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西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

北校舎 7

2006年01月19日 00時26分38秒 | 小説
 浩人は、大宅とも香川とも、やはり他の生徒達と同じく、言葉を交わしたことがなかった。それ故、彼らの性格は勿論、彼らの普段からの関係なども、全く知る由もなく、ましてや、今目の前で始まったこの喧嘩の原因や、どちらに分(ぶ)があるかなど、全くもって想像もつかなかった。知っていることといえば、背の高い方が大宅で、背の低い方が香川ということぐらいで、つまり浩人にとっては、どうでもいい奴らの、どうでもいい喧嘩に過ぎなかった。しかし浩人は、その二人の内の一人が、いつか自分の机を運んできてくれた奴であったということに、やがて気付いた。それが大宅だった。大宅は生徒会長をしていて、クラスでもリーダー格の優等生である。出席日数十日程度の浩人でさえ、背の高い低い以外にも、それくらいのことは知っていた。大宅は、それだけ存在感のある奴だった。教室に自分の席がなくて、途方に暮れて困っている留年生に、自ら率先して机を用意してくれる、そんな気の優しい奴だった。浩人にしてみれば、机を運んできてくれた大宅に、あの時、礼のひとつも言わなかった借りがある。だからといって喧嘩の助太刀ができるほど、体力も腕力も備えていない浩人であったが、それでもいつしか、心の中で大宅の方にエールを送っていた。
 ふと我に返った浩人は、自分が軍鶏(しゃも)の格闘に興ずる見物客のように思えた。喧嘩は周りにいた連中が割って入り、ようやく治まった。他人事とは言え、終業式の後のこの騒動で、何か後味の悪い学期末となった。喧嘩が治められた後、大宅と香川の二人を横目で見ながら、浩人は教室を出た。その時、喧嘩を分けられた直後から、早々に大宅を無視するような態度をとった香川に較べて、どうもまだまだ憤懣(ふんまん)やるかたないといった大宅の形相は、浩人の脳裏に強く焼き付けられた。そしてその怒りに満ちた大宅の顔は、浩人が見た、大宅の最後の顔となった。

(続く)

北校舎 6

2006年01月18日 01時22分55秒 | 小説
 無言の始業式で始まり、やはり無言のまま終業式を迎える。そんな学期は、浩人の学校生活の中で、その時限りである。話をする友達がいない。同じ教室にいながら、一言の言葉を交わすことすらないクラスメイト達も、浩人には別の世界の人間でしかなく、そんな奴らに興味や関心はなかった。しかしその日、終業式を終えたその教室で、ひとつの小さな事件があった。その時は小さな事件であったが、それは後に、浩人に強烈な印象を甦らせることとして、忘れられない出来事となった。
 七月二十日の照り付ける太陽の下、運動場に全校生徒を集めて行われた終業式が終わり、それぞれの教室へ帰ってきた生徒一人一人に、白川先生から通知表が手渡された。次いで先生は、自分の担当する国語の宿題だと言って、子規や啄木、茂吉、鉄幹、晶子らの短歌が書かれたプリントや、夏休みの諸注意が書かれたプリントなどを配った。その後、クラスのほとんどである受験生達に、夏休みの重要性を改めて説き、春、数ヶ月前に自ら黒板の上に貼ったのであろう「狭き門より入れ」と大きく書かれた紙を指差した。そして先生は、最後にお決まりの如くこう言った。
「九月には、全員元気に再会しましょう」
 起立して、礼をすると同時に、掃除当番が箒(ほうき)を使いやすくするため、いつも通り、生徒全員がそれぞれの机と椅子を、教室の後方に引き摺り寄せた。その直後、小さな事件は起きた。大矢明(おおやあきら)と香川克利(かがわかつとし)が、突然、掴み合いの大喧嘩を始めたのだ。周りにいた生徒達も、一瞬、何事が起きたのか分からず、そのまましばらくは、呆気(あっけ)にとられて見ていた。浩人もまた、しばらく帰宅することも忘れて、この二人の対決を遠巻きに眺めていた。

