伝えるネットねこレポート

「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークのブログ。
首都圏窓口の田嶋いづみ(相模原市在住)が担当してます。

子どもたちに伝えられる判決 ~ それは、かすかな、かすかな希望

2013-04-20 23:09:10 | 水俣レポート

溝口チエさんとFさんの水俣病認定を求める行政訴訟
2013年4月16日の最高裁判決




勝訴判決に沸く報告集会での記念写真。
中央で手を上げているのが溝口さん。その前に坊主頭の山口弁護団長。




生まれて初めて最高裁判所のなかに入りました。
クジ運の悪い私が、溝口さんの判決もFさんの判決も傍聴券をあてました。
溝口さんの傍聴券は、もっとふさわしい方にと、お譲りしました。
が、本心は怖かったからです。判決に悲観的でした。
もっと早く、もっと心をこめて、水俣病患者を救う機会はいくらでもあったはずです。
それを打ち捨ててきたこの国の判決に期待が持てなかったからです。
良い判決を導き出せるほど、社会は変わっていない、そう思ったからです。
溝口さんの勝訴を聞いて、Fさんの傍聴をする勇気が出ました。
それでも不安でした。だって、私が応援すると選挙でも落選したり、とかするんだもん・・・
ようやく。溝口さんは死後36年後、Fさんは待ちきれず今年3月3日に死亡
・・・・そのあとの水俣病認定となります(Fさんは、これから高裁で裁判やり直しだけど)
最高裁判決の日に聞いたこと見たことをつらつらご報告。
記憶力弱ってますから、発言はそのままじゃなくてだいたいね・・・。



  子どもたちに伝えられるか どうか

伝えるネットの活動を始めて、私たちは、子どもたちにどう伝えられるか、という視点で物事を考えるようになりました。
そして、子どもたちに伝えられるだけの内実を持てない事柄が、社会にあふれていることに気づきました。

この日、最高裁に向かいながら、いささか悲壮ですらありました。
もし、子どもたちに到底伝えられない内容であるなら、「水俣」の出前活動をつづけていけるのか、と、問いかけつづけていたからです。

結果は、溝口さん訴訟については最高裁では初めての水俣病認定判決。
Fさん訴訟については、大阪高裁差し戻しとなって、水俣病認定への扉が開かれるものでした。
明確な文言はないものの、昭和52年の水俣病認定の判断条件を実質的に見直させるものとなりました。
溝口さんが認定されずに亡くなった400人の人びとに報いることのできる判決でなければ勝訴とは言えない、と山口弁護士とともに毅然と言われていた、そのことに近づく判決となりました。
熊本学園大の花田先生がFさんの判決言い渡しの小法廷に入る前に、こう言われました。
「今まで、最高裁まで争って、水俣病患者が負けたことはないんだ。最終的には、勝つんだ」と。

笑顔の溝口さんと、その溝口さんに嬉しそうに寄り添う永野さんを眺めて、本当にうれしかったです。
これで、子どもたちに伝えつづけていける、と思いました。



耳の遠い溝口さんにぴったり寄り添っている永野さん。
永野さんが抱えているのが溝口チエさんの遺影。


永野さんは勝訴判決に法廷で溝口さんより泣き出していたそうです。
小学校4年で不登校になった永野さんにとって、溝口さんは書道だけでない、学校では教えてもらえないいろいろなことを教えてくれる先生だったといいます。
永野さんが溝口さんを「先生」と呼ぶそれがうつって、この日、私も「溝口先生」と声を掛けさせていただきました。




裁判所前で胎児性水俣病の坂本しのぶさんと介助する谷さん。
この日、環境省での谷さんの発言も忘れられないものとなりました。




   判決じゃない うまいものをうまいってわからないんだぞ、って

午後3時から溝口さん訴訟の判決が出て、午後4時にFさん訴訟の判決が出たあと、環境省から1区画先の弁護士会館で報告集会がありました。
支度する顔も、集まってくる顔も笑っていました。

