庭と花の物語*西原村

小さな村の小さな庭やそこで育った花々を紹介します。季節の移り変わりとともに。

2020(昨年)の花の話   西側登山道が開通したので行きました。  

2021年02月08日 | 熊本地震
西側登山道は4年ほど通行止でした。
阿蘇の中岳の火口には、友人が熊本に観光で来た時に登るだけですが、
地震後ずっと気になっていました、
どんな被害があったのか、自分の目で確かめてみたいと思っても、傍に行けなかったのです


杵島岳は無残に崩れていました。
きれいな草原だったのに。火山の山肌が白く赤く、皮膚をむかれた因幡の白ウサギのように見えました。
元に戻るには数十年かかるのだろうかと、思いながら呆然と見たのです。
以前のキスミレに覆われた草原を見ることは、私にはかなわないけれど、
草原は時間がたてば旧に戻るのです。この山々が数千年同じことを繰り返してきたのなら。


米塚火山の前に狭い場所があって車を止めました。

米塚は頂上に丸いくぼみがあります。火口の痕です。
30センチほど山頂が沈んだと、地震後ニュースで聞きました。
上空の映像から、火口の周りを亀裂が一周しているのを確認しました。

写真を拡大。

道路から草原の中には入れません。立ち入り禁止となっています。
米塚に黄スミレは咲いていました。

4月29日でしたが、黄スミレはまだ咲いていました。
白い花は雪笹でしょうか。一面に咲いていました。
近くに駐車場とトイレと遊歩道があります。遊歩道は舗装してあるので歩きやすいです。
コロナ禍の中、歩く人もいませんでした。
おにぎりとお茶を持って1時間ほど散策しました、私は中岳まで行きたかったのですが、家族の賛同はなく、このまま帰宅。
阿蘇の山々や花に親和性を感じないとのことでした。
ちょっとざんねん。

2020草原の工事Ⅱ   見えてきた工事の様子

2021年02月06日 | 熊本地震
日曜日、工事が休みの時、近くまで行きました。
遠くからは全く見えなかったものを見ました。
予想外のものだったのです、覗き込んで考えてみました。

この穴は、底が土のままです。
多量の雨水がこの穴に溜められるように作ったのではないでしょうか。
穴の下には多分活断層があると思います。
ここに住む私の実感ですが。
オーバーした雨水は排水溝から流されるようになっていました。


多分ダンプカーのタイヤを洗う設備かしらと思えるものもありました。
真相はわかりません。


コンクリートの道が、幅10mほどで斜面を登っていました。
驚いたのはコンクリートの厚さが、30㎝~40㎝はあることでした。













道は片側はできていました。今後、残りの半分ができるのでしょう。

雨水の排水管でしょう。水が集められて大穴にためられるのだと思います。

熊本は水の国と言われるくらい湧水の多いところです。
雨水と湧水の関係は理解できます。
近年湧水がどんどん枯れているそうです。
雨水を川に流してしまう排水溝の進歩のおかげで、雨水が素早く川に集まり、洪水の原因にもなっています。
今、熊本県は、雨水を川に流してしまわない政策を始めました。
冬でも田に水を溜めるとか、地下に流す排水を推奨しています。
かって、雨水はあまねく大地を潤したのです。
私にできる雨水の有効利用はあるはずです。考えると楽しくなります。


春には本格的な土の大移動が始まるのでしょう。

地震から4年  大切畑は変わる

2020年03月24日 | 熊本地震
熊本地震で西原村に大きな被害が出たのは、2016年4月16日午前1時半の本震でした。



この損壊した道路は、俵山から村の中心に向かう道です。
地震から1か月ほどして、初めて大切畑(おおぎりはた)大橋を見に行った時の写真です。
大橋の少し手前から撮りました。

橋のつなぎは外れています。

大橋を大切畑の集落から見ています。(撮影日2016.5.15)

