庭と花の物語*西原村

小さな村の小さな庭やそこで育った花々を紹介します。季節の移り変わりとともに。

祭祀線から読む古代     大和朝廷からだけではみえない熊本

2018年03月04日 | 西原村の昔
志賀島の海



九州には数多くの古墳、神社仏閣、いわれのある土地がある。

それらは長い歴史を背負っているのだろうと私も想像はする。

古い時代に誰が何をしたのか  なぜ今残っていないのか 又なぜ残ったのか  






安国山聖福寺(福岡市博多区)





臨済宗 栄西の創建  日本最初の本格的禅寺  のちに臨済宗妙心寺派の寺院になる。

後鳥羽天皇(新古今集歌人で編者。承久の変を起こし沖ノ島に流される)より送られた「扶桑最初禅窟」の額がある。

聖福寺はなぜ鎌倉や京都ではなく、博多の港の入口に最初に建てられたのか。

最初に寺院が建てられた意味はなに。

宋人だけの為の寺院に、時の天皇は「額」を送らない。




武家社会に受け入れられて禅宗が広まったことは広く知られているが、博多は消えている。

消えているは言いすぎだが、  臨済宗の寺といえば京都または鎌倉の建仁寺となっている。

聖福寺は中央を取り込んだのではなく、中央の鎌倉幕府に取り込まれて今に至ったと言えないか。 





消えてしまった九州の古代は数多くある。  中央に取り込まれて消えてしまった歴史がある。


熊本にも古墳、遺跡、遺物 いわれのある土地は多くある。

その中に古代の姿を読み解く手がかりはないのか。

そう思う方に読んでほしいブログがある。

「地図を楽しむ・古代史の謎」


春分の日と秋分の日  一年に二回太陽は同じところを通る

日の出る場所を山頂に求めて祭祀をした王  聖王(日知り王)と呼ばれたであろう

同じ山を祭っていた王たちは同じ東西のライン上に墓を作った

墓と山は一直線上に並ぶ  いくつもの王墓がつながった。

選ばれた場所は 霊力を持つ  王の力が死後も引き継がれるから

祭祀線 

九州の祭祀線は弥生時代に始まり後に全国に広がっていったことを  このブログが示してくれる。

福岡と熊本の深い関係をも祭祀線が解き明かす  

おすすめのブログです。


縄文遺跡!我が家の庭!     西原村の昔は?

2017年09月04日 | 西原村の昔

石斧2個は、45年くらい前に私が見つけたもの。

我が家の敷地で。

当時、父母が西原に家を建てたのでした。

 

緩やかな傾斜地だった土地を、ブルトーザーで押し開いて平らにしたのです。

ある日、土器のかけらが点々と庭に落ちているのを見つけてびっくり。

我が家に考古学の大ブームが起こりました。

 

雨が降った翌日は、庭を隅々まで歩き土器のかけらを探しました。

探す範囲は広がって。

近くの桑畑など、土が見えているところに、じっと目を凝らすのです。

必ず数個は拾いました。

実は拾った場所ごとに分けて父が並べていました。

しかし

地震でケースは壊れ、石器も、土器も床に投げ出されたのです。

19年間、父が並べた状態のままにしておいたのに。

地震は思い出を持ち去っていきました。

 

壊れた家具の中から、姉妹が拾い集めてくれたのがこれです。

改めて家族の思い出になみだしたのです。

 

この遺物を大学の研究室に出そうと考えています。

明日。

新しい思い出の一ページを開きます。

私はその場にいませんが姉妹たちが引き渡してくれます。

 

50年近く私達家族に夢とロマンをありがとう!

このささやかな出会いに感謝!

 

 


白川   阿蘇から熊本市まで流れる   

2017年09月04日 | 西原村の昔

大豆の畑。草が刈られた土手きれいですね。

私が子供のころ小豆、大豆は田んぼの畔に植えてありました。

最近は見たことがありません。

 

8月のある日西原村に帰る途中、立ち止まったのは。

いつもの川のほとり。

東の阿蘇から流れてきた白川。

白川は、ほぼまっすぐ西の有明海にそそいでいます。

地震後初めて、川のそばに立って立野方面を眺めました。

立野は阿蘇大橋が崩落したところ。

地震に詳しい人がこの風景を見たら、断層地形を見つけるのでしょうね。

 

迂回路として西原村の道が使われるようになって、

写真を撮るために、橋の上で車を止めることが不可能になりました。

交通量が増えました。

正面のU字の谷は1万年前に地震でカルデラ湖が決壊した時できたもの。

中腹に見える丘の上のドーム型の白い建物は地震研究所です。

大きなエネルギーが直撃したでしょうね。

活断層の亀裂が多く見つかった場所でもあります。

 

山が適度に隠していますが、正面の立野や南阿蘇村の長陽あたりは、ずたずたに崩れています。

熊本空港に降りる飛行機からは数十カ所のがけ崩れが見えます。

その真ん中に、谷深くに白川が流れています。

白川にかかった橋。

西原村に向かうには必ず渡ります。

1年以上たっているのに、まだ杉の木が橋に架かっていました。

この橋も昭和29年の水害の時に流されたのでした。

あれから60年以上たち、橋は老朽化しています。

数年前にはこの橋の近くの護岸が水害で崩れ、修復したばかりだったのでした。

 

この橋を渡る時、いくつもの物語と情景が浮かんできます。

橋が流されて、新しい橋が完成するまで渡し船がありました。

大きな石の間を船が行き来していたと記憶しています。

今では小石ばかり、昔の大石はどこに行ったのでしょう。

夏の暑い日船の時間を待って入るあいだ、母と「ところてん」を食べたのでした。

母は思い出しては「おいしかった」と言っていました。

たぶん汗だくでここまで歩いてきたのです。

その店がどこだったのか、跡形もありません。

 

大石も船もところてんも私の記憶の中から消えてはいないのに。

 


鉄砲を持った百姓   南郷往還(古道)をまもる

2017年06月11日 | 西原村の昔

 上の写真は真ん中のやや低くなったあたりが布田川上流。地震で崩れている。

 

 中ほどの長い稜線は断層が作った地形である。

布田川はこの断層に沿って流れ益城を抜け緑川に合流し、有明海に注いでいる。

布田川断層と呼ばれるのはそのためでしょう。

今度の地震もこの活断層が動いた。

断層に沿って西原村の集落があるので甚大な被害を受けたのである。

昔から火山灰の大地は干ばつが起きやすい地域だった。当然川沿いの場所に田畑を開いて生活していた。

江戸時代の記録によると、西原村に合併する前の旧山西村、および旧河原村の経済的な格付けは下の下である。

下の中にも上中下の区別はあったから、下の下という格付けは当時の村を推して知るべしである。。

 

下の写真は新所集落の村中の道。

集落は一列に並んでいる。だから道も直線となる。

 

 左右どちらも直線の道。

これには理由が。

新所は熊本から阿蘇に抜ける 俵山超えの道の途中にある。

新所から万徳の辻を通り山越えするのである。

ここ新所からは高遊原台地の隅々まで広く見渡せるため、見張りのために作られた集落なのである。

百姓は鉄砲を所持していた。

殿様上京の折に護衛として参加したこともあるそうだ。

 

 

 ガソリンスタンドの細道は南郷往還と呼ばれた古道である。

昔は掘り下げられた道であった。

兵が動くのを隠すためである。

 

 昔の面影を残す深い溝。ここも道だった

広い道になってしまっている。

今も昔も阿蘇と熊本を繋ぐ重要な道路であるのは変わりない。

南郷往還の思い出もあるが、又いつか。