伝えるネットねこレポート

「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークのブログ。
首都圏窓口の田嶋いづみ(相模原市在住)が担当してます。

やっとお会いできましたね、永野さん!~浜松窓口からご報告

2015-03-07 22:28:46 | 水俣レポート
 ニッセイ緑の環境講座2015
「持続可能な地域作りの先駆者(フロントプランナー)」
<大阪開催>2015.2.14(土)   

水俣の源流で取組んだ20年の軌跡


●報告 池谷 雅子(浜松窓口)





当日、基調講演された永野さん(左側)と 沢畑さん




  基調講演その1 永野 三智 氏 (一般社団法人水俣病センター相思社)
     『水俣病事件 支援者第二世代の試み』



講演前に「初めまして。やっと会えましたね。」とご挨拶。
永野三智さんは、溝口裁判で溝口先生に寄り添い、支えている姿を写真で拝見していたので、こちらは初対面とは感じませんでしたが。
永野さんの活動はfacebookにアップされていることは読んでいますが、直にお話を聴くのは初めてなので、楽しみでした。

永野さんのお話は次の内容でした。

永野さんは、初期の水俣病の激発地の生まれで、劇症型の患者さん、胎児性の患者さんにかわいがられた幼少期。
補償金のことは当事者も含めた噂話を聞いた。
水俣のせっけん工場を経営する父親の仕事でタイへ行った時に経験した初めての「差別・偏見」。
プールでいっしょに遊んでいたお兄さんから出身地を訊かれ、「水俣」と答えたら、「え、うつる?」との言葉とプールから上っていくお兄さんの姿。
中高生の時も県外へいくと「うつる」と言われ、高校時代は出身地を隠していたそうです。
その当時は、水俣に患者がいるから、こんな目に遭うんだ、水俣病がなければいいのにと思っていたそうです。
20歳の時、書道を教えてもらっていた溝口先生の裁判へ行き、関わるようになりました。
2007年、水俣へ帰り、患者さんと関わりたいと考え、病院で勤め、2008年水俣病センター相思社へ就職し、患者担当となりました。

患者相談には、全国から相談があります。30代から90代まで年齢も幅広いです。
このごろは、以前勤めていた病院の看護師さん、ママ友からの相談もあります。

患者さんの訴える中で一番多いのが、「頭痛」。
用量の2倍3倍くらいの薬を飲まないと効かないので、市販の頭痛薬のセールの時に買いだめしているとか。
「耳鳴り」を訴える人もあり、ひとりでいる時にキンキン、ワンワン聞こえる。
「味がわからない」から料理ができない。「温度がわからない」から熱すぎる風呂に入り、心臓に負担がかかるなど。

相思社は「水俣病歴史考証館」を運営しています。お宝の資料がたくさんあります。
地元の先生も生徒も詳しく知らない水俣病事件。
ここへ来て説明を受けて「水俣病が初めて身近になりました」と話す生徒たちや先生方。
家庭でも話題にされない「水俣病」。

1908年チッソ水俣工場設立。ここから水俣病事件は始まった思います。
ここでは肥料だけでなく、プラスチック製品の可塑剤を作っていました。
当時、その量は日本の80%。
現在は、ヒアルロン酸や酸化防止剤、液晶を作っています。液晶はドイツ・メルク社と日本のチッソが特許を持っているので、シェアは世界の50%。

1932年から1968年まで、チッソ水俣工場ではメチル水銀を流しました。
1958年、メチル水銀を薄める目的で排水経路を変更したけれど、薄まるどころか、却って被害を拡げてしまった。
水俣は75%が山間地。チッソが来る前は林業、農業、塩作りが盛んなところでした。
1940年代、漁で暮らしている人(漁民)は3%。水俣以外のよその土地から来た人が多かったそうです。1956年、小さな集落からたくさんの患者が発生したため、初めは伝染病が疑われた。
1957年熊大が「水俣湾内の魚が危険」と発表し、熊本県は食品衛生法の適用を検討したが、厚生省は原因が水俣湾の魚だと断定できないことを理由にそれを止めた。
1959年、細川先生は猫400号実験で原因をつきとめたが、工場長から口外するなと止められた。
細川先生は患者さんたちから「良い先生」と言われているけれど、このとこについての責任はあると思う。
他にも御用学者たちが発表した諸説のせいで、また、日本の高度成長のため、メチル水銀の排水は止められることなく、被害者は増え、患者は差別・偏見を受け続けている。それも多重的、複合的な差別。