第二世代の水俣病裁判の原告のひとりである千葉に住む女性がこう教えてくれました。
「わたしは、今日は、絶対勝つと思っていたのよ。
今朝、甘粥をたべたのだけれど、水俣の緒方麹店の麹でつくったお粥。
甘酒ってあるでしょ。お酒じゃなくて、お粥。縁起付けに。
それでマグカップを取ろうとして、夫の実家からもらった100年前だか200年前だかのふる~いお皿を落としちゃったの。
それが見事に真っ二つに割れたのよ。
あ、縁起がいいって、思ったの」って。
私が「それは、普通、縁起が悪いって思うんじゃないの?」と怪訝な顔をしたら、彼女、つづけてこう言うのです。
「水俣ではね、割れたり、欠けたりすることは、縁起のいいことなの。
お客さんにお茶を出すでしょ。
その湯飲みが欠けていると、おかげさんで、って喜ぶのよ」って。
「欠け」を「おかげ」と言いなおすんだと。
ああ、いい話が聞けた、と思いました。

実は、お酒を嗜まない私は、早速祝杯をあげているのを見て、内心大丈夫かなと思っていたのです。
何せ、午後9時(午後9時っ! 81歳の溝口さんに、水俣病の患者さんに対して、午後9時!)から、環境省交渉があると聞いていたからです。
でも、それだって、勝訴ですもの、そうだよねって、浮かれていました。

記者会見に追われて、夕ご飯もろくに食べることもできなかったではないでしょうか。
溝口さんも、弁護士のみなさんも。

そのなかで、ひときわ祝杯に酔っているように見えた二宮医師が発言をされました。
二宮先生は感覚障害だけの水俣病もある、という医学的論証に力を尽くされたおひとりです。
二宮先生は、酔いのまわった声で、しかし、心のこもった声で語りだしました。
ときに詰まり、ときに、メガネをはずして涙を拭きながら。

「判決なんかどうだっていいんだ。
感覚障害ってのは、な、うまいものをつくったって、うまいかどうかわからないんだ。
お○○こしたって、気持ちがいいかどうかわかんないんだぞ」って。

報告集会の会場がシーンとなって、気がついたら、私ももらい泣きしていました。
私は、この報告集会の会場にいた人たちすべてを素晴らしい方たちだと思います。
ひとの痛みを知り、想像し、寄り添うひとたちだと思います。





おしどりのケンさんもマコさんも会場のおひとりでした。



  かすかな かすかな 希望として

溝口さんに寄り添っていたみなさんは、はるばる水俣から駆けつけたみなさんはもちろん、21年間の裁判を闘い抜かれた81歳になる溝口さんをねぎらいたいと願っていました。
午後9時から始まった環境省の特殊疾病対策室の4名の官僚のお役人は、なんと対策室長は4月1日に異動してきた着任16日目の方、他のひとたちでも、いちばん長い方で10ヶ月という方たちでした。
永野さんが「溝口先生に謝ってください!」と叫びました。
着任16日目の室長は、終始「お察しします」と繰り返すのみで、最後まで謝罪の言葉が出ることはありませんでした。

「お察し、とは、何事か」と怒号があがりました。
「あなたたちには異動があるかもしれないが、患者は57年間、患者をやめられないんだぞ」
「被害者が、謝ってくれ、とお願いする、ということがあるか」
しまいには、官僚のひとりが「上告したことを謝らない」というメモを、この交渉の最中に書いて、その手元を見たのでしょうか、永野さんが「何を書いたか見せて!」と、メモをめぐって騒然とする瞬間もありました。

この日一日、溝口先生の娘と見間違うほどに寄り添っていた永野さんが怒りに震えていました。
判決が出てから、午後9時までのあいだに、環境省のなかで何がどう話し合われたかはわかりません。
窺うことはとてもできません。しかし、「謝らない」と打ち合わせされたことは確かなようでした。

「何故謝れないのか、教えてくれ」
「謝るな、と言われたのか」とみんなが畳み込みます。
緒方正実さんが立ち上がりました。
緒方さんは、村山政権の和解のとき保健手帳ももらえませんでした。
そのことで存在そのものを否定された気持ちになり、水俣病認定を求めて訴訟を起こしました。
緒方さんは、やはり裁判を経て、水俣病患者と認定されました。
その緒方さんが、静かな口調で語り始めました。
「私は、認定患者の緒方です。
謝ったからといって、どうこうするということはありません。
付け入るというようなこともしません。
だから、どうぞ、お願いですから、溝口さんに謝ってください」と。