(続く)

北校舎 5

2006年01月17日 00時23分01秒 | 小説
 浩人は、先の白川先生の「すべては合点している」といった感じの面持ちを思い出し、考えた。ホームルーム以前に、先生は何人かの生徒に指示して、倉庫から机を運ばせたのか? いや、浩人が久しぶりに登校してきたことを、先生は知らなかったはずだ。すると生徒の誰かが、浩人の登校を、事前に職員室の白川先生に知らせていたことになる。
 一人の男子が「あとは俺にまかせろ」といわんばかりに机を持ち上げると、周りの何人かが自分の机を動かし、彼に広く通路を開けた。教室の中ほどには、いつの間にか、浩人が座るべきスペースが空けられていて、彼らは運んできた机と椅子をそこに置いた。彼らはほとんど無言であったが、浩人もまた、無言であった。自分の的外れな想像に恥ずかしいやら、彼らに申し訳ないやら、そんなことばかりが頭の中を巡り、「ありがとう」の言葉も、口に出せなくなっていた。
 すぐに数学の里村治(さとむらおさむ)先生が来て、一時限目の授業が始まった。が、しかし、彼らが用意してくれた座席は、浩人が先に仮に座っていた誰かの席よりも、なおさら座り心地の悪いものになってしまっていた。その原因は誰のせいでもなく、浩人自身の、様々な反省や後悔によるものである。
 数学の授業が終わると、浩人はそそくさと学校を後に、自宅へと帰ってしまった。その帰り道、教科書の詰まった手提げカバンの重みは、それまで浩人が自分の腕に感じたことのない、重みであった。

 その年の一学期、浩人の出席日数は、ほんの十日ほど。だが周りの心配をよそに、本人は余り気にしていなかった。去年の一学期は充分に出席していたからである。浩人にとって中学三年生は、二年間あった。まるで大学か何かの、単位制のように思っていた。二回も同じことを繰り返さなくてもいい。だから今年の一学期はそんなに学校に行かなくてもいいと思っていたし、だから修学旅行にも行かなかった。
 でも本心は、全く気になっていなかったわけでもない。むしろ浩人本人が一番悩んでいた。去年の分で出席日数は充分だから、今年は欠席していていい。そんな自分勝手な道理が、通るはずがないことも分かっていた。分かっていても、学校に行けない自分を、どうすることもできない。勝手な道理は、そういう葛藤の中から生まれてきた。またそう思うことで、浩人は、自分自身の不安を落ち着かせようとしていた。十日ほどという申し訳程度の出席日数も、浩人なりの、精一杯の努力の結果であった。そして浩人は、二学期こそが正念場であることも、充分に理解していた。が、その具体的な対策までには考えが及ばぬまま、一学期の終業式を迎えた。

(続く)

北校舎 4

2006年01月16日 00時47分02秒 | 小説
「僕の、机と椅子がないんです……」
 浩人が耳打ちをするように話すその言葉を、終いまで聞かない内に、白川先生は皺だらけのままの顔を、うん、うん、と二度三度大きく縦に振った。それはなぜか「すべては合点している」という面持ちであった。
「栗栖君はそこに座っとりなさい」
 先生にそう言われて、浩人はまだ席に着いていない誰かの席を借りて座った。どうせ便所にでも行っているのか、他のクラスの奴らと話し込んでいるのか、そんなところであろう。いずれにしても、担任の先生が既に教室に来ているのに、どこかへ行ってしまって、まだ席に着いてもいないという、そういういい加減な奴が、その内この席に帰ってくることを思うと、その借りの席は、居たたまれなくなるほど、居心地がよくなかった。
 白川先生はひと通り簡単に出欠を採り、取り立てて何も言わず、何もせず、教室を出ていってしまった。張り切り救世主のあまりにあっけない退場に、浩人はまた動けなくなりそうだった。が、さすがに居心地の悪い席には耐え切れず、立ち上がり、さっきまで立っていた教室の片隅に戻ろうとした。それを情けなくも感じたが、誰かの席を借りているよりかは、よほどましに思えた。そして浩人は、そこでまた動けなくなった。

