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伝えるネットねこレポート

「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークのブログ。
首都圏窓口の田嶋いづみ(相模原市在住)が担当してます。

2年ぶり2年分の会報ができました

2018-01-28 21:43:42 | 出前レポート
ネット・インフォメーション 55号ができました。


ようやく、やっとです。
54号の発行日が2015年11月7日、55号の発行日は2018年1月20日になってしまいました。

いいかげん発行せねばと編集作業にはいったのが、正月2日ですので、12ページの編集に2週間。
印刷屋さんに入稿してホッとしていたら、発送作業に丸々1週間かかってしまいました。
簡単ではありませんでした。

どうして、こんなに間隔が空いてしまったかと振り返れば、いろいろと理由があります。
物理的な理由から精神的な理由まで、挙げれば両手の指だけでは足りません。

大きいのは、伝えるネット会計でもあった属さんを彼岸に見送ったことです。
親友でした。(いまもって、彼女を過去形で語るのは苦しいです。)
喪失はひとの世の常ながら、彼女のいない日々を日常をすることになかなか馴れることはできません。


しかし、さらに振り返れば、会報に取り掛かることのできなかったのは、「そんなはずがない」「であるわけがない」という思いだと思うのです。
はっきり言えば、世の中が正気に戻るのを待とう、という思いがあったのです。

伝えるネットの活動は、1998年の水俣・豊橋展、1999年の水俣・浜松展で出会った有志によって始まりました。
豊橋展のプレ・イベントとして行われた豊橋にある桜ヶ丘中学校での出前講座で、中学生の子どもたちと行った「水俣病は二度と起こらないか」というフリー・ディスカッションで、わたしはどんな発言をしたでしょうか。
――わたしたちは、情報開示を求めることができる。事実を知ろうと思えば知ることができる。
――わたしたちは、発言することができる。決定に参加することができる。

「だから、時代は変わっていっている」と、そう発言したことを、わたし自身が記憶しております。


いま、社会は、情報をスミ塗りにすることが通例となり、発言すること、特に疑念を呈したり、異論を口にすることは排除され、ヘイト発言は大手を振ってまかり通るようになりました。
若くして彼岸に旅立った彼女に、この時代を見せずにすんだことが救いのようにも感じられるとは、なんということでしょう。

そして、何よりも――。
「水俣」を伝えていくことが、何よりもまちづくりであると信じて活動してきたこのまちで、津久井やまゆり園事件が起きてしまったことを、どう受け止めればいいのか。

自分たちの活動がいい気なもんだった。
何もできないのではないか。
いや、社会の根底にある賢明さは、こんな時代を許すはずはない。
賢明? どこが賢明であったのか。
見失っていたのは、何よりも、わたし自身ではないか。


思いに翻弄されるなか、とても会報は出せませんでした。


でも、日々は積み重なります。
いのちは生まれ、子どもたちは現れます。
伝えるネット設立以来、子どもたちの瞳の色は少しも変わりません。
そして、「ずっと、もっと、伝えて行ってください」と子どもたちは言うのです。



いま、わたしたちは、つづけることが大切だと考えています。
その気持ちを込めて、ブログトップの画像をリニュアルいたしました。

ブログ発信や、SNS発信も新規まき直しをはかりたいと存じます。


2年分の記事を詰め込んだ55号をどうぞ、お手元に。



ネット・インフォメーション 第55号
ご希望があれば、1部200円(送料込み)でお分けいたします。
内容は、1ページの左下にあります「目次」の欄にてお確かめください。

注文は、こちらのコメント欄でもお申し込みできます。










だれとともに生きるのか、という問い

2016-03-21 10:12:38 | 出前レポート
夕方からの出前 東京シューレ

2015年11月17日 4:30~5:30PM



行ったひと●田嶋いづみ
使ったもの●PPスライド、写真集『水俣事件』




3月17日神奈川総合高校の環境シンポ参加で今年度の出前活動に一区切りつける気分になったので、「出前レポート」をこちらにまとめることにしました。
なんと、遡ること昨年11月の出前報告から。




  写真パネルの同行なしの出前って!?

