伝えるネットねこレポート

「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークのブログ。
首都圏窓口の田嶋いづみ(相模原市在住)が担当してます。

子どもたちに伝えられる判決 ~ それは、かすかな、かすかな希望

2013-04-20 23:09:10 | 水俣レポート

溝口チエさんとFさんの水俣病認定を求める行政訴訟
2013年4月16日の最高裁判決




勝訴判決に沸く報告集会での記念写真。
中央で手を上げているのが溝口さん。その前に坊主頭の山口弁護団長。




生まれて初めて最高裁判所のなかに入りました。
クジ運の悪い私が、溝口さんの判決もFさんの判決も傍聴券をあてました。
溝口さんの傍聴券は、もっとふさわしい方にと、お譲りしました。
が、本心は怖かったからです。判決に悲観的でした。
もっと早く、もっと心をこめて、水俣病患者を救う機会はいくらでもあったはずです。
それを打ち捨ててきたこの国の判決に期待が持てなかったからです。
良い判決を導き出せるほど、社会は変わっていない、そう思ったからです。
溝口さんの勝訴を聞いて、Fさんの傍聴をする勇気が出ました。
それでも不安でした。だって、私が応援すると選挙でも落選したり、とかするんだもん・・・
ようやく。溝口さんは死後36年後、Fさんは待ちきれず今年3月3日に死亡
・・・・そのあとの水俣病認定となります(Fさんは、これから高裁で裁判やり直しだけど)
最高裁判決の日に聞いたこと見たことをつらつらご報告。
記憶力弱ってますから、発言はそのままじゃなくてだいたいね・・・。



  子どもたちに伝えられるか どうか

伝えるネットの活動を始めて、私たちは、子どもたちにどう伝えられるか、という視点で物事を考えるようになりました。
そして、子どもたちに伝えられるだけの内実を持てない事柄が、社会にあふれていることに気づきました。

この日、最高裁に向かいながら、いささか悲壮ですらありました。
もし、子どもたちに到底伝えられない内容であるなら、「水俣」の出前活動をつづけていけるのか、と、問いかけつづけていたからです。

結果は、溝口さん訴訟については最高裁では初めての水俣病認定判決。
Fさん訴訟については、大阪高裁差し戻しとなって、水俣病認定への扉が開かれるものでした。
明確な文言はないものの、昭和52年の水俣病認定の判断条件を実質的に見直させるものとなりました。
溝口さんが認定されずに亡くなった400人の人びとに報いることのできる判決でなければ勝訴とは言えない、と山口弁護士とともに毅然と言われていた、そのことに近づく判決となりました。
熊本学園大の花田先生がFさんの判決言い渡しの小法廷に入る前に、こう言われました。
「今まで、最高裁まで争って、水俣病患者が負けたことはないんだ。最終的には、勝つんだ」と。

笑顔の溝口さんと、その溝口さんに嬉しそうに寄り添う永野さんを眺めて、本当にうれしかったです。
これで、子どもたちに伝えつづけていける、と思いました。



耳の遠い溝口さんにぴったり寄り添っている永野さん。
永野さんが抱えているのが溝口チエさんの遺影。


永野さんは勝訴判決に法廷で溝口さんより泣き出していたそうです。
小学校4年で不登校になった永野さんにとって、溝口さんは書道だけでない、学校では教えてもらえないいろいろなことを教えてくれる先生だったといいます。
永野さんが溝口さんを「先生」と呼ぶそれがうつって、この日、私も「溝口先生」と声を掛けさせていただきました。




裁判所前で胎児性水俣病の坂本しのぶさんと介助する谷さん。
この日、環境省での谷さんの発言も忘れられないものとなりました。




   判決じゃない うまいものをうまいってわからないんだぞ、って

午後3時から溝口さん訴訟の判決が出て、午後4時にFさん訴訟の判決が出たあと、環境省から1区画先の弁護士会館で報告集会がありました。
支度する顔も、集まってくる顔も笑っていました。

第二世代の水俣病裁判の原告のひとりである千葉に住む女性がこう教えてくれました。
「わたしは、今日は、絶対勝つと思っていたのよ。
今朝、甘粥をたべたのだけれど、水俣の緒方麹店の麹でつくったお粥。
甘酒ってあるでしょ。お酒じゃなくて、お粥。縁起付けに。
それでマグカップを取ろうとして、夫の実家からもらった100年前だか200年前だかのふる~いお皿を落としちゃったの。
それが見事に真っ二つに割れたのよ。
あ、縁起がいいって、思ったの」って。
私が「それは、普通、縁起が悪いって思うんじゃないの?」と怪訝な顔をしたら、彼女、つづけてこう言うのです。
「水俣ではね、割れたり、欠けたりすることは、縁起のいいことなの。
お客さんにお茶を出すでしょ。
その湯飲みが欠けていると、おかげさんで、って喜ぶのよ」って。
「欠け」を「おかげ」と言いなおすんだと。
ああ、いい話が聞けた、と思いました。

実は、お酒を嗜まない私は、早速祝杯をあげているのを見て、内心大丈夫かなと思っていたのです。
何せ、午後9時(午後9時っ! 81歳の溝口さんに、水俣病の患者さんに対して、午後9時!)から、環境省交渉があると聞いていたからです。
でも、それだって、勝訴ですもの、そうだよねって、浮かれていました。

