江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

133) 江利チエミが語る進駐軍のころ... (8/15加筆)

2005年08月14日 | 江利チエミ(初期記事・本編)
戦後60年...
江利チエミさん自身も疎開先の甲府で間一髪、空襲の難を逃れています。
終戦、ダグラス・マッカーサーが降り立った厚木飛行場は我が家の目と鼻の先...
そこには米軍が今も進駐しています。

DO NOT ENTER... この看板は今、マイカル本牧のあるあたりにたくさんありました。あそこは市電道の左右がず---っと高いフェンスで囲まれていました。
横浜駅前にも進駐軍の貯木場もありました。根岸の丘は米軍住宅がたくさんありました。
フェンスの向こうのアメリカ...横浜の中心部でさえつい最近までそんな光景が広がっていました。JR相模原駅のホームの脇... 今伊勢丹がある相模大野のあたりは「野戦病院」がありました。ベトナム戦争での死傷者の多くがここに運ばれていた...
原宿の神宮の公園はワシントンハイツ...米軍住宅でオリンピックの前まで接収されていた...

戦後が風化していく中、江利チエミ論を語ることには、重たい意義のあるテーマであると思います。


30周年を迎えるとき...旧知の音楽評論家/安倍寧さん、キング・レコードのチーフデキレクター/赤間剛勝さんとの対談から引用します。
>江利:オフリミットなんていう看板がたくさんあった・・・
 安倍:・・・進駐軍クラブにもオフィサー/N・C・O/E・Mなんて種類があって…
 江利:それと、サービス・クラブにシビリアン・クラブ…
 安倍:そうそう5つ… オフィサーが将校クラブ、N・C・Oが下士官で、段階じゃないけど区別されてて...
 (※E・Mとは「一般兵士」の意味です。)
 江利:オフィサー・クラブだけはちゃんと紙恭輔先生なんかの審査員がいて、芸能人のランクをつけてもらえないと出られなかった... スペシャルA、スペシャルBなんて...
 安倍:特別調達庁のね…
 赤間:特別調達庁というのも古い言葉で…(笑)
 江利:そのちゃんとしたランク証明がなければオフィサー・クラブへは入れなかった
 安倍:オフィサー・クラブというのは良かったよね。第一ホテルのオフィサースとか
 江利:でもね、子供心に一番歌いにくかったのがオフィサー・クラブ... だって拍手するのにテーブル叩くんですよね、こう…(トントンとテーブルを叩いて) 歌が終ると全部が全部じゃないですけど...
 安倍:なるほどね...
 江利:そうすると凄く、なにか自分が敗戦国民の憐れさを感じるわけ... ところが、E・MクラブとかN・C・Oになると、ピーピー、キャーキャー…。そういえば九段下にアーミー・ホールってありましたでしょ、今の九段会館。
 安倍:ウン、あった、あった...
 江利:あそこのちょっと手前にC・I・Cのカマボコ兵舎があったんですけど、あそこへ行くと帰りに、例えば着物を着てるとお太鼓(帯)の中まで外して調べられる...
 安倍:なにか持って行くと思って...
 江利:…C・I・Cだから機密のものを盗まれてはいけないって、それこそ徹底的に調べられる。だからあそこへだけは行くのが厭だった...
 安倍:九段会館は戦時中は軍人会館でしょ...それが接収されてアーミー・ホールになり、今は九段会館... それは戦中・戦後・現在にわたる55年の歴史があるんですよ。
 江利:今の宝塚劇場もアーニー・パイルだった...

少女江利チエミも「ただただ無邪気にキャンプで英語の歌を歌っていたわけではない」ということ...チエミさんは政治的な発言や不用意な発言をしない人だったですが、この短いインタビューのなかに垣間見ることができると思います。

しかし、進駐軍という存在... これこそが戦後ポピュラー音楽史の原点ということだけは「歴史的事実」であるのです。
そして昭和26年、サンフランシスコ講和条約が締結されます。それまでの日本は、占領されていたいわば植民地です。占領ということばを嫌い「進駐軍」と呼んでいただけで、その実は「占領軍」に他ならないのです。(日本人はこの言葉の置き換え...が巧みです。)
独立「日本国」のスタート... それはJAZZも同じ。それまでの借り物から転じて「日本のジャズ」も独立を果たしていく時期でもあった。
ここに14歳のキャンプ回りで腕を磨いた少女がまさしく彗星のごとく表れるのです。
この少女はそれまでのジャズ歌手が「アメリカに向いて歌っていた」のとは違って、「日本人のハートで歌う」というスタンスを身に付けていた...
江利チエミは時代に呼ばれて現われた... 戦後日本の象徴なのです。


