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忘れてはいけない初代「ヴィッツ」の志!

2011年01月31日 23時54分20秒 | グルメ・特産品、新製品

ヴィッツ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84

最良のスモールカーを追い求めたトヨタ技術者たち!

2011.01.31(Mon)JBプレス 両角岳彦

 2010年末に、全面改良を行ったトヨタ「ヴィッツ」がお目見えした。私は先日、その新型ヴィッツに触れて、走らせ、開発担当者の何人かとも話を交わしてきた。やはり私にとって、クルマは見るだけで判断するものではなく、「移動空間」としての資質、工業製品としてのあり方を実際に確かめて、そこから読み解きと評価が始まるものである。

 ヴィッツといえば、日本では軽自動車より少し大きいだけの、いわゆるコンパクトカークラスの量販製品であり、利益幅は小さく、付加価値でユーザーを引きつけるのも難しいので、「どうやって数を売るか」だけの商品と捉えられがちだ。

 しかし、もう少し広く見渡せば、世界のどこに行っても(北米は除く)「大人4人が収まって移動できるミニマムサイズ」であるこの大きさのクルマこそが、実用品としての乗用車選びの原点であり、多くのユーザーがここからクルマとの生活体験をスタートする(もちろん新車とは限らないのだが)。当然、「ボリュームマーケット」を形成するセグメントともなっている。

 ここをしっかり押さえ、クルマとしての良さを体感できるような製品を送り出さないと、市場への浸透はもちろん、自動車メーカーとしてリスペクトされることも望めない。とりわけヨーロッパは、そうした土壌が根付いている。

最良のスモールカーをデザインするのは最も難しい
 もう1つ別の視点からの大切な話をするならば、このカテゴリーに求められる「必要にして十分な」移動空間を、「無駄や余裕に甘えることは許されない」中で生み出すという知的創造作業は、自動車のデザインにおいて最も難しい分野である。

 ここで言う「デザイン」とは、姿形をいかに装うかではなく、発想から設計、そして造形までを包括した本来の意味で使っている。つまり、最良のスモールカーは「知恵の塊」なのであり、作り手はそこを目指すべきである。

自動車の近代史、すなわち大衆性の高い工業製品となってからの時代を振り返ってみても、例えばフォルクスワーゲンの、俗に言う「ビートル」(正式には「タイプ1」)、BMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション)の「ミニ」(もちろん1959年登場のオリジナル)、初代フォルクスワーゲン「ゴルフ」などは、まさにこの「知恵の塊」であり、それが最終的に造形にまで表現されていた。そして、何よりも同時代の凡庸なクルマでは得られないような充実した移動体験を人々の記憶に刻むことができた。それこそが「名車」の条件なのだ。

 日本の乗用車の歴史の中でも、例えば富士重工業の「スバル360」「スバル1000」、ホンダの初代「シビック」などは、この「無駄のない凝縮された移動空間」を、それぞれの時代に求められたサイズと性能において実現し、しかも、技術的創造性が十二分に発揮された好例と言えるだろう。同時に、走りの資質に関しても、同時代の国産車のレベルを脱した存在だった。

 1999年に登場したヴィッツの初代モデルもまた、この難しいテーマに当時のトヨタ自動車の「知恵」を結集して取り組んだ成果物だった。

そういう話は、一般にはあまり伝わっていないと思うので、ここで簡単に紹介しておきたい。

欧州の小型車に見劣りしていた「スターレット」!

 その直前、トヨタがコンパクトカーセグメントに投入していたプロダクツは、車名としては「スターレット」。車両型式表記としては「EP90系」と呼ばれるものだった(最初のアルファベット「E」がエンジン系列を示し、その次の「P」が車種、後半の数字が世代と車型類別を示すのがトヨタの命名法)。

 ここで車種を示す「P」の原点は、「国民車構想」に呼応して開発された「パブリカ」、60年登場の「UP10」である。この初代パブリカもまた意欲作であり、記憶に残るものではあったが、名車に数えられるべき存在かとなると・・・。

自動車の歴史を振り返ると、空間設計、機構設計、それを包み込んでクルマとしての資質を表現するスタイリングに至るまで今日的なコンパクトカーの出発点となったのは、74年登場の初代「ゴルフ」だった。

 そこからもう一段凝縮して、4人乗り実用車としてミニマムとなる空間、走行性能を実現したのは、83年登場のフィアット「ウノ」だった。これは、私自身がそうしたクルマたちを国内外で体験してきた中で実感したことだ。

 これらの「先駆者」たちが先導する形で、欧州では、居住空間と走行機能要素をきっちりと組み立てた「健康な」パッケージングを持つ製品を、各国の主要メーカーそれぞれが送り出す時代を迎える。例えばオペル「コルサ」(日本では一時「ヴィータ」の名で販売されていた)、ルノー「クリオ」(日本名は「ルーテシア」)、プジョー「205」、フォルクスワーゲン「ポロ」などなど。

 それらと比べると、日本のコンパクトカーはいささか実力不足、と言わざるを得なかった(今でも・・・、だが)。

 そうした中でもトヨタは、北米市場を軸に世界展開を進め、生産台数ではすでに世界第2位に到達していたにもかかわらず、そのラインアップのコンパクトカーレンジを受け持つスターレットは、世界の、特に欧州のトレンドや製品群の実力と比べれば明らかに見劣りするものだった。

 私などは「外野席」からそう言い続けていたわけだが、実はトヨタの製品開発に携わる人々の中にも、そこに問題意識を抱く面々は少なからずいた、ということが後に分かってくる。

 とりわけ、90年代に入る時期には製品開発全体を統括する立場にあり、94年には技術担当副社長となった和田明広さんは、コンパクトカーはもちろんだが、トヨタの製品とその開発・製造に関わる全てのプロセスに危機感を持っていた。それは私自身がインタビューし、あるいは折々に会話を交わす中からもヒシヒシと伝わってきたものである。

独立チームに精鋭の技術者が終結!