しのぶさんに付き添っていた谷さんが叫びました。
むかっていちばん左側にいらした官僚の方に向かって、です。
「このあいだ水俣に来ましたよね。
<ほたるの家>に来て、しのぶさんに会って言われたじゃないですか。
自分にできる限りのことはする、って。そう言ったじゃないですか」
最後は涙声でした。

山口弁護士が厳しい声で問いかけました。
「何故、57年もたって解決してないと思うんだ。
言ってみろ。
原因がわからなきゃ、解決しようがないだろうがっ」
いちばん在任が長い彼が問われて、
「室長を差し置いて答えられません」と言いました。
つづけて室長が答えかけて
「患者さんが満足されなくて・・・」と言いかけて再び怒号となりました。
「満足は、言い間違いです。申し訳ありません」と、謝ったのは、このときだけ。
とても言い間違いと思えるはずがありません。

溝口先生は終始、静かでした。
先生らしく、諭すような語りかけ方をします。
「わたしには、あんたたちがかわいそうに思える」と言いました。
第二世代裁判の原告代表佐藤さんの奥様が叫びました。
「あんたたちは、人間ですか?!」

「あんたたちは、人間ですか?!
人間だったら、人間の心があるなら、答えなさいっ!」
土本典昭監督のドキュメンタリー映画『水俣病 その20年』のなかに出てくる患者さんの叫びと それは全く同じセリフでした。

『苦海浄土』を書かれた石牟礼道子さんの感想を翌日の新聞記事で知りました。
「かすかな、かすかな希望」だと、言われたそうです。
「かすかな、かすかな」と。

私は、この判決は、これからのフクシマを占うものだとも思います。
しかし、環境省は最高裁判所の権威も判断も軽んじているように思えてなりません。
最後に、特殊疾病対策室の官僚に向かって、水俣の方が口々に叫んでおられました。
「5月1日には大臣が溝口さんのうちを訪ねて、謝りに来い」と。
5月1日は、水俣病公式確認の日。
いのちの埋まる水俣湾の埋立地で水俣病被害者の慰霊祭が行なわれるのです。


たとえ、「かすかな、かすかな」ものであっても、「希望」を捨てることはできません。
ひとが生きていく証しが「希望」だと思うからです。
「希望」のために生きる、とは言いません。
生きているそのことの証しが、「希望」だと、私は考えるのです。

判決の日の朝、溝口秋生さんは、「波」と書をしたためられたそうです。




左から永野三智さん、溝口秋生さん、そして第二世代の水俣病裁判原告の佐藤英樹さん

今シーズンのしめくくりとなる出前活動

2013-04-13 22:59:22 | 出前レポート
相模原市立横山小学校5年生3クラス99名
2013年3月21日 8:55~10:25


 



出前活動にシーズンなんてない、と思うのです。
それに、伝えることを1回、2回と数えることもそぐわない、と思っています。
でも、全国的に小学校5年生の3学期に水俣病について学習することになっているので、
3学期に出前に行くことが多くなります。
多くなると、つい回数を数えてしまって・・・・
今シーズン、谷口小からはじまって横山小がしんがり、
全部で16箇所(小学校14校、高校1校、成人1回)、のべ20回の出前活動をしました。
ま、数えることは、意味ないんだけどね、実際。
じゃ、なぜ数えちゃうのか・・・?
ま、市民ってのは、自分で自分を励まさないとやっていけないって、いうか、なんですよ・・・。




6年生が卒業したあとの出前

横山小の井上先生はこう、依頼をされてこられました。
6年生が卒業したあと、5年生の学習の総まとめとして話して欲しい、と。

6年生が卒業したあとの学校って、不思議な感じです。
この日、1,2時限の時間をいただいて「水俣」を伝えることになりました。
いつでも、お時間をいただけるだけで、子どもたちと出会うチャンスをいただけるだけで、とっても嬉しいです。
でも、さすがにシーズンの締めくくりで、1時限目のサポート者を探すのは難しかったんですね。
会場となる視聴覚室は3階のいちばん端だったし、視聴覚室をミニ写真展会場にするのですから、人手が必要となるのです。サポートしてくれるメンバーをみつけられるようにしなきゃ、です。

その不足を補ってくれたのは、もちろん子どもたちです。
つきっきりで手伝ってくれた少女たちはとても気持ちのいい子たちでした。

そして、朝いちばんの話しかけにもかかわらず、子どもたちは、とても集中して同じ時間を過ごしてくれたのでした。





朝の光のさす中での出前となりました。
しめくくりなので、もっとわかりやすくとスライドを再編成してのぞみました。




先生たちに聞いてもらえたら、ステキっ!


