江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ LP黒髪に収録されている京都民謡「宮津節」歌詞の解釈について

2007年07月21日 | 江利チエミ(続編)

サビの部分の歌詞・・・

♪丹後ちりめん 加賀の絹 仙台平には 南部縞
               陸奥の米沢 江戸小倉
                   丹後の宮津でピンと出した

ネット検索でもよく意味がわからない・・・ということになっていることを発見!(そのHPは こちら です。)
単なる江利チエミファンの私がしゃしゃり出ることはどうも遠慮したほうがいいと思うので、ここで自論を公開します。

この歌詞は・・・
丹後ちりめん加賀の絹仙台平やら南部縞、睦の米沢、糸小倉
 ・・・と唱える方も居られますが、江利チエミさんの宮津節しか知らないので、この説は今回は除外させていただきます。

江戸小倉 これをひとつのセンテンスとしてとらえると ?? になります。
江戸、小倉 にすれば問題解決するように思います。

まず、前後の文脈から考えて、江戸=江戸小紋のことでしょう。

宮津は北前舟の寄港地で栄えたところです。
各地の織物を、その集積地でもあった宮津で紹介していると見るのが一番妥当だと思います。

では問題の「小倉」ですが・・・
この 小倉 を チエミさんは おぐら(OGURA) と発音していることから私の解釈は、小倉織りのこと・・・と思うのです。

小倉(おぐら)織りとは・・・
>江戸時代から明治三十四年まで 小倉(こくら)で生産された木綿織物。
徳川初代将軍徳川家康も陣羽織として着用し、江戸時代の武士や庶民の間で愛用されたという。「広益国産孝」(安政六年)には、幕末期には小倉が日本の木綿織物の代表的な産地の一つだったということが記述がある。森鴎外の小説「青年」の中にも小倉袴の呼び名で出てくる。豊前小倉を代表する特産品であったが、生産が昭和初期に衰退。
北九州出身の染織家・築城則子氏が、数少ない資料から研究、試織を重ね、1986年に復元した。
築城氏による小倉織は、糸は植物染めにより、手織りで作られる。経糸が多いため、緯糸が見えず柄はたて縞のみ。


ちなみにこの「織物」を歌詞の順番に列記します・・・

>丹後縮緬(たんごちりめん)
丹後ちりめんは経糸(たていと)に撚りのない生糸、緯糸(よこいと)に1メートルあたり3,000回前後の強い撚りをかけた生糸を交互に織り込み生地にし、その後、精練することによって糸が収縮し、緯糸の撚りがもどり、生地全面に細かい凸凹状の「シボ」がでた織物のことをいいます。ちりめんの代表的存在である「丹後ちりめん」は、このシボが最大の特徴です。ちりめんは、シボがあることにより、シワがよりにくく、しなやかな風合いに優れ、凸凹の乱反射によって染め上がりの色合いが豊かな、しかも深みのある色を醸し出すことができます。

>加賀の絹
加賀絹の発祥の地といわれる小松産地は、合繊和装の一面を持つ白生地産地だが、3世紀頃には機織が始められていたと伝えられている。が、正確には4世紀後期(470年代)の雄略天皇の時代に、百済の帰化人である秦氏から蚕桑と織物技術を習得し、天皇家へ奉献する絹織物を製織したことから機業として発達していった。
その後、室町時代(1338)に将軍足利氏に献上したことから加賀絹の名声が高まり、江戸時代の藩主前田利富公が寛永16年(1639)に小松を機業地として勧業奨励することによってその基盤が確立以来、羽二重をはじめ撰糸上絹、大小紋絹、裏絹などが産出されていった。
明治初期にドビー機が導入されるにおよんで、紋八織、紋平絹、絹絽などの独自の織物を考案しこれを契機に紋織が盛んとなって全国屈指の紋織産地として発展していく。
品種別では、駒綸子、綸子縮緬、平綸子などだが、いずれも長年培ってきた紋織技術を土台にしたものだけに、小松産地ならではの独創品であった。

>仙台平(せんだいひら)
仙台平の最大の特徴は「織風合」「織味」「織香」、そして更に「気品」。
これらが一体となって初めて、生きた織物として賞賛される。
生糸の性質をそのまま引き出す独自の技法で独特の光沢を放つ。
座れば優雅なふくらみを保ち、立てばさらりと折り目立ち、
すだれのように端然と形が整う。
激しい舞いの動きなどにも、さわやかなきぬずれの音して、軽々と足さばきに従う。
すべての動作に耐えうる袴・・・ それが仙台平です。