 そして、その和田さん指揮の下、当時のトヨタのクルマづくりを改革し、技術的内容を飛躍させるべく、いくつものプロジェクトが進められた。

 それが製品の形に結実した一例が「プリウス」(もちろん初代)であり、そして「ヴィッツ」とその派生モデルである。そして今日のトヨタは、この時期に敷かれた技術路線の上を走り続けているのだ。

 スターレットに代わる、そして「世界(欧州)に通用する」ことを目指した新世代コンパクトカーの開発に絞って、話を進めよう。そのプロジェクトは、「NBC」と呼ばれていたと聞く。「ニュー・ベーシック・コンパクト」の略だったとか。

 当時のトヨタの製品開発の組織は、「第1開発センター」がFR(エンジンを前部に縦置きして後輪を駆動する)の中大型車を担当、「第2開発センター」がFF(エンジンを前部に置き前輪を駆動する)の小中型車、そして「第3開発センター」が4輪駆動の全路面型車両や商用車をそれぞれ受け持つ、という体制だった。

新型コンパクトカーを開発するとなれば、当然、第2開発センターの中でチームを組むべきところだが、NBCにつながる最初のレイアウト検討、パッケージング構築などを行う組織は、第1開発センターの中に、独立チームの形で設けられた。

 そしてトヨタだけでなく、傘下のメーカー、例えばダイハツなどからも「一本釣り」のように実力の高い技術者がここに集められた。その技術者一人ひとりの選任からして、どうやら和田さん自身が深く関わっていたようである。

 このように、それまでの製品開発の流れと組織から切り離した形にして、しかも、物理的にも独立した部屋の中にメンバーを隔離する、という手法を採ったのは、後になってみれば「既存の発想や設計を下敷きにすることなく、新しいものを生み出せ」という強い思いの表れだったことが理解できる。

 そして、和田副社長は少しでも時間が空くと、自らこの「開発部屋」にやって来て(現場にいた人々の言葉によれば「飛び込んできて」)、「図面を見せろ!」。もともと和田さんは車体設計が専門であり、「図面から『間違っている』部分が浮かび上がって見えてくる」という優れた技術者である。

 同じ台詞は、「スカイラインの父」櫻井眞一郎さんからも聞いた(櫻井眞一郎氏は2011年1月17日に逝去された。合掌)。和田さんも櫻井さんも、試乗の現場やインタビューでこちらの考えが浅いと鋭く切り返され、常に緊張感を持ってお話ししたものである。しかし、クルマと人に対する愛情が篤いことも伝わってくる、大きな存在だった。

 

もちろん、部下と仕事に向かい合った時の厳しさは、私たちに対するものとは比較にならない。副社長時代、NBCプロジェクト室の技術者は、図面を広げた前に立つ和田さんの「何を考えて、ここをこうしたのか?」「ここは?」という矢継ぎ早の指摘の鋭さに汗びっしょりになったと聞く。

 和田さんに「CAD(コンピューター支援設計)のプリントアウトされた図面でも、間違いが浮き上がって見えますか?」と聞いた時には、「ああ、あれはダメだ。迷ったり悩んだりした設計者の思いが(図面の)線に出ないから」という答えが返ってきたものだが、必ずしもそうではなかったようだ。

随所に盛り込まれたコストダウンのアイデア!

 そうやって、新しいコンパクトカーの空間が、骨格が、機能要素が形づくられていった。

 細かいところでは、リアウィンドウのワイパー1本をとっても、一般的な何本かの骨で押さえる構造のものを、デザインと機能の両面からプラスチックの一体腕で押さえるものに変えられないかというアイデアが検討された。

しかし、当然、初期投資も含めてコストが上がる。コンパクトカーにとってコスト切り詰めは絶対的なテーマの1つでもある。

 さてどうするか、という時に和田さんの判断は「そっちの方が良い(製品)になるのならやりなさい」だったと聞く。ただし、「このクルマは世界に向けて大量につくることになる。その中で同じ部品を100万本単位で作ってゆけば、コストは今と同じか、むしろ下がるはずだ。そうやって使ってゆけるようなものを設計し、根拠のあるコスト計算を付与して提案しなさい」という条件がついたそうだ。少なくとも、ヴィッツからは、新しいすっきりしたデザインのリアウィンドウワイパーが採用されている。

 乗員の前面に広がるダッシュボードの作り方も、製造プロセスを簡素化してコストダウンを図りつつ、「見栄え品質」は落とさないようにするため、それまでの常識を打破する発想が盛り込まれていた。従来は、まず樹脂を成形して大きな基本ブロックを作り、そこから車室内に露出する表面部位に表皮を貼り付けたり、薄い膜を作る成形作業を別に行ったりしながら、反射防止や汚れ、傷が目立たないようにするための凹凸パターンを作る絞(シボ)を刻む成形を行う、という作り方をしていた。

 NBCではそれを止めて、樹脂の骨格を一発で成形したものをそのまま車両に組み込むようにした。つまり、表皮を付ける工程を省略したわけだ。

もちろん、プラスチック素材がそのまま内装表面になるわけで、それまでの常識では「安っぽく」見えてしまう。そこで表面の絞のパターンを工夫した。皮革のシワを模していた従来のパターンとは発想そのものを切り替えて、細かな幾何学模様の組み合わせをデザインにしたのである。その後、欧州のベーシックカーにも同種の手法を採る事例が現れる。

 メーターを中央に設置したのも、デザインの新しさだけでなく、運転席の位置が右でも左でもダッシュボード骨格は1種類で対応し、その中央部に設けた空間に右ハンドル、左ハンドルのそれぞれに対応したメーターユニットを用意して組み込めばいい、という形にするためだった。

現実の製品にその構成を採用するに当たっては、運転中の人間の視線移動を検討し、実測し、速度や燃料残量などの重要な情報はどんな高さにどう表示すれば見やすいか、などのガイドラインを作ることまで行い、その上で実車のデザインを組み立てている。

 そうやって設計したダッシュボードの各所に残った空間を巧みに利用して、小物を手元に置くためのポケットをたくさん設けたのも、初代ヴィッツ・ファミリーの特徴の1つとなった。

 それも急減速や衝突時に、置いてあった物が乗員に向かって飛んできて「凶器」と化さないように、収納空間を深めにして、その入口には縁を設けるなどの工夫をちゃんとしてあったものである。

 こうした配慮が足りないクルマは、今でも日本メーカーの製品に散見される。つまり、開発者、デザイナー、内装設計の担当者などに、乗員の安全性に関わる基本認識が足りない、ということだ。

当初から構想されていた派生モデルの展開!

