2011年06月09日 日経マネー
東日本大震災が襲った3月11日以降、日本人が他を思いやる心を取り戻したように感じます。「日本人」とひとくくりにしてしまうのは憚られますが、特に都会では自分と関わりのない他人に対して非常に冷淡であり、稼いだお金も税・社会保障、寄付などで再分配することに強く反発する傾向が見受けられました。
しかし、震災以降は、被災者の置かれている状況を自分のことのように心配する人が増え、義捐金や救援物資もかなり集まりました。チャンスがあればボランティアに行きたいという人も少なくありません。身の回りしか見ようとしていなかった目が、もっと広い範囲を見るように開かれたと言っていいのではないでしょうか。
そういう流れで、今まで関心の薄かった人も、社会問題に大きな関心を寄せるようになっています。社会問題系の勉強会に参加すると、それまで見かけなかった様々な層の人が集まっているのです。非常に嬉しい傾向だと喜んでいます。
これまで関心が持てなかった最大の理由は、その問題が自分の生活にどれくらい影響するかの正確な情報が届いていなかったからではないかと思います。たとえば、今なら放射線が自分の健康にどんな影響があるかに関心が集まっていますから、原発問題についてもそれぞれが考えるきっかけになるでしょう。
ところで、私たちの生活にどんな影響があるか正確な情報が届いていないのではないかと思われる問題として、「TPP参加か否か」を挙げざるを得ません。6月中に交渉参加について結論を出すとしていた政府は、震災の影響で判断を先送りしました。この間に私たち生活者は、TPP参加の是非を自分の問題として見ていく必要があります。
「TPP(環太平洋パートナーシップ協定)」についてはニュース等で見聞きして知っている人がほとんどでしょう。参加国間では例外なく関税を撤廃するなど、自由貿易を推進するのが特徴です。
けれども、ニュースで取り上げられる分野は農産物と工業製品くらい。安い海外の農産物が入ってくるから日本の農業が立ち行かなくなる、一方、TPPに参加しないと日本の高付加価値工業製品などの競争力が落ちて輸出が減る…。つまり、農業関係者vs経団連の単純な対立構造に仕立てられているかのようです。そうすると、農業従事者以外には、「農業ばかり保護するのはけしからん」という感情が生じます。また、「平成の開国」というキャッチフレーズに、参加が是であるイメージが刷り込まれがちです。
ここでもっと広く見なければいけないのが、TPPで協議される分野は24もあるということです。「サービス」だけでも5分野あり、そこには私たちの生活に大きく関係する教育、医療、金融などが含まれてきます。これらをすべて自由化するとは、自国民と同様の権利を相手国の国民および企業に対し保障し(内国民待遇)、第三国に対する優遇処置と同様の扱いを現在および将来において約束する(最恵国待遇)こと。自由貿易を推進するわけですから、障壁となる規制はすべて撤廃しなければなりません。
するとどうなるでしょうか。医療を例にあげると、外資系(参加国から考えるとまずアメリカ)の株式会社化された医療機関が誕生します。患者ではなく、株主の方を向いた収益重視の医療機関ということです。株主から訴えられるのを避けるため、すでに現在減少傾向にある産科のようなリスクが高い診療科を持つことは、ますます避けられるでしょう。
また、日本の健康保険制度は「自由化の障壁」と見なされる可能性があります。儲かる医療として全額自己負担の自由診療の導入が進み、「混合診療」を解禁せざるを得なくなるでしょう。
ちなみに、「混合診療」は保険診療と自由診療の併用を認める制度で、現在でも「保険外併用療養費」として先進医療や差額ベッドで行われています。本来、保険診療は効果が確認された治療なのですが、保険が適用されない治療のほうが進んだ効果の高い治療というイメージがあることから、混合診療を解禁すべきとの声があります。しかし、それを認めることは、効果があるかどうかわからない怪しい治療を受ける人の治療費の一部に、皆が払った保険料から給付を回すことになり不公平。何より、高いお金が取れるなら医療機関は保険診療を優先しなくなり(現在でも歯科がそうですね)、製薬会社も新薬を保険適用にする努力をしなくなるでしょう。結果、健康保険制度はガタガタになっていきます。普通の生活者も、今までのように安心して医療を受けられなくなるわけです。