2016.4.22の朝
大雨のため避難勧告が前日に出ていたので、村の避難所にて車中泊をした帰りでした。
被災している私たちは、停電のため、また家の中が歩けないほど物が散乱していたこともあって、ラジオは聞いていましたがテレビは見ていませんでした。
迂回路を探して大切畑の集落を通った時  見たのは



息をのむ風景でした。
ダムから引かれた水路が壊れて無残に崩れていたのでした。
そして集落は

集落全体が全壊していたのでした。
一月後に友人から聞いたテレビ報道によると、「大切畑では地震後数時間で、村の男たちが潰れた家から9人の人を助けた」奇跡の村といわれていたのでした。

2016.5.15の大切畑
たまたま大切畑に親戚がいたので、見舞いに訪ねました。
申し訳ない気がして、他のお宅は覗いていません。道路から見えた風景ばかりです。





段上にあった隣の家との境が、崩れました。
納屋はすでに解体撤去していました。農機具は全部廃棄にしたと言っていました。




家の玄関のコンクリートの土間が浮いています。
実は家の前の庭部分が30センチ沈下しているのです。




2016.5.18橋から見た風景  大切畑を見下ろしています。

崩れた家から、順次更地にしていました。
1か月で、集落の3分の1ほどが更地となっていました。


2019.12.8橋の近くから見た風景  大切畑を見下ろしています。

2019年9月14日大切畑大橋は復旧しました。3年6か月ぶりのことでした。
前夜まで、開通にかかわる道路工事をしていたのですが、間に合ったのでした。
「萌の里」では祝賀式に合わせて、餅と豚汁を振舞いました。
私もボランテアで手伝いましたよ。

まだまだ復旧は続きます。
集落には、数百本のコンクリートの柱が打ち込まれています。

災害に強い村に変わるのでしょうか。


まだ多くの人たちが仮説に暮らしています。

地震の後
家具家財、電化製品、先祖の遺品あらゆるものが災害ゴミ置き場に投機されていました。
だから
仮設を訪ねると、新しいベッドとテレビ、洗濯機、冷蔵庫などが狭い場所に身動きできないほど並んでいます。買い換えたものばかりでした。
仮設から出て、新しい家と集落で、どんな暮らしが始まるのでしょうね。








大切畑大橋開通  「通行止め」が無くなった   

2020年03月22日 | 熊本地震
2019年9月14日  大切畑大橋開通
3年6か月ぶりに橋が通れるようになりました。
このルートの壊れていた4箇所全ての橋が復旧したことになりました。

