http://jp.youtube.com/watch?v=CLSZWvaNV5E
タイトルで 何を意味するか わかる方は、昭和45年~48年のボウリング・ブームの時に相当熱をあげた方...ですね。
10ボードの中山...とは、10枚目の板=向かって右から二個目のスパット(=▲印)のあたりを、レーン中ほどにスタンスしていったんボールを右に出してフックでストライクを狙うことが多かったからついた初期の彼女の例えられかた。
アウトサイドの須田とは、右のガーター側からまっすぐ気味の斜め(クロス)にボールを投げ、ピン手前でフックがかかるラインでストライクを狙うことが多かったからつけられた...こちらも初期の例えです。
須田さんも中山さんも技能を重ね、その後は違うコースでの投球も多くなりました。
このYOU TUBE の動画... 涙ものです。
掲載してくださった方... 感謝 深謝 感激です!!
私は須田開代子さんの横浜での(ボウリング用品も輸入していた貿易会社のOLだった)アマ時代、今は日産のビルになっているところにあった高島町のボウリング場で投げ込んでいたころから存じ上げています。アマ時代に渡米して大会で二位になったこともあったと...
そして勿論 中山律子さん のファンでもありました。
300達成... 画像には決勝相手の海野プロや、並木恵美子プロ...懐かしい姿が映っています。
女の戦い...ませたガキの私はなんといっても 須田vs中山 の対戦をワクワクしてみていました。
須田プロの6連勝に向かう札幌オールスター...
TV中継の記憶ですが、大事な中盤で ④⑦⑨⑩というスプリットを彼女は残してしまった。当時フルロールでカーブの大きくない須田さんらしくない残りかた...
これを彼女は④番ピンを⑨⑩ピンに飛ばしてこの難しいスプリットを見事クリア... 見事優勝します。あのスプリットのカバーが6連勝達成につながった...と記憶しています。
第一人者だった須田さん...でしたが公式戦では一度も300を達成できなかった。
彼女の公式戦でのハイゲームは1フレスペアの2~10フレームまでのストライクの連続で290でした。
そして、ライセンスナンバー2.中山律子さんは活躍を続けられています。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用します。
須田 開代子(すだ かよこ、1938年8月2日 - 1995年11月20日)は、プロボウリング選手。ライセンスナンバー1の女子第1期生。日本国内初の女子プロボウラーとしても知られる。通算タイトル43勝。日本ブランズウィック社所属。ジャパンレディスボウリングクラブ(JLBC)初代代表。
1967年の第1回全日本選抜選手権で優勝。1969年プロ入り。同期の中山律子や並木恵美子と共に、高度成長期を背景にボウリングブームを支えた。
オイルショックによりボウリングブームが一気に下火になる中、1976年須田は女性だけのボウリングクラブ「ジャパンレディスボウリングクラブ」を結成。自ら初代代表に就任した。(本人の意向で会長とは名乗らず、2代目藤原清子より会長となる。現在は中山律子が会長。)
私生活では男子プロボウリング選手だった西城正明との結婚・離婚、西城との間に生まれた長男の素行不良。自らを蝕んだ癌など苦悩に満ちていた。
一度は病魔を克服して復活を果たした須田であったが、1995年に療養先のアメリカバージニア州内の病院にて心不全の為に死去する。57歳だった。須田のボウリング人生を記した著書に、『須田開代子という生き方―世界一ボウリングを愛した女(ひと)』(笹山生子著 チクマ秀版社版)がある。また、1971年には映画『起きて転んでまた起きて』(東京映画)にプロボウラー役として出演した。歌手の田谷力三のファンであり、西城との結婚式では田谷が式中で歌った。
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※お正月の朝のワイドショウでは当時の夫だった西城正明プロ(五月みどりさんの実弟、小松みどりさんの兄、歌手からボウラーに転身した人)のピアノ伴奏で須田プロの「大ファン」だった美空ひばりさんの「悲しい酒」を歌っています。(う--でぶの記憶)東宝と契約していてホームレーンは新宿コマの並びの東宝ボウル...ここで美空ひばりさんに対面!ボウリングを教えたこともあったとか...
