伝えるネットねこレポート

「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークのブログ。
首都圏窓口の田嶋いづみ(相模原市在住)が担当してます。

解決しない、ということの意味

2020-12-31 08:20:35 | 会員レポート

第19回小学館ノンフィクション大賞受賞作

『ユージン・スミス 水俣に捧げた写真家の1100日』に書かれたウソ

伝えるネットは、水俣・豊橋展(1998年開催)と水俣・浜松展(1999年開催)を担った市民により2000年に誕生しました。
市民による手作りの活動のなかで、自分たちの活動の始まりを貶められていることに長い間気づきませんでした。
気づいたのは、ジョニー・デップがユージン・スミスに扮する『MINAMATA』公開を前にして
『ユージン・スミス~水俣に捧げた写真家の1100日』(2013年4月発行)を読む機会を得たからです。
わたしたち、とくに豊橋の仲間たちは、この本に事実でないことを書かれ、名誉を傷つけらていたのです。
 
何故こんなことが起きたのか。
そのことを問うとき、伝えるネット20年間の活動のなかで連想しないではいられないことがあります。
 
わたしたちは、主に公立小学校5年生に「水俣」を伝えてきました。
わたしたちの話を聞いてくれた子どもたちは、3万人にものぼろうとしています。
そして、いつしか、子どもたちの雰囲気で、その教室で「事件」が起きているかどうかを察することができるようになりました。
「事件」は「イジメ」と言い換えてもいいかもしれません。
「事件」を抱える教室で、子どもたちに向かって問いを投げかけると、子どもたちは、目をそらします。
そして、話しかけるわたしたちではなく、教室のなかで目を泳がせて、誰かの気配を探すのです。
流行りの言葉でいうなら、子どもたちは「忖度」し始めまるわけです。
「忖度」に気を取られた子どもたちは、真っすぐと学ぶことができないのは、当たり前です。
「事件」を抱えている教室では「学力」は伸びません。
 
このクニは、公式確認から数えても64年間(やがて65年になります)、水俣病事件を解決していません。
これは水俣病患者への「イジメ」そのものです。
誰かを「イジメ」つづける社会は、あの教室と同じように、考える力、事実と向き合う力、学ぶ力を失います。
だから、こんな本も書かれてしまい、その誤謬の意味も分からないままでいるのだと思います。
 
※長い報告となります。お付き合いいただけたら幸甚です。
 
 著者・山口由美氏「憶測で書いた」
書籍を読んで仰天したわたしたちは、発行元である小学館、担当編集者の澤田さんに向けて抗議文を送りました。
以下の文章です。
 

山口 由美  様 

ご著書『ユージン・スミス 水俣に捧げた写真家の1100日』を拝読いたしました。ユージン氏とアイリーンさん、その周囲のひとたち、その群像ルポに絡み合って生きる人間存在のこと、そこにもたらされた水俣病の意味を考え、感銘を受けました。本書を上梓されたことに、お礼申し上げます。 

今般、ご著書を拝読いたしましたのは、ハリウッド映画として誕生した『MINAMATA』の日本公開の前に読んでおきたいと思いましたところ、わたしが水俣病に関する写真展開催に深くかかわることをご存知の写真家の方がお貸しくださったことによります。発行が2013年4月ということですので、もっと早い時期に読むチャンスがあったことを振り返りますと、悔やまれてなりません。 

悔やまれる理由は数々ございますが、最大の理由は「入浴する智子と母」の写真を封印することになった経緯につきましてご著書に事実誤認があり、そのために「水俣・豊橋展」にかかわった多くの方を傷つけていることです。 

わたしは、1996年品川で開催された「水俣・東京展」の実行委員でした。その後全国巡回水俣展のトップバッターとなった1997年「水俣・豊橋展」のコーディネイト役を務めさせていただきました。それは、つまり、品川駅から水俣展会場に至る道すがら、「入浴する智子と母」の写真が使われたポスターが雨にはがれ、人の足に踏まれていくのを目撃し、ひきつづき「水俣・豊橋展」のポスター・チラシに智子さんとお母さんの入浴写真を使わせてほしいという問い合わせに、お父様の上村好男さんが「お断りします」という返事のfaxを豊橋の方とともに受け取ったということを意味しております。アイリーンさんがその写真の封印を公表される1年前のことでした。 

