硫黄島の戦い
2011.6.18 産経ニュース
米軍の陸上離着陸訓練取材のため今月7日、硫黄島(東京都)を訪れた際、現地に駐屯している自衛隊の好意で先の大戦の際、日米激戦の地となった島内をまわった。島には今もなお日本兵がこもった地下壕が残っている。壕の中に入ると孤立無援のなか、一日でも長く硫黄島を守ることで、本土決戦を遅らせようと戦った日本兵らの苦労がしのばれた。(有元隆志、写真=古厩正樹)
◇司令部壕
島の北部にある陸軍小笠原兵団司令部壕。栗林忠道・陸軍大将が指揮をとった場所だ。入り口には観音像が置かれている。
階段を下りると、壕の中は天井も低く、幅も狭い。クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」に出てくる壕は大きな洞窟のようだったが、通路は人ひとりがやっと通れるくらいの幅だった。
手に持った懐中灯を頼りに暗い通路を頭を屈めながら前に進む。壕中は地熱による蒸気で暑く、40度ぐらいあった。奥の方はまったく見えない。迷路のようになっており、案内してくれた自衛隊の方からは「絶対に離れないください」と言われた。
日本兵は地熱と硫黄ガスに悩まされながら地下壕を掘り、さらにこの中に立てこもって、圧倒的な兵力差の米軍を相手に戦った。
続いて見学した海軍医務科壕も壕に入るとすぐ右に弔い用の観音様がある。左の通路脇には、遺品とみられる飯盒などが置いてあった。ここは司令部壕よりも広かったが、内部の温度はより高く感じた。
野戦病院としては辛い環境で、満足に医薬品もなかっただろうから負傷兵はさぞかし苦しかったことだろう。ここは昭和58年に収容作業が行われ、54柱の御遺骨が収容されたという。
◇隆起◇
司令部壕に行く前に、島の東海岸にある西竹一陸軍大佐の戦死の碑に寄った。ロサンゼルスオリンピックで愛馬ウラヌスを駆って馬術大障害で金メダリストとなった「バロン西」だ。西大佐の死亡場所については複数の説があるが、碑の近くには硫黄の露出や噴気が見られた。
硫黄島の外周道路には、いくつか箇所で段差ができていた。さらに、摺鉢山に向かう道路の右側の海岸には、船の残骸がいくつもある。米軍が占領後に桟橋を造ろうと、コンクリート船を沈めたものの、隆起現象により海面下にあった船が海上に出てきたのだという。
国土地理院の観測によると、島全体の隆起を示す地殻変動は一時鈍化したが、今年1月末頃から隆起速度が再び増加している。
地形の変化は遺骨収集にも影響を与えている。戦争当時の資料と今では地形が異なり、資料や証言に基づいて掘っても発見できない可能性もあるそうだ。
◇摺鉢山◇
沈船群を過ぎると、摺鉢山まではすぐだ。舗装済みの登山道と登ると、バスは標高約180mの山頂近くに着く。山の一部は大きくえぐれていた。米軍による艦砲射撃の激しさがうかがえる。
山頂にある顕彰碑には日本地図が描かれていた。守備隊が全国各地から召集されたため、地図には各地の石がはめ込んであった。
山から眼下に望めるのが米国が上陸した海岸だ。白い波が海岸に打ち寄せ、日米両軍が激しく戦ったとは想像できないほど静かな光景だった。
米軍がこの海岸に上陸したのは昭和20年2月19日。当初は5日間で占領する計画だったが、日本軍の抵抗で戦いは1カ月以上続いた。
孤立無援の悪条件のなか日本兵はよく耐えた。日本軍は全体の95%にあたる約2万人が戦死したが、米軍の死傷者数はそれを上回る約2万8000人だった。
そのため、硫黄島での戦いは米国にとって日米戦の勝利の象徴になっている。摺鉢山に掲げられた星条旗の像は米国人ならだれもが知っている。
私は米国勤務時代、ワシントン近郊に開館した海兵隊博物館に行ったことがある。博物館の外観は、米軍兵士が摺鉢山で星条旗を立てる写真をモチーフにしており、館内にはその星条旗の実物も展示されている。
海兵隊が参加した朝鮮戦争、ベトナム戦争などの展示もあるが、ハイライトは硫黄島の戦いだ。硫黄島がいかに海兵隊にとって特別な存在であるかがわかる。ブッシュ前大統領も開館式典で硫黄島での戦闘が「米国の歴史上最も重大な戦いの1つだった」と述べている。
自衛隊幹部によると、「米軍は同盟強化が遅々として進まない政治状況には不満を持っているものの、いまでも祖国を守るために激しく戦った日本には敬意を持っている」という。
その意味でも私たちは硫黄島で戦った兵士を決して忘れてはならない。だが、戦死した日本将兵の遺骨は約4割しか収集できておらず、約1万3千柱が未収集だ。米軍兵士の遺骨は硫黄島返還に伴いワシントンのアーリントン墓地にて改葬されている。
政府は戦没者の遺骨収集について「国の責務」とし、特に硫黄島については「最大限の努力を傾注」するとしている。与野党を問わず、国の責任として取り組む必要があるだろう。
硫黄島の夜、見上げた空には満天の星が煌いていた。兵士たちも家族を、故郷を思いながら同じ空をみていたのだろうかと思いながら、島を後にした。