バージニアには嫁いだ実のお姉さんが暮らしていたから...その関係でアメリカで亡くなったと記憶しています。
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>中山 律子(なかやま りつこ、1942年10月12日 - )は、プロボウリング選手。群馬県草津町生まれ(後に両親の出身地鹿児島県に転居)。ライセンス番号2の女子1期生。通算タイトル33勝の永久シードプロ。社団法人日本プロボウリング協会(JPBA)会長。ジャパンレディースボウリングクラブ(JLBC)会長。鹿児島市立鹿児島女子高等学校卒業。
高校卒業後の1961年に旭精機(愛知県)に入社し、バレーボール選手として活躍。1965年のボウリング初体験をきっかけとし、1968年に東京タワーボウリングセンターに入社。1969年女子プロ誕生と同時にプロ入り。アマチュア時代から須田開代子とは面識があったが、実力的には須田の後塵を拝する事が多かった。しかし女子プロ誕生と共に中山も結果が付いて来る様になって来た。1970年3月22日の第1回全日本プロボウリング選手権大会で優勝し、 1970年8月21日には、テレビ朝日(当時=NETテレビ)『レディズチャレンジボウル』収録中に女子プロ初のパーフェクトゲームを達成 (女子プロ八月月例会・優勝決定戦、対戦相手=海野房枝 於:府中スターレーン)。同期の須田らとともに爆発的なボウリングブームの立役者となった。
特に中山は「さわやか律子さん」の愛称とともに抜群の美貌と人気を誇り、テレビCM 『花王フェザーシャンプー (♪♪律子さん、律子さん、中山律子さん♪♪)』 等にも出演し一大旋風を巻き起こし、女子プロ数多くあれど〝史上最強の女子プロ〟と言われている。 (中略) 現在も現役としてプレーする傍ら後進の指導にも力を入れ、全国各地にスポンサー探しの忙しい日々を送っている。現在 は日本プロボウリング協会の会長も務める。
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女の戦い...
ということでこの記事は江利チエミさんとは関係ない話をあえて掲載しました。
実は先日、私にボウリングを教えてくれた人...が亡くなりまして...
今日、明日はその 追善 の意をこめての記事とさせていただきました。 とはいえ、江利チエミさんもボウリング・ブーム時には「レディス・チャレンジ・ボウル」などのTV番組にゲスト出演され、200UPのスコアをたたき出していました!
チエミさんは五歩助走で、1歩目と2歩目の間にタメがあり3歩目にバランスをとる左手が一瞬前に出て、それから4歩目、五歩目にはいってリリースまでは思い切りよく突っ込んでいく... ゆえにアプローチにオイルが少ないレーンではちょっと突っかかり気味になる...という記憶があります。
このレディス・チャレンジボウル...昭和48年だったと思います。有島一郎さんも出てました!テレ朝さん...VTRありませんか~???
さて最後に「ぼやき」ます。
今ボウリング番組が少ないから... 若い人は基礎がわかってない!!
1)右左同時に投げちゃいけない!...右側優先!!
2)レーンの助走路に2ケ所にある●印 レーンの直前の●印 そしてレーンのスパット▲印 ... これを基準に投げる...のですぞ!!
レーンには板目があるのですゾ!!
中山さんの投球フォーム... 最初はスタンス位置の確認 そして助走に入ってからはレーン直前の ●印 そこで自分の方向とボールをリリースする場所をチェックしてからレーンのスパット▲印に視線を変える...のがわかると思います。
偉そうにいいますが...私のHGは269ですぞ!!ガハハ・・・ 失礼しました。
ゴルフの腕前も確かでした。
よく出番待ちで、ゴルフや野球の素振りをしながら待っておられたのを思い出しました。
いいな~!!