伝えるネットねこレポート

「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークのブログ。
首都圏窓口の田嶋いづみ(相模原市在住)が担当してます。

水俣病特別措置法のあり方を考えるシンポジウム

2011-06-22 07:09:02 | 水俣レポート
水俣病は終わらない シンポジウム
水俣病特別措置法のあり方を考えるシンポ

2011年6月4日 13:00~17:00
主催:日本弁護士連合会
於:弁護士会館2階講堂クレオA



 原田先生の講演には、いつも新しい学びがある

日本弁護士連合会のシンポジウムには、2度目の参加になるでしょうか。前回も、確か原田先生が記念講演されたように記憶しています。


そして、今回、加害企業チッソが分社化を果たし、一時金の支給も始まり、大きく残す課題はチッソが所有する株の売却がどうなるか、という段階で、その経緯と問題点を整理するシンポジウムで、原田先生は「残された水俣