「ちょっとそこ通してんか」
 廊下からやや大きな声が聞こえて、再び止まってしまっていた浩人の周りにある空気が、また動いた。ホームルームの時にはいなかった何人かの生徒が、教室に帰ってきたのだ。恐らく、浩人が借りていた席の主もいるのであろう。さて、どれほどワルそうな奴らだろうか? 浩人は少しばかり不安を感じながら身構えて、彼らの入ってくる、教室の後ろの方の扉に注目した。だが、その浩人の想像は、あまりにも的外れなものであった。
 扉付近でたむろしていた数人の生徒を分けて、まず始めに教室に入ってきたのは、机であった。それを二人の男子が運んでいる。後にもう一人、椅子を持った男子が続く。それらはまさしく、浩人のために用意された机と椅子に違いなかった。

(続く)

北校舎 3

2006年01月15日 03時17分43秒 | 小説
「お前らこれでほんまに中三か? 情けない奴らやなあ」
 と、心の中で呟いた。本当は怒鳴りつけてやりたい気分であったが、それはしなかったし、できなかった。先輩づらをしたくなかったのだ。
 実のところ浩人は留年していた。このクラス唯一の中学四年生だった。昨年、原因不明の胸の苦しみに悩まされ、大事な三年生の二学期の大半を欠席した。義務教育の公立中学校だから、出席日数に関わらず卒業はできたが、言うに及ばず進学の可能性はゼロに等しく、結局、希望留年をしたのだ。
 元来学校嫌いの浩人は、この留年で、なおも学校が嫌いになってしまっていた。考えてみれば当然のことである。同じ教室にいるのは皆後輩ばかりで、言葉を交わす友達が一人もいないのだ。しかも浩人は、過去三年間クラブ活動もやったことがなく、縦のつながりがないので、顔見知りもほとんどいない。知っている顔と言えば、小学校の頃同じそろばん塾に通っていた、大山(おおやま)という名の女子一人ぐらいであったが、彼女とは口を利いたこともなかったし、向こうも浩人のことを知っているかどうかも分からなかった。あとは、そういえば校内のどこかで見たような顔だな、と思う程度にしか知らない連中ばかりだった。そんな学校が、好きになれるわけがない。だからまた学校が嫌になり、行かなくなる。そうして中学三年生をやり直すための留年は、全く意味のないものになりかけていた。
 口を利くこともできず、着ける席もなく、だからと言って今更家に帰ることもできず、暗い教室で、一人途方に暮れて動けなくなってしまっていた浩人を、ようやく動かしてくれたのは、担任の白川福子(しらかわふくこ)先生であった。歳はもう五十を過ぎていようか? 大柄で独身で、噂によると、組合運動バリバリという、張り切りオバチャン先生である。
 ホームルームで出席を採るためにやってきた白川先生は、教室に入るや否や、その扉のすぐ傍(かたわ)らに突っ立っていた浩人に、満面皺だらけの笑顔を見せた。だか久しぶりに学校に姿を見せた生徒に対して、別段驚いた様子ではなかった。多分、先生は浩人になるべく自然に接してやろうとしたのであろう。それだけ先生にも気をつかわせてしまっていた。余談になるが、後に「二回も行く必要はない」と行かなかった修学旅行の際にも、白川先生は、お土産に買ってきた信州高原のキーホルダーを、わざわざ浩人の自宅まで届けてくれたりもした。

(続く)