不知火海周辺の約20万人に被害がおよぶと考えているが、200万人だという説もある。
そのうち10万人が自分は被害者であると申し出ているが、認定患者数は2277人。

第二の水俣病の発生は新潟水俣病です。新潟水俣病で活かされた「水俣で起きた水俣病の教訓」。
新潟では妊婦の毛髪の水銀検査を実施し、水銀値が高かった78人に堕胎を勧めた。
77人が堕胎し、胎児性患者は1人。患者さんの話を聴いていると、流産や死産で生まれてくることができなかった命があることがわかる。

1968年公害認定。チッソの技術が要らなくなった時。
1990年代、「もやい直し」といわれたが、懐疑的になった患者たちには「もやい直し」の言葉は届かない。
差別された人たちは差別した人とは仲直りできるものではない。
恨みの中で亡くなっていく被害者。
患者の中でも認定・未認定で立場が分かれる。支援者も思想や運動の違いによって、ケンカ別れしてきた。

<じゃなかしゃばまつり>で、水俣市民も支援者親世代も「もやい直し」直しをしたい。
患者もそうでない人も、その人のままでいられるように。
「もやい直し」直し、簡単ではないけれど、少しずつ進んでいこうと思います。

 注:じゃなかしゃば=もうひとつのこの世




   基調講演その2 沢畑 亨 氏 (愛林館 館長)
     『2000年続く棚田の暮らし』




沢畑さんは水俣市久木野(くきの)にある「愛林館」の館長です。愛林館へは1度行ったことがあります。
久木野地区は、97%が森林、棚田は3%。崩れない技術で組まれた石垣でできている棚田は、秋には黄金の実りと彼岸花の赤でとても美しい景色となります。まるで、風の谷のナウシカのような気分が味わえます。
沢畑さんのお話は、そのお人柄そのものと同じく、ユーモアあふれる楽しい内容で、つい聴き入ってしまい、メモを取り忘れてしまったので、レジュメと少し取ったメモで、沢畑さんのお話を振り返ります。


森と棚田のめぐみは市場経済では評価できない。
森と棚田は命を支える酸素と水と食を育む。
市場経済では評価できないからお金が入って来ないが、そろそろタダでは厳しくなってきた。

農と農業は違う。
農は、自然から食を得る営み。家庭菜園、自家用米など、楽しみがある。
農業は、投資を回収し、適正利潤を得る、ビジネスである。ビニールハウスや大規模畜産、観光農業。米で飯は食えない。(1家族で20ha作れば、飯が食えます。)

ダムを作ると必ず発生する硫化水素。硫化水素は毒。
現在、日本初、球磨川の荒瀬ダムを撤去中。
林業も高齢化による担い手の減少もあり、機械化が進んでいる。
数十haの皆伐と機械による集材で作業用の幅の広い道路が必要になる。
表土の流失、跡地放棄、シカの餌場となるなど、森がなくなれば、山が荒れる。「森は土を作り、海を肥やす」のである。

日本の農産物を買うことは、農地のめぐみを応援していることと同じ。
人口増、気候の変化、耕作放棄による農地の減少、高齢化や国産材の価格低下などで間伐できず森林の減少、食糧不足は必至。
そこまで行けば、農業や林業の大切さがわかるだろうが、そうなったら手遅れ。
今後はTPP実施による影響も心配。

愛林館は、この地域に住んで良かったと充実した日々を送るため、地域づくりのさまざまな企画をしている。
棚田食育士養成講座、棚田の存続のための田助手(たすけて)、働くアウトドア、地域の人を引きこもりにしない目的もあるワンコインランチの「ふるさとレストラン」、棚田のカフェ、5月中旬のボランティアと共につくる棚田のあかり、など、など。



私が住む浜松市は平成の大合併時に12市町村が合併した政令指定都市。
その大半が山間地です。
市としても山間地の活性化を検討し、実施している事業もいろいろあります。
「山の暮らし」「田舎の暮らし」の素敵なところを発信しているNPO法人や市民もいます。
愛林館のような拠点となる施設を作り、沢畑さんのような人材がいたら、浜松市の山間地の活性化も少しは進むのかなと感じました。

沢畑さんのお話を聴いて、林業・農業の大変さ、直面している課題、そして、久木野地区の魅力を知ることができました。

今年の棚田のあかりは5月16日。
LEDではない手作りのあかり、見に行きたいものです。

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