伝えるネットねこレポート

「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークのブログ。
首都圏窓口の田嶋いづみ(相模原市在住)が担当してます。

ひとに寄り添うウイズを教えてくれた浜松の仲間

2011-10-23 01:57:59 | その他
ひとに寄り添うウイズを教えてくれた浜松の仲間
~ 点字毎日文化賞を受賞した斯波さん ~


2011年10月21日
第48回点字毎日文化賞受賞式



 視覚障害者授産施設「ウイズ」との出会い

「ウイズ」の斯波さんと出会ったのは、「水俣・浜松展」が開催された1999年。

伝えるネット立ち上げの直接のきっかけをくれた「水俣・浜松展」の実行委員会メンバーとしてでした。

少し押しの強い感じ、でも、相手に良かれと行動する無私のひと、と受け止めました。どんな小さな集まりでも、支配的に采配したがる人が現れがちですが、一見、粗野に見えるほどの純朴さで強く発言されても、そんな感じが全然しなかったんです。


「水俣・浜松展」実行委員会は市内の小学校5年生に対し、無料の招待をしました。その招待に応えてやってきてくれた小学生に展示ガイドをすることになって、「水俣・豊橋展」でガイドをした私たちに依頼がありました。

振り返れば、展示会場のロビーいっぱいに小学生を迎えてのガイド体験が、私たちの「水俣」を伝える活動のへの発意を育てることになったのでした。


「ウイズ」は全国的にもめずらしい視覚障害者のための授産施設です。実行委員として受付や作業委かかわる視覚障害者のみなさんの姿に、あるいは、展示会場をていねいに見てまわる来場者としての視覚障害のみなさんの姿に、心ひそかに衝撃を受けたのでした。


やがて、ガイドをするために「水俣・浜松展」に通うなかで、斯波さんと「ウイズ」のみなさんと知り合うようになっていきました。

伝えるネットメンバーのみのりさんも、そのおひとりです。

みのりさんとの出会いがなければ、バリアフリー写真展を思いつかなかったでしょう。

音声部会は生まれなかったでしょう。

また、「ウイズ」との出会いは、豊橋に飛び火して「手のひら」につながりました。


 地域での出会いが「水俣」の学びを深くさせる!

その斯波さんが、第48回点字毎日文化賞を受賞されることになりました。

授賞式は10月21日。毎日新聞東京本社で行われました。


「ひとに寄り添うウイズン気持ちを教えていただきました。

無私なる永年のご活躍に敬意をもって、心からのお祝いを申し上げます」


私たちは、そう祝電を送りました。

斯波さんと「ウイズ」改め「NPO法人 六星」のみなさん、おめでとうございます。


「水俣」に学ぼうとする思いの者が地域で集まりました。

「水俣」の力を借りて、出会いたくても出会いきれない者が出会いをもらいました。

地域での出会いを通じて、「水俣」の学びを深めていく方法をいただきました。

そして、地域の仲間たちとともに「水俣」の学びを継いでいくことを、いま、私たちは考えています。


2005年12月15日浜松市立庄内中学校「水俣に学ぶ一日」では、斯波さんも伝えるネットの
講師となって、「ウイズ」のことに触れながら子どもたちに「水俣」を伝えてくれました。
子どもたちに語りかける斯波さん(中央奥)



「害」の字にこだわり、これまで、ブログ他で伝えるネットは「障がい」という表記をしてまいりました。今回、当事者である仲間からあえて「障害」の字を使ってほしい、と言われました。友人の気持ちに寄り添うことを選び、今後、「障害」と表記いたします。

上映会のご案内~浜松より~

2011-07-25 06:51:41 | その他
~1000年先にいのちはつづく~
ドキュメンタリー映画『祝の島』 遠州地域の上映会



上関原発予定地の対岸にある祝島の人々の暮らしを描いた作品。

監督の纐纈あやさんいわく「島の人がなぜ原発に反対するのか?ではなくて、島の人たちが大切にしているものを描きたかった」とのこと。

17日の静岡上映会&監督トークには250人集まったそうです。

この他にも7月は県内あちこちで上映会があります。詳しくはWebで


 7/25(月)13:30~ 浜北 川渕助産院 (女性限定)お茶+お菓子付き
  上島、飯島:korokumi603@yahoo.co.jp(助産院へ直接の問い合わせは不可)

 7/26(火)18:30~ 浜松 Spice cafe Bija ワンドリンク付き
  Bija:http://www.bija.jp/ 053-474-0330 ひかり農園:090-3448-7229


講演会のご案内~浜松より~

2011-07-25 06:21:18 | その他
「新エネルギー、未来への選択」
浜岡原発は運転再開させてもいいのか? 