記者会見に追われて、夕ご飯もろくに食べることもできなかったではないでしょうか。
溝口さんも、弁護士のみなさんも。

そのなかで、ひときわ祝杯に酔っているように見えた二宮医師が発言をされました。
二宮先生は感覚障害だけの水俣病もある、という医学的論証に力を尽くされたおひとりです。
二宮先生は、酔いのまわった声で、しかし、心のこもった声で語りだしました。
ときに詰まり、ときに、メガネをはずして涙を拭きながら。

「判決なんかどうだっていいんだ。
感覚障害ってのは、な、うまいものをつくったって、うまいかどうかわからないんだ。
お○○こしたって、気持ちがいいかどうかわかんないんだぞ」って。

報告集会の会場がシーンとなって、気がついたら、私ももらい泣きしていました。
私は、この報告集会の会場にいた人たちすべてを素晴らしい方たちだと思います。
ひとの痛みを知り、想像し、寄り添うひとたちだと思います。





おしどりのケンさんもマコさんも会場のおひとりでした。



  かすかな かすかな 希望として

溝口さんに寄り添っていたみなさんは、はるばる水俣から駆けつけたみなさんはもちろん、21年間の裁判を闘い抜かれた81歳になる溝口さんをねぎらいたいと願っていました。
午後9時から始まった環境省の特殊疾病対策室の4名の官僚のお役人は、なんと対策室長は4月1日に異動してきた着任16日目の方、他のひとたちでも、いちばん長い方で10ヶ月という方たちでした。
永野さんが「溝口先生に謝ってください!」と叫びました。
着任16日目の室長は、終始「お察しします」と繰り返すのみで、最後まで謝罪の言葉が出ることはありませんでした。

「お察し、とは、何事か」と怒号があがりました。
「あなたたちには異動があるかもしれないが、患者は57年間、患者をやめられないんだぞ」
「被害者が、謝ってくれ、とお願いする、ということがあるか」
しまいには、官僚のひとりが「上告したことを謝らない」というメモを、この交渉の最中に書いて、その手元を見たのでしょうか、永野さんが「何を書いたか見せて!」と、メモをめぐって騒然とする瞬間もありました。

この日一日、溝口先生の娘と見間違うほどに寄り添っていた永野さんが怒りに震えていました。
判決が出てから、午後9時までのあいだに、環境省のなかで何がどう話し合われたかはわかりません。
窺うことはとてもできません。しかし、「謝らない」と打ち合わせされたことは確かなようでした。

「何故謝れないのか、教えてくれ」
「謝るな、と言われたのか」とみんなが畳み込みます。
緒方正実さんが立ち上がりました。
緒方さんは、村山政権の和解のとき保健手帳ももらえませんでした。
そのことで存在そのものを否定された気持ちになり、水俣病認定を求めて訴訟を起こしました。
緒方さんは、やはり裁判を経て、水俣病患者と認定されました。
その緒方さんが、静かな口調で語り始めました。
「私は、認定患者の緒方です。
謝ったからといって、どうこうするということはありません。
付け入るというようなこともしません。
だから、どうぞ、お願いですから、溝口さんに謝ってください」と。

しのぶさんに付き添っていた谷さんが叫びました。
むかっていちばん左側にいらした官僚の方に向かって、です。
「このあいだ水俣に来ましたよね。
<ほたるの家>に来て、しのぶさんに会って言われたじゃないですか。
自分にできる限りのことはする、って。そう言ったじゃないですか」
最後は涙声でした。

山口弁護士が厳しい声で問いかけました。
「何故、57年もたって解決してないと思うんだ。
言ってみろ。
原因がわからなきゃ、解決しようがないだろうがっ」
いちばん在任が長い彼が問われて、
「室長を差し置いて答えられません」と言いました。
つづけて室長が答えかけて
「患者さんが満足されなくて・・・」と言いかけて再び怒号となりました。
「満足は、言い間違いです。申し訳ありません」と、謝ったのは、このときだけ。
とても言い間違いと思えるはずがありません。

溝口先生は終始、静かでした。
先生らしく、諭すような語りかけ方をします。
「わたしには、あんたたちがかわいそうに思える」と言いました。
第二世代裁判の原告代表佐藤さんの奥様が叫びました。
「あんたたちは、人間ですか?!」

「あんたたちは、人間ですか?!
人間だったら、人間の心があるなら、答えなさいっ!」
土本典昭監督のドキュメンタリー映画『水俣病 その20年』のなかに出てくる患者さんの叫びと それは全く同じセリフでした。

『苦海浄土』を書かれた石牟礼道子さんの感想を翌日の新聞記事で知りました。
「かすかな、かすかな希望」だと、言われたそうです。
「かすかな、かすかな」と。

私は、この判決は、これからのフクシマを占うものだとも思います。
しかし、環境省は最高裁判所の権威も判断も軽んじているように思えてなりません。
最後に、特殊疾病対策室の官僚に向かって、水俣の方が口々に叫んでおられました。
「5月1日には大臣が溝口さんのうちを訪ねて、謝りに来い」と。
5月1日は、水俣病公式確認の日。
いのちの埋まる水俣湾の埋立地で水俣病被害者の慰霊祭が行なわれるのです。


たとえ、「かすかな、かすかな」ものであっても、「希望」を捨てることはできません。
ひとが生きていく証しが「希望」だと思うからです。
「希望」のために生きる、とは言いません。
生きているそのことの証しが、「希望」だと、私は考えるのです。

判決の日の朝、溝口秋生さんは、「波」と書をしたためられたそうです。




左から永野三智さん、溝口秋生さん、そして第二世代の水俣病裁判原告の佐藤英樹さん

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