第19回小学館ノンフィクション大賞受賞作
『ユージン・スミス 水俣に捧げた写真家の1100日』に書かれたウソ
山口 由美 様
ご著書『ユージン・スミス 水俣に捧げた写真家の1100日』を拝読いたしました。ユージン氏とアイリーンさん、その周囲のひとたち、その群像ルポに絡み合って生きる人間存在のこと、そこにもたらされた水俣病の意味を考え、感銘を受けました。本書を上梓されたことに、お礼申し上げます。
今般、ご著書を拝読いたしましたのは、ハリウッド映画として誕生した『MINAMATA』の日本公開の前に読んでおきたいと思いましたところ、わたしが水俣病に関する写真展開催に深くかかわることをご存知の写真家の方がお貸しくださったことによります。発行が2013年4月ということですので、もっと早い時期に読むチャンスがあったことを振り返りますと、悔やまれてなりません。
悔やまれる理由は数々ございますが、最大の理由は「入浴する智子と母」の写真を封印することになった経緯につきましてご著書に事実誤認があり、そのために「水俣・豊橋展」にかかわった多くの方を傷つけていることです。
わたしは、1996年品川で開催された「水俣・東京展」の実行委員でした。その後全国巡回水俣展のトップバッターとなった1997年「水俣・豊橋展」のコーディネイト役を務めさせていただきました。それは、つまり、品川駅から水俣展会場に至る道すがら、「入浴する智子と母」の写真が使われたポスターが雨にはがれ、人の足に踏まれていくのを目撃し、ひきつづき「水俣・豊橋展」のポスター・チラシに智子さんとお母さんの入浴写真を使わせてほしいという問い合わせに、お父様の上村好男さんが「お断りします」という返事のfaxを豊橋の方とともに受け取ったということを意味しております。アイリーンさんがその写真の封印を公表される1年前のことでした。
ですから、「水俣・豊橋展」では「入浴する智子と母」の写真は使われていないのです。(手元にありました「水俣・豊橋展」のチラシを同封させていただきます。)豊橋では「水俣・豊橋展」のために実行委員会が市民有志によって組まれましたが、豊橋のみなさんは、上村さんの「雨にうたれ、ひとの足に踏まれては智子がかわいそう」という気持ちに共感、当初、「水俣フォーラム」から提案されたポスター案を採らず、独自の写真選択を行い、ポスター・チラシをつくられました。
胸もあらわなおばあさんが映っている魚の行商の写真、どこか愛嬌のある胎児性水俣病のお子さん、すべて豊橋の実行委員会の感覚で選択されています。「水俣・東京展」とは違う担い手によって「水俣・豊橋展」は開催されました。だから、豊橋のみなさんが智子さんの写真を配慮ない取り扱いをして、愛知県の方がお父様の心を傷つけてしまったという推測は、誤りです。
品川で行われた水俣展が、全国巡回の最初に愛知県豊橋市で開催されたのは、「水俣・東京展」の一実行委員であったわたしが、「東京展」終了後、手元に残った多くの写真をはじめとする展示物の扱いをどうするか議論するなか、わたしが自分の故郷である豊橋の方々に写真展開催を呼びかけたことに始まります。写真や展示物、水俣支援を引き継ぐ「水俣フォーラム」が水俣・東京展実行委員会の後継団体として設立されますが、それとは別個に、わたしは東京展実行委員会の活動するなか知った水俣病事件の事実、普遍的な学びに衝撃を受けておりました。とても大切な学び、と思いました。とても大切な学びだから、とても大切なひとたちに伝えたいと思いました。初めは、家族に、わが子に。自分の暮らすまち、地域に。そして、故郷・豊橋に暮らす高校時代の友人に、姉のように慕う叔母に。身近で、大切なひとたちに。つながりがつながりを招き寄せて、その叔母が水俣・豊橋展の実行委員長になりました。豊橋のみなさんが、東京展の成果と水俣フォーラムの仲介に立つわたしとの橋渡しに絶好の人材として叔母を選び、普通の主婦、一市民の叔母が実行委員長となることに水俣展開催の意義を見出したからです。叔母にとっては、一世一代、実行委員長就任は叔母の人生を変えました。
実行委員長となった叔母の「水俣・豊橋展」オープンの挨拶は、こうでした。「水俣・豊橋展は、豊橋と水俣が出会い、交流するものです。」
雨にはがれ踏みつけられた智子さんのポスター・チラシは、本質的な問題を孕んでいると考えます。従来の市民による「支援活動」というものの「誤謬」のようなものかも知れません。あるいは、当事者に共感する、寄り添う、という社会での人間的営為への検証を含んでいると言いましょうか、まさに現在の社会運動や市民活動に投げかけられている課題、と考えています。