この写真は2016年5月12日です。
この集落の家のほとんどが倒れました。



そして、2019年12月8日には
大規模な復旧工事が行われていました。








この道は俵山トンネルから続く道です。熊本空港に向かっています。


地震後、我が家に向かう道のすべてが崩壊したので一時孤立しました。
孤立は2日位です、村の人が自分たちの持っている重機で、落石を取り除いたので孤立は免れたのです。


2016年4月16日(地震当日) 朝6時くらいに撮った写真です。



排水溝も壊れ、道路はいたるところがいたんでいました。
しかし、復旧がこんなに時間が長くかかるとは、当時は思いませんでしたよ。
我が家の石垣が崩れました。

災害に強い村    村人の知恵に期待    

2018年07月12日 | 熊本地震


西日本の大雨水害のニュースが流れると  胸がふさがる

被災された皆さんに  かける言葉は ないに等しい

「辛いですね」

まわりの状況も 自分の状況も  今後の生活も 

只々「辛い」事だらけですよね



災害に会うと  災害から真に解放されるには  長い時間がかかる

2年が経過した西原村  修復は進んできた

農家の生産量はまだ半分ほどだと聞いたが

西原村は未来を見ている気がしている  大変でないわけがない でも

みんなの歯を食いしばった顔が  決して下を見てはいない

「二部屋だけの小さい家を建てたのよ」笑って話してくれた友の目には うっすらと涙がみえた

大きな立派な家に住んでいた友  「いまの家で十分よ」と言う 

災害にあったから気づいた多くのこと  災害が持ち去った多くのこと

そのどちらもが  西原村の財産となる



南阿蘇村を通った時 走る車から撮影した写真



山 川 畑 田んぼ  写しながら改めて気づいた  村人の知恵


2018年4月
南阿蘇村と阿蘇市を繋ぐ道路から撮影

農道 水路 畑  山の斜面は滑り落ちていた





畑や田んぼを修復しただけでは  農業はできない

山や川の修復も必要だし  

人は数百年かけて  山を切り開き  水を引き 畑を耕してきた

多くの村人の知恵が  この風景を作ってきた

災害に強い村を  新しい風景を  生きているうちに見たいなあ 






地震の後に鉄塔の修理    12月の俵山草原

2018年01月23日 | 熊本地震

収穫ほど楽しいことはない  干し柿を70個ほど作った



冬いろの草原

その中に新しいコンクリートの道が鉄塔に向かってできた


高圧送電線の鉄塔の工事
地震で壊れたのかしら   いくつもの鉄塔が修理中
この鉄塔は震度7でブランコのように揺れた!とわたしは思っている
其の揺れは我が家も揺らし続けた
あの30分間 ゆったりとした長い揺れは  まるでブランコに乗っている感じ!だったっのだ
塗り替えただけの鉄塔もある   赤と白がまぶしい


送電線は鹿児島から来ている
そして福岡に電気を送る   川内原発から  


左奥の山々は県境



草原の中にイノシシの排せつ物が  
我が家の庭にやってくるイノシシかなあ
ため息とともに写真に撮った


修理、修復の終わりがみえてきました          あれから1年4か月    

2017年09月08日 | 熊本地震

 

家の裏側に夕焼け(西側)

反対側(東)は山です。

西原村は、山西村と河原村が合併してできました。

ここは山西村、名の通り、俵山の西側に村はあります。

中空に黒っぽい雲があります。

周りを見たかぎりではここだけです。かなり低い位置でした。

数百メートル西、布田川断層のあたりです。

低い空にどうして周りと違った雲がわくのでしょうか。

上の写真は阿蘇に向かう道です。

白川は右手の低地を流れています。

西原村はその白川のさらに奥になります。

俵山が見えています。

西原村から白川を渡ったこのあたりは全壊の家は見当たりません。

昨年の地震の時にはこの付近のコンビニのトイレを借りに来ました。

道路が応急工事でやっと通れるようになった時に。

 

西原はインフラが全部ストップしていました。

道路はアスファルトがめくれ上がって、いたるところで陥没していたのです。

今でも300世帯以上が家を失って、仮設住宅に暮らしています。

 

 我が家の現在の玄関。

土台が動くほど揺れたのです。

修理しましたが、家のずれは戻せませんでした。

まだまだ

片づけが残っています。

でも

いろいろな修理、修復もいよいよ最終段階でしょうか。

地震が持ち去ったものはたくさんありましたが、残ったものもたくさんあったとも思います。

 

 

 

 

 


我が家の地震の爪痕       家ばかりではないのです

2017年06月26日 | 熊本地震

 2016年4月16日西原村は震度7の地震にみまわれました。

 我が家も甚大な被害を受けました。

昨年の夏に屋根瓦と壁を修理し、秋に屋内の天井や壁を修理しました。

 

     2017年1月には石垣を修復しました。

     おかげで地震に崩れない石垣になったとは思いますが。

     左官さん、大工さんが足りないので、仕事を頼むのが大変でした。

    何とかやりくりしてもらい、6月に床の張替えをおねがいしたのです。

    床板が壁からずれ3センチほど沈んでいましたので。

    床板を取り外したら。

 

 

 

     地面に数多くの亀裂が走っていました。

    作業の途中で亀裂の溝を踏んだので、見えにくくなってはいますが。

    地面が割れるほど揺れたのでした。

    

