江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

【169】 ビッグバンドとの共演

2006年01月17日 | 続・江利チエミ(初期記事・後編)
昭和36年 6月8日 
カウント・ベイシー楽団/日本サヨナラ公演(新宿/厚生年金会館)
チエミさんのメモリアルとしてその当日のコンサートの模様がLPとして発売されました。チエミさんは「我が恋はここに」と「キャリオカ」を熱唱しました。

世界に名だたるビッグバンドとのこの共演のことは過去にも掲示しました。この記載は ココ をご覧ください。(このLPのことは次章で掲示します。)


これに遡ること5年、チエミさんは来日した「ペレス・プラード楽団」とも共演しています。
昭和31年 10月12日~14日 
ペレス・プラード楽団/来日公演(国際スタジアム)ゲスト出演で「イスタンブール」「お転婆キキ」を唄ったそうです。もう一人のゲスト歌手は「雪村いづみ」さん。
19歳の少女が堂々と世界のビッグバンドを前に、歌を披露したのだそうです。
この「ペレス・プラード楽団初来日」で、日本ではマンボ・ブームが巻き起こります!           

>一世を風靡し、マンボのみならずラテン音楽全体の王様とまで呼ばれたペレス・プラードはキューバのマサンサスの生まれ。生年に諸説あるようですが、1916年説が有力です。 ピアノを習い始めたのが10歳、プロのピアニストとしてローカルなクラブや映画館で活躍を始めたのが16歳。その後1942年には首都ハバナへ移って、大小様々なオーケストラにフリーランスで参加しました。 48年、今度はメキシコシティで彼自身のオーケストラを結成し、翌年RCAと契約。 古くからキューバに伝わるマンボの形式にジャズの要素を組み入れ、リズムを強調するブラス群を加えたパワフルなサウンドが人気を呼びました。彼の挑戦的なレコードはアメリカでも好評で、それがインターナショナルへの道を開いたようです。そして「マンボNo.5」は空前の大ヒットナンバーとなったのです。 ペレス・プラードは世界各国で精力的に公演活動を展開しました。指揮をとり、ピアノを弾き、そのうちに立ち上がり、踊って、叫んで、空を切って…。そんなハイテンションでアクティブな彼のステージは、 世界中のファンの度肝を抜いた。 ヒットを連発したペレス・プラード楽団は、その後も長きに渡ってヒットチャートを賑わし、1960年代、70年代、そして80年後半まで活躍しました。1987年のアメリカ公演の後、ペレス・プラードはメキシコシティで惜しまれつつ他界。1989年9月14日のことでした。 (現在、ペレス・プラード楽団は息子、ペレス・プラード・ジュニアに受け継がれています。)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。