 こうして移動空間としての、また工業製品としての骨格が形作られると、肉付けが始まる。

 後に「ヴィッツ」(輸出名「ヤリス」)と名付けられる基幹車種(3ドアと5ドアのハッチバックボディー)に加えて、まず、全高を高くして後席と荷室の部分の空間を大きく、荷物を運ぶなどのユーティリティーを高めた形態のモデルがつくられた。これは「ファンカーゴ」(欧州名「ヤリス・バーソ」)と名付けられることになる(その後継となる現行車種は「ラクティス」)。製品化にあたって、その後席空間の多用途性ばかりを追いかけ、「安全に着座して移動する」とうい基本機能に問題を抱えたものになってしまったのが残念だったが。

 他に、ヴィッツ/ヤリスに独立したトランクを追加した形の4ドアセダンの「プラッツ」、さらにちょっとパーソナルカー志向のスタイリングにしたコンパクトハッチバックの「ist」、あるいは若者をターゲットにしたファッションスペシャルティー商品の「bB」と、様々な形態、空間設計を持つバリエーションが、このNBCプロジェクトから生み出されてゆく。今で言う「プラットホーム」としての役割も、開発当初から構想されていたわけだ。

 ちなみに、だいぶ後になって加わったbBは、デザイナーがどうしても製品化したいと考え、和田さん他、上層部へのプレゼンテーションの時に、そのイメージスケッチを他の提案の上に重ねておいた。それが和田さんの目にとまり、「オレには(コンセプトが)理解できないが、だからやってみるべきだろう」と言って、ゴーサインを出したとも聞く。これは風説だけれども。

ヴィッツ/ヤリスは、当時トヨタの欧州デザインセンターに在籍していたギリシャ人の若手デザイナー、ソテリス・コボス氏が提案したアイデアを具体化した、独特の丸みと抑揚を持つスタイリングをまとって、99年初頭から日欧のマーケットに投入された。

 丸みを持たせると内部空間が狭くなりそうだが、実は人間の頭、肩も丸い形なのであって、その身体から適切な距離を取ったところにガラスや内壁を置くことで、十分に「住み心地」の良い空間を形づくることは可能だ。

初代ヴィッツの空間設計も、まさにそのセオリーにかなったものであり、さらにドアなどの内装では肘の横などに当たる部分を窪ませた立体成形にするなどして、上手に人間を座らせ、包み込んでいたのである。

「動質」の部分だけは残念だった!

 そして初代ヴィッツは、トヨタ社内の型式名も「CP10系」(もちろんその前にエンジン型式を示すSかNが付く)として、パブリカ~スターレットの流れから訣別したことを表している。

 つまり、凝縮されたパッケージングと、その中に作られ、仕上げられた空間の居住性、過剰なものを省きつつ実用性はしっかり織り込み、それを新しいデザイン表現で見せるところまで仕上げたのが、初代ヴィッツ/ヤリスだった。

 ただ、実際に走らせてみると、ステアリングの感触、つまりドライバーにとってタイヤと路面の中で起こることとの「対話性」に始まり、路面を踏んでタイヤが転がり、そこからの動きを受けて車体が揺れ、舵を動かして進路をコントロールしつつ、タイヤのグリップを引き出してクルマ全体の動きを作ってゆく・・・という自動車にとって何よりも大切な品質、「動質(クオリティー・オブ・ダイナミックス)」の部分で、私は「画龍点睛を欠く」と評したものである。

 当時のレベルにおいて、まずまずの実力を持つと受け取ったのは、ダイハツ工業が開発した1リッターのエンジン「1SZ型」ぐらいだった。

 小さいからこそ、言い換えれば人間がタイトに包まれ、タイヤの存在と力を感じ取りやすく、運動する質量が軽いということは、ドライバーにとって自分が動かしている「箱」の運動がつかみやすく、操りやすいことにつながる。

 これは、欧州のスモールカーの良品が共通して持っている感覚である。走っている実感が伝わり、安くて小さいクルマなのに、運転することが楽しい。だから普通に移動する中で、ドライバーだけでなく同乗者も含めて皆、何となく楽しげな顔をしている。それが「良いクルマ」。

 初代ヴィッツは、そうなり得る資質を感じさせつつも、しかし現実には全ての感触がフワフワと甘口で、それでいてステアリングの機構から伝わる感触や路面の凹凸を踏んだ衝撃の伝わり方などはがさつだった。

 そこは、トヨタが既存のトヨタレシピ(クルマ料理法)をリセットして、もっと深く難しいレベルを追求してゆかないと、改善や進化が難しい領域である。

 しかしその停滞は、後でもまた紹介するが、今もまだ続き、いや、むしろルーティンワークに終始する傾向が強まっており、ものづくりとしては劣化傾向にある。着実に進化を続けて世界のクルマづくりをリードする人々、組織との「差が拡大している」というのが、ここでもまた私の実感である。

 初代ヴィッツを市場に送り出した時、私ごときに「画龍点睛を欠く」と言われたことがもしも伝わったなら、厳しいとともに負けず嫌いでもあった和田さんは、きっと苦笑いされていただろう。

 副社長時代も、開発現場に飛び込むだけでなく、自らクルマを運転して気に入らないところがあれば開発担当者を叱咤し、我々報道関係者の試乗会の現場に出張した開発担当者、技術者の日々の報告にまで目を通していたという和田さんだから、おそらくどこかで私の発言や記事も確認されていたのではなないかと思うのだが。

 ともあれ、この初代は成功した。そこまでに注がれた知恵と人々のエネルギーの大きさを知れば、そのモデルチェンジが簡単にはゆかないことは、専門家でなくても十分に理解できるだろう。次回は2代目以降のヴィッツと、そのクルマづくりの変容について見ていく。

 

 


中国発・世界大恐慌の足音が聞こえる!