ポスターに智子さんの入浴の写真は使いませんでしたが、「水俣フォーラム」が提供する写真・展示物に「入浴する智子と母」の写真も含まれておりました。写真は、水俣フォーラムのとりまとめを経て、アイリーン・アーカイブから提供されることになっておりました。しかし、上村さんのお気持ちを推し量り、アイリーン・アーカイブから貸し出しはできないというお断りがありました。市民によって構成された豊橋展実行委員会のみなさんは、もちろん智子さんの写真に深く心を動かされており、(そのような市民団体にとっては大変に)高額な写真・展示物提供の契約違反ではないかと水俣フォーラムへの不信と抗議をあらわにされました。智子さんの写真を展示できるか、できないか、展示すべきか、展示すべきでないか、真剣な議論が豊橋でなされました。結果、水俣にある相思社にユージン&アイリーンさんが寄贈された一連の写真作品群について別途拝借金を支払って直にお借りし、展示を実現するに至りました。水俣・豊橋展は、開催5日間で3786人の有料来場者を得て成功裡に終わりました。
智子さんのご両親のお気持ちを知りながら、智子さんの入浴の写真を展示したことについて、豊橋のみなさんはそのままでおしまいにはされませんでした。どのように写真を迎え、どのように展示し、来場された方はどのように見たか、感じたかを、「水俣・豊橋展」終了後、感謝とお詫びの気持ちを込めて上村さんに実行委員会として手紙を書かれたのです。その手紙のなかの1通は、わたしも書かせていただきました。それが、初めての上村さんと直の連絡でした。お怒りになられても仕方がない、との気持ちで手紙を書きましたが、上村さんは快く許してくださり、期待以上の事業収益を得て、豊橋展実行委員会のメンバーが水俣現地に報告にお伺いした折には、智子さんをまつる仏壇にお線香もあげさせてくださったのです。そして、豊橋から縁をもって「水俣・浜松展」が開催されて、ふたつの水俣展の開催体験から〈「水俣」を子どもたちに伝えるネットワーク〉を発足させた折には、最初に賛同のカンパをくださったこともお伝えさせていただきます。 (「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークの会報を同封させていただきます。そこに、豊橋、浜松の連絡先をみつけることができると存じます。)
「入浴する智子と母」の写真の価値は、到底、わたしが口にできるものではありません。
熊本水俣病の公式確認は1956年。未だこの国は解決できていません。
〈伝えるネット〉では、出前活動の際に資料として、ガイドというA3二つ折りのパンフを渡しております。そこには、智子さんの成人式のときの集合写真を使わせていただいております。(同封します。)
増し刷りするたびにお許しをお願いすると、上村さんは、「そろそろ智子を休ませてくださいよ」と言われます。それは、入浴の写真に「智子が寒そうだ」と言われるお気持ちと同じものを感じます。ときに、子どもたちにガイドを渡すとき、親というものは、写真であってもそう思うものということを話して、わたしたちは、だから、この写真をコピーしないし、faxを通すこともしない、と伝えます。そんなことを話したあと、少女が折ろうとした隣の子に「そんなことしちゃダメ」と止めているのを目撃したことがあります。お嬢さんの宝箱にしている箱のなかから折り目なくしまわれたガイドをみつけた、とお母さまから報告を受けたこともあります。
このような写真への思いを育んでくれたのは、豊橋のみなさん、愛知県に住まうみなさん、です。
どうぞ、豊橋、愛知県のみなさんへの名誉を回復してください。
戦争被害、原爆、さらに福島についても、同様に考えますが、水俣病の被害について、どうして被害者が語らなくてはならないのでしょうか? 苦しみを知ってほしいと語る被害者の方に、何故、涙ながらに語らせなくてはならないのでしょう。 知るべきは、わたしの方であり、わたしが知る努力を払うべきではないかと考えます。「智子さんにいつまで語らせる」「智子が寒そう」という気持ちのままにさせているのは、他ならないわたしたち知らない者の方ではないでしょうか? 「お風呂の写真を撮らせてほしい」と言い出されたとき、上村さんご夫妻は簡単に「いいよ」と言われたとアイリーンさんが言っておいでだった記憶があります。そこに関係性があったからでしょう。 そのことを含めて、多分、写真表現というものがある気がします。
本来でしたら、お目にかかってお話、お伝えさせていただきたく存じました。著作を出される社会的責任と波及をご考慮いただき、善処いただけるようお願いを申し上げて、書簡とさせていただきます。
2020年8月2日 署名・田嶋いづみ
この返信にいただいた山口由美さんからの手紙はこれです。
「憶測で書いた」ことを認めながらも、山口さん最後まで「ジャーナリスト」と名乗り続けられました。