※紙恭輔さん:(1902-81)大正末期の日本のラジオ草創期にジャズ番組の編曲を手掛け、灰田勝彦のレコード録音にも名をとどめ、戦後は『透明人間』(円谷英二監督・1954年)などの映画音楽を残した音楽家。日本ジャズ界の草分けのひとりです。

※九段会館:1934(昭和9)年に結婚式場としてオープン。ここで結婚式を挙げたのが、ラストエンペラーの弟「愛新覚羅溥傑」と「嵯峨浩」。
そして1936年の2.26事件の折には、宴会場が戒厳司令部となりました。戦時色が強くなった頃より「軍人会館」となります。終戦後は進駐軍に接収されました。
内部の大ホールの壁には、今でも陸軍・海軍のマークが残っています。
地下フロアーは抜け道のようになっており、私は前に大ホールから一度トイレを探して迷い込み、ホテル側の全く別のエントランスに出てしまったことがありました。
天上の低いその地下フロアーは、修学旅行生などの団体客の食事などにも使われているようです。迷路のような通路、ぶ厚い扉...など、戦前のきな臭い頃に迷い込んでしまったような「恐怖にも似た錯覚」を覚えたことがありました...

※ランクの話...

ランク には...
* スペーシャル A /* スペーシャル B / * A /* B /* C /* D
  この各クラスが存在していた...

審査会場は、現在の「東京プリンス ホテル」の真正面にあつた「芝公園 公会堂」...鉄筋2階建で、客席も張出し2階席...この2階席に 戦前からの各界の先生が審査をしたのだとか...
ジャズ界からは ニューパシフイツクの 松本 伸/ 紙 恭輔 / 多 忠修 / テイーブ釜萢/渡辺 弘/芦田 満 /森 享/他, 戦前派の巨匠の面々...
1階客席には 当日審査を申請した コンボ 、フルバンド、ヴォーカルの面々が着席...順番を待ちながら 舞台で本番中の演奏を人事ながら ハラハラ ドキドキ 聞いている。
そしてテストはだいたい2曲だったのだとか...
1ケ月後, 審査結果が 特別調達庁から知らされ ランクが決る...というシステム。
このランクはもちろんギャラの規準であったのです。


※特別調達庁とは... 

1947年5月10日 - 特別調達庁法(昭和22年法律第78号)が施行され、連合国(進駐軍)が必要とする施設(土地・建物)・物資・役務の調達・管理を任務とする特別調達庁の設立準備が始まる。
1947年9月1日 - 特別調達庁が発足する。総裁を長とし、登記による法人格を有する機関であり、政府の一部局とはされていなかったが、GHQの指示を受け同年12月5日の閣議決定によりその性質が「政府部局」へと解釈変更される。
1949年6月1日 - 総理府の設置に伴い、法人格を有する従前の特別調達庁は廃止され、国の機関(総理府の外局)として、長官を長とする同名の特別調達庁が設置される。
1952年4月1日 - 調達庁へ改称される。
1954年7月1日 - 防衛庁が設置され、その附属機関として、自衛隊の施設(土地・建物)の取得・工事・管理を任務とする建設本部が置かれる。
1958年8月1日 - 調達庁が、「総理府の外局」から「防衛庁の機関」に移管される。
1962年11月1日 - 調達庁と建設本部が統合され、防衛施設庁となる。

--->現在わたしは神奈川県大和市在住です。防音工事・クーラー空調の設置...防衛施設庁さんからの出費で賄われる地域に暮らしています。



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3 コメント

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記事の出典をお教えください (浜野保樹)
2013-11-05 12:53:20
資料に基づいた記述に、いつも感服しています。いまナンシー梅木の評伝を書いているのですが、(133)で引用されている記事の出典をお教え願えないでしょうか。
浜野保樹
hamanoysk@stf.teu.ac.jp
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Re:記事の出典をお教えください (udebu60827)
2013-11-08 20:42:24
チエミさんLP のライナーノーツや大宅文庫さんで閲覧したいろいろな雑学の混ぜ込んだものであります。
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はまの様 追伸 (う--でぶ)
2013-11-09 20:00:10
あとは... 安倍寧先生をはじまとしたチエミさんゆかりの方々のの数々の著作や週刊誌などの記述... ほんとうにそこらじゅうからの引用をさせていただいてしまってします。
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