JR片町線(学研都市線)「野崎(のざき)」駅。
片町線は、私が子供の頃から、墓参りに行く際に利用する路線であるが、乗り降りするのはいつも四条畷か住道で、その間にあるここ野崎駅を利用したことは5~6年前に1度あっただけ。
そして昨日、2度目の利用をした。
その目的は「野崎参り」。
駅から東へ3km余りの所にある、野崎観音こと曹洞宗福聚山慈眼寺(じげんじ)は、歌舞伎や文楽、落語などの舞台としても知られる。また毎年5月8日に営まれる「無縁経法要」は元禄時代から伝わる行事で、一般的には「のざきまいり」として親しまれ、5月1~8日までの間、駅からの参道には多くの露店が立ち並び、たくさんの参詣客で賑わう。
90歳の母から「ようかび」と聞いていたこの行事に、私が初めて行ったのが、今から5~6年前。そして今回は、妻と二人で足を運んでみた。
参道のスピーカーから繰り返し繰り返し流れる曲「野崎小唄」。お年寄りから小学生の女の子までが、口ずさみながら歩く姿が微笑ましかった。
野崎小唄 東海林太郎
片町線は、私が子供の頃から、墓参りに行く際に利用する路線であるが、乗り降りするのはいつも四条畷か住道で、その間にあるここ野崎駅を利用したことは5~6年前に1度あっただけ。
そして昨日、2度目の利用をした。
その目的は「野崎参り」。
駅から東へ3km余りの所にある、野崎観音こと曹洞宗福聚山慈眼寺(じげんじ)は、歌舞伎や文楽、落語などの舞台としても知られる。また毎年5月8日に営まれる「無縁経法要」は元禄時代から伝わる行事で、一般的には「のざきまいり」として親しまれ、5月1~8日までの間、駅からの参道には多くの露店が立ち並び、たくさんの参詣客で賑わう。
90歳の母から「ようかび」と聞いていたこの行事に、私が初めて行ったのが、今から5~6年前。そして今回は、妻と二人で足を運んでみた。
参道のスピーカーから繰り返し繰り返し流れる曲「野崎小唄」。お年寄りから小学生の女の子までが、口ずさみながら歩く姿が微笑ましかった。
野崎小唄 東海林太郎
「こんぴらさんに行ったことないというのは、香川に来た意味がないです」
高松にいた頃、職場の若い同僚が言っていた。
確かに香川県に半年も住んでいながら、一度も金刀比羅宮に足を運ばなかった。忙しかったとは言え、勿体ない事をしたと、私自身も思っていた。
そんな心残りをようやく解消するべく、先月の27日と28日、妻と二人で、香川を旅してきた。
27日朝、大阪難波から高速バスに乗り、一路高松を目指す。途中かなりの雨に見舞われたものの、昼前の高松到着時には、傘なしで歩ける程度に止んでいた。しかし相変わらずのスッキリしない天気。その日は高松市街地のアーケード街で、過ごすことにした。
到着したのが昼前とあって、当然ながら腹が減っていた。そこで今回のもうひとつの目的、うどん屋のハシゴを始める。
香川県民だった半年間は、やはり毎日のように食べていたうどん。その後全国的なブームになって、街中にも当時は無かった新しい店が、何軒か増えていた。
先に結果を言うと、今回食べたうどんは、全部で5食。
こんなのやら……、
こんなのも食べたが……、
中でも一番美味しかったのが、私が昔住んでいたマンションからもほど近い店「うどんバカ一代」の「釜バターうどん」!
けど……、あまり美味そうだったので、写真を撮るのも忘れてしまった……。
うどんバカ一代
http://www.udonbakaichidai.co.jp/
結局1日目は、妻をあちこち案内しながら「松島二丁目」から「瓦町」まで電車に乗って、またブラブラ歩いて、ホテルにチェックイン。このホテルも、昔はオーディション会場となり記者会見場となりレセプションパーティー会場となった、思い出のホテルだが、私が宿泊したのは、今回が初めて。
琴電(高松琴平電気鉄道)志度線「松島二丁目(まつしまにちょうめ)」駅。
琴電志度線「瓦町(かわらまち)」駅。
かつて住んでいたマンションからは、自転車通勤していた私だったが、雨の日だけはこの松島二丁目駅から職場近くの瓦町駅まで、電車を利用していた。しかし高松は雨の少ない街。確か2~3度しか利用した記憶がない。
2日目は、ホテル近くの「片原町」で1日乗車券を購入し、金刀比羅宮のある「琴電琴平」へ。
琴電琴平線「片原町(かたはらまち)」駅。
琴電琴平線「琴電琴平(ことでんことひら)」駅。
785段の階段を登り、無事念願の金刀比羅宮に参拝。
時間に余裕もあったので、帰りに栗林公園をも散策。
琴電琴平線「栗林公園(りつりんこうえん)」駅。
少し足は疲れたが、一度も傘の世話になることもないお天気に恵まれ、連休前のゆったりとした流れの中で、意味のある香川の旅を楽しむことが出来た。
琴電琴平線「高松築港(たかまつちっこう)」駅。
JR高松駅に近く、帰りはまた片原町駅から乗りこの駅で降り、高速バスに乗車した。
高松にいた頃、職場の若い同僚が言っていた。
確かに香川県に半年も住んでいながら、一度も金刀比羅宮に足を運ばなかった。忙しかったとは言え、勿体ない事をしたと、私自身も思っていた。
そんな心残りをようやく解消するべく、先月の27日と28日、妻と二人で、香川を旅してきた。
27日朝、大阪難波から高速バスに乗り、一路高松を目指す。途中かなりの雨に見舞われたものの、昼前の高松到着時には、傘なしで歩ける程度に止んでいた。しかし相変わらずのスッキリしない天気。その日は高松市街地のアーケード街で、過ごすことにした。
到着したのが昼前とあって、当然ながら腹が減っていた。そこで今回のもうひとつの目的、うどん屋のハシゴを始める。
香川県民だった半年間は、やはり毎日のように食べていたうどん。その後全国的なブームになって、街中にも当時は無かった新しい店が、何軒か増えていた。
先に結果を言うと、今回食べたうどんは、全部で5食。
こんなのやら……、
こんなのも食べたが……、
中でも一番美味しかったのが、私が昔住んでいたマンションからもほど近い店「うどんバカ一代」の「釜バターうどん」!