2011年01月30日 22時50分34秒 | 日記・政治

世界一強欲で2番目に大きな経済が破裂した時・・・

2011.01.29(Sat)JBプレス 川嶋諭

中国のコラムで人気の宮家邦彦さんの記事が中国を代表するネットメディアに転載された。と言っても、私たちが英エコノミスト誌や英フィナンシャル・タイムズ紙の翻訳権を得て記事を掲載しているのとは違う。無断転載だ。

中国の代表的なメディアがJBpressから無断転載!

環球網に載ったのは、宮家さんのこの記事「なぜ日本人の対中親近感は急降下したのか」だった。

 10年前に比べて日本人が中国に親しみを感じると答えた人が20%も急落、その理由を分析したものだった。

 恐らく、中国にとっても日本人の気持ちの変化は注目すべきテーマだったのだろう。

 しかし、環球網は環球時報という人民日報系の国際評論を専門とする新聞社が運営するネットメディアである。中国を代表するネットメディアの1つと言っていい。

 そこが、発行元である私たちに何の連絡も、もちろん翻訳権の話もなく、勝手に記事を翻訳して掲載する。

 しかもご丁寧なことに、宮家さんの記事の中から天安門事件に触れた部分はすべて削られている。記事に改竄を加えているわけだ。

 宮家さんの元の記事にはコメントが3通寄せられていたが、環球網に載った記事には260通ものコメントがついている。

 宮家さんによるとそのほとんどが日本人と日本に対する罵詈雑言だという。

 さすが中国の大手メディア。その影響力は計り知れないと脱帽させられるが、中国を代表するメディアが著作権など全くお構いなしというのはいただけない。

 欧米や日本ではあり得ない話だが、中国ではまかり通る。日本を抜いて世界第2位の経済大国にのし上がった中国は、いつまで国際的なルールを無視して自分勝手を貫くのだろう。


逆に、半年ほど前だったか、中国の新華社通信が記事を買わないかと営業に来た。政府系のメディアとして中国では無料で配信している記事の翻訳権を相当な値段で買えと言う。自分たちの権利だけは欧米や日本ルールでしっかり主張するお国柄らしい。

ベトナム人の少女を拉致、中国で人身売買!

 そう言えば、以前紹介した北朝鮮の女性を売春婦として人身売買していることを指摘した記事「岡崎議員は見て見ぬふりなのか、中国が北朝鮮女性の人権を蹂躙」と似たような事件を、1月28日付の朝日新聞が報じていた。

 中国ベトナムとの国境付近で、ベトナムの少数民族の若い女性を拉致して中国国内で売春婦として売り飛ばしているというのである。

 21世紀の世界第2位の経済大国・国連安保理常任理事国で起きていることなのだ。

 人身売買の件は政府の取り締まり不十分が原因だとしても、著作権に関しては確信犯であることはまず間違いない。上海万博のテーマソングの例もある。

 そうした中国が大変な勢いで力をつけている事実を私たちはもっと真剣に考える必要があるだろう。私たちの常識が通用しない強国といかに付き合いどんな対応が必要か。

米国が世界に誇る企業を手に入れた胡錦濤

その意味で今週の谷口智彦さんのこの記事「GE、中国と仰天のディール」は重要な指摘だった。

 既にレームダックと化している胡錦濤国家主席の訪米はめぼしい成果はほとんど上げていないと日本や米国では見られているが、実は違うというのである。谷口さんは記事の最後で次のように書く。

 「それでも帰路、胡錦濤氏は機中の人となり、GEと交わしたあれこれを思っては微笑を浮かべたかもしれない。訪米は総じて成功だったとすら思わなかったか」

 中国が今回の胡錦濤国家主席訪米でもらった最大のプレゼントは、米国を代表する企業ゼネラル・エレクトリック(GE)からの技術供与だと言うのだ。

GEは周知の通り、発明王エジソンが起こした会社である。中興の祖と言える前会長兼CEO(最高経営責任者)であるジャック・ウェルチ氏によって大胆にリストラされ、経営資源を成長分野に徹底的に振り分けた。

中国が喉から手が出るほど欲しい航空電子システム!


現在の会長兼CEOであるジェフ・イメルト氏は利益率が8%を下回るような事業はGEがやるべきではないとし、ウェルチ氏以上の決断力で事業の再構築に取り組んだ。

 航空機産業やヘルスケア産業、エネルギー産業など最先端で高い成長が見込める事業ばかりを世界中で展開している。米国を代表する企業、というより世界の企業の鏡とも言える会社である。

 バラク・オバマ大統領は、そのGEの技術を胡錦濤国家主席への手土産とした。これは日本や米国のメディアはほとんど指摘しないが、衝撃的な事実ではないかと谷口さんは言う。

 「何と言っても特筆すべきは航空技術分野での提携だろう。GEは今度の合意によって、中国航空工業集団公司(AVIC)と、折半出資のジョイント・ベンチャー(JV)を上海に作ることになった」

 「AVICとはほかでもない、先頃ロバート・ゲイツ米国防長官が訪中のさなか、時期を合わせたかのごとく新鋭戦闘機の試験飛行をやってのけた当の会社である。ステルス性に富む次世代戦闘機、J20とか、殲20と呼ばれる例の機体だ」

供与したハイテク技術は必ず軍事転用される!

 「そんな会社にGEは航空電子システムを供与するという。民間機用だから精度は軍用に比し何段階か劣るとして、もしやGEは高を括っているのだとしても、中国はハイテクのかたまりエイビオニクス(航空電子技術)を喉から手が出るほど欲しかったはずだ」

 これらの技術供与によって、中国の航空産業やエネルギー産業は一層成長の速度を上げるに違いない。これは、成長産業で日本にとっても強力なライバルとなる可能性がある。

 例えば、三菱重工業が開発している三菱リージョナルジェット「MRJ」との競合は避けられない。民間の技術競争だけならまだしも、それはほぼ間違いなく軍事転用され、仮想敵国である日本や米国に向けられる。

 今回のオバマ大統領のプレゼントは歴史的な贈り物になるかもしれない。

オバマ大統領にすれば、中国を通貨や通商問題などで国際的な土俵に乗せるための気持ちだったのかもしれないが、果たして中国にその意識があるのか。何しろ通貨問題一つとっても全く譲る気配がない。

通貨問題に全く取り組まない唯我独尊!