一方で、外資系の保険会社による医療保険(アメリカで普及しているタイプ、現在日本で販売されている入院保険ではない)がやってくるでしょう。それが一般化されるとどういう社会になるかは、映画『シッコ』や『ジョンQ』を見てください。
ほかにも、「労働」が1分野として協議されますが、海外からの労働者を無条件で受け入れなければならなくなります。労働力の自由競争は、現在でも起こっていることですが、間違いなく賃金の低下を招くでしょう。職を確保するため、悪い条件でも受け入れて働くようになっていくからです。もちろん、専門性が高い、能力が高いといった人は競争力があって高賃金が望めます。それが自由競争です。自分はどちら側になりうるか、あらゆる角度から考えてみる必要があります。
また、「政府調達」という分野も見逃せません。政府調達とは、国や自治体の行う公共事業などの入札、モノやサービスの購入を指します。これらも参加国に門戸を開いて入札を進めなければなりませんから、国や自治体は入札の必要が生じたら、翻訳された資料の作成を行う必要があります。コストがかかるうえ、落札は外国の業者、できあがったモノやサービスの内容は日本の実情にそぐわないもの、となるかもしれません。こうして、日本の富はどんどん海外に流れ、日本人が培ってきた文化や風土は廃れていくでしょう。
杞憂に終わればいいのですが、持てるかぎりの想像力を働かせると、私たち多くの生活者の暮らしを危うくさせることばかり目立ちます。「復興にはTPPしかない」といった勇ましい声もありますが、その論理に納得できる根拠を示したものは、私が探す限りでは見つかりません。TPP賛成派の人はおそらく、どんな状況下でも競争に勝つ側にいられると信じられる人なのでしょう。
先送りされた参加表明ですが、多くの生活者が24分野の持つ危うさに気が付いて騒ぎ出さないうちにスルッと通され、気が付けば今まで考えられなかった困難が次々と襲ってくる世の中となっているかもしれません。一度スタートしてしまうと、もう後戻りできないでしょう。
開かれた目を持った生活者は、いまTPP参加の是非を、持てるかぎりの想像力を働かせて考えてみることをお勧めします。
東日本大震災が襲った3月11日以降、日本人が他を思いやる心を取り戻したように感じます。「日本人」とひとくくりにしてしまうのは憚られますが、特に都会では自分と関わりのない他人に対して非常に冷淡であり、稼いだお金も税・社会保障、寄付などで再分配することに強く反発する傾向が見受けられました。
しかし、震災以降は、被災者の置かれている状況を自分のことのように心配する人が増え、義捐金や救援物資もかなり集まりました。チャンスがあればボランティアに行きたいという人も少なくありません。身の回りしか見ようとしていなかった目が、もっと広い範囲を見るように開かれたと言っていいのではないでしょうか。
そういう流れで、今まで関心の薄かった人も、社会問題に大きな関心を寄せるようになっています。社会問題系の勉強会に参加すると、それまで見かけなかった様々な層の人が集まっているのです。非常に嬉しい傾向だと喜んでいます。
これまで関心が持てなかった最大の理由は、その問題が自分の生活にどれくらい影響するかの正確な情報が届いていなかったからではないかと思います。たとえば、今なら放射線が自分の健康にどんな影響があるかに関心が集まっていますから、原発問題についてもそれぞれが考えるきっかけになるでしょう。
ところで、私たちの生活にどんな影響があるか正確な情報が届いていないのではないかと思われる問題として、「TPP参加か否か」を挙げざるを得ません。6月中に交渉参加について結論を出すとしていた政府は、震災の影響で判断を先送りしました。この間に私たち生活者は、TPP参加の是非を自分の問題として見ていく必要があります。
「TPP(環太平洋パートナーシップ協定)」についてはニュース等で見聞きして知っている人がほとんどでしょう。参加国間では例外なく関税を撤廃するなど、自由貿易を推進するのが特徴です。
けれども、ニュースで取り上げられる分野は農産物と工業製品くらい。安い海外の農産物が入ってくるから日本の農業が立ち行かなくなる、一方、TPPに参加しないと日本の高付加価値工業製品などの競争力が落ちて輸出が減る…。つまり、農業関係者vs経団連の単純な対立構造に仕立てられているかのようです。そうすると、農業従事者以外には、「農業ばかり保護するのはけしからん」という感情が生じます。また、「平成の開国」というキャッチフレーズに、参加が是であるイメージが刷り込まれがちです。