北校舎 2

2006年01月14日 00時00分00秒 | 小説
「ここまで来てしもたからには、もう帰られへんしな」
 橋を渡ったのは何週間ぶりだろうか? とにかく久しぶりの登校であった。別に大きな病気をしていたわけではない。ただ学校へ行く勇気がなかったのだ。朝、学生服を着てカバンを提げて自宅の玄関に立つのだが、扉を開けて家を出ることができない。この数週間の内にも、何度かそんなことがあった。後の時代なら「不登校」という一言(ひとこと)で片付けられたかもしれないが、昭和五十一年のこの当時、その言葉はまだ一般的ではなかった。
「こんなことやったら、家で朝ドラ観とくんやったな」
 八時十五分を過ぎ、朝の連続テレビ小説のテーマミュージックをフルコーラス聴き終えると、もうその時点で学校に遅刻する。遅刻するくらいなら、学校へは行かない。学校なんて、そこまでして行くほどの価値はない、そう思っていた。いつからか浩人にとって朝ドラは、学校へ行くか行かないかの、ボーダーラインになっていた。そしてできるなら、この四月に放映が始まってまだそれほど間がない、朝ドラの新シリーズの続きが観たかったのに、そんな気もしていた。
 もし今頃家にいれば朝ドラも観終えて、惰性で奥様番組か、民放のモーニングショーでも観ているであろう八時四十分、始業のチャイムが鳴った。が、誰一人席に着こうとはしない。市内有数のマンモス校、東野中学校はまた、不良が多いことでも有名であった。そういえばこの教室にも、リーゼント頭やらだぼだぼズボンやら、いかにもそれらしい奴らが何人かいる。暗い教室だった。そんな数人の不良どもと、すぐ南にある木造校舎の影が、他の生徒までをも暗くし、教室全体の雰囲気をも暗くしてしまうのだろうか? 浩人は、長く学校を欠席していた自分の机と椅子が、この暗い教室から抹殺されてしまっていたことに、多少のショックを覚えながら、しばらくただそこに突っ立っていた。
「なんちゅうひどいクラスやねん」
 浩人が学校を長期間休んだのは、これが初めてではない。小さな頃から体が弱く、よく病気をした。風邪をひけばすぐ高熱が出て、一、二週間寝込むし、大病で入院して数ヶ月間学校に行けないこともあった。ただそうしてどれだけ長く休んでも、久しぶりに登校した教室には、いつもの自分の席が待ってくれていた。しかしこの教室には、浩人の席はなかった。

(続く)

北校舎 1

2006年01月13日 00時29分28秒 | 小説
 第一章


「これやから、学校へ出てくんのんは嫌やったんや」
 栗栖浩人(くるすひろと)は、自分の机のない三年二組の教室の片隅に佇(たたず)み、小声でぼやいた。
 鉄筋コンクリート三階建てのこの北校舎は、建設されてから既に十数年。未だに新館などと呼ぶ人もいるが、その割には中学校内の一番北側に位置していて日当たりも悪く、薄暗くて、外観もやけに煤ぼけた色をしていた。浩人自身もあまり好きではなかったそんな北校舎の三階の奥に、三年二組の教室はあった。
 《東野の流れのほとり……》と、その校歌に歌われる通り、この町のほぼ中心を南北に流れる東野川(ひがしのがわ)のすぐ東に、市立東野(ひがしの)中学校がある。その幅およそ十五メートルくらいであろうか、大きいような小さいような、川のような溝のような、水の色も冴えないこの東野川も、昔昔はたくさんの魚が泳ぎ、夜になると蛍も飛び交う美しい川であった。しかし浩人の生まれた昭和三十年代、高度経済成長期にその上流に建設された染色工場の排水により、いつしか汚染の川に変わり果てた。日によって、あるいは時間によって、赤、青、黄、そして緑…と、様々に色を変えるこの川は、また別の意味で、美しい川となった。そして昭和四十年代後半、「公害」という言葉が次第に一般化されるのにともなって、やがてその毒々しい極彩色は消えることになったが、それでもまだまだ、魚や蛍の遊ぶ川までには、甦っていなかった。
 浩人が自宅を出て十分ほど歩くと、この川の西側の堤防に突き当たる。そして道を左に折れ、堤防沿いの緩やかな坂道をしばらく上っていくと、古い小さな木の橋がある。人と自転車しか渡れないこの木橋は、毎日毎日、全校生徒千七百人の約半数が通る橋にしては、いつもぼろぼろで、大雨で川が増水した時には水に浸かり、あるいはその一部が流されて、渡れなくなってしまうこともしばしばあるという危ない橋。その危ない橋を渡ってすぐの所に学校の正門があり、正門を潜ってすぐ左手に、北校舎はあった。