>南部縞
南部地方から産する絹の縞(しま)織物。
  ・・・この歌の「なんぶじま」は、この織物を指しているものでしょう。
そのむかし、江戸城内では裃の小紋柄で藩が判別できました。
例えば佐賀の鍋島家は「鍋島小紋(胡麻柄小紋)」、薩摩の島津家は「大小霰小紋」、甲斐の武田家は「武田菱」、信州松本城主は「ハ印の鮫青海波」、南部藩は「南部縞」、加賀前田家は「菊菱」、京極と芸州浅野の両家は「霰」、細川家は「梅鉢」等々である。
各大名が専有した小紋柄は「定め小紋」「御留柄」といわれ裃が廃止されるまで他藩の使用が禁止された。

>陸奥の米沢
これは、陸奥の国、置賜の米沢の織物=米織り(よねおり)を指すと思います。
米沢地方から産出する織物の総称。江戸時代、藩主上杉鷹山(うえすぎようざん)の産業奨励により始まった。紬(つむぎ)・縮緬(ちりめん)・黄八丈・袴地(はかまじ)・糸織・紋織などがある。

この流れからして・・・

>江戸=江戸小紋
一口に着物といっても、呼び名は多種多様。製法や柄、格式などによって様々な名称がつけられている。
製法で大別すると、紬を代表とする「織物」と、友禅染めで知られる「染物」の2種類。「江戸小紋」は、京友禅、加賀友禅と並んで日本の3大友禅に数えられる、東京友禅の1つです。
江戸小紋の発祥は、江戸時代。武士の第一礼装である裃(かみしも)に用いられた柄といわれています。当時は、贅沢と華美な装いを禁じた奢侈禁止令により、着物の布地や染め色まで幕府から指定されていたので、大名は色や柄のついた着物を着ることができなかった。そこで、一見無地に見える細かな柄を施し、その柄を独自に考案することで各藩の差別化を図った。

>小倉=小倉織り
もと北九州の小倉地方で産出した綿織物。厚手でじょうぶなところから帯地・袴地(はかまじ)のほか、作業服や学生服などに多く用いられた。現在は岡山で産する。
別名/小倉縞。  
 
 こう考えるのが順当な気がするのですが???

また 
  ♪二度と行くまい 丹後の宮津
     縞の財布が 空となる
       丹後の宮津でピンと出した

            --->この ピン と出した・・・ですが、

『ピン』には、「最高」・「元気」・「お金」などと言う諸説もあり、また「別嬪」のピンとも言われています。
私は スッカラカン=スッピン/すかんぴん の ピン =なんにもない の意味でもあって、また ピンと=元気よく/気前よく の二重/三重の意味を持った掛け言葉的な表現だと思うのですが???

京の祇園に負けないほどの芸奴衆が多く居た宮津の街。
船員達は「縞の財布が空になるまで景気良く遊んだ」ということを歌っているのがこの歌だと思います。

※丹後の宮津...
>元禄時代(1688-~1703)には、江戸吉原を模した立派な遊廓ができたほどであっ
た。そこの女たちの酒席の騒ぎ唄が「宮津節」です。
七七七五調26文字の本唄と、七五調の囃し風のものとから成っている。
この曲は各地にある「本調子甚句」の一種で、「おてもやん」や「名古屋甚句」「金沢なまり」などと同種のもの・・・ ということです。

丹後の宮津のことは こちらのHPさん もご参照ください。

※甚句といえば「相撲甚句」が浮かびます。
相撲甚句とは??
>越後(現在の新潟)の甚九という人が、甚句(地句)を作ったといわれ盆踊りから転化して、米山甚句・博多甚句・名古屋甚句となりました。節は地方によって異なっておりますが、相撲甚句は名古屋甚句が元であるといわれています。
相撲甚句は幕末から明治中期の頃までは、七・七・七・五の四句で、都都逸のように短い四節で歌われていたようです。その後、名古屋甚句の影響で今のように長くなったようです。
これが花柳界で流行し、本調子甚句・二上がり甚句を相撲取りが お座敷で覚えて 巡業で流行らせました。名古屋甚句・熊本甚句(おてもやん)・会津磐梯山・隠岐島の相撲取り節などが出来たようです




さて、この昭和49年のLP「黒髪」/シングル「黒髪/デカンショ節」のリリースが、33年からスタートしたチエミの民謡シリーズの最後となりました。
この後、江利チエミさんは「酒場にて」をヒットさせ、歌謡曲歌手のイメージを強くさせます。
そして30周年を向かえ、原点に返って JAZZ に再び傾倒して行きました。

さて、楽曲「黒髪」のことは次章に紹介いたします。 


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2 コメント

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最高の名盤 (twig)
2007-07-22 22:18:38
いやあ、このLPはいいですね。
大好きな一枚です。
全曲全てがいい。
この宮津節は「~ピンとだした」というところの チエミさんのうまさ。なんどでも聞き返してしまいますね。
返信する
そうだそうだ まったくだよ・・・@新土佐節 (う--でぶ)
2007-07-23 05:57:29
歌ってる姿が浮かぶ...
 ですよね!!
返信する

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