「きばる」高橋さんといっしょに「水俣」を伝える
~ 生活クラブ生協 埼玉 での一日 ~
~ 生活クラブ生協 埼玉 での一日 ~
2012年1月24日 13:30~15:30
朝霞市産業センター
朝霞市産業センター
午前の部は、「きばる」の生産者を囲む会
前夜の雪が行く手を阻むこの日の始まりでした。
神奈川から東京都を横断していく高速道路は、却って何ということもなく、
高島平で高速を降りてから、朝霞までの道が、ホント、怖かったです。
知らない埼玉の道は、道幅せまく、アップダウンも蛇行もあり、
前夜の積雪も埼玉のほうが多かったようでした。
でも、どうしても、午前中から出向きたかったのです。
午前の部は、「きばる」の生産者によるあまなつの話があり、
私は、その後の第二部を担当する企画となっていたからです。
私自身があまなつの生産者説明会をお聞きしたことがなく、
また、午前だけでお帰りになる方もあるということで、
自慢の購入したての桑原さんの写真をひとりでも多くのみなさんに見ていただきたいとも思っていたこともあります。
前日に、「きばる」から高橋さんがお見えになるということを聞けば、なおさらでした。
高橋さんは、2007年に子どもたちに向けてあまなつの話をいただいた方でもあります。
願いかなって、スリップ事故にもあわず、ちゃんと午前の部に間に合いました。
積雪のために不通になっていた武蔵野線のために、むしろ組合員の方の方が1時間近く遅れて入って見えたのですから、
幸運でした。
あまなつ、不知火(でこぽん)を手に説明する高橋さん(左)、隣は御所浦から見えた緒方さん
会場では、伝えるネットが持参した写真を展示させていただきました。
内心、新しく製作した写真パネルで高橋さんを驚かせたいと思っていたのですが、
この写真をすでには浜松で見た、とのこと。さもありなん。
1月18日に行われた浜松雄踏町で行われた生産者説明会には、
浜松窓口メンバーが写真を持参して高橋さんを迎えていたのでありました。
内心、新しく製作した写真パネルで高橋さんを驚かせたいと思っていたのですが、
この写真をすでには浜松で見た、とのこと。さもありなん。
1月18日に行われた浜松雄踏町で行われた生産者説明会には、
浜松窓口メンバーが写真を持参して高橋さんを迎えていたのでありました。
あまなつは、口じゃなくて、頭で食べる?
あまなつは、田ノ浦で1950年ころに生まれた突然変異種です。
水俣病のいちばんひどいころ、元・漁師たち30軒が集まって生産が始まったといいます。
当時、あまなつの苗木は1本400円。
400円といえば、一日分の日当にあたったというのですから、どれだけ高価であったでしょうか。
苗木を買うために半年出稼ぎに行き、あとの半年であまなつ栽培に従事するという生活だったそうです。
水俣病で海を追われ、あまなつ栽培に甦りを賭けたのが伝わってくるようです。
1977年ごろからあまなつの取り組みが始まり、
当時、「あまなつは口じゃなくて、頭で食べる」と言われたと高橋さんは語りました。
水俣病被害への支援として、あまなつは全国の支援者に買われていったことを、
しかし、高橋さんは「ウソはつづかない」とまとめました。
生産者の甘えを戒め、品質を求める努力を重ねてこられた、と。
その真摯さこそ、水俣の人たちの姿勢、と感じないではいられません。
農薬をかけないことで発生しやすくなるサビダニ病は、ダニの発生によるもの。
新芽によって傷つけられ、細菌がはいりこんでしまうカイヨウ病。
スス病は、虫の排せつ物がついて、そこにカビが生えるもの。
病気の説明をしてくれて、栽培暦みを丁寧にしてくださいました。
その話に時折、水俣病事件の事実が混じってきます。
生活の場面から、ただ水銀が人の目に触れないようにされているだけの埋立地。
生産者の毎日、あまなつの1年と重なって、新たな実感が伝わってくるような思いがしました。
高橋さんたちの話をきいたあとは、あまなつの酸味を使ったちらし寿司のお昼をいただきました。
農薬のかかっていない皮だからこそできるオレンジピール。
そのオレンジピールを使ったスポンジ・ケーキ。
そしてなんといっても、芳醇なジュースをいっぱい盛り込んだママレード。
生活クラブのみなさんの催しは、とっても美味しいから、大好きです。
次は甲府で生産者説明会をされるのだという高橋さんたちとは、そこでお別れしました。