東京シューレで「水俣」のお話をさせていただくのは、久しぶりでした。
大田校で連続講座をさせてもらったこともあります。
その後に、北区のシューレでも、子どもたちが水俣に研修旅行に行くというので、事前講座などでお話をさせてもらってきました。

そんな数回の試みのなかでは、事前に宅配便で届けるなど、これまでなんとか写真パネルに届けてきました。
それが今回、初めて写真パネルを持たずに伺うことにしました。

映像や写真を活用してPPスライドをまとめていますが、実際の写真パネルの持つ力に及ぶものではありません。
何よりも、写真パネルに同行してもらうことで、出前する勇気をもらっているのです。

今回、物理的に写真パネルを届けるのが困難だったということが、いちばん、です。
つぎに、会を発足させたのが2000年、それから、最高裁の判決だけでも2004年、2013年と2回あり、「水俣」の事実は重なりつづけて、写真パネルと向き合う時間がとりにくくなってきた、というのが、ふたつめの理由です。

だから、写真パネルを置いての出前となりました。
それでも不安なので、桑原史成さんの写真集『水俣事件』を持ってシューレを訪ねたのでした。



  「父は東電の社員」と問いかけた少年

覚悟を決めて、写真パネルなしで「水俣」の話しをさせていただきました。
夕方の時間帯に集まった子どもたち(?)は、年齢層もさまざまでした。
ベテランの世代の方に口幅ったく「知ったかぶり」はできません。
それでもなんとか話し終えたとき、ひとりの少年というより青年が近づいてきました。

「父親が東電社員なんですよ」と彼は言いました。
締めくくりに、HIROSHIMA、NAGASAKI、MINAMATA、YUSHO と、人類の初体験をローマ字で書いて、ここにFUKUSHIMAとつづく。
そう、語ったことが心に残った様子です。
「父親の姿を見ていると、そんなに簡単に責任がある、とは言えない」と青年はつづけました。

彼は多くは語りませんでした。
語れなかったのかもしれません。
わたしも、また、語ることはできませんでした。
また、語ってはならないようにも思いました。

わたしは、これだけは言えると思えることを青年に伝えました。
「環境を考えることは、どう生きるかということを考えること。
自分は、だれとともに生きたいか、という問いをもって生きていきたい」と。

わたしは、自分の答えに自信があったわけでも、また、そう伝えることがふさわしいかどうか、今もわかりません。
でも、彼は、しきりと頷いてくれたのでした。


  東京シューレがSPであふれた日

東京シューレの出前報告をするのが、年を越えてになってしまったのには理由があります。
その日に聞いたことについて、どう考えるか、迷いがあったからです。




写真は、東京シューレです。
この建物、この周囲、まわりがSPだらけになったことがある、というのです。

子どもたちに話し終えて、スタッフ・ルームでお茶させてもらいました。
前回の出前のことを覚えている少女に声を掛けてもらったりしているとき、ついでのように、東京シューレに安倍首相が来たときの話しを聞きました。
安倍さんは、シューレの子どもたちと親しく話し、子どもたちも元気をもらった、と。
また、文部科学大臣馳浩さんも来られたことがあるし、馳さんはフリースクールについて大変理解のある方なので、大臣となって期待している、とも聞いたのでした。
スタッフのNさんは、戦争法や憲法のことを考えるとどうかな、と思うことも多いけれど、不登校の子どもたちに理解があることを思うとね~、と複雑な心情をもらしました。


わたしは、東京シューレの試みを評価しています。
最初にシューレに呼んでいただいたとき、勝手に思い悩んでいたのを、奥地圭子さんに一喝されて、目を覚まされました。
不登校だからといって特別のことはない、何も変わらない子どもたち、だと。
偏見や、へんな思い込みは、子どもたちにすぐさま見抜かれる、と。

東京シューレのメール・マガジンももらって、刺激を受け、励ましも感じています。
だから、シューレの応援をしたい。

でも、安倍さんが来たときのSP騒動を聞きながら、懸念を感じないではいられませんでした。
安倍さんが東京シューレに見ているもの、期待しているもの、教育制度に見ようとしているものは、何か、と。