(続く)

蟻に訊きたし 10

2006年01月10日 00時51分04秒 | 小説
 縁側に腰を掛けて爪を切っていた繁の足元に、庭のどこからか蟻が寄ってきた。そして蟻は、今繁の指先から切り落とされたばかりの爪を、ヨッコラショとばかりに持ち上げ、ヨロヨロと歩き始めた。一匹、また一匹、自分の体の何倍もの大きさの爪を、時には蟻同志助け合うように、また時には奪い合うようにして、彼らの巣へと運んでゆくのだった。繁は、蟻に尋ねてみたかった。
「俺の爪、何につかうんや? いったいどんな使い道があんねん?」……と。
 そんな繁の問いに答えるはずもなく、蟻の行列はなおも無心に、繁の爪を運んでいった。その光景は、やがて忍び寄る夕闇と、迫り来る冬の寒さに早急に備えるべく、皆先を急いでいるかのようにも見受けられた。

 既に夏休みも終わり、ツクツクボウシが鳴いているというにも拘らず、その年の残暑は長く続き、十月に入ってからもまだ何日か、気温が三十度を超える真夏日を記録する日があった。
 長い長い夏の間、繁は病院に行く以外は、ずっと一日中家で過ごした。その間何度、家の縁側に腰を下ろし、自分の爪を蟻に託したことだろう。そのお陰もあってか、苦手だった爪切りも、少しは上手くなった。
 そうしてようやく肌寒さを感じる季節を迎え、やがて蟻も姿を見せなくなった頃、やっと繁のギプスがとれた。三ヶ月ぶりに姿を現した自らの左腕は、筋肉が落ち、痩せこけてしまっていた。だがしかし夏の日差しを知らずに過ごしたその真白な肌が、繁にはやけに眩しく見え、またその左腕に、大いなるいとおしさを感じた。

(完)


小説、次はいよいよ私の処女作『北校舎』です。私の中学生時代最後の一年を描いた自伝的作品。『BW(ブルーウェーブ)』と同じく、第72回コスモス文学新人賞入選。400字詰め原稿用紙62枚に及ぶ中編小説のため、連載は恐らく一ヶ月前後に渡る見通しです。少々長丁場になりますが、ご愛読宜しくお願い申し上げます。

蟻に訊きたし 9

2006年01月09日 00時46分34秒 | 小説
 球団の寮を引き払い、久しぶりに帰ってきた我が家には、もうあの神様の写真は一枚もなかった。繁が幼い頃から、家中あちこちに貼ってあった小林投手のポスターは、繁の入院中に父が全部剥がして、一枚残らず燃やしてしまったのだそうだ。その父はあの日以来、繁とあまり顔を合わそうとはしない。
「すまんかったな……」
 同じあの日、病院のベッドに横たわる繁に、父は言った。
「それはこっちの台詞やで」と、繁は返事をしたかったが、言葉が出なかった。言葉の代わりに、大粒の涙が溢れ出た。その涙の向こうにある父の顔面には、青痣(あおあざ)とバンソウコウが見えた。あとで母に訊けば、繁がグラウンドから担架で運ばれていく際、スタンドから、「引っ込め! この人殺しのへぼピッチャー!」と野次を飛ばした男に父が詰め寄り、結局取っ組み合いの大喧嘩をしたらしい。乱闘は、グラウンドの中だけではなかったのだった。
 繁は父の夢であり、またその父の夢は、繁の夢でもあった。そして父と繁その二人の夢は、あの日、互いに乱闘の中に消えた……。