    庭に敷いた赤レンガも隙間が広くなっていますし、コンクリートの小道は何カ所も割れています。

    家はゆすぶられ、家の基礎が破損しました。

    

    床の張替えはできましたが

    まだまだ修理は終わってはいません。

 

4月に咲いていイカリソウ

梅雨前の草かりで刈られてしまいました。

草刈りをシルバーさんに頼んだのは私ですから、仕方ないのですが。

 

シャガも刈り取られてしまいました。

 

 庭を藪にしていてはいけません。

分かってはいますが、なかなか手入れができないものですよ。

 

 

 


一年後の大切畑   5月のある日の様子です。

2017年06月16日 | 熊本地震

現在の大切畑の様子。

橋には修復工事のための青いネットがかかっています。

集落の解体予定の家の撤去はこの5月で終了したと聞いています。

一年かかったのですね。

山の杉が滑り落ちたまま。壊れた田や畑もそのまま。

畑の耕作は行われていません。

橋の下に見える旧道の白いガードレール。

道は途中で無くなっています。

橋の修復は再来年の3月に完成すると聞いています。

 

下の写真3枚は一年前の4月22日。  地震から1週間後の大切畑。

集落につながる道のほとんどが壊れ、集落の人たちは3日間助け合って過ごしたと聞いています。

その後山西小学校に避難したのでした。

あの日から長い一年だったでしょうね。

 

今ほとんどの人が2キロほど離れた仮設住宅に入っています。

仮設から毎日家の片づけと畑仕事に通ってきています。

橋の下の家にこいのぼりが泳いでいました。

男の子が生まれたのでしょうか。

こちらにもこいのぼりが泳いでいます。

いろんな願いが込められているのでしょうね。

大切畑の人たちは地震に強い村つくりを考えているそうです。

本の村に戻るのはそう遠くではないでしょう。

 

 

 

 

 

 


俵山珈琲焙煎所は味と香りにこだわる 

2017年05月20日 | 熊本地震

袴野地区(西原村の東側)塩井社の駐車場から珈琲カップの看板が見える。

水を汲みに来た人は気づいているでしょうね。

珈琲の焙煎所とカフェになっています。

こちらが入り口です。緑の手入れが行き届いた小庭から入ります。

中はこだわりの家具と小物でデコレートしてありました。

テーブル席とカウンター席があります。

3年前に熊本市内から越してきたそうです。

店主の男性は珈琲に関わるようになって40数年ということでした。

一年前の地震の時は各避難所に珈琲サバーを置いて無料で珈琲を提供したそうです。

その時初めてコーヒーを飲んだおばあさんが、今も遠くから豆を買いに来てくれると聞きました。

おいしかったんですね。

珈琲の話をたくさん聞きました。

大きな焙煎の機械。

喫茶店やレストランに注文を受けて珈琲を送っているそうです。

各店の特徴に合わせてブレンドしているとのことでした。

私の好みのブレンドを作ってもらいました。

もう一つはこの店のオリジナル。

この二つ。

100グラム500円。私にはちょっと高めかな。

オリジナルブレンドを早速飲みました。  香りも味も体に優しい珈琲です。

熊本放送主催のカルチャー教室で、珈琲の講座を持っているそうです。

おいしい珈琲に興味のある方はどうぞ。

このカフェのマスコット犬「cocoちゃん」

「おりこうさん」な女の子です。

俵山の水でコーヒーを飲んでみてほしいな。一味違いますよ。

 


霊水の枯渇   揺ヶ池(おいけさん)の現在

2017年05月08日 | 熊本地震

俵山交流館 「萌の里」です。

萌の里の向かい側に鳥居があります。

ここから「おいけさん」にいきまず。

鳥居とお宮に変わりはありません。

通称「おいけさん」と呼ばれる「揺ヶ池湧水」は、大正時代に霊水としてブレイクしました。

おいけさんから万徳集落までの1㎞の道沿いに、旅館が立ち並んだ当時の絵地図が残っています。

霊水を求めて多くの人が西原村に来ていたのです。

その後、ブレイクは終息しましたが、水を汲みに訪れる人は地震の前まで続いていました。

そのおいけさんの現在。

 以前はろうそくと線香は途絶えることなく、清掃も行き届いていました。

 