安倍さんは、一握りのエリートだけしか見ていないのではないか。
欧米ではすでにそうだと聞いたことがありますが、公立の学校に通うのは下町の庶民で、お金持ちや格差の上に立つ人たちは、私立学校や家庭教師に学ぶ、と。

東京シューレが登場したころは、現在ほど格差はなかったし、貧困はなかったのではないか。
今、見渡してみれば、不登校になり、閉じこもりしている子どもたちの状況も変化してきているのではないか。
端的に、貧困のなかにある子どもたちは、東京シューレに通えるのか、と。


なぜ、この国のありさまになってしまったのだろう、と、昨年来、しばしば考えます。
同じ言葉、同じ理念を語りながら、足をすくわれるように、本質からずれて行ってしまったことがあるように思えてなりません。
本質からずれてしまったのは、わたしたちの認識の甘さです。考えの足りなさ、だと思っています。
それは、まるで「水俣」の意味の深さに途方に暮れてしまうときにも似ています。
あるいは、逆に、まだ浅薄であるからこそ、この国のことを理解できず、「水俣」の意味をひもといて解決することも、未だにできないことに似ています。

東京シューレを訪問する安倍さんの図を思い浮かべて、そんなことを考えてしまうのは、考え過ぎなのかなぁ・・・。








遅まきながら、去年10月の出前報告します!

2016-01-31 10:21:31 | 出前レポート
“学校へ行こう週間”に出前させてもらいました!

相模原市立谷口小学校 5年生 2クラス

2015年10月28日(水)1,2時限




行ったひと●遠藤亜生、田嶋いづみ
使ったもの●首都圏写真パネルより抜粋 大型写真パネル PPスライド



2016年に入ってからすでに出前させてもらっているんですけど、去年の分の報告残しがあって、備忘のためにも、アップさせてもらいます。
日常のなか、生業しながらの活動ですもん。報告が遅いのかんべんしてね~!(って、言い訳だけど)


  時代に揺さぶられながら、取り組む出前

いまの教育指導要領では、公害・環境学習は5年生の3学期です。
したがって、呼んでいただくのは3学期が多くなるのですが、時折、工夫されている先生方から早めに声がかかることがあります。
今年度は、こちらの小学校。
しかも「学校に行こう週間」に呼んでいただけるのは、とても嬉しいです。保護者の方に伝える機会をいただけることにもなりますので。


こちらへの出前は、安全保障法制成立後、初の機会となりました。

ひとりの市民として、くらしの、あるがままのところから、だからこそ「水俣」を伝えたい―― それが、わたしたちのスタンスです。
だから、伝える活動そのものが、時代に揺さぶられています。
アップデートに動いている水俣病事件の経過はもちろん、3.11にも、現在の世情にも。


子どもたちの前に立つ大人として、戦争の近くなったこの国への責任をどう捉えているかなくして、話しかけられないではないか、と感じました。
厳しい問いかけ抜きに、子どもたちに伝えられない。

また、一方で喜びも期待しないではいられませんでした。
2015年夏、若者たちが自分たちの考えと声で、この国のかたちにつて語り始め他のを目の当たりにしたからです。
大人子ども関係なく、ひとりの人間として出会えるなら、どこかで、いつか、種から育ち始めると、彼らが実証してくれたように感じたからです。
期待をよせないではいられないからこそ、伝えることに責任を持たねばならない、と考えました。

もしかしたら、ひとりよがりの考え方かもしれません。
いつもより早めに取り組む出前だからこそ、そんなふうに問いかけながら迎えたのでした。

   


  同行者・遠藤さんからのひとこと

「学校へ行こう週間」のおかげで、同席してくださった大人の方もちらほら。
出前後、同じように校外から見えていた、子どもたちのために読み聞かせボランティア「らいぶらいぶ」さんにお会いできたのも嬉しかったです。

そして、この日のアシスタントをしてくださったのは、遠藤亜生さん。
遠藤さん、水俣・東京展にも行かれたことがあるそうですが、すっかり「水俣」を考えることから遠ざかっていたので、と同行してくださいました。