英FT紙のマーチン・ウルフ氏は「中国がドルを愛するのを嫌がる理由」の中で次のように書いている。

 「中国にとって解決策は、今のような規模でドルを買うのをやめ、人民元がより速く上昇するのを認めることだ」

 「これは確実に調整の問題を生む。しかし、こうした調整は中国の利益になる。調整を進めないと、中国はさらに多大な外貨準備を積み上げる羽目になり、自国の金融システムを歪め、金融の統制力を失う恐れさえあるからだ」

 「しかし、今見られる証拠は、中国はまだ非常にゆっくりとしか動くつもりがないことを示唆している」

 そして、最後にこう悲鳴を上げている。

中国のマンションは1億円以上がざらに!

 「胡主席に対する筆者のアドバイスは単純である。中国があの忌むべきドルの横暴から逃れたいのであれば、買うのをやめろ、というものだ。どうかお願いだから」

 中国は現在のような政策を続ければ、中国にとって大きな問題になることは分かっている。すでに過熱した経済は、バブルとなって表面化しているからだ。

 大都市の不動産価格は急上昇。高層マンションでは1億円以上の物件がざらだという。日本のバブル最盛期を髣髴させる。

 そのため、ここに来て、行き過ぎた投機を防ごうと固定資産税の導入を一部で試み始めている。しかし、焼け石に水とはこのことだろう。

 

 

では、なぜ問題が分かっているのに中国は本格的な改革に着手できないのか。そのことを示しているのが柯隆さんのこの記事「格差固定のコネ社会を待ち受けるもの」である。

日に日に強まるクローニーキャピタリズム!


「中国の経済と社会システムは市場メカニズムを取り入れ、平等をモットーとする社会主義の理念はわずか20年で姿を消した。一部の保守的な左派の論者は、現行の社会システムが毛沢東路線から大きく逸脱してしまったとして、猛烈な批判を展開している」

 「とはいえ、毛沢東路線への逆戻りは、もはやできない。人々の私利私欲が膨張し、他人よりも豊かになろうとするモチベーションは、予想以上に高まっている」

 「そして、あの手この手で一度富を手にした者は、それを保持し続けるために、家族内で継承しようとする。結果的に中国ではクローニーキャピタリズム、すなわち縁故重視型の経済の色彩が日に日に強まっている」

 この一度富と既得権益を得た人々が、それを絶対に手放したくない、家族内で継承させたいという強い気持ちが、改革を妨害するのである。

 固定資産税やさらに検討されている相続税の導入は、こうした既得権者には徹底的に嫌われる。しかも、政治を司る人たちが、そうした既得権益者なのだ。

政財界の個人資産は1人平均30億円!

 「中国人民解放軍の元大佐・辛子陵氏によれば、政財界にいる約3000人の太子党は個人資産が平均で2億元(約30億円)に上ると言われている」

 こうして中国バブル経済を膨らまし続けていく。その結果待ち受けるのはバブル崩壊だろうが、それは世界経済にとっても深刻な影響を及ぼすことになる。既に、中国をはじめとした新興国の高成長は資源や食料の高騰となって表れている。

 それを示しているのが英エコノミスト誌のこの記事「騰勢強めるコモディティー価格」だ。

 「コモディティーが2008年のような盛り上がりを見せている。石油価格は1バレル=100ドルにあと一歩まで迫り、2008年10月以来の高値をつけている」

「本誌(英エコノミスト)が算出している指数で見ると、世界の食料価格は2008年7月のピーク時の水準に戻っている。昨年11月初頭から17%も値を上げた銅も史上最高値を記録している」

リーマン・ショックは単なるきっかけにすぎなかった!


世界は2008年のリーマン・ブラザーズの破綻によって大きな経済的ダメージを受けた。しかし、リーマンの破綻は実は根本原因ではなくきっかけにすぎなかった。

 世界が不況へと突入した原因は、リーマン破綻の1年以上前から世界中を覆い始めていたコモディティー価格の高騰だった。

 「最近の大不況(great recession)は、概して金融危機に端を発したとされているが、実は米国経済が投資銀行リーマン・ブラザーズ破綻の1年近くも前から収縮を始めていた事実は忘れられがちだ」

 「カリフォルニア大学のジェームズ・ハミルトン教授は、大不況の原因は石油だったと考えている。2007年末から2008年第3四半期にかけての景気悪化は概ね、2007年初頭以降の石油価格の上昇で説明できると教授は言う」

 バブル化した経済で世界の資源を買い漁る中国。そして、米国の景気回復も軌道に乗り始めたことで、食料や資源に対する需要はさらに強くなると予想される。

中国と米国が原油価格をつり上げる!

 中でも世界経済にとって大きいのが石油の需要だとエコノミスト誌は書く。

 「ゴールドマン・サックスのジェフリー・カリー氏は、米国の石油需要が回復すれば、中国と『衝突』することになると懸念している。というのも中国は現在、 2007年実績を23%上回る量の石油を消費しているからだ」

 中国の需要増などだけでも既に1バレル100ドルに迫る状況の中、世界最大の需要国である米国で本格的な景気回復が始まれば、騰勢は一気に高まるに違いない。

 「中国ではほかにも、銅の消費量が63%、綿花と大豆の消費量が18%増加し、ワインの消費量も増えている」

世界経済は大きな転換点を迎えつつあることは間違いない。恐慌はどこか1カ国が原因で起きるのではなく複合的な原因で発生する。しかし、中国という世界一強欲な経済が、強欲さを控えるどころかますます強めているのは世界にとって心配の種だ。

格付けに疎い首相がダボス会議で何を話すの?

