つばさ

平和な日々が楽しい

日本人は何を食べているのか心配になる

2012年10月28日 | Weblog
天声人語10/28
 天高きこの季節は、実りの秋にして食欲の秋でもある。しかし1945年、敗戦後の秋は食料がなく、人々は腹を空(す)かせて迫る冬におびえた。東京の日比谷公園では11月1日に「餓死対策国民大会」が開かれている▼そんな秋に封切られた映画「そよかぜ」は、映画自体より挿入歌「リンゴの唄」で知られる。撮影のとき、主演の並木路子がリンゴを川に投げた。まねだけのはずが本当に投げたら、スタッフが叫んで土手を駆け下りたという。リンゴ一つが何とも貴重だった▼以来67年がすぎて食べ物はあふれ、いまや「果物離れ」が言われて久しい。意外なことに、日本人が果物を食べる量は先進国の中では最低の水準という。体にいいとされながら、生で食べる量は減りつつある▼リンゴも苦戦が伝えられ、その理由の一つは「皮をむくのが面倒」だかららしい。便利とお手軽に慣らされたせいか、ミカンの皮むきも嫌う人がいるそうだ。ブドウも薄皮で種がなく、丸ごと食べられるのが人気なのだという▼低迷は果物だけではない。飽食の中で「魚離れ」「米離れ」も進み、「野菜離れ」が言われたりする。日本人は何を食べているのか心配になる。ファストフードとスナック菓子というのでは、どうにも寂しい▼しばらく前の朝日歌壇にこんな一首があった。〈「すばらしい空腹」といふ広告文広告として成り立つ日本〉。リンゴの唄は遥(はる)か遠く、飢えにおびえぬ健康な空腹。一顆(いっか)、一粒への感謝を忘れまいと思う、実りの秋だ。

若い層から、難しい作品を背伸びして見る気質が消えたのだという。

2012年10月28日 | Weblog
春秋
2012/10/28付
 20年ほど前、大虐殺の嵐が吹き荒れたアフリカのルワンダで、多くの人々をかくまい、命を救ったホテル支配人がいた。映画「ホテル・ルワンダ」はこの実話を描く。日本での上映予定はなかったが、映画好きの署名活動で公開が決まり、大ヒットに。6年前の話だ。
▼テーマは重く、俳優の知名度は低い。先陣切って上映を引き受けたのが、前年末に開業した東京・渋谷の「シアターN」だった。客席数が少なく、芸術作品や社会派映画を単独で上映する「ミニシアター」と呼ばれる映画館だ。当時の渋谷ではこの種の小さな映画館が相次ぎ誕生し、扱う作品のユニークさを競っていた。
▼そのシアターNが、この12月で閉館すると決まった。最盛期には渋谷周辺に20館ほどあったミニシアターが、これでほぼ半減する。かつての隆盛がうそのように、いまミニシアターに逆風が吹いている。理由の一つは若者の変化。ミニシアターを支えた若い層から、難しい作品を背伸びして見る気質が消えたのだという。
▼もう一つの逆風は技術の進化だそうだ。複製フィルムに代わりデジタル素材が映画館に届くようになる。スクリーンできれいに映すには1000万円ほどの映写装置を購入しなければならない。ならばいっそ廃業を、となるわけだ。映画に限らず、多様な作品を気軽に楽しめるのが文化的な街だろう。いい知恵はないか。