現地の方のあとに、地縁血縁なきものが「水俣」を語る功罪
水俣現地の方のお話のあとに、伝えるネットが話すという企画は、
もしかしたら、主催される側でも思い悩まれたのではないかという気がします。
私たちだって、設立当初ほどの負担感は幾分か薄れたものの、
いまだに、当事者でない者が「水俣」を語っていいのか、という問いと二人三脚なのですから。
地縁血縁がないにもかかわらず、何が、「水俣」に向かわせているか。
もしくは、当時者でない何が「水俣」を引き受け得るか。
やはり、「くらし」だろう、と思う訳です。
同時代に生きるものの場、というか、くらしの場で引き受けるのでなければ、
先駆的に被害を負った人びとに並んでいけない、と思うのです。
そんなことを考えていて、現地・水俣の方の話を受けて伝えていくのであれば、
私たちももっと率直にお話してもいいのではないか、と心を決めたのでした。
「水俣」を語るのであれば、まして、子どもたちに伝えようとするならば、「希望」を語るのでなければならないし、
「希望」をこそ語りたいと願ってきました。
それだけでなく、3.11以降も、「水俣」が伝えようとしていること、私たちが共感で伝えようとしているものは、
何の揺らぎもない、と思っておりました。
それなのに、このところ、ウツウツと思い悩むようになってきていました。
フクシマで起きていること、この国がフクシマでしていることを見ないではいられなくなってきてから。
水俣のみなさんは、「うしてらるるものか」と言われてこられました。
「棄てられるものか」という抗議の言葉です。
フクシマは、その言葉を思い起こさせました。
これは、「棄民」ではないか。
そう思うと、水俣のみなさんの救いとなりうるはずの「同じことをさせない」という誓いなど、
現実的に壊れ果てていると同時に、「棄てられる民」となることの酷薄さについて、思いを馳せる足らなさに気づいたのでした。
それが、どんなにひどいことか思いめぐらせられていたのか。
いま、フクシマで起きていることを見たら、「水俣」を伝えてきて足かけ13年、200回以上の出前なんて、
いったい何だったの、って。
当日の様子、偉そうに椅子に座ったまま(左)お話させていただきました。無礼でごめんなさい。
いまこそ水俣で何があったかを知り、くらしに引き受けること
生活クラブ埼玉のみなさんにみていただくために、
水俣病の認定制度と「救済」を振り返るまとめのスライドを用意しました。
今現在、3月で打ち切ろうとされている特措法による「救済」の実態を伝えるスライドも用意しました。
(スライドの作成にあたっては、水俣の医師・高岡滋さんのツイッターのつぶやきを引用させていただきました。)
水俣病事件で何が行われたか、あるいは行われようとしているか、改めてしっかり知っておきたかったからです。
ちゃんと知り直して、それから、同じことがフクシマでなされないか、監視したいと思うのです。
こんな社会にあって、なお、子どもたちに「希望」を伝えられるのでしょうか?
講師としてじゃなく、市民のひとりとして、生活クラブのみなさんに投げかけさせていただいたつもりです。
無名で無力なひとりであっても、何かできることがあるでしょうか?
2,3日経って、追いかけるように、当日話を聞いてくださった方からのアンケートが届きました。
「知らないことがあって、ひとりの力の無力さを感じます。伝えるネットワークの活動・・・すごいと思います」
「当事者でなくても行動できるだけの当事者意識を深く感じたことを、大切に忘れずにいる事がすばらしい」
「水俣を学ぶことはフクシマ後を考えることだし、もっと一般的な社会問題を考えることでもある」
「やはり、こうやって地道に諦めずに伝えていくことの大切さを改めて感じました」
「水俣病のことは漠然と知っていましたが、こんなに深い意味のあるものだったのに驚いています」
訊ねたのは、私のほうでした。
それなのに、アンケートに答えてくださるみなさんは、さらに励まし、答えの先にいらっしゃるようなのでした。
こういうやりとりって、お互いに、無名で無力だと知っているからできるのかもしれません。
そして、こういう相互のやりとりが、無名で無力であるにも関わらず、
何かを動かしていくのかもしれないと思ってはいけないでしょうか?
大きな声で「希望」は語れません。
しかし、「絶望」とは縁遠い、お互いの出会いと営み、つまりくらしのなかの共感はある気がします。