出前のあと、校長室で、校長先生と教頭先生とも言葉を交わさせていただきました。
呼んでくださった井上先生から、「先生たちにも聞いてもらいたいですね」と言っていただきました。

伝えるネットのなかでも、実は、そういう話はしています。
私たちが、私たちだけで、伝えるということでなく、いろいろなかたちで、また、子どもたちの身近にある先生方と共有できる伝え方を模索していくべきではないか、と。
伝えていくのに、シーズンも、1回、2回もないのですから。

出前のたびに子どもたちに渡しているガイドとリーフ、今年は、ぎりぎりで間に合わせることができました。
ひと区切りを終えて、再び、「水俣」との出会いが始まります。

81歳の溝口さんが見つめているこの国のかたち

2013-04-12 20:13:59 | 水俣レポート
水俣病Fさん訴訟、溝口訴訟 最高裁弁論報告集会
2013年3月15日 永田町・砂防会館にて 




神奈川総合高校のみなさんに「水俣」を伝えに行った出前報告をしながら、
やっぱり、15日のことをお伝えしたくなりました。
私的に印象に残ったことばかりですが、まぁ、生活者感覚の報告ってこんなものかな
(って、また居直っちゃった。・・・?)



溝口さんは、最高裁に何を求めるか

報告集会は、Fさんへの黙祷から始まりました。
2004年のチッソ水俣病関西訴訟の最高裁判決で水俣病とされながら、認定されないで再び最高裁まで水俣病認定を求めているFさんは、判決を待たずに3月3日に亡くなったからです。
裁判は娘さんによって引きつがれることになりました。

私は、子どもたちにこう伝えたことがあります。
いのちある者は、死んでいく定めです。
だからこそ、愛する母親が何によって死ぬことになったか、子どもは知りたい。
溝口秋生さんは、だから、お母さんの命日には「水俣病の認定申請はどうなったか」と、電話で問合せつづけたの、と。

しかし、熊本県は、認定申請書類を17年間放置したまま、息子の思いに応えようとはしませんでした。
溝口さんが環境省の役人にこう語りかけていたのを見たことがあります。
「水俣病じゃなくたっていい。ただ、どうしてこうなったか知りたいだけなんだ」と。

最高裁で弁論をした溝口さんのことを、弁護士さんがこう報告されていたことが、ひときわ印象深かったです。
最高裁の法廷といえば、それなりの権威にまとわれた場所です。
最高裁で語りかけた溝口さんは、権威に臆することなく、弁論書面をはみでるかたちで、平常心で誰にでも語り掛けるように言われたそうです。
もう自分は80歳を過ぎた。いつまで裁判をやらせるつもりなのか、と。
弁護士さんは、その姿を見て、すでに、溝口さんは司法を越えているのではないか、と思われたそうなのです。
(弁護士さんの発言通りではありませんよ。記憶力よくないですから)

だから、判決は、ただ溝口チエさんだけを、Fさんだけの認定を求めるのではなく、水俣病認定の足きりとして機能している判断基準を見直す内容でなければ、勝ったとはいえない、と裁判の意味を振り返る機会となりました。



かせしてもだえる永野さんが寄り添って

耳の遠い溝口さんの傍らには、パソコンで要約筆記をされる水俣・相思社の永野三智さんが付き添っておられます。





永野さんにとって、溝口さんは恩師にあたります。溝口先生に書道を教えてもらったそうです。
その永野さんが、最後にマイクをとって発言されました。

自分は水俣が嫌いだった。
水俣を出て18歳で子どもを産んだ。
ぼろぼろになって水俣に戻ることになったが、子どもを連れて戻ることがためらわれた。
子どものふるさとを水俣にすることになると思ったからだ。
そしたら、溝口先生が闘っていた。
水俣のなかで裁判をしていることは、とても大変なことなんだ。それなのに。
自分は、水俣病と向き合うことにした。
水俣病患者さんのために働きたいと思って、相思社で働くようになった。
溝口先生が、水俣で少しでもくらしやすくできるように、私はしたい。