ここでもっと広く見なければいけないのが、TPPで協議される分野は24もあるということです。「サービス」だけでも5分野あり、そこには私たちの生活に大きく関係する教育、医療、金融などが含まれてきます。これらをすべて自由化するとは、自国民と同様の権利を相手国の国民および企業に対し保障し(内国民待遇)、第三国に対する優遇処置と同様の扱いを現在および将来において約束する(最恵国待遇)こと。自由貿易を推進するわけですから、障壁となる規制はすべて撤廃しなければなりません。
するとどうなるでしょうか。医療を例にあげると、外資系(参加国から考えるとまずアメリカ)の株式会社化された医療機関が誕生します。患者ではなく、株主の方を向いた収益重視の医療機関ということです。株主から訴えられるのを避けるため、すでに現在減少傾向にある産科のようなリスクが高い診療科を持つことは、ますます避けられるでしょう。
また、日本の健康保険制度は「自由化の障壁」と見なされる可能性があります。儲かる医療として全額自己負担の自由診療の導入が進み、「混合診療」を解禁せざるを得なくなるでしょう。
ちなみに、「混合診療」は保険診療と自由診療の併用を認める制度で、現在でも「保険外併用療養費」として先進医療や差額ベッドで行われています。本来、保険診療は効果が確認された治療なのですが、保険が適用されない治療のほうが進んだ効果の高い治療というイメージがあることから、混合診療を解禁すべきとの声があります。しかし、それを認めることは、効果があるかどうかわからない怪しい治療を受ける人の治療費の一部に、皆が払った保険料から給付を回すことになり不公平。何より、高いお金が取れるなら医療機関は保険診療を優先しなくなり(現在でも歯科がそうですね)、製薬会社も新薬を保険適用にする努力をしなくなるでしょう。結果、健康保険制度はガタガタになっていきます。普通の生活者も、今までのように安心して医療を受けられなくなるわけです。
一方で、外資系の保険会社による医療保険(アメリカで普及しているタイプ、現在日本で販売されている入院保険ではない)がやってくるでしょう。それが一般化されるとどういう社会になるかは、映画『シッコ』や『ジョンQ』を見てください。
ほかにも、「労働」が1分野として協議されますが、海外からの労働者を無条件で受け入れなければならなくなります。労働力の自由競争は、現在でも起こっていることですが、間違いなく賃金の低下を招くでしょう。職を確保するため、悪い条件でも受け入れて働くようになっていくからです。もちろん、専門性が高い、能力が高いといった人は競争力があって高賃金が望めます。それが自由競争です。自分はどちら側になりうるか、あらゆる角度から考えてみる必要があります。
また、「政府調達」という分野も見逃せません。政府調達とは、国や自治体の行う公共事業などの入札、モノやサービスの購入を指します。これらも参加国に門戸を開いて入札を進めなければなりませんから、国や自治体は入札の必要が生じたら、翻訳された資料の作成を行う必要があります。コストがかかるうえ、落札は外国の業者、できあがったモノやサービスの内容は日本の実情にそぐわないもの、となるかもしれません。こうして、日本の富はどんどん海外に流れ、日本人が培ってきた文化や風土は廃れていくでしょう。
杞憂に終わればいいのですが、持てるかぎりの想像力を働かせると、私たち多くの生活者の暮らしを危うくさせることばかり目立ちます。「復興にはTPPしかない」といった勇ましい声もありますが、その論理に納得できる根拠を示したものは、私が探す限りでは見つかりません。TPP賛成派の人はおそらく、どんな状況下でも競争に勝つ側にいられると信じられる人なのでしょう。
先送りされた参加表明ですが、多くの生活者が24分野の持つ危うさに気が付いて騒ぎ出さないうちにスルッと通され、気が付けば今まで考えられなかった困難が次々と襲ってくる世の中となっているかもしれません。一度スタートしてしまうと、もう後戻りできないでしょう。
開かれた目を持った生活者は、いまTPP参加の是非を、持てるかぎりの想像力を働かせて考えてみることをお勧めします。
筆者プロフィール
浅田 里花