その遠藤さんの感想は、こうでした。


かつて写真展などに足を運び、少なからず衝撃を受け、しかしながらいつしかいつしか「過去」のものとなっていた私。今回、授業を聴かせていただき、見覚えのある写真の数貸すと再び出会い、当時のことを思い出していた。
授業はそれ以上に、田嶋さんの水俣の歴史を追ったわかりやすい説明と、何より「今、現在」との繋がりに新たな衝撃を受けた。決して「過去」の出来事ではない「水俣」。いまだに続く「水俣」。そのバトンをあらたに受け取ることになった。
「食の安全」「環境問題」「個としてのあり方」「国、社会、世間との対峙」。
当然のことながら、すべては一直線上につらなっている。

授業時間としては長時間の設定となったにもかかわらず、大方の子どもたちはは前を向き、授業に参加していた。5年生には少しむすかしい内容の部分もあったが、「食の安全」「環境問題」の点においては、興味深いものがあったように思う。それは、3.11の福島原発事故とも重ねて身近な問題としてとらえることができることも大きいのではないか。授業後、多くの子どもたちが写真オアネルをじっくり見直すことをしており、そのことが「授業」への関心を物語っていた。

遠藤 亜生・記





 子どもたちの感想は、大人たちに与えられた検証の機会

谷口小学校では、小学校のHPに記事をアップしてくださっただけでなく、子どもたちの感想文集として届けてくださいました。
先生のひとことには、「人権的視点」にたってこれからも「子どもたちに支援していきたい」とありました。

子どもたちを仲立ちに、先生と握手できたような気持ちを持つことができました。

いつも思います。
子どもたちの、まっすぐな眼差しから生まれる感想の言葉が、わたしたちのあり方を検証してくれる、と。












出前のあと、立ち去り難く、写真パネルを覗きこんでくれた子どもたちのことを思い出しました。







「水俣」を伝えて、いま、子育てされているみなさんへ

2016-01-04 22:24:08 | 出前レポート
平成27年度家庭教育推進事業「こころの育児サロン」

第8回 「水俣との出合い」から学んだもの

会場 座間市役所 会議室

2015年10月23日(金)10時~11時45分




話しに行ったひと●田嶋 いづみ



  子どもたちが親になるとき

出前先としては、異色だったでしょうか…。

いいえ。
いちばん初めに「水俣」のことを伝えに行ったのは、国分寺・矢島助産院のアフターの会、でした。
生まれたばかりの赤ちゃんを抱えたお母さんたちのサロンで、胎児性水俣病の智子さんの話をすると知って、智子さんのお父様が、励ましのお便りをくださったんでした。

いのちをいちばん身近に感じているだろう子育て中の方に伝えるのは、本当に嬉しい。
それに――。
わたしたちの活動も、16年が過ぎて、17年目でしょうか。
活動開始の年に聴いてくれた子どもたちが、お母さんやお父さんになっても不思議じゃなくなりましたもん。

ま、それだけ、わたしたちも歳をとったんですね。
お母さんからお祖母さんへ。
若いお母さんに伝えるとき、やっぱり「子どもたち」に伝えてるみたいな気持ちになりました。



  子育てのただ中からいただいた感想たち

大人であるお母さん方を「子どもたち」扱いにしては失礼でしょうか。

でもね、いただいた感想には、「子どもたち」と変わらない真摯な瞳を感じないではいられなかったんです。

たぶん、ね。
そういう瞳が、子育てには大切なんです。


水俣の子供達が修学旅行先で差別を受けていたというのを聞いてショックでした。自分の出身地も4大公害のうちの1つの都市なので、気付かないうちにそういう差別を受けていたのかな?と思いました。出身地を話すと社会で習ったと言われることが多く。又、病気は大丈夫?と言われる事もあったので、毎度否定したりしていたので、どこか気にしている所があったとも思います。今も未だ、人の体に害があると分かっていながらも、もみ消されている事実があるのではないかと感じています。口の中に入れるものには気を使ってはいますが、知らないうちにとってしまっていると思うと怖いです。今日はありがとうございました。


今日の講座で心に残ることが一杯あります。その中でも一番感じたのは、子どもの気持ちを訴えてくれる言葉として、水俣病で苦しんでも一生懸命生きていきながら「産んでくれてありがとう おれのさびしさにつきあってくれるあなたがいるから安心」という言葉です。怒らずやさしく接することができる言葉だと思います。子どものことを目ではなく、心で見て心で感じるように努力したいと思います


