京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

蛤御門の変(禁門の変)5

2010-02-01 20:02:10 | お出かけ
進軍する長州兵と避難する京都の市民「甲子兵燹図」より・・・旗印に??

蛤御門の変(禁門の変)1864年8月20日(元治元年7月19日)長州藩と幕府軍の激戦であった被害の範囲を描いたかわら版が多く残され又各自が墨や朱色で記載している。
        
蛤御門附近の戦闘を描いたかわら版紙面から戦闘による火災であることが分かる図↑↓
 
元治元年子七月十九日辰刻頃
河原町二条より出火仕少し鎮方相成
候所已刻より堺町丸太町辺より又候
出火仕候折節北東風つよく相成
丸太町通を寺町へ焼出革堂
残る夷川を河原町にて火留る西ハ
烏丸通を上長者町又下立売は
新町椹木町西洞院丸太町
東ほり川下ハ野原まて焼ぬけ
西堀川通別条なし並本国寺又
西本願寺御堂別条なし東本願寺
ハミなミな焼失不動堂にて火留る
又東は加茂川通り突抜寺町木や
町等ハことことく焼失併祇園
御旅道場ハ別条なく東辺も
同断依て東ハ河原町
上ハ下立売下ハ九条
西ハ堀川まて焼失仕候
凡家数
二万五千計
かまと数
四万七千計
土蔵落
千五百ケ所
神社仏閣
五百ケ所

左が北,黒く塗られている所が焼けた範囲

左上の書文       
元治元甲子年
七月十九日河原町
二条下ル 御屋敷
朝五ツ時出火四ツ時堺町
御門より焼出シ其より
四方江焼広かり東加茂川
北今出川南焼抜老若男女わか
ちなく東山あるいハ山しな北山辺へにげ
ゆき其そうどう筆紙ニいたしかたし
さが天龍寺山さき伏見出火廿二日火しず
まり