率直で衒いも何もなく、ご自分の言葉で語られた永野さんを立派に思います。
私は、今年1月、水俣で、彼女から「かせして、もだゆる」という言葉を教えてもらいました。



4月16日、最高裁はどう裁いてみせるのか

弁論が行なわれたのが3月15日。
そして、4月16日に最高裁の判決が出されることになりました。



チエさんの遺影を持つ溝口さんと、永野さん



長引く裁判ばかりのなかで、これは、異例の速さだそうです。
なんだか、いい予感がしません。
基本的人権に関心があるとは思われぬ政権と、人間的想像力をなくしたまま拙速に処理をはかるお役所の気配が濃厚だからです。

判決は4月16日午後3時から溝口訴訟について、同日午後4時からFさん訴訟について申し渡されるそうです。
判決後に予定されている環境省交渉は、したがって午後9時から。
81歳の溝口さんを午後9時からというのは、どういう按配なのでしょうか。
連絡によれば、翌17日には熊本県庁で午後3時から交渉が予定されているそうです。
権力や権威を取り払ってしまえば、市民としての付き合い方というのが見えてくると思うのですが、疑問です。


2004年、チッソ水俣病関西訴訟の最高裁判決が出た日、判決が出た足で、環境省の交渉が始まりました。
私は、報告集会の予定されている会場で、ねぎらうために用意した手づくりのりんごケーキを持って、環境省から患者さんたちが戻ってくるのを待っていました。
隣に、原田正純先生、向かいに、宇井純先生がいらして、3人で待っていたのですが、待てど暮らせど、環境省から戻ってみえません。
しびれを切らして、環境省に行って、環境省役人がこう言われるのを聞きました。
「裁判所は裁判所の判断で、私どもには私どもの判断がある」と。

もし、この耳でその言葉を聞いていなければ、誰かに「そう言ってたよ」と教えられたなら、私は信じなかったと思います。
小学校6年生の社会科の授業で、三権分立を教えられました。
大人たちは、国は、なんて素晴らしい仕組みを持っているのだろう、と、そう思った新鮮な感動は、私のなかにしっかりと刻まれているからです。

目撃すること、その場に居合わせることは、とても大切なことです。
私は、目撃しに行こうと考えています。ひとりの市民として。



改めて、4月16日のご案内をさせていただきます。


■溝口訴訟・Fさん訴訟 最高裁判決 (第三小法廷)
 
15:00― 溝口訴訟判決  *14:10に整理券交付が締切られ、抽選を経て傍聴券交付・入廷。

16:00― Fさん訴訟判決 *15:10に整理券交付が締切られ、抽選を経て傍聴券交付・入廷。

14:00までに最高裁南門にお集まり下さい。


■溝口訴訟・Fさん訴訟 最高裁判決報告集会

18:00開場 18:30-20:00 弁護士会館10階 1003号室(入場無料)
※霞ヶ関駅【地下鉄丸の内線】B1-b出口直通/最高裁から徒歩30分

 
水俣からは、一次訴訟原告の坂本しのぶ・渡辺栄一さん、同じく胎児性患者の長井勇さん、行政不服に勝利した緒方正実さん、佐藤英樹団長ほか互助会訴訟原告の皆さんも、判決と集会に上京されます。

  
■環境省交渉  

21:00― 霞ヶ関合同庁舎5号館 環境省 1階 第四・第五共用会議室  (20:30入場)

*遅い時間設定ですが、集会後に交渉に臨みます。 霞ヶ関駅【地下鉄丸の内線】B3出口徒歩1分
*庁舎内に入る際、身分証明書(運転免許証等)の提示が必要となる場合があります。
*翌17日は、熊本県庁で交渉を行います。(午後3時の予定)
                                                     

<呼びかけ>
溝口訴訟弁護団 溝口訴訟上告取下げ実行委員会 (代表 弁護士 山口紀洋)
〒103-0027 東京都中央区日本橋2-16-3-61 吉勝法律事務所  連絡先090-7816-4974(鈴村)