命のつながりの大きさ、大切さを学びました。知る意味、学ぶ意味という言葉がすごく印象に残っています。知らない事で差別をしてしまうことになるというのは、すごく悲しいので勉強になりました。昔のことに考えていましたが、そうではなく、今でも苦しんでいる人がたくさんいることを知り、自分の娘が病気になっていたらと思うと、心が苦しくなりました。命の大切さ、生きることの尊さをこの話を通じ感じました。娘が大きくなった時、この話を伝えていきたいです。ありがとうございました。いじめの対処についても勉強になりました。





 あらためて、傍らにあることを伝えたい


少しでも、子育てされている若いみなさんの応援ができたら嬉しいです。
そんな気持ちで、講座のあとつくられるというまとめ誌に寄稿をさせていただきました。

ちょっと長いけど、転載。応援歌になっているといいんですが・・・。


わたしにとって子育ては、社会と関わり、社会を知る体験でした。
人間が社会的存在であることをナマで実感させられる体験だったのです。

恵まれて5人の子どもを授かりましたが、子どもたちを通じて様々な体験をしました。
5人もいるので、苛める側にも苛められる側にもなったことがあります。
学級崩壊も体験しましたし、受験の失敗も、家出も、逆によそのお子さんの家出保護も、もう本当にいろいろな体験をしましたが、そのどのことも、いま現在の、この暮らしのありよう、社会のありさまと関わっていることだったからです。

ですから、わたしが水俣の人々と出会うのは、必然だったと考えています。

ただ一心に子どもに安全な食べ物をあげたいと探し当てた「無農薬のあまなつ」は、あまなつそのものといっしょに水俣に生きる人たちの生き方を連れてきてくれました。
水俣の方がそう生きるしかなかった社会のありさまを教えてくれました。
そしてなお、そんな社会のなかで自分らしく、人間らしくあること、暮らしがあるのだということを拡げてみせてくれたのでした。

自分の暮らしにつなげ、振り返って子どもたちに向き合ったとき、水俣は「 」付きの「水俣」となって、わたしによりよい生き方を示唆してくれるものとなりました。

<「水俣」を子どもたちに伝えるネットワーク>の16年間に及ぶ活動のなかで、「水俣」の学びは大きく4つのテーマを提示してくれるようになりました。
「いのちの位置」「いのちの歴史」「知り学ぶ意味」「いのちの希望」です。

「いのちの位置」「いのちの歴史」は、子どもたちにどんなに自分のいのちが奇跡であるかを知ってほしくていちばんに伝えていることです。
子どもたちが自分のことを大切に思えないでいるのは、社会がひとりひとりのいのちの価値をないがしろにしているからです。
まず、自分のいのちの尊さに気づいてほしい、子どもたちの自殺なんてあってはならないことだし、自尊感情を持てない子どもたちの存在は社会の責任だと考えます。
子育ての渦中にある方には、現在進行形でいのちの奇跡に立ち合っていることを知ってほしいと思います。

食物連鎖のなかにある人間のいのちは、海や川や山の稀少で貴重なもののかたまりと伝えることで、自分の意志以上に、自然の地球の賜物として存在すると知れば、そんなにやすやすといのちを扱うわけにはいかなくなるはず。

そう伝えるなかで、真剣な瞳で「魚を食べてもいいの?」と訊ねる子どもたちに会います。

いま、わたしは、この問いにひと言でどう答えられるかを探し続けています。
環境はすでにひとりひとりの身体のなかにあります。
そこから魚たちだけ追い出すことはできないのだということを、どう伝えることができるでしょう。
魚たちだけを追い出すことができないなら、「食べない」という個人の選択ではなく、「環境をどう守るか」という社会の選択を視野に入れなくてはなりません。

「知り学ぶ意味」というのは、自分がどんな社会、関係性のなかで生きているかを知ることです。

子どもたちはいつだって無防備にこの社会のありかたにさらされています。
だから、子どもたちが直面する困難の背景には社会の仕組みやあり方があります。
子どもたちは非力でさらされるだけだからこそ、大人たちはその背景まで目を凝らし、受け止めていかなければなりません。
社会に市民的役割を果たしていくことで、子どもたちを守っていくしかないのだと考えています。