「繁、あんたまた爪伸びてきてるんとちゃうか? ちゃんと切っとかな危ないがな」
 あの日以来、俄然無口になってしまった父に代わって、心なしか最近は母が口うるさくなったような気がする。
 知り合いからの縁談で見合いをしたという父と母は、西宮市甲子園町出身の母に父が一方的に熱くなり、そのまま父が押しの一手で結婚した。それから二十一年間続いた亭主関白も、今ここにきてようやく翳りを見せ始め、一方、いよいよ私の時代が到来したと言わんばかりに、母は妙に張り切っているように見える。
「お母ちゃんが爪切ったろか?」
「あほなこと言わんといてくれ、子供やないねんで。また真弓と若菜に冷やかされるやないか」
繁はもう十年以上、爪を切っていなかった。野球を始めた頃、指先を大切に扱わねばならないプロ野球のピッチャーは、皆爪を切るのではなく、やすりで丹念に研いでいるのだということを、テレビのスポーツドキュメンタリーで知って以来、繁もずっとそれを実践してきた。だが引退を余儀なくされた今となっては、もう爪を研ぐ必要もなくなった。しかしもう何年も爪を切ったことがなかった繁にとっては、当然ながら爪を切る作業が苦手で、その上繁の左の腕から肩にかけては、今まだギプスが覆っていて、思うように腕を動かすことができない。二週間ほど前、おぼつかない手つきでどうにか切ってはみたものの、思わぬ深爪をして痛い思いをしてしまった。それを見るに見兼ねての母の好意ではあったが、妹たちの目がある手前、そう甘えるわけにもいかず、女三人に囃(はや)されながら、繁は慎重な手つきで爪を切った。

(続く)

『蟻に訊きたし』は、次回にて完結します。

蟻に訊きたし 8

2006年01月08日 00時10分38秒 | 小説
 そしてボールは、繁の指先を離れた。センターのスコアボードには、繁が今までに記録したことのない一五三キロというスピードが電光表示されていたが、繁も、そして繁の父も、そのスピードを知る由もなかった。
 その直後、パコーンという乾いた音がして、ボールがフラフラッと舞い上がった。「キャッチャーフライか?」と繁が思った次の瞬間、今度はドサッという鈍い音がした。やがてボールは、仰向けに倒れたバッターのすぐ脇のファールグラウンドに落ち、ツーバウンドしたあと、小さく転がって止まった。デッドボールであった。パコーンというその乾いた音は、バットがボールを捉えた音ではなく、バッターのヘルメットにボールが当たった音だった。一五三キロの速球が頭を直撃したにもかかわらず、バッターに怪我がなかったのは奇跡的で、まさしく不幸中の幸いであった。が、その幸いが、繁に次なる不幸を招いた。
 ボールを当てられて逆上したバッターはすぐさま立ち上がり、マウンド上の繁に向って突進してきた。そのバッターの形相にすっかり恐れをなしてしまった繁は、二、三歩後退りをしたが、すでにその繁の動きよりも素早く、相手の拳が繁の顔面に迫っていた。繁は咄嗟に避けた。そしてそれとほぼ同時に、繁の左肩に激痛が走った。バッターの怒りの鉄拳は、繁の顔面を逸れ、左肩に突き刺さっていた。突然の激痛に耐える繁に追い打ちを掛けるように、両軍の選手たちが津波のように押し寄せ、マウンド上に人の渦を作った。そして繁は、その大勢の人間が作る激しい渦の中をしばらく彷徨(さまよ)い、やがて渦の中に飲み込まれていった……。

 その後試合は、繁のあとを受けて急遽ウォーミングアップもままならず、肩ができていないままリリーフ登板したピッチャーが、連打を浴び火だるま状態となり、あっさり逆転されてしまった。その結果、繁のプロ初勝利も、永遠に幻のものとなったのだった。

(続く)