伝えるネットねこレポート

「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークのブログ。
首都圏窓口の田嶋いづみ(相模原市在住)が担当してます。

そして、加害者はいなくなった・・・

2015-05-06 11:49:24 | 水俣レポート


新潟水俣病50年 企画講演会
坂東弁護士の講演会に行ってきました


報告●田嶋 いづみ



 若葉燃えるこどもの日、坂東先生に会いに行く

新潟に坂東克彦弁護士の新潟水俣病50年企画講演会に行ってきました。
どこか頑固で厳しい印象のある坂東先生のまとまったお話を伺ったことがありませんでした。
御年82歳の坂東先生の時代の証言を、ぜひ、ナマでお聴きしたいと思いました。

むか~し、でも、日付ははっきりしています。
2004年10月15日、弁護士会館の一室で、忘れられない顔ぶれで歓談したことがあります。
宇井純先生、原田正純先生、坂東先生、そして、わたし。

最高裁の判決を手に環境省交渉に出向いたまま、一向に戻ってこないチッソ水俣病関西訴訟の原告である川上さんたち患者さんを待っているときです。
わたしを含め、みな所用のため、環境省交渉に同行できず、戻ってきて判決の報告集会の始まるのを待っていました。
勝訴判決を手に(それだって、完全勝訴判決とは言えませんでしたが。)乗り込んだ環境省の交渉は、こじれにこじれ、遂に、その日夜の時間切れになるまでつづき、報告集会を開くことはできなかったのですが。。。

あのときの歓談のことを思い出すと不思議な気持ちになります。
「いやぁ、この国はひどいねぇ」と淡々と交わされた会話の主のうちお二人はすでに鬼籍に入り、あのとき、いちばんに様子を見に出られた坂東先生のみがご健在です。

東北大学の樺島先生のアシストを得ながら始まったお話のなかで、すぐに気づきました。
あぁ、宇井先生、原田先生とおんなじだって。
水俣病のお子さんの写真を前に、痛ましい、この写真をみるたびにつらくなる、とつぶやく坂東先生。
この優れた共感できる感性こそが坂東先生の真骨頂なのです。



 グラフが描く この国のありさま

坂東先生が手描きの古びたグラフを提示されました。
裁判でもどこでも、このグラフを使って説明されてきたそうです。


坂東先生の背後に見えているのが、そのグラフ


わたしは、この活動をしてきて足かけ16年。初めて目にしました。
そして、何と分かりやすいグラフかと思い、描かれた曲線に、水俣病事件の本質が見えてくる思いがしました。

曲線は、チッソ水俣工場と昭和電工におけるアセトアルデヒドの生産高を描いています。
そうです、水俣病の原因となったメチル水銀の排出は、その生産高と比例するはずです。



当日、坂東先生の手描きのグラフが印刷されて、資料として配布されました。
そこに色を付けて、見やすくさせてもらいまいした。



熊本で水俣病患者の届け出があった1956年、もっと言えば、因果関係が明らかになってもその責任を決して問わないという永久示談の(この言葉も、初めて知りました。もともと「永久示談契約」とは、古河が足尾銅山の被害に対してかわしたものに発するのだそうです。)見舞金契約を交わした後、チッソ水俣工場で、アセトアルデヒドの増産が始まっているのです。
もちろん、昭和電工においても。

この国が、人々の健康より、生活より、経済を選んだという証しの曲線です。
福島を経てなお、原発の再稼働を求める姿と重なります。


 司法の判断は すでに出ていたんだ!


坂東先生は新潟水俣病裁判を振り返って、順次語っていかれました。
そこで、初めて新潟第一次訴訟の判決を確認しました。
(ホント、な~んにも知らなくて恥ずかしいっ!)

素晴らしい判決なんですねっ!
大飯や高浜原発の差し止め裁判について、目が覚めるような感動を覚えたけど、司法の場で出た感動的な判決は、もっともっとあるんですね。(生意気な物言い、ごめん)

曰く――。

「最高技術の設備をもってしてもなお人の生命、身体に危害が及ぶ恐れがあるような場合には、企業の操業短縮はもちろん総業停止までが要請されることもあると解する。」

「汚染の追求がいわば企業の門前にまで到達した場合、(略)むしろ企業側において、事故の工場の汚染源になり得ない所以を証明しない限り、その存在を事実上推認され、その結果すべての法的因果関係が立証されたものと解するべきである」


これって、原発の裁判と同じでしょ。
誰が見たって、そうだって。

しかし、この判決が出てもなお、50年経てもなお、この社会は水俣病解決への途を見出し得ていない。
なぜ――?

新潟水俣病第二次訴訟においては、新潟大学医学部の先生方が証言に立って、「原告に水俣病患者はひとりもいない」と言ったそうです・・・。
坂東先生は、「地方大学には地方大学の役割があるはず」と淡々とコメントを付け加えられただけでした。
大学は誰のためにあるのか。

村山内閣の和解案に合意することを良しとせず、坂東先生は弁護団長を辞めることになります。

本当に自分の勉強不足に赤面の思いがするのは、この和解の意味するところを明瞭に理解することがなかったことです。

坂東先生のお話のなかで、その意味がはっきりと見えてきました。
和解の素地となった福岡高裁の所見の指しているものが、ようやく理解できたのです。

つまり――。
水俣病像については、医学的考え方に対立があり、決着をつけることはできない。したがって、対象者を水俣病患者とせずに「和解対象者」とする。
(判断を裁判所が放棄したわけよね)
したがって、ここで水俣病の「被害者」は特定できずに、かわりに「和解対象者」という言葉があらたに生まれることになった、と。

被害者がいなくなったので、当然、加害者もいなくなったのです。

さらに――。
国に国家賠償の責任ありとすれば、国の和解参加が期待できないことから、「国の解決責任」にとどめる、と。
賠償責任が問えないから、「解決責任」を負いなさいとは、国をたんなる事務処理機関にすることではないでしょうか?
国にとって、「和解対象者」を「解決」に処理するだけで、責任果たしたことになるの…?


例えば、これを言い換えてみましょう。
放射能の影響については、専門家においても意見の対立のあるもので、国や司法が判断はできるものではない。
だから、国が負うべき責任は、和解を求められたときに、どう処理できるか、だけだ――。

そっか。
水俣病患者と認定しない、ということは、こういう意味だったんだ。
責任をもう問わない、と。だって、被害者はもういないんだから。
いないことにする、というのが「和解」の意味だったんだ。。。

訴えてきたところがなくなってしまう、と、それまでの患者さんとの間に築いてきた絆を断ち切って、坂東先生は弁護団長を辞められました。
患者さんたちの苦しみを長引かせるつもりか、という謗りを受けつつ。


 希望は この国のすがたに気づくことから


坂東先生は、弁護団長を辞めたときの辛い思いを、ずいぶん控えめに語りつつ、締めくくりは、田中正造翁の言葉を引用しながら、なおも、こう「希望」を呼びかけました。

「現場こそ最良の教師なり」


ひとの顔を見て、「和解」の「処理」としてではなく、ひととつきあい、ひとの心情に寄り添うなら、被害者のいない水俣病事件などど扱われていいはずがない、と気づくべきです。

国がどのようなことを負わされいるか、見えてくるはずです。

たまたまお隣に田中正造大学事務局の坂原さんがいらっしゃいました。
坂原さんにおもわずつぶやいていました。
「どんな社会に生きているか、ようやく見えてきた」、と。



講演会後に坂東先生と坂原さんと記念ショット。
ピンぼけ写真か、あっちこっち向き写真しかなくて、お粗末でした・・・


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