 先進国経済は景気回復期に入ろうとしている矢先ではあるが、既に遠くに聞こえてくる大恐慌の足音が空耳になることを願うばかりである。

 そして、いまやピエロになった感がある日本の首相。下半身が問題にされているイタリアの首相の方がまだましかもしれない。米国格付け機関スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)に日本国債格付けを8年ぶりに1段階引き下げられた。

 そのことを聞かれて、「そういうことにはちょっと疎いので」とコメントを避けた。まあ、いい。揚げ足を取るつもりは全くない。たかが民間の格付け機関の判断などに日本の首相たる者がコメントしないのが慣例であるらしいから。

 しかし、民主党政権になって2年続けて税収より国債の発行額が上回るという異常事態がその大きな原因であることの認識が全くないのだろうか。そういう首相が社会保障費を確保するために消費税の増税を与野党で議論しましょうと平気でおっしゃる。

 ダボス会議にはどうしても行きたいそうだが、そこで何を話すつもりなのか。日本人が世界で笑いものにされないように、ぜひ発言には細心の注意を払ってほしいものだ。


甘く見てはいけない中国消費市場攻略!

2011年01月30日 22時49分46秒 | グルメ・特産品、新製品

「日本で売れるから中国でも売れる」「高いものほどよく売れる」の迷信 !

2011年1月28日DIAMOND online 姫田小夏 [ジャーナリスト] China Report 中国は今

中国消費市場への売り込みが熱い。特に1人当たりGDPが1万ドルを超えた、所得の高い上海市場に向けての、日本企業の猛攻撃が始まっている。しかし現実は甘くはない。むしろ指摘されるのが日本企業の上海市場に対する認識の甘さだ。「日本で売れるから中国で売れる、だからそれで一儲けできる」といった迷信に踊らされる日本企業が足元をすくわれている。

「なぜか、日本人は上海で日本酒が売れると勘違いしている」


2010年11月に上海で行われた食品見本市を訪れた。日本勢が多数のブースを構えるなか、とりわけ目立ったのが日本酒のピーアールだった。彼らの期待感は小さいものではない。なぜなら昨今は大陸の中国人も日本料理を受け入れるようになったからだ。

 上海のショッピング街に出店する日本料理の大手チェーン。フロアを見渡せば、ほとんどが中国人客だ。テーブルでは慣れない手つきで日本酒を手酌する30代とおぼしきグループがちらほら。これまで日本酒の飲み手といえば香港人や台湾人が主だったが、ここにきて地元の消費者が関心を示すようになった。

「上海の日本酒市場は広がっている」という見方もある一方で、「いや、上海市場はかなり厳しい」と率直に漏らす酒造メーカーもある。

 筆者は上海の食品商社を取材した。中国人経営者のAさんは「なぜか、日本人は上海で日本酒が売れると勘違いしている」と話す。中国の一般消費者で日本酒をたしなむのはごく少数に限られているため、この食品商社はもっぱら業務用として日本料理店に納めている。

 上海の日本料理店ではここ数年「久保田」「八海山」など、日本から輸入した日本酒のラインナップが増えた。だが、現実には、日本料理店に限定されたマーケットで、日本から輸入した日本酒の販路を広げるのは難しいようだ。

「ワインならば一般家庭にも歓迎され、中華料理にもよく合う。それに対して日本酒は普及の範囲が非常に狭い。しかも徳利にお猪口と特殊な飲み方が求められる。まだまだ人気とは言えないし、そう簡単には売れないのです」(Aさん)


 地元中国人らが日本料理店で注文するのはたいていが「食べ呑み放題」、このメニューに含まれる日本酒は合成清酒である傾向が強いとも言われている。Aさんは「輸入した日本酒を扱うのは高級店を中心に、せいぜい50店舗程度」だと指摘する。

 上海には日本料理店が500~600店あると言われているが、今後の戦略の重点はむしろ中華料理店ではないだろうか。日本酒を食品スーパーの棚におくよりも、まずは刺身を出すようになった中華料理店が狙い目だ。だが、足かせもある。

「蔵元はいいお酒を作るが小規模、小ロット。日本酒は大きく商売ができない。仮に人気が出たとしても量が出せないので商売としての限界があります」(同)

 日本ブランドは売り込みが難しい。多品種小ロット型は日本では魅力に富んでいても、異国の市場では「知名度がない」「量が足りない」というハンデにすり替わってしまう。

中国産の4倍の価格で通用するか?シャボン玉石けんの挑戦!


北九州市に、無添加石鹸を製造するメーカーがある。

 シャボン玉せっけん株式会社の主力商品である「シャボン玉石けん」は70年代に発売された。発売に至った背景には、日本の高度経済成長で便利かつ安価な化学物質が氾濫した結果、アトピーやアレルギーなどの皮膚疾患が急増したことがある。

 時代は成長真っの只中にある上海も当時と重なる。

 かたや日本の市場では液体石鹸が主流となり、固形石鹸が押され気味。シャボン玉石けんもまた「座して死を待つのか」という選択を迫られている。当然、海外市場を模索せざるを得ない。

見かけは地味なこの商品は、1個20元の価格が設定されたのだが、上海市民は歓迎するのだろうか。上海では国産地元ブランドの石鹸が1個5元程度で売られている。果たしてその4倍の価格を払ってでも「安心安全」が欲しいという客層は存在するのだろうか。そんな疑問を駐上海北九州市経済事務所所長の岩田健さんにぶつけると、こんな回答が帰ってきた。

「たった1週間で、日本円にして合計60万円を売り上げたんですよ」

 2010年8月下旬に行われた上海の梅龍鎮伊勢丹での催事では、平日で1日当たり5000元、土日で1日当たり1万5000元を販売したと言う。日本でならこの売上げはあり得ない。1日1万円がいいところだ(1元=約12.5円で換算)。

 購入者はOLが目立った。また、石鹸の販売員として雇われたアルバイトの女性が買って行くケースもあった。彼女たちのバイト料は1日150~170元。そんな薄給の彼女たちが20元のシャボン玉石鹸を買って行った。

 色は真っ白、匂いはない、何より界面活性剤(合成界面活性剤)を主成分とする合成洗剤とは異なる。洗った感触が他とは異なり、ツッパリ感が少ないため、「体にいいかどうか」がすぐに実感できるのだ。

 愛用者の1人、Lさん(上海在住、28歳)は「さすがに20元は高いと思いますが、父に固形石鹸をプレゼントしたら喜んでくれました。母には粉石鹸を。品物選びにはうるさい母が満足したのでびっくりです」と話す。どうやら一家で愛用しているようだ。

コピーできない、する手間がかかる“中国が作れないもの”を売る!