けど……、あまり美味そうだったので、写真を撮るのも忘れてしまった……。
うどんバカ一代
http://www.udonbakaichidai.co.jp/
結局1日目は、妻をあちこち案内しながら「松島二丁目」から「瓦町」まで電車に乗って、またブラブラ歩いて、ホテルにチェックイン。このホテルも、昔はオーディション会場となり記者会見場となりレセプションパーティー会場となった、思い出のホテルだが、私が宿泊したのは、今回が初めて。
琴電(高松琴平電気鉄道)志度線「松島二丁目(まつしまにちょうめ)」駅。
琴電志度線「瓦町(かわらまち)」駅。
かつて住んでいたマンションからは、自転車通勤していた私だったが、雨の日だけはこの松島二丁目駅から職場近くの瓦町駅まで、電車を利用していた。しかし高松は雨の少ない街。確か2~3度しか利用した記憶がない。
2日目は、ホテル近くの「片原町」で1日乗車券を購入し、金刀比羅宮のある「琴電琴平」へ。
琴電琴平線「片原町(かたはらまち)」駅。
琴電琴平線「琴電琴平(ことでんことひら)」駅。
785段の階段を登り、無事念願の金刀比羅宮に参拝。
時間に余裕もあったので、帰りに栗林公園をも散策。
琴電琴平線「栗林公園(りつりんこうえん)」駅。
少し足は疲れたが、一度も傘の世話になることもないお天気に恵まれ、連休前のゆったりとした流れの中で、意味のある香川の旅を楽しむことが出来た。
琴電琴平線「高松築港(たかまつちっこう)」駅。
JR高松駅に近く、帰りはまた片原町駅から乗りこの駅で降り、高速バスに乗車した。
JR予讃線(瀬戸大橋線)「高松(たかまつ)」駅。
初めてこの駅に降り立ったのは、1996(平成8)9月15日。開局前のコミュニティFMラジオ局が全国公募した、パーソナリティのオーディション会場へ向かった際。その時が、初めて香川県を訪れた機会でもあった。
その後9月中には、オーディション合格の連絡が入り、10月半ばには高松市内のワンルームマンションに移り住む。
12月に病気で入院して、新年を病院のベッドで迎え、1月5日退院。
そして1月の25日に放送開始。
毎朝まだ暗い6時には出勤し、7時から2時間の生放送。休憩と次の準備の時間を挟んで、11時半から今度は2時間半の生放送。
その他にも、他番組の構成演出やらCM制作やら若いスタッフの指導やら……、とにかく忙しい毎日を過ごしていた。
メシはと言うと、毎日のように讃岐うどんを食い、たまには川沿いに何軒かあった鰻屋で、滋養を確保した。
3月、自らクビとなって4月初めに帰阪するまで、およそ半年間という短い期間であったが、恐らくこれまでで一番忙しく、一番充実した毎日を過ごしていたであろう、そんな私の思い出がいっぱいに詰まった、高松である。
初めてこの駅に降り立ったのは、1996(平成8)9月15日。開局前のコミュニティFMラジオ局が全国公募した、パーソナリティのオーディション会場へ向かった際。その時が、初めて香川県を訪れた機会でもあった。
その後9月中には、オーディション合格の連絡が入り、10月半ばには高松市内のワンルームマンションに移り住む。
12月に病気で入院して、新年を病院のベッドで迎え、1月5日退院。
そして1月の25日に放送開始。
毎朝まだ暗い6時には出勤し、7時から2時間の生放送。休憩と次の準備の時間を挟んで、11時半から今度は2時間半の生放送。
その他にも、他番組の構成演出やらCM制作やら若いスタッフの指導やら……、とにかく忙しい毎日を過ごしていた。
メシはと言うと、毎日のように讃岐うどんを食い、たまには川沿いに何軒かあった鰻屋で、滋養を確保した。
3月、自らクビとなって4月初めに帰阪するまで、およそ半年間という短い期間であったが、恐らくこれまでで一番忙しく、一番充実した毎日を過ごしていたであろう、そんな私の思い出がいっぱいに詰まった、高松である。