 対談  三上元(湖西市長)

    菊地洋一(元GE技術者・福島第一原発設計者)

 ご案内:馬場利子(プラムフィールド、静岡放射能汚染測定室)



市長として脱原発を宣言し、全国に呼びかけている静岡県湖西市、三上元(みかみはじめ)市長。

「原発をつくった私が、原発に反対する理由」著者、菊地洋一氏。(福島第一原発の建設に携わった元GE技術者)


初対談を通して、静岡から日本の未来へビジョンをお届けします。

ご案内は、市民による「静岡放射能汚染測定室」を立ち上げた、プラムフィールド代表、馬場利子さんです。


 7月25日(月)開演19:00 開場18:30

入場無料:震災支援カンパ(福島第一原発被災地へ)

場所:浜松市地域情報センター ホール(160名) 

 浜松市中区中央1-12-7 JR浜松駅徒歩10分。
 遠鉄「遠州病院前」下車、徒歩2分
 浜松駅バスターミナル11番のりば 早出線「県総合庁舎」下車、徒歩1分
 くるる西ループ「県総合庁舎」下車
 くるる東ループ「県総合庁舎北」下車、徒歩3分

主催:生活科学ネット、浜岡原発 巨大地震対策 虹のネットワーク

共催:プラムフィールド、「愛と感謝の絆会 3.11」

協力:復興と地域防災を考える会、ロハスな生活を楽しむかえるの会、浜松サーフィンクラブ、湖西サーフパトロール、遠州の映像「記録屋」

問合:生活科学ネット
  tel:090-2774-1429 kotonomamani@gmail.com


 参考資料

原発震災救援緊急講演会「福島原発30キロ圏からの報告」
三上元(湖西市長)挨拶(動画2011/5/21袋井)

浜岡原発差し止め訴訟、静岡・湖西市長も原告に参加へ(朝日新聞2011/5/15)

菊地洋一氏(元GE技術者・福島第一原発設計者)インタビュー
IWJ(ジャーナリスト岩上安身)web 2011/4/21

静岡放射能汚染測定室(プラムフィールド)

市民自ら放射能測定(朝日新聞2011/6/29)静岡放射能汚染測定室


          

湖西市長 三上元(みかみはじめ)

1945年(昭和20年)新所村日之岡(現:湖西市)に生まれる。

地元において、子どもたちの育成に力を注ぎ、現在、湖西市長(2期目)を務める。

3.11以降、市長として脱原発のメッセージを発信。浜名湖西岸の湖西市より、全国に 呼びかけ、同時に「浜岡原発の廃炉を求める」訴訟の原告団に加わっている。


<浜名湖西岸の湖西市長より、脱原発のメッセージ!> 

今災害を見て私は、市長として“脱原発”の運動をする決心をしました。

私は元々、原子力発電に反対で、国会議員の方々の何人かとも激論を戦わせてき>> ましたが、彼等は、「万全の対策がとられており、大丈夫だ」と言っておりまし>> た。だがそうではありませんでした。

私の反対の理由は次のとおりです。

人間にはミスがあります。想定ミスも、操作ミスも。

10年前のアメリカでの9.11テロや大型飛行機の墜落の想定などされていません。

今や戦争はミサイル時代であり、標的にされる原発は国防上無くさなければなりません。

日本は地震大国、津波大国であり、神戸のような直下型地震と今回の様な津波対>> 策をすべきなのにまったく対策が実行されていません。

使用ずみ核燃料の最終処分場はどの市町村からもきらわれて、500年以上の長期保管場所は決められず、どの原発も自分の敷地内に危険物をため込んで困っている状態です。

原発は安価ではありません。前述の5点の対策に万全にし、1炉500億円とか800億円と言われる廃炉コストを加え、事故発生時の補償コストを算入すれば、風力や太陽光よりも高価なものと計算されるはずです。

原発は環境破壊の元凶です。原発で生まれた熱エネルギーは3分の1しか電気に変換できません。捨てられる3分の2は海温を上昇させる地球温暖化の主要となっているのです。

ではどのようにすればよいのか!液化天然ガスを中心に火力発電へ切り換え、太陽光などのクリーンエネルギーの比重を高めましょう。そして夏は2割節電するのです。夏の料金値上げは認めましょう。電力使用のピークである夏だけの問題なのですから。

以上、日本で最も地震の危険があるといわれる浜岡原発、その60km先の湖西市より!