F氏認定義務付け訴訟弁護団 (代表 弁護士 田中泰雄)
〒530-0047 大阪市北区西天満1-2-5 大阪JAビル13F 大阪法律センター法律事務所

<協力>  
東京・水俣病を告発する会 チッソと国の水俣病責任を問うシンポジウム実行委員会
  〒101-0063 東京都千代田区神田淡路町1-21―7 静和ビル1A

高校生の実力に舌をまく環境シンポ

2013-04-11 20:42:48 | 出前レポート
県立神奈川総合高校の第11回環境シンポジウム
2013年3月18日
 






出前報告がすっかり遅れてしまいました。
ブログ運営は迅速な記事アップが肝心と知りつつ、時宜をはずれた報告でごめんなさい。
ま、ただの市民がしている活動です。こんなもんですよ。(って、居直ってる・・・?)




今年もええこたちが取り組む環境シンポジウム


去年にひきつづき、神奈川総合高校の環境シンポジウムの講師をつとめさせていただきました。

この環境シンポジウムは、生徒たちの自主参加で組織された「エコ局」が主催するものです。
「エコ局」は、いわゆる部活動のようなもので、校内でペットボトルを集めたり古紙回収などをしたり、お花の水遣りするというので、まぁ、美化委員会を想像すればいいのでしょうか。
面白いのは「カイダンズ」という取り組みで、この高校、10階建ての「おんさ」をイメージしたのっぽビルの校舎なのですが、エレベーターを使わず階段を使いましょうというものです。
神奈川県で最初の単位制総合高校ということで、ひとりひとり時間割が違い、教室移動がひんぱんな高校らしい取り組みです。

制服もなく、ひとりひとり時間割が違う自主性を重んじる校風のなか、高校生が環境シンポの計画から開催段取りまで担います。それも、3年生が卒業したこの時期に、1年生を中心としたエコ局員の手によって。
もちろん、講師依頼も「講師統括担当」の1年生からメールをもらうことで始まりました。
(この高校、1年生、2年生という言い方をしません。中途退学者や海外帰国生などを積極的に受け入れて入学年次で呼ぶのです。
だから、今年は18年次生を中心に担われておりました)


朝、講師のみなさんがあつまったところで、この日はサポーターとなる先生からの挨拶に「誇れる環境シンポジウム」という言葉がありましたが、全くその通りと思いました。

ちなみに当日の講師陣はこんなでした。
「エコ局」自身の講座を含めて、全17講座。それぞれ50分の講座を2回実施し、生徒は、事前の登録により、2回の講座を受講することになります。



去年もそう思いましたが、率直な好奇心と知識欲にあふれた、それ故にバランスの良い講座の設定に、本当に舌を巻く思いです。
講師探しから、依頼、事前打ち合わせ、当日の段取り・・・すごいです。

決して謝礼の多寡を云々する気持ちはありません。
でもこれだけの講師たちが、いろいろなところ、遠く新潟からも、一律5000円の謝礼ではせ参じさせるのには、高校生の真摯な姿勢、熱意がなければできることではない、と思います。

この熱意、真摯さこそ、私たちにとっての希望であり、そして、また、叱咤激励であるように思えてなりません。



ええこたちに「かせして、もだえる」ことを伝える

この高校生に向き合って、何をどう伝えるか――。
今回、私たちが講座概要として事前に提出した文章はこんなものです。

「かせしてもだゆる」とは、1956年の公式確認から半世紀を経てもなお水俣病の現実を生きる患者さんたちに日常的に接している水俣・相思社の永野三智さんから教えていただいた言葉です。永野さんはその言葉を石牟礼道子さんから教えられたといいます。本年は、患者さんの「現在」について語り、私たちの「かせして=加勢して=join us」「もだゆる=悶ゆる=do my best」ところから「じゃなかしゃば=そうではない娑婆=an alternative society」を考える時間をみなさんと共有したいと思います。(英語は、意訳として添えました)  終わらない水俣病を「水俣」に学びましょう。


この日のためにPPスライドを組みなおしました。



特に直前の3月15日に溝口さんの最高裁弁論があって、その報告会に参加したときに聞いたこと、知りなおしたこと、思ったことを、そのままに率直に伝えるようにしました。
今まさに、大人への入り口に立つ高校生のみなさんに、何かを偉そうに論じることなどできません。
同じ地平で、しかし、願いをもって生きたいと思っていることを伝えました。
じゃなかしゃば、へ。

