伝えるネットねこレポート

「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークのブログ。
首都圏窓口の田嶋いづみ(相模原市在住)が担当してます。

熊本震災のさなかに水俣の60年を思う

2016-04-23 21:14:56 | 水俣レポート
熊本・大分の震災で亡くなられた方のご冥福を祈り、
避難や困難にあわれているみなさまにこころからのお見舞いを申し上げます。



2016年1月9,10日
年始の恒例・水俣病事件研究交流集会に参加。
~水俣市立公民館にて~


いや、まったく、オニが笑い出しそうなペースでのご報告です。
(オニって、去年のことを昨日のことのように言っても笑うかな?)

でも、熊本の震災の起きたあとに、殊更に、思い出すことも意味があるか、と・・・。




 水俣病公式確認60年を数えつつ


ここ何年か、毎年1月の第2土日に開催される「水俣病事件研究交流集会」に参加しております。
去年は、50年を数える新潟で。
今年は、60年を数える水俣市立公民館での開催でした。

つづけて参加するようになっているのは、それだけ、普段の生活のなかで「水俣」を意識することが限られていると思う自省から。
開催がちょうど、「水俣」に出前を依頼されることの多い時期の直前にあたるから。

「研究交流集会」に参加することで、子どもたちに伝えに行く自分を立て直すのです。

「研究交流集会」のお世話をしてくださるのは、熊本学園大学の水俣学研究センターの花田先生やみなさん。

この震災で、熊本市内にある熊本学園大学は避難所のひとつとなったそうです。
花田先生がご自身のfacebookで細かく、大切な報告をしてくださっています。
かまどをつくってあたたかいご飯の炊き出しをなさったり。
水俣病事件を語るときの花田先生のまっすぐな物言いや優しい表情を思い起こして
しんみりと避難にあたられているご様子を想像します。
やはり、東北に支援に行かれた体験をもって、当たっているご様子。
花田先生ご自身の睡眠のことや、お身体を心配するしかないのが、ふがいないけど。。。



60年と数えることにも気づかなかったのに、冒頭は花田先生の先導で、「60年の証言」でした。

そのことを伝える、とてもいい記事があったので、ここにアップしちゃいます。
(この頃は、特にいい新聞記事をみつけるのはむずかしい、です。
こういう集まりの内容を伝えるのは、とくに。でも、この記事は本当にいいです。
朝日新聞の水俣記者さん、アップ、お許しください)





 胸を打つ60年の証言に、涙

<特別セッション 水俣病60年の歴史の証言>と銘打った証言は、胎児性水俣病の坂本しのぶさんのお母様・坂本フジエさんから始まりました。
先の記事にもなっているチッソの労働者であった中村さん、子どもの目で当時をみてきた梅田先生と、いろいろな角度からの証言は、水俣病事件を立体化してくれました。

ですが、とりわけ胎児性水俣病の上村智子さん、「宝子」として呼ばれた少女として知られる智子さんの看護師さんであったという堀田静穂さんの証言には胸を揺さぶられました。

堀田さんの証言――

智子さんはすべてをわかっていた、のですよ。

初めてお会いしたのは、裁判所。
法廷で声をあげるから、と、退廷を命じられて出て来られたとき、です。
判決の日。今度は智子さんとともに法廷で判決を聞きました。
裁判長が判決文を読み上げて、智子さんのところになったとき、それまで静かだった智子さんが急に声を挙げはじめたのです。智子さんに関する判決文が読み上げられる間、その声はつづきました。
ハッと気づいたのです。退廷を命じられたあの日も、智子さんの訴えを読み上げて声を挙げたのでは、と。

あるとき、智子さんの声を録りたいと智子さんの家にNHKの方が来られたのですよ。
わたしは丁度居合わせて、智子さんの食事のときでした。
智子さんのお母さんが申し訳ながって、あれこれと話しかけるのですが、智子さんは声をあげませんでした。
3時間ほどねばって、とうとうとる録ることができずNHKの方が帰って、寝転がった智子さんの隣にわたしも寝転がって、空が見えて、「きょうはいい天気だねぇ」と声をかけたら、智子さんがそれに応えるように声を挙げて。

わたしは、はっきりわかりました。
智子さんはすべてをわかっているんだ、と。

胎児性の患者さんたちには、本当に教えてもらいました。
ひとりでは何もできない彼らが、どんなに周りを見て、思いを寄せているか。
どんなに気配りしているか。

胎児性の患者さんたちとの出会いがなければ、その後のわたしの看護師の仕事はありません。







証言する堀田さん



証言を聴いているうちに、自分でも気づかないうちに涙まみれになっていて、恥ずかしくて周りをうかがうと、鼻をすすり上げるのはひとりやふたりでなくて。
この証言を聴くことができただけでも、参加して良かったと思いました。

そして、強く「やはり」と思いました。

いつも「水俣」を伝えるときに同行してもらう智子さんとお父さんの写真。
桑原史成さんの撮られた父娘の写真。
写真から感じてきたことは、やはりその通りだったんだって。



 還暦を迎えた胎児性患者のみなさん

「研究交流集会」というだけに、「交流」する懇親会は、とても大切な時間でした。
今年は、とくに、「交流集会」のお隣の部屋では、胎児性水俣病の患者さんたちの還暦のお祝いの会をされていました。

半永さんも、おにゆうも、清子さんも、うれしさで顔を火照らして。







 震災とともに刻まれた水俣病公式確認60年

今年の「水俣病事件研究交流集会」に出て、こころひそかに今年こそ、5月1日の乙女塚の慰霊祭に出席しよう、決めました。
飛行機もホテルも予約しました。

今年――。
埋立地の慰霊祭は中止となりました。
乙女塚では、ひっそりと行われるでしょうか?
墓守りのエミコさんは、この地震の揺れのなかでどうしておいででしょう?

旅行社から電話があり、すべての予約はキャンセルとなってしまいました。
今は、何よりも、支援が優先されなければ。

「いつ」だって「どこ」でだって、思いは馳せられるはずです。
60年も、60年と1日だって、60年と2日だって――。

震災に遭われた方へも。

「水俣」の話を伝えると子どもたちから必ずもれるつぶやきがあります。

ネコがかわいそう――。


愚かな大人のひとりであるわたしは、子どもたちのつぶやきを共有するには時間が必要でした。
ネコに対する想像力の大切さを子どもたちに教えられて、同じ時代に生きあわせる者だからこそ、互いのいのちへの想像力と共感こそと知りました。

そのように、今年の慰霊祭を、わたしは、わたしのまちで迎えます。





ネコから犠牲になったといいます。
水俣病の原因を探るために1000匹以上のネコたちが動物実験に使われたといいます。

ひとによって、無残にいのちを奪われたネコを悼んで水俣のひとたちは猫塚を建てました。

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