16年間、2万人以上に及ぶ子どもたちとの出会いを通じて、小学校に出かける経験を重ねるなかで感じてきた子どもたちの様子の話をもっと具体的にしてさしあげればよかった、と反省しています。

16年間でいちばん子どもたちが子どもらしくないな、と感じた年がありました。
それは、小泉政権のときでした。
郵政民営化にすすむなか、自己責任が取沙汰されるようになって、みんながてんでばらばらに自分のことだけを考えるようになった節目の年だったと振り返っています。
子どもたちのガサガサしたこころが見えてくるような出前活動を体験した年と重なるのです。

「いのちはそのまま希望である」という学びにたどりついたのは、つい去年のことでしかありません。

なかなか意味が見えてこないとき、子どもたちが簡単な言葉でまとめてくれることがあります。
ブーメランのように戻ってきた子どもたちの言葉でハッと気づくという体験を出前活動のなかで何度もしました。
これは、子育てのなかで日々体験することでもあります。
子どもを諭しているつもりで、子どもに諭されるようなこと。

いのちはすでに奇跡です。

いのちの奇跡のなかで生きようとしているわたしも、あなたも、希望を携えているのは当然ではありませんか。

あなたがあなたである限り、奇跡は傍らにあり、何かが始まります。
いま、子育てのただ中にあるみなさんに、そう伝えることができるのなら、こんなにうれしいことはないと、わたしは考えています。

社会的存在であるみなさんは、そして、決してひとりではないのです。
どうか、困ったとき、うつむいてしまうとき、手を伸ばしてみてください。
となりには、必ずだれかがいます。


子育てのなかにあるみなさん、フレーフレーッ!



大人たちにも伝えたい・・・・・浜松から

2015-06-07 08:37:04 | 出前レポート
知ってほしい、「水俣」のこと
2015.4.11
グランドホテル浜松 白鳥の間




行ったひと&報告●榊原真理、池谷雅子




「水俣のことや伝えるネットの活動のこと、大人の集まりで話してくれませんか?」とお誘いをいただいたのは、演劇結社ばっかりばっかりのバリアフリー朗読会の時のことでした。

水俣の話ができるのなら、人数の多少に関わらず、どこにでも…と日頃から考えているので、「喜んで」と気軽に引き受けました。
以前、友だちの仲間が自分たちでいろいろなことを学ぶという小さな集まりで話したことがあり、今度もそのような集まりだろうと思っていたところ、3月3日に正式な依頼のメールが来て、ビックリ。

浜松市倫理法人会が毎週土曜日の午前6時から開催しているモーニングセミナーの講師です。
経営者の集まり、それも「経営者の心を研く朝道場!モーニングセミナー」です。
けれど、一度受けてしまった以上、いまさら、お断りすることはできません。

それから1ヶ月、何をどのように話そうか、いろいろ迷いました。悩んだ末、欲張らずに、私らしく、私が伝えたいと思うことを原稿にしました。

①「伝えるネット」の発足のきっかけ
②「伝えるネット」の活動
③2015年2月に入野小学校で伝えたこと
④私が「水俣」から学んでいること
この4つについて、40分で話しました。



③の入野小学校で伝えたことは、パワーポイントのスライドを使いました。
水俣病という公害病で苦しんでいる人がいる。特措法で救済すると政府はいっているが現実には裁判で闘っている人も多い。
水俣病が正しく知られていないので、未だに差別や偏見がある。こういう現実を知ることで、国や県のありよう、政治とは何か、市民はどうすればいいか、自分で考え行動することが必要と実感していると話を結びました。



≪ちょっと 付け足し≫
伝えるネット・浜松の報告でした。
専従者のいないわたしたちの報告ペースは、どうしても時間がかかってしまいまして。
2か月経ってのご報告・・・。

それでも「伝えたい」思いは、いつでも、どこでも。

6月8日(月)小田原・旭丘高校生200人以上に、浜松から池谷さんが駆けつけてくれて首都圏窓口に合流し、
相変わらず試行錯誤、暗中模索をつづけつつ、「水俣」を伝えに出前します。