乱雑なおもちゃ箱のように

2012年10月27日 | Weblog
天声人語10.27
 甘党から悪党まで、党のつく言葉は多い。政党名に至っては増える一方だ。自由民主党、公明党、日本共産党などの老舗は辞書にもあるが、多くは載る間もなく消えていく▼国政に戻る石原慎太郎氏の新党は、「党」ぬきの凝った名前になるのだろうか。なにせ母体となる「たちあがれ日本」の命名者である。氏が閣下と尊ばれるネット上では、「石原軍団」「大日本帝国党」と党名談議がにぎやかだ▼80にして起(た)つ。「なんで俺がこんなことやらなくちゃいけないんだよ。若い奴(やつ)しっかりしろよ」。脚光が嫌いなはずもなく、うれしそうに怒る記者会見となった。心はとうに都政を離れ、「やり残したこと」に飛ぶ▼霞が関との闘いはともかく、憲法の破棄、核武装、徴兵制といった超タカ派の持論を、新党にどこまで持ち込むのか。抜き身のままでは、氏が秋波を送る日本維新の会も引くだろう。保守勢力の結集は、深さ広さの案配が難しい▼政界は再編の途上にある。旧来の価値観や秩序を重んじる保守と、個々の自由に軸足を置くリベラル。競争と自立を促す小さな政府と、弱者に優しい大きな政府。乱雑なおもちゃ箱のように、二大政党にはすべての主張が混在する▼安倍さん率いる自民党など保守の品ぞろえに比べ、反対側、とりわけ「リベラル×小さな政府」の選択肢が寂しい。今から再編の荒海に漕(こ)ぎ出すなら、この方位も狙い目だ。もとは「泥船」からの脱出ボートでも、針路を問わず、漕ぎ手しだいで船の名が残る。

世間知らずの連中にカミナリを落とすはずだ。

2012年10月27日 | Weblog
【産経抄】10月27日
2012.10.27 03:06
 その昔、経団連会長が「財界総理」と称された時代があった。昭和の後期に石坂泰三、土光敏夫といった重量感のある経営者が経団連会長となり、体を張って日本経済の発展に尽くし、発言にも重みがあった。
 ▼高度成長期の池田勇人内閣時代、景気が過熱し、米国との間でも繊維輸出をめぐって摩擦が生じた。池田首相の意を受けた日銀総裁は、投資の1割削減を主張するが、自由主義経済論者の石坂は「コンピューター君を総裁に」と猛反発した。
 ▼景気が過熱すれば、日銀が公定歩合を上げればいい話で、低金利政策の放棄を避けたい政権の顔色ばかり見る総裁に我慢できなかったらしい。みかねた知人が妥協を勧めたが、「池田内閣と日本とどっちが大事だ」と啖呵(たんか)を切ったという。
 ▼それに引きかえ今の経団連会長は、という物言いは年寄り臭くて好きではない。ないけれども、石原慎太郎都知事の国政復帰宣言について「(日中関係に)具合が悪い」と口にする見識のなさには開いた口が塞がらなかった。
 ▼尖閣諸島国有化のきっかけをつくった石原氏が国政に復帰すれば、中国をより刺激し、中国進出企業に悪影響が出るのを懸念しているようだが、根本的に間違っている。経済成長で傲慢になり、領土的野心を隠さなくなった中国に対抗する手段として国有化は必須であり、むしろ遅すぎたくらいだ。
 ▼経団連会長のみならず、日中修復のため日本側が妥協すべきだ、という「識者」も少なくない。だが、中国は昔も今も弱肉強食の国だ。強い相手には下手に出て機会を待ち、弱ったとみるや徹底的にたたく。石坂翁存命なら「中国と日本とどっちが大事だ」と世間知らずの連中にカミナリを落とすはずだ。

4の倍数

2012年10月27日 | Weblog
春秋
2012/10/27
 ボクシングになぞらえるなら、最終ラウンドも残り1分を切ったのに判定が全く読めない、といったところか。10日後に投票が迫った米国の大統領選挙のことだ。政策論によるきれいなパンチが決まることなく、終了のゴングが近づく。大接戦だ。いや、泥仕合かも。
▼個人攻撃も混じる選挙キャンペーンは第三者の目には見苦しい。ただ歴史を振り返ると、米大統領選そのものは実に整然と行われてきたことに気づく。第1回と第2回の間隔こそ3年だったが、それから後はきっちり4年ごとだ。内戦があろうが、恐慌が起きようが、世界大戦のさなかだろうが、このリズムは崩れない。
▼だから過去の大統領選が何年にあったか、言い当てるのは簡単だ。今年を基準にして、4の倍数を引いた年になる。たとえば、ちょうど100年前。このときはウッドロー・ウィルソンが勝った。後に彼は第1次世界大戦への米国の参戦を決断する。結果として、20世紀の世界をかたちづくった選挙だったともいえよう。
▼1300年も前にまとめられたとされる歴史書が伝わる日本からみると、米国はとても若い国だとの印象を抱く。しかし、最高指導者を選ぶ仕組みが200年以上も変わらずに続いている国は、決して多くない。その意味では世界で指折りの経験を積んできた国といっていい。たとえ泥仕合だったとしても、意義は深い。

