格や作品全体の書き方にまで話をひろげ、しかも門番の評を利用して「これがみんなの意見」であるかのようにふるまうことによって、わずかなところから深いところまで洞察できているかのように見せることができるのだ。
「門番の評って、そういう意味じゃないんじゃない?」という疑問を抱かせる隙を与えるな。スピードで流せ。
大山鳴動・針小棒大・牽強付会、栗本薫や中島梓の文章では常にこれらを意識するのだ。
これらがすべて合わさってはじめて道場主の文章となる。
あのね、疑問を提示したら、すぐに答えを教えちゃダメ。すこしくらい焦らしてあげなくちゃ、読者は気まぐれで飽きっぽいから読んじゃくれないよ。
えらそうな口調で分析して威圧したあとは、フォローとして優しいっぽい口調に切り替える。この勝手な先輩面がポイントだ。
いや、なにも道場主は「女のエロシーンなんざ見たくねーよ」とか云っているわけではないぞよ(小生は女の子も大好きなのだ)
梓のレズ妄想も忘れるな。
いや、私だってナリス様の自慰やトイレシーンを想像したいなどとは思わんよ? フィリップ様やエーベルバッハ少佐や厩戸皇子のそれを想像しないように、だ。
この部分が、今回の解説を書くきっかけになった細かすぎてわからない部分なのだが、順に解説していこう。
全体的に、ここは「実は少女マンガに関してはわりとピンぼけな梓」を表現している。
まず浮世離れした美形キャラの筆頭に自キャラであるナリスをあげる鬱陶しさ。
次に出すのが木原敏江作品の中でもわりとマイナーな『アンジェリク』のフィリップという、それわからない読者多いだろって感じの、例の出し方の下手さ。
わりとギャグだったり男臭かったりする『エロイカより愛をこめて』のエーデルバッハ少佐をここであげてしまう、漫画の読みこみの下手さ。
キャラ的・知名度的に真っ先にあげられてもおかしくない『日出処の天子』厩戸を最後にあげる、山岸涼子との微妙な距離感。
さらに名前すらあげない萩尾望都とのもっと微妙な距離感。
以上すべてをこの二行で表現したつもりだ。
梓の少女マンガの読み方が変だったこと、たまにでいいから思い出してください。
同じ内容の文で倍の行数を稼げるという新手の枚数稼ぎかしら(略)……なんてなったら、これはまるっきり筒井康隆の世界だな。わはは。
他人の失敗をネタにするという失礼なことだって、梓はやっちまう女なんだぜ?
こういう行為は相手を傷つけるかもしれないという、などという弱い自分にさよならしようぜ!
時々、筒井康隆に言及することも忘れるな。ナンセンス=筒井康隆だ。
失敬。とにかく、あれはうっとうしいだけで意味がないし、無駄に枚数がかさむから即刻やめなさい。
「やめた方がいい」ではなく「即刻やめなさい」
この横暴な命令口調が先生らしさを加速させる。
色々と云いはしたが、文章はよみやすいし、広瀬くんは性格が良いのだろう、読んでてまったく嫌な気持ちにはならなかった。これは貴重な資質だ。少なくとも道場主には薬にしたくともない(それが私の長所だがね)
門番Mなどは「繊細な愛の光景もよく書けている」と云っている。この資質を残したまま、どこまで欠点をなくしていけるか、といったところだろう。
色々厳しく云った後で、ちゃんとほめることも忘れずに。
さらにその褒め言葉の間に自分のことも混ぜる顕示欲の強さも忘れずに。隙あらば自分の話がしたい。それが薫であり梓なのだから……
なんか思った通りという思った以上にというか、とにかく長くなってしまったので、めんどうだから解説はここまで。いざ解説してみたら思ったより面白くなかった
しかし各道場主ポイントにいちいち自分の文章のクセとの共通点を見つけてしまい、深刻な危機感を抱いております。
これが薫DNAってやつですか。
『小説道場』は(途中からですが)リアルタイムで読んでて、私のバイブル的な存在でしたが、自分にはこんな真似できません!
てっきり梓道場主の霊が乗り移ってるのかと思ったら、ここまで分析されていたとは……。
うなかじま先生の神通力、おそるべし。
ごめん、どうも伝わってないみたいだから言い直すけど
「ブログ道場なんて恥ずかしいだけでうぜえこと、したくないから絶対にしない」
道場主にコメントされたいなら小説書くぐらいの努力をすればいいのではないでしょうか?
率直なところ、ちょっとうざいので、いろいろと落ち着いてください。
行為ゆえの言動だとはわかっていても、対応できないものは対応できないです。
>主腐さん
クニへ帰るんだな……お前にも家族はいるだろう……
私の方も、どうもきちんと意図が伝わっていないみたいなので、
はっきり言いますね。
「ブログ道場」云々はネタです。
本気でうなぎさんにやってもらおうとか思ってません。
私自身、十代の頃栗本薫が大好きだったし、
栗本薫に対する愛は、うなぎさんにも負けてないつもりです。
愛し方は違っても、私なりに薫への愛を真剣に書いてるので、
私のブログにも遊びにきてくれたら嬉しいな、
というのが本当の意図です。
うざい思いをさせてすみません。
この手のディスコミュニケーションは慣れてるけど、
やっぱりこんなにも伝わらないものかと思うと、
自分の文章力のなさが情けなくなります。