ですから、「水俣・豊橋展」では「入浴する智子と母」の写真は使われていないのです。(手元にありました「水俣・豊橋展」のチラシを同封させていただきます。)豊橋では「水俣・豊橋展」のために実行委員会が市民有志によって組まれましたが、豊橋のみなさんは、上村さんの「雨にうたれ、ひとの足に踏まれては智子がかわいそう」という気持ちに共感、当初、「水俣フォーラム」から提案されたポスター案を採らず、独自の写真選択を行い、ポスター・チラシをつくられました。 

胸もあらわなおばあさんが映っている魚の行商の写真、どこか愛嬌のある胎児性水俣病のお子さん、すべて豊橋の実行委員会の感覚で選択されています。「水俣・東京展」とは違う担い手によって「水俣・豊橋展」は開催されました。だから、豊橋のみなさんが智子さんの写真を配慮ない取り扱いをして、愛知県の方がお父様の心を傷つけてしまったという推測は、誤りです。 

品川で行われた水俣展が、全国巡回の最初に愛知県豊橋市で開催されたのは、「水俣・東京展」の一実行委員であったわたしが、「東京展」終了後、手元に残った多くの写真をはじめとする展示物の扱いをどうするか議論するなか、わたしが自分の故郷である豊橋の方々に写真展開催を呼びかけたことに始まります。写真や展示物、水俣支援を引き継ぐ「水俣フォーラム」が水俣・東京展実行委員会の後継団体として設立されますが、それとは別個に、わたしは東京展実行委員会の活動するなか知った水俣病事件の事実、普遍的な学びに衝撃を受けておりました。とても大切な学び、と思いました。とても大切な学びだから、とても大切なひとたちに伝えたいと思いました。初めは、家族に、わが子に。自分の暮らすまち、地域に。そして、故郷・豊橋に暮らす高校時代の友人に、姉のように慕う叔母に。身近で、大切なひとたちに。つながりがつながりを招き寄せて、その叔母が水俣・豊橋展の実行委員長になりました。豊橋のみなさんが、東京展の成果と水俣フォーラムの仲介に立つわたしとの橋渡しに絶好の人材として叔母を選び、普通の主婦、一市民の叔母が実行委員長となることに水俣展開催の意義を見出したからです。叔母にとっては、一世一代、実行委員長就任は叔母の人生を変えました。 

実行委員長となった叔母の「水俣・豊橋展」オープンの挨拶は、こうでした。「水俣・豊橋展は、豊橋と水俣が出会い、交流するものです。」 

雨にはがれ踏みつけられた智子さんのポスター・チラシは、本質的な問題を孕んでいると考えます。従来の市民による「支援活動」というものの「誤謬」のようなものかも知れません。あるいは、当事者に共感する、寄り添う、という社会での人間的営為への検証を含んでいると言いましょうか、まさに現在の社会運動や市民活動に投げかけられている課題、と考えています。 

ポスターに智子さんの入浴の写真は使いませんでしたが、「水俣フォーラム」が提供する写真・展示物に「入浴する智子と母」の写真も含まれておりました。写真は、水俣フォーラムのとりまとめを経て、アイリーン・アーカイブから提供されることになっておりました。しかし、上村さんのお気持ちを推し量り、アイリーン・アーカイブから貸し出しはできないというお断りがありました。市民によって構成された豊橋展実行委員会のみなさんは、もちろん智子さんの写真に深く心を動かされており、(そのような市民団体にとっては大変に)高額な写真・展示物提供の契約違反ではないかと水俣フォーラムへの不信と抗議をあらわにされました。智子さんの写真を展示できるか、できないか、展示すべきか、展示すべきでないか、真剣な議論が豊橋でなされました。結果、水俣にある相思社にユージン&アイリーンさんが寄贈された一連の写真作品群について別途拝借金を支払って直にお借りし、展示を実現するに至りました。水俣・豊橋展は、開催5日間で3786人の有料来場者を得て成功裡に終わりました。 

智子さんのご両親のお気持ちを知りながら、智子さんの入浴の写真を展示したことについて、豊橋のみなさんはそのままでおしまいにはされませんでした。どのように写真を迎え、どのように展示し、来場された方はどのように見たか、感じたかを、「水俣・豊橋展」終了後、感謝とお詫びの気持ちを込めて上村さんに実行委員会として手紙を書かれたのです。その手紙のなかの1通は、わたしも書かせていただきました。それが、初めての上村さんと直の連絡でした。お怒りになられても仕方がない、との気持ちで手紙を書きましたが、上村さんは快く許してくださり、期待以上の事業収益を得て、豊橋展実行委員会のメンバーが水俣現地に報告にお伺いした折には、智子さんをまつる仏壇にお線香もあげさせてくださったのです。そして、豊橋から縁をもって「水俣・浜松展」が開催されて、ふたつの水俣展の開催体験から〈「水俣」を子どもたちに伝えるネットワーク〉を発足させた折には、最初に賛同のカンパをくださったこともお伝えさせていただきます。 (「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークの会報を同封させていただきます。そこに、豊橋、浜松の連絡先をみつけることができると存じます。) 