お堂の中は片づけてありましたが、ロウソクと線香はありません。

灯篭はたおれて。

 

 

霊水は枯れていました。

 おいけさんの裏側の崖が地震で崩れてれています。

地中深くまで崩れたのでしょうね。

この霊水は活断層と深い関係があったのでしょうか。

おいけさんが次の軌跡を起こすことを願っています。

 


多々良の観音堂2   地震後のある日

2017年04月23日 | 熊本地震

観音堂はありました。

壁板と土台と石垣周りが新しくなっていました。

地震で傷んだので修理したのでしょう。

前の道路は崩れていました。

集落の人達は一番に観音堂を修理したのですね。

あの頃、私が子供だった頃、お堂の観音様もお供えものも仏具もみんな子供たちのおもちゃでした。

罰当たりの子らが、今観音堂の修理をしているのです。

盗まれた観音様が返ってこないかなあとつぶやいている私。

母が本家の本家と言った家の土蔵と納屋がなくなり、新しくなっていました。

でも、多々良のお堂も小道も流れる水も昔々の物語を私に語ってくれるからここに来るのです。

 

 


医王寺の田畑の改修工事   昔の姿が消えていく

2017年04月10日 | 熊本地震

ほぼ同じ場所です。

医王寺の田畑は地震後改修工事をしています。

 

 

医王寺側から日向、多々良を望みました。

上の写真とこの写真は同じ場所です。

様々な山野草が咲く美しい土手が多くありました。

アマナの花が咲き乱れていたのはすでに記憶だけになりました。

ここも上の写真とほぼ同じ場所です。

山野草はすべてなくなってしまったでしょうね。

この木山川も数十年前に改修されました。

洪水があったからだといいますが。

川に降りた小道も、浅いせせらぎも、子供が潜った淵も、大人も怖がった深い深い淵も。

すべてこの姿に変えられました。

馬を洗うこともなくなり、浅瀬を歩いて渡る人もなく、小魚を追いかける子供もなくなり、忘れられた川に。

私の記憶の中にのこった木山川。

石の上を飛び跳ね、小砂利で遊んだあの川はどこに行ったの。

医王寺の改修の結果が再び同じことになりませんように。

美しい村を残してほしい。

 

 

 

 


万徳の六地蔵   集落の入り口を守る

2017年04月09日 | 熊本地震

久しぶりにここに来てびっくりです。

六地蔵の石塔が短くなっていました。

地震で倒れて中の柱が抜けていてのです。

横に倒してありました。土台が傾いたので修復ができていないのかな。

道の奥が万徳の集落ですが、現在は半数近い家がなくなっています。

地震で全壊となったのでした。

西原の六地蔵は六面の石のお堂に六体の地蔵が刻んであります。

六地蔵だけは元の場所に建ててありました。

 

 


宮山 八王社のイチイガシ

2017年04月02日 | 熊本地震

 

西原村 宮山。

母はミヤマと呼んだ。

集落の入り口に神社がある。

この境内にイチイガシがある。

ここは昔から正月に神楽が舞われてきた。

神楽を舞う人たちは、この集落の人ではない。阿蘇の産山の人たちである。

この神社の元宮の氏子の人たちだという。小さい子には怖い神楽らしく、多くの

子供が泣いたと聞いていた。幼少のころ一度だけ、見に行ったことがあるが、待ち時間が長すぎたこ

とと、「怖いぞ!」というおどしの言葉に負けてとうとうみないで帰ってしまった。

その神社は地震の被害を受けていた。

 

神楽殿は取り壊されていた。

神社は支えられてどうにか立っていた。

イチイガシには今もムササビが住んでいるのだろうか?