 一方で岩田さんは「中国の国産品にはないもの、真似したところで手間がかかり、中国メーカーが造れないものを商品として送り込むことが重要なヒントです」と語る。

形あるものはすべてコピーされても仕方がない――。上海市場で闘おうとする日本企業はこうしたことをも覚悟しなければならないのかもしれない。それだけに敢えて真似されないものを出していくという視点が必要になるのである。

 ところで、シャボン玉石けんの中国進出にはもうひとつ隠れたエピソードがある。このシャボン玉石けんに魅せられた中国人がいたのだ。THF株式会社(東京都)の社長、陳相秋さんが「中国で売らせてほしい」と挙手したのが始まりだという。

「きっかけはテレビ番組。シャボン玉石けんが紹介されたのを見て、これはおもしろい!と。直後、北九州の工場訪問を見学に行きました。訪れてびっくり、工場は一切匂いがない。石鹸すなわち化学工場、化学工場なら異臭は当然だと思っていましたから。健康そのもののものづくりに、即座に代理店になりたいと申し出ました」

 目下、対面販売を通して、石鹸を認知させることに取り組んでいる。「ターゲットとする消費者は女性。冷静で、情報量も購買力もある。女性を説得できれば中国制覇も夢じゃない」と陳さん。この手応えに2、3年後には年間500万元の売上げを視野に入れる。

生活の質向上ニーズを捉えろ!次に中国市場を狙う健康食品


北九州市が生活の質を向上させたいという急激に変化する上海社会ニーズに対し、次に上海に売り込みをかけようとしているのが「くろがね堅パン」だ。

「健康はアゴから」の発想で作られた無添加、無着色の鋼(はがね)のように堅いパンは、大正時代末期、官営八幡製鐵所の従業員のカロリー補給食として開発され、八幡製鐵所で作られたのが始まりだと言う。「時の洗礼を受けた地味な商品」もまた、真似されにくい商品であることは確かである。

 昨今、上海市場では青汁も販売攻勢をかけるようになった。健康食品とはいえ、日本人ですら手に取るのはなかなか難しい、くせのある商品だ。上海でプロモーション活動を積極的に行うのは株式会社健康美人フォーラム(東京都)の日吉美生さん。「商品説明を丁寧に行えば買ってくれるんです」と感触を語り、「自らが販売姿勢を示さないと」と現在1カ月に2回は上海に足を運ぶ。

販売現場での最大の難問は、“誰がそれを売るのか”!

 所得の高い上海市場をターゲットに、まずは対面販売でマーケットを拡大。そこでは消費者への商品説明がカギとなりそうだ。だが、日本人担当者が現場を離れたとき、その丁寧な商品説明は維持できるのだろうか。

 現地での最大の問題は、商品はあるが売る人がいないということだ。マニュアルを作成しトレーニングを繰り返すものの、営業力は一朝一夕では育たない。経営者自らが乗り出すケースもあるが、百貨店など小売業態の中には、メーカー側のスタッフが直接売り場に立って販売する行為を禁止するところもある。一歩進めば1つまた壁にぶつかる、上海市場の開拓はその繰り返した。

 最後になったが次のようなエピソードを紹介しておこう。最近、上海で筆者はこの手の話をよく耳にする。

 ある日本人が商品のサンプルをスーツケースに押し込んで上海に持ち込んだ。そして、知り合ったばかりの中国人を前にサンプルを押し付けた。「これ、ちょっと配っておいてよ」――。当然、応分の対価は支払うだろうが、それにしてもあまりに舐めきった態度ではないだろうか。軽い気持ちで頼んだものは、軽い気持ちで扱われても当然だ。今、某社にはサンプルが詰め込まれた段ボールが埃を被ったまま、放置されている。

 この複雑にして攻略至難な市場を甘く見てはいけない。中国市場、決して「出せば売れる」わけではないからだ。


サービスに目覚めた中国のホテル!

2011年01月30日 22時49分03秒 | 旅行・ホテル

競争は国有企業の意識すら変えた !


2011年1月20日 DIAMOD online 莫邦富 [作家・ジャーナリスト]

7年前の2004年のことだ。山東省青島市を訪問した私は、早朝の飛行機に乗り、渤海湾を隔てた大連に移動した。

 予約している宿泊先のホテルである大連スイスホテル(現・大連瑞詩ホテル)に到着したのは9時半頃だった。持っていた荷物をホテルに預けてから予定している企業訪問をしようとホテルのフロントに立ち寄った。

 フロントの女性から「お客さんがチェックインなさるのですか」と聞かれ、早朝でもチェックインできるんだ、と心から自分の幸運を喜んだ。きっとホテルの客室が空いているのだろうと思った。チェックインの手続きをしながら、女性は無線通話機で客室係を呼び出した。「掃除済みですぐに利用できる客室はありますか」と確かめているのを聞いて、びっくりした。客室係の返事を確かめてから、女性は申し訳なさそうに私に向かって謝ってくれた。

「昨日はホテルが満室だったため、今のところは掃除が終わった部屋がまだありません。あと15分ほどお待ちいただけたらご利用できます。それまでラウンジでコーヒーでも飲みながら待っていただけませんか」。そう言いながらコーヒーの無料券を渡してくれた。

 私はすっかり感動した。同行した妻に中国でこんなホテルのサービスを受けられるとは信じられないと感想を述べた。

 7年の歳月が経った今でもこのことは鮮明に私の記憶に残っている。しかし、それでもその思い出はどことなくセピア色の写真のようなものにすこしなりかけていた。その記憶の写真を焼き直すかのような出来事が今週の中国旅行中に起きた。

今回、私は企業関係者とともに山東省の東営市、済南市を訪問した。16日から19日にかけての慌ただしい旅行だったが、同行の2人はもっと厳しいスケジュールに追われていた。18日午前の高速鉄道(中国版新幹線)で北京へ移動し、そこから飛行機で日本へ帰るのだった。

 そのスケジュールに合わせて、私たち全員は早朝6時半に東営を出て、済南へ移動した。2人を鉄道駅に送ってから、残り全員の宿泊先であるホテル、山東大廈に移動し、そのままチェックインの手続きをしようとした。