講座のご案内~浜松から~

2011-07-16 10:49:50 | その他
浜松窓口からお知らせです。


ふれあいサポートネット「ふわっと」さんでは、8月に、鳥取大学の高塚先生をお招きし、「コミュニケーション講座」と「赤ちゃん登校日 指導者養成講座」を行います。

高塚先生を講師に迎えるにあたり、榊原真理さんが尽力しています。

高塚先生から学べることは、伝えるネットのブログにも以前報告させてもらいましたが、興味関心があるようでしたら、ぜひ、ご参加ください。

会場の「青少年の家」は宿泊もできるところです。

もし、満室でも、浜松はビジネスホテルの乱立で、価格競争も激化しているようです。ご利用ください。


 ヒューマン・コミュニケーション講座のチラシ


〈表面〉



〈裏面〉



 赤ちゃん登校日 指導者養成講座講座のチラシ


〈表面〉



〈裏面〉




受講料等の詳細は、ふれあいサポートネット「ふわっと」さんへ お問合せください。

 ふれあいサポートネット「ふわっと」さんHPへ

また、高塚先生の講習会は8月初旬に島根でもございます。

国立ハンセン病資料館を見学しました

2011-07-08 11:49:28 | その他
国立ハンセン病資料館の伝えかた
~ 総会の翌日のもうひとつの見学会 ~


2011年6月26日
国立ハンセン病資料館 (東村山市青葉町4-1-13)
企画展 かすかな光をもとめて ―療養所の中の盲人たち―



 光をもとめる企画展に、いそいそとお出かけ

私たち<伝えるネット>は、相模原の首都圏窓口をはじめに、豊橋、浜松、札幌に窓口を開いています。総会は、そんな窓口の情報交換と、そして、久々の旧交をあたためる機会となります。

なので、ついつい、みんなといろいろ欲張り名なオマケを付けたくなります。今年は、総会当日に地下壕見学会をセットしたのですが、もっと・・・。

今回、浜松窓口から参加の中王子みのりさんが、「せっかく首都圏に行くのなら、ハンセン病資料館で行われている企画展を見に行きたい」とリクエストしてくれました。


行われている企画展は、「かすかな光をもとめて ―療養所の中の盲人たち―」。視覚に障がいのあるみのりさんだけでなく、音声サポート部会を立ち上げて1年目の私たちにとっても、もちろん関心のある企画です。

それに、<伝えるネット>に縁の深い写真家・宮本成美さんが『全生園の森』と題された写真集を撮影された多磨全生園に隣接しているのですから、是非とも出かけたい場所でありました。


多磨の森に囲まれた資料館は、とにかく立派。なのに、入場料は無料。その上、無料配布とされた資料の豊富なこと。印刷もきれいな立派な冊子が、「ご自由にお持ちください」と並んでいます。資料館の方が持ち帰り用の紙袋をくださるほどでした。


1階のギャラリーでは、「いのちの詩 塔和子展」が行われていました。この日が最終日。塔和子さんのくらしから生まれた言葉に描き出される求めてやまない希いに、ぐっと心を鷲掴みにされる感じでした。展示された作品をみのりさんに読み上げるのに、声が震えそうになってしまったよぉ・・・。

このギャラリーでは、塔和子さんの詩をモチーフにハンセン病隔離の歴史を描いたドキュメンタリー映画『風の舞』の監督・宮崎信恵さんにご挨拶させていただくこともできました。光栄。


 『風の舞』のHPへ

 宮崎信恵さんのHPへ



ギャラリーの塔和子展をまわる伝えるネットのメンバー




 誰かの手を借りることと、不自由と、差別と

塔和子展を一巡して2階の企画展会場へ。


足を踏み入れて、1枚目のパネル説明を読んで、ギョッとなったのが、正直な気持ちです。

それは、もしかしたら、みのりさんが同行していたからかもしれません。

私たちは、みのりさんのおかげで、見えなかったものが見えるようになった気がしています。みとりさんとの友情が、バリアフリー写真展を開催したいという願いを生み出してくれたし、音声サポートという共感の探り方に気づかせてくれたからです。


「ハンセン病の患者にとって最低のことは盲人になるという宣告だった」

「誰かの手を借りなければ生きていけない盲人になるということは最大の不幸だった」

これは、書かれてあったそのものの文章ではありません。記憶のなかで、思い起こしています。


ハンセン病の患者さんたちが、ハンセン病を負った上に失明を宣告される絶望は、共感できます。ましてや、ハンセン病で隔離という人権を奪われた生活のなかで、失明への悲観がどうだったろうか、と思います。

しかし、そこに、さらに盲人を低く見ていたという抑圧移譲はなかったか?

