いのちが生みだす波紋を見つめて
~ このまちの惨劇をどう引き受けるか ~
前記事「その3」でご紹介した『アゴラ』の原稿を書いたとき、
わたしの、このまちで、このような事件が起きることを、もちろん予想していませんでした。
「相模原障害者殺傷事件」が起きたのは、このまちで、です。
わたしたちが、伝えるネットが、活動の拠点としている、このまちで、なのです。
津久井やまゆり園は、わたしたちにとって、とても身近なところだったのです。
茫然となりました。
そして、考えました。
わたしは、このまちで「水俣」の何を伝えてきたのだろう。
これからも、「水俣」のことを子どもたちに伝えることができるのだろうか、と。
ちょうど、3.11が起きたときと同じように、です。
このまちで起きたことを知って、水俣の友人から気遣いの電話をもらいました。
直接の被害者でもないのに、心配だと。
学生時代にわが家にホームステイしていたシルビアは、
遠くカリフォルニアから「大丈夫か?」と訊いてきました。
「相模原」というこのまちの地名のついているニュースに気づいて。
わたしは、いま、この事件とどう向き合うかという問いなしに
子どもたちに「水俣」を伝えることはできないと考えています。
わたしの、このまちで、このような事件が起きることを、もちろん予想していませんでした。
「相模原障害者殺傷事件」が起きたのは、このまちで、です。
わたしたちが、伝えるネットが、活動の拠点としている、このまちで、なのです。
津久井やまゆり園は、わたしたちにとって、とても身近なところだったのです。
茫然となりました。
そして、考えました。
わたしは、このまちで「水俣」の何を伝えてきたのだろう。
これからも、「水俣」のことを子どもたちに伝えることができるのだろうか、と。
ちょうど、3.11が起きたときと同じように、です。
このまちで起きたことを知って、水俣の友人から気遣いの電話をもらいました。
直接の被害者でもないのに、心配だと。
学生時代にわが家にホームステイしていたシルビアは、
遠くカリフォルニアから「大丈夫か?」と訊いてきました。
「相模原」というこのまちの地名のついているニュースに気づいて。
わたしは、いま、この事件とどう向き合うかという問いなしに
子どもたちに「水俣」を伝えることはできないと考えています。
無駄ないのちはひとつもない
「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークを立ち上げた翌年、
熊本日日新聞がわたしたちの活動を紹介する記事を書いてくださいました。
真っ先に浮かんだのは、その記事です。
インタービューに応えた記事の見出しが「無駄な命は一つもない」だったと、思い出したからです。
以下が、その2001年3月11日付けの熊本日日新聞です。
写真に写る自分は15年前の姿で、言葉もゴツゴツしているようです。
「生まれてきて無駄な生命はひとつもない」という普遍的なこと――。
ちゃんと、わたしたちは、伝えてきたでしょうか?
胎児性水俣病患者さんたちに導かれて、いのちの不思議、感動に胸揺すぶられての言葉でした。
いのちって、スゴイ。
いのちって、わたしたちが量ろうとするのを凌駕して素晴らしい、と。
その眼差しで、このまちを、ちゃんと見つめてきたでしょうか?
働かざるもの食うべからずと思ってきた自分
生まれてきて無駄な生命はひとつもない――
それは、具体的にはどのようなくらしのことでしょうか。
それは、だれとどのように生きていくことなのでしょう。
ひとは、必ず社会的存在です。
ひとがくらしていくとは、他者とどのような関係性を築いていくかということと同義です。
その問いの前で、ひとが社会に対して何ができるか、どう貢献できるかという問いかけは逆転しているのではないでしょうか。
そして、気づいたのです。
「働かざるもの食うべからず、よ」と、子育てのときに言っていた、と。
つい、休日にグデグデしていて、どこかしら罪悪感を感じてしまう自分だったこと、を。
もともと、「働かざるもの食うべからず」というのは、新約聖書の中でパウロが言った言葉だそうです。
その意味は、できる者の怠惰を戒めたものであって、商品交換のように「働く」ことをいうものではないそうです。
でも、どこかで、「できること」だけに価値を置き、賞品価値的なものだけでひとの優劣を量り、等価交換の術を持たない者は、そのままいのちの価値がない、とそういう価値観にくみしてきたのではないか。
くらしのいちばん真ん中、日常のなかで、刷り込みをしてきたのではないか。
くらしの真ん中から、わたしたちは気づかねばならないのではないか。
現在の社会にあるいのちの価値観の誤りに。
できることは、便利に過ぎない、と。
便利は、ひとのいのちの前に何ほどのことがあろうか、と。
ひとはひとの存在の生みだす波紋によって、揺れ漂い、いのちを生きるのだ、と。
もう一度、いのちに向き合うために
10月5日まで相模原市立環境情報センターで行っていた「伝えるネット活動20周年展」が終わりました。
上の写真はその展示を見てくれた子どもたちの感想です。
素直な気持ちにあふれる子どもたちの言葉は、どうしてこんなに温かく響くのでしょう。
わたしは、いつも考えてきました。
水俣病の患者さんたちの写真をみるときに、こみ上げるこの思いはなんだろうか、と。
同情、とは思えませんでした。
もっと強く感動するものがあるのを否定できなかったからです。
いのちの、いのちの生きる波紋が押し寄せてくるからではなかったろうか、と思います。
いのちの波紋を受けることが、わたしにとっても「生きている実感」です。
なにひとつ自分でできることがなく、あらゆることにひとの手を借りて生きても、いのちの重さは波紋を起こし、ささやかな波はわたしに影響を与えていくはずです。
互いに波紋を寄せ合うことが社会であり、人間的関係性である、と思わないではいられません。
胎児性水俣病は、お母さんのおなかのなかで水俣病になります。
どんなに多くのいのちがお母さんのなかで失われていったでしょう。
だから、生まれた胎児性水俣病の赤ちゃんは、ひときわ強い生命力を持っていた、と言われます。
芽生えたいのちは、生まれ出づることができなくとも、生まれたならさらに、波紋をえがくはずです。
その波紋を感じ取ることこそが、ひとである、ということではないでしょうか。
案山子が、一本足で動けなくて、障がい者をなぞらえているものと、聞いたことがあります。
案山子は、語らず動かず、そこにいることによって、それゆえに、世界の真理をいちばんに知るものなのだ、とも聞きました、
「ひとは最重度障がい者として生まれ、最重度障がい者となって死んでいく」
そう語ったのは、ご自身が障がいをもっている安積遊歩さんです。
いのちと向き合う生き方を、わたしたちは取り戻さねばなりません。
「水俣」を伝えるということはそういうことなのだと思います。
水俣病にいのちを傷つけられた無名の方々と
匿名のまま、いのちを奪われ傷ついたやまゆり園の方々に思いを馳せつつ、書きました。
今年度の「水俣」を子どもたちに伝える活動が10月下旬から始まります。
伝えるネットが発足してから足掛け17年目となります。
活動を始めたころから思うと、「水俣」の意味はさらに深く、もっと深く誘うようです。
3.11がそうであったように、
やまゆり園のことを、考えつづけていこうと決意しています。
匿名のまま、いのちを奪われ傷ついたやまゆり園の方々に思いを馳せつつ、書きました。
今年度の「水俣」を子どもたちに伝える活動が10月下旬から始まります。
伝えるネットが発足してから足掛け17年目となります。
活動を始めたころから思うと、「水俣」の意味はさらに深く、もっと深く誘うようです。
3.11がそうであったように、
やまゆり園のことを、考えつづけていこうと決意しています。
(田嶋 いづみ)