「入浴する智子と母」の写真の価値は、到底、わたしが口にできるものではありません。 

熊本水俣病の公式確認は1956年。未だこの国は解決できていません。 

〈伝えるネット〉では、出前活動の際に資料として、ガイドというA3二つ折りのパンフを渡しております。そこには、智子さんの成人式のときの集合写真を使わせていただいております。(同封します。) 

増し刷りするたびにお許しをお願いすると、上村さんは、「そろそろ智子を休ませてくださいよ」と言われます。それは、入浴の写真に「智子が寒そうだ」と言われるお気持ちと同じものを感じます。ときに、子どもたちにガイドを渡すとき、親というものは、写真であってもそう思うものということを話して、わたしたちは、だから、この写真をコピーしないし、faxを通すこともしない、と伝えます。そんなことを話したあと、少女が折ろうとした隣の子に「そんなことしちゃダメ」と止めているのを目撃したことがあります。お嬢さんの宝箱にしている箱のなかから折り目なくしまわれたガイドをみつけた、とお母さまから報告を受けたこともあります。 

 このような写真への思いを育んでくれたのは、豊橋のみなさん、愛知県に住まうみなさん、です。 

どうぞ、豊橋、愛知県のみなさんへの名誉を回復してください。 

 戦争被害、原爆、さらに福島についても、同様に考えますが、水俣病の被害について、どうして被害者が語らなくてはならないのでしょうか? 苦しみを知ってほしいと語る被害者の方に、何故、涙ながらに語らせなくてはならないのでしょう。 知るべきは、わたしの方であり、わたしが知る努力を払うべきではないかと考えます。「智子さんにいつまで語らせる」「智子が寒そう」という気持ちのままにさせているのは、他ならないわたしたち知らない者の方ではないでしょうか?  「お風呂の写真を撮らせてほしい」と言い出されたとき、上村さんご夫妻は簡単に「いいよ」と言われたとアイリーンさんが言っておいでだった記憶があります。そこに関係性があったからでしょう。 そのことを含めて、多分、写真表現というものがある気がします。 

本来でしたら、お目にかかってお話、お伝えさせていただきたく存じました。著作を出される社会的責任と波及をご考慮いただき、善処いただけるようお願いを申し上げて、書簡とさせていただきます。 

    

2020年8月2日       署名・田嶋いづみ

この返信にいただいた山口由美さんからの手紙はこれです。

 
わたしたちは、この文章に納得できず、再度、以下の葉書を郵送しました。
 
 
やり取りの結果、筆者・山口由美さんと小学館の担当編集者・澤田さんは9月22日、新幹線で豊橋にお見えになり、
いまも繋がる水俣・豊橋展実行委員会のメンバーに対し「憶測で書いたことをお詫びする」と謝罪されました。
市民の手によって水俣・豊橋展が開催されたことを初めて知ったといいます。
「憶測で書いた」ことを認めながらも、山口さん最後まで「ジャーナリスト」と名乗り続けられました。
 
そして、2020年11月13日付にて「NEWSポストセブン」のwebページにて
山口由美氏による謝罪文が公開されました。
 
 豊橋の仲間が受けたことと みっつの大切なこと
「憶測で書かれた」書籍を絶賛し「小学館ノンフィクション大賞」が授与されたことについて、
ふつうの市民たるわたしたちは、このクニのメディアの質に暗澹たる思いでいます。
 
しかし、何故このようなことが起きたのでしょうか?
わたしは、3点を挙げたいと考えます。
 
ひとつ。
ふつうの市民を軽んじ、市民の感受性や行動をないがしろにする書き手の傲慢です。
 
書き手やメディアのみなさんは、社会をけん引していく自負をお持ちでしょう。
知らない者への知った者の務めとして、「啓蒙」を果たされているのかもしれません。
わたしたちは、水俣病事件を知り、患者さんとその周りの方々に激しく心揺さぶられました。
知れば、生き方は変わり、心揺さぶられれば、他者や社会との関りが変わります。
ふつうの市民ですから、優れて解決に向かう道はわかりません。
事実と向き合うのすら手探りでしかありません。
それでも、わたしたち自身の生き方を問うなかで行動を発意してきました。
 
山口さんには、ふつうの市民への想像力が感じられません。
「憶測」できると思われたのであれば、
ひとりひとりの生き方をないがしろにしていると感じないではいられません。
 