 朝10時にホテルにチェックインすることが日本の常識から見て適切な行動かどうかも考えずの行動だった。フロントの女性はにこやかに受付をしてくれて、そして客室を用意してくれた。しかし、ルームキーを渡しながら、彼女が謝ってくれた。「春節前でホテルはとても混んでいます。客室の掃除はあと20分間で終わります。それまでお手数ですが、19階にあるラウンジでコーヒーを飲みながらお待ちいただけますか」。

 その時、目の前の女性の笑顔と重なるかのように、7年前の大連スイスホテルで記憶に焼きこまれたフロントの女性のあの優しい笑顔がはっきりと瞼にまた浮かび上がってきた。7年前に、大連スイスホテルで早朝のチェックインを受け付けてくれたのは、サービスの大切さをよく理解している外資系ホテルならではのサービスだと私なりに理解していた。しかし、山東大廈は国営系のホテルだ。国営系のホテルというと、昔のサービスの「サ」の字も知らないところであった。しかし、7年の歳月と中国の市場競争は国有企業までもをサービス重視の方向に進歩させた。19階にあるラウンジで運ばれてきた温かい紅茶を啜りながら、時代の変化をしみじみと振り返った。

ホテルのサービスの変化といえば、今回のビジネス旅行で、もうひとつ感心したことがある。東営市の開発区にあるホテル「藍海国際ホテル」にたどり着いた時は、すでに夜7時を回っていた。

 その日、早朝7時前に東京の家を出た。飛行機で東京羽田~上海~山東省の済南空港まで移動してから、さらに車に乗り換え、2時間半も揺られて東営市へ向かった。ホテルにたどり着いた時は寒さと飢えで疲れていた。

 ホテルのフロントで早くチェックイン手続きをして、夕食に行きたいと思った。そこで、フロントの前に置かれているテーブルに温かいコーヒー、紅茶とケーキ―が用意されているのに気付いた。すこし離れたところにはリンゴも置いてある。思わず手を差し伸べて、ケーキ―を一つつまんだ。このささやかな無料サービスにも感動した。

 ハードの面で段々と整備されてきた中国では、競争の重点がソフトなサービス分野に移りつつあることを肌で感じた。同行の日本人一行も感激しきった様子だった。

 日本人の多くはそれまでの私と同じように、ホテルなどの施設はハードの面では中国の急速な追い上げを受けているが、サービスにおいては日本はやはり一流で、そう簡単に中国に追いつかれないだろうと思っているかもしれない。

 しかし、今度の旅行で、サービスという分野でも日本は中国からの挑戦を受けており、日中間はいよいよ刺激的な競争相手になってきているのではないか、と感じた。


メタンハイドレート調査、掘削船・ちきゅう投入!

2011年01月30日 22時48分25秒 | 日記・政治

メタンハイドレート
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88


読売新聞 1月30日(日)

石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)は、次世代資源の切り札として期待される日本近海のメタンハイドレート開発のため、海洋研究開発機構の探査船「ちきゅう」を使った海底掘削調査を2月5日から実施する。

 日本近海の海底はメタンハイドレートの宝庫で、埋蔵量は国内の天然ガス消費量の約90年分に上るとの試算もある。ただ、海底下の厳しい低温高圧環境に封じ込められ、取り扱いが難しい。採掘の際にメタンガスが異常噴出し、制御不能になるといった事故を防ぐには、事前に地質を綿密に調べ、採掘の地点や方法を注意深く決める必要がある。

 今回の調査では、水深700~1000メートルの海底を100~400メートルくらいまで掘り抜き、ハイドレートを取り巻く層の地質構造や、掘削穴とパイプの安定性などを調べる。ちきゅうは、海底下7000メートルまで掘り進める、世界最高性能の掘削船。学術探査を目的に建造されたため、コンピューター断層撮影法(CT)などの高度な分析装置まで搭載し、海底地質の調査能力は飛び抜けている。


◇近海の宝」掘り出せ メタンハイドレート 世界最大の試験装置導入!


2011.1.11 産経ニュース

天然ガスの原料として海底などに眠っているシャーベット状のメタンガス、メタンハイドレートの採取に向けて、政府が今春、世界最大の室内試験装置を導入して本格的な実証を開始することが10日、分かった。メタンハイドレートは日本近海に大量に存在することが確認されている。平成24年度には海洋実験に乗り出す方針だ。実用化されれば、石油や天然ガスなどを輸入に頼る日本のエネルギー戦略にとって画期的な技術となる。

 メタンハイドレートは日本近海のほか、南シナ海やロシアの永久凍土地帯などに存在している。油田のように掘り当ててもメタンガスが噴出することはないため、採取技術をめぐり日本や米国韓国中国などが国家プロジェクトとして研究を進めている。

 今回、世界最大の室内試験装置を設置して実証実験を行うのは、経済産業省が所管する独立行政法人産業技術総合研究所。これまでの採取実験で、130気圧の状態で存在するメタンハイドレート層を30気圧に減圧すれば、最も効果的にメタンガスを取り出せる仕組みを突き止めており、これを応用することにした。

 具体的には、海底のメタンハイドレート層に接した部分まで井戸を通し、ポンプで海水を吸い上げる方法でメタンハイドレート層にかかる井戸内の気圧を下げて、気泡状のメタンガスを発生させる技術を確立したい考え。3月に産総研のメタンハイドレート研究センター(札幌市)で井戸を想定した内径1メートル、高さ3メートルの世界最大となる室内産出試験装置を導入し、井戸に必要な強度などの調査に乗り出す。

メタンハイドレートは、日本近海の東部南海トラフだけで日本の天然ガス年間消費量の13・5年分に相当する約1兆1400億立方メートルの存在が確認されており、現在のガス田の埋蔵量ランキングにあてはめると世界20位程度に位置する。

 このため、政府は6年から通産省(現経済産業省)が中心となって基礎的研究を開始し、12年に開発検討委員会を発足させて技術開発に乗り出していた。

 経産省資源エネルギー庁は30年度に商業生産技術を確立する計画で、実験費用などとして23年度予算案に89億円を計上。「減圧法による海洋や漁業への影響も、ほとんど問題のないことが分かっている」としており、実用化を急ぐ考えだ。