「じゃなかしゃば」という言葉が、水俣であった国際会議で司会をした浜元二徳さんの口からこぼれたこと、私は、鶴見和子さんから聞きいたことを、久方ぶりに思い出す機会となりました。


ええこたち  自分の言葉をもってください

それでも、高校生のみなさんは、自分たちの熱意が大人社会のなかで跳ね返される体験をしたのではなかったかと、私は想像しています。
高校生のみなさんの発意がそのままに生かされることは、むずかしかったのではないか、と。

今回、講師依頼、事前講座確認、と、あわせてアンケートのようなものを受け取りました。
それは2問あって、そのことにどう考えるか事前に訊いて、その回答を元に全体会のまとめにしようというものでした。
とても面白いものだと思いました。
そのうちの1問を、私の回答とともに記してみます。

【設問】中国の大気汚染問題を最近よく見るが、メディアSNSでは「命に関わる」等少々大げさな気がします。
この情報を鵜呑みにしてもいいのですか。


【回答】水俣病が奇病とされていたとき、その原因はさまざまに取り沙汰されていました。
マンガンによるものとして「マンガン病」と呼ばれたこともありますし、漁の際に使われた爆薬のせいだという爆薬説を唱えた方もいます。いずれもれっきとした学者でしたし、大新聞がそう報道したこともあります。
実際には、1959年、チッソ付属病院院長の実験によってアセトアルデヒド工程の廃水がその原因だと、チッソ自身が承知していたのにも拘わらず、です。
事実と向き合うことが大切です。しかし、水俣病が起きた頃からくらべて情報の開示がなされるようになったかといえば、全くそんなことはないのです。
事実や情報は、待っているだけで、向こうからやってきてはくれないのです。
与えられるままに鵜呑みすることは、してはならないことです。
また、事実を1本のろうそくに見立ててみると、見る方向、角度によって、その姿を変えます。
事実に向き合うとき、私たちは、どこに足場を置くか、ということを同時に選び取る知性と哲学(あえて哲学と呼びます)が問われることも忘れてはなりません。
地球に海はひとつですし、大気もひとつです。
大気汚染は深刻な課題と言えます。
しかし、たとえばPM2.5は、そもそも日本の大気汚染にも存在していましたし、何が課題になっているかという視点もなく報道されています。
この報道では、放射能被害隠しのプロパガンダと言われても仕方ありません。
わたしは、事実を、弱者の視点から見ることを選びたいと思っています。



ね、興味深く面白い企画ですよね。私は、一応、2,3日考えて回答を記しました。
高校生のみなさんの顔を思い浮かべながら。

しかし、当日、このアンケート回答が生かされることはありませんでした。
朝いちばんに、企画が変更になったことを先生が説明されました。
確かに、当日の講師のみなさんのなかには企業の看板を抱えた方もいらして、発言できないということもあったろうと大人の分別で理解できます。

それこそ、水俣病患者を前にしたチッソがそうでした。
決して、ひとりの人間としての心を明かそうとしないチッソに、水俣病患者さんたちは、じれて、憤り、叫んだのでした。
「あなたは人間ですか? あなたに本当に人間の心があるなら、答えなさい」と。

私は、当日の講師のみなさんを責める気持ちは全くありません。
また、企画変更をされた先生の判断を責める気持ちもありません。
看板を背負って、ひとりの大人として高校生のみなさんの未来にかける気持ちは同じだからです。


でも、こう思います。
いま、できなくても、いま、そんな企業や社会であっても、いつか、私たちはひとりひとりが、自分の生き方をかけて発言できるような市民にならなければならない、と。
企業の看板の陰で、思考力を奪われる、もしくは心を隠して生きていく時代は変わらなければならない、と。
逆にひとりひとりが主体性と責任をもって調べ、感じ、考えることによって、社会や企業の底力を上げていく、そんな時代が必ず来る、とそう思います。

一朝一夕にできるわけではありません。しかし、萌しはある、とそう思っています。
そのための環境シンポジウムだったではありませんか。

「かなそうのええこたち」、自分の言葉で語れるひとになってください。期待します。

いっしょに行きましょう。
じゃなかしゃば、へ。