ふたつ。
水俣病事件を解決しない社会は、劣化を免れない。
 
今回の事件に出会うまで、わたしは、「水俣病が終わっていない」ことは患者さんを苦しめる、とだけ考えてきました。
そして、患者さんという当事者性は、くるっと巡って、明日はわたしを当事者にし得ると考えてきました。
だから、明日のわが身を守るためにも、「解決する社会」であるべきだと考えてきました。
 
それが、あたかも「事件」を抱えた、あるいは「イジメ」を抱えた教室で、
子どもたちが学ぶ力を無くしていくように、
水俣病事件を解決しない社会は、社会を劣化させるのだと、ようやく気づきました。
社会の理性や、いのちへの想像力を奪い、ひととひとの関係性を奪うのです。
水俣病事件を解決しなければ、この世の中で健全な判断力や人への思いやりなど持てないのです。
 
そして、ひとは、何よりも自分の属している社会から自由ではあり得ません。
わたしがわたしであるためには、水俣病事件を解決しなくてはならないのです。
このようなルポが書かれ、それに「ノンフィクション大賞」を与えられるのは、
その劣化の証しと考えるべきではないでしょうか?
 
そして、みっつ。。。。
 
 
「わたしたちへの謝罪ではなく、水俣への謝罪を!」
水俣・豊橋展実行委員会のメンバーたちは、山口由美さんと対面するために集まりました。
市民によって組まれた実行委員会は、20年を経ても、つながりを保ち、豊橋のまちで活動を重ねています。
「水俣」に学んだことが、地域のつながりを支え、ささやかだけれど本当の発意を促しつづけているからです。
 
その彼らが、切に願った言葉がこれです。
―― 安易な想像力で水俣病事件を語ったことについて、水俣の人々に謝ってほしい。
 
モノ書くひとであるなら、メディアとして発信するならなおさらに、
事実に丹念に迫る使命があると考えるのは厳しいでしょうか?
 
わたしたちは、わたしたちに降りかかった体験を経て、
水俣のみなさんが、これまで、どんなに安易な想像力や理解で嫌な思いをしてきたか、
ようやく思いを馳せることができるようになりました。
事実を知り、そこに想像力を働かせることは、とても厳しい作業だとわかったからです。
 
伝えるネットが伝える活動を始めてころ、よく
「水俣の何をしっているのか」「水俣のことを知りもしないくせに」と言われました。
それは「水俣」に近づこうとする気持ちを萎えさせ、知らないわたしたちを排除するように感じられました。
今なら、それは半分当たっていて、半分間違っていることがわかります。
 
事実と向き合う作業の厳しさを共有し、想像力をともに鍛えるべきなのです。
 
そんなことを考えているとき、とても気持ちを同じくする動画を見つけました。
こちら、「一月万冊」という動画サイトでアップされたものです。
 
この動画で、「女性作家を福島に連れて行って、文章を書かせる」というくだりがあります。
それは、『ユージン・スミス 水俣に捧げた写真家の1100日』の締めくくりの文章群を連想させました。
試しにご視聴をおすすめします。ちなみに以下は視聴のヒント。
14:14 事実は辛すぎて見たくない
16:25 歴史を見ることができない 事実を見ることができない
18:05 歴史を記録する意味は、そこに苦しんでいるひとがいることを刻むため
30:55 某人気女性作家に感想を書かせる
34:07 それでは抒情的なものしか書けない
    とても悲しい話があるよ、という書き方は解決を見出さない
35:15 意外な作家を連れてきて、売れると思う下種な編集根性が見え隠れする
 
唐突に、動画を引用させていただきましたが、
ここで語られる福島のことは、「水俣病事件を解決しない」社会の必然の行方にも思います。
 
 コロナ禍にあって事実を見る目、思いを馳せる想像力を鍛えよ 
大晦日に、長文のブログにお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
 
しかしながら、「第19回小学館ノンフィクション大賞」受賞の書籍にウソを書かれたと
豊橋市民の名誉回復を、わたしたちが訴えても、しばしば
周りの人々は「受賞作」ゆえに真に受けてくれません。
すでに世に出てしまった書籍の訂正がどのくらい効力があるのかも定かではありません。
それも、既定の価値や権威を疑うことない、わたしたちの安易が為せる業でもあります。
 
自分の芽を鍛え、自分の想像力を鍛えよ。
 
コロナ禍已まぬなか、新年を迎えるこころざし、であります。
 
どうか、みなさま、健康でよいお年越を!
 
 
 
 
 


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