みのりちゃんがつぶやきました。「わたし、目が見えなくてもけっこう幸せなんだけど」と。


「誰かの手を借りなければ生きていけない」のが不幸なのでない。

「誰かの手を借りて生きていく」ことを不幸と決めつけることが不幸なのではないか?

人は、誰だって、人の手がなければ生きていけないのに。 そう感じるのは私たちだけ?





患者のくらす施設を「不自由棟」と呼んでいることも違和感を覚えました。「不自由」にしているのは、誰?


私は、こんなふうに思っています。不自由にしているは、私たちの差別する心なのではないか、と。

よく言いますよね。「障がいは不便だけれど、不自由ではない」って。


ハンセン病のために失明したなかで、希望を失わず、舌で点字を読み、暗譜で将棋をさし、ハーモニカを奏でる。素晴らしい方々と感動します。ハンセン病でもなく、視覚障がいもない私でも、ときに生きるに倦み、怠惰になり、前向きになれなくなったりするのに、そういう方を知り、その生き方を学ぶと、人間ってなんて素晴らしいんだろう、と改めて思い、生きる勇気をいただきます。

たぶん、こうやって希望を分け合い、勇気をかわし、ともに生きていると声を掛け合うことが、社会に生きる、ということなのではないか、という気がします。


だからこそ、共に生きることを排除する「差別する自分」を克服しなければならないのではないでしょうか。

ハンセン病の薬ができたから、ではなく、差別する心を克服することが求められています。同じ人間としての権利の尊重があれば、たとえ、ハンセン病であったとしても人間的対応ができたはずです。


人権感覚を養うことは、本当に難しい。私たちには、視覚障がいのある人たちが見に来ることを想定した企画展示だとは、どうしても思えませんでした。


 中王子みのりさんのHPへ


 「人生に絶望はない」という勇気をいただいて


最初に企画展をのぞいたのがいけなかったのでしょうか。それから常設展示をのぞきましたが、どうも、しっくりこないまま、見学を終えました。

みんなの感想は、「このまま子どもたちに見せるのは、ちょっと心配」「うんうん、ガイドなしはちょっとコワイね」。


そして、こんなことを思いました。

ハンセン病の患者さんたちの人権回復はとても大切です。

そのためには、患者さんたちと対面する、あるいは共生できる私を見出すことが必要だと考えます。

差別する心は誰でもない私のなかにひそんでいます。奥底にだけでなく、けっこう表層にも、気づかないうちに私の心を覆っていることもあります。


水俣病の語り部の杉本栄子さんはいつも言っていました。

「知らないことは罪です。知ったかぶりはもっと罪です」って。


差別する自分の心を鍛えていくためには、もっともっと事実に触れ、知らなければ、学ばなければなりません。

誰でもない私自身が。

ハンセン病患者を差別していたのは、国であり、この国にくらす私たちでした。

その主語である「国」や「私たち」が浮かび上がってこなければ。 私たちがどうしたいか、どうするべきなのか、を伝える資料館であってほしいと思うのは、的外れでしょうか。

さんざんハンセン病患者を差別してきて、さらに、自らを問うことになく、患者さんの峻烈な人生に甘えていていいのだろうか・・・・。・・・・そんなこと思うのって、ヘン???


水俣の水俣病資料館は、いちばん初めのころと変わったなぁ、と思うことがあります。

私は、首都圏に住んでいて、水俣へは来訪者に過ぎませんが、何度も訪ねています。このごろの水俣病資料館の展示からは、水俣の人たちの意志が伝わってくるようになったと思うのです。


ハンセン病資料館の無料配布に「キミは知っているかい? ハンセン病のこと。」という子どもたち向けのパンフがありました。表紙には、まず子どもたちへの問いかけが書かれています。
「君への質問。君の将来の夢はなに?」と。

そして読み進めると、ハンセン病の語り部の言葉が書かれています。「人生には絶望はない」と。


あんまりじっくり資料館をめぐっていて、全生園を散策する時間がなくなってしまったことが、とても心残りです。

車イスを押して、森林浴できなくてゴメン、みのりちゃん。