余録:「久方の アメリカ人の はじめにし…

2012年10月26日 | Weblog
毎日新聞 2012年10月26日 

 「久方の アメリカ人の はじめにし ベースボールは 見れど飽(あ)かぬかも」(正岡子規)。110年前に没した子規は「打者」「直球」などの野球用語を訳した人としても知られる。その「見れど飽かぬ」スポーツに魅せられた若者たちが昨日、ドラフト会議でプロへの一歩を踏み出した▲ドラフトには「選抜」のほかに「下書き」という意味もある。夢の下書き、未来へのデッサンだ。白いキャンバスにこれから色をつけ、絵を完成させるまでどれほどの努力がいることか。野球の神に選ばれたすべての戦士に栄光あれ、と祈る▲今年はドラフト前に岩手・花巻東高の大谷翔平(おおたに・しょうへい)投手が米大リーグ挑戦を表明した。前例のない決断だ。戦時中、花巻に移り住んだ詩人・高村光太郎の「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」という言葉が、18歳の勇気に重なる▲一方、こちらはドラフト当日に東京都知事を辞めると言い出し、新党で国政に挑む考えを明らかにした石原慎太郎氏である。18ならぬ80歳の挑戦だが、雨後のタケノコのような政界新党より、球界の若い世代の可能性に心躍らせた一日だった▲大谷投手は日本ハムが事前の方針通り1位で指名し、会場に歓声がわいた。若者の挑戦を邪魔する了見(りょうけん)ではないだろう。翻意(ほんい)させるのは困難でも、ナンバーワン評価の投手を大リーグと堂々奪いあうパ・リーグ覇者(はしゃ)の意地と受けとめておく▲「春風や まりを投げたき 草の原」(子規)。大谷投手との交渉期限は春風が吹く来年3月末だ。日米どちらで「まりを投げ」ることになっても、これは彼が決める人生である。静かに見守ってあげたい。

日本に戻ってから一定年数、契約を結べないそうだ。

2012年10月26日 | Weblog
春秋
2012/10/26付
 最初に野球殿堂入りしたメンバーをみると、沢村栄治、正力松太郎らに交じって平岡熙(ひろし)という人がいる。「日本野球の祖」とされる人物だ。明治の初めに、機関車の製造技術を学びに渡った米国でベースボールを知り、帰国後は鉄道技師の仕事をしながら野球を広めた。
▼渡米は16歳のときだった。若者はチームの心をひとつにして白球を追う異国のスポーツのとりこになったのだろう。足かけ6年の留学後、東京の新橋停車場内に運動場を設け、そろいのユニホームの本格的な野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を結成した。本場でカーブを覚えて、日本で初めて披露したともいわれる。
▼時速160キロの超高校級右腕、岩手県・花巻東高の大谷翔平投手が米大リーグに挑戦することになった。18歳という若さは留学時の平岡と重なり合う。見たこと、触れたことを自分のものにする力が一生のなかでも旺盛なときだ。一流選手の技やプレー姿勢を貪欲に吸収してほしい。それが日本球界の財産にもなるだろう。
▼日本ハムが大谷投手をドラフト1位指名したが米球団との交渉は自由だ。が、プロ野球界には申し合わせがあるという。指名を蹴って外国のプロチームでプレーした選手とは、日本に戻ってから一定年数、契約を結べないそうだ。若者の挑戦心をそぎかねない。海外経験が日本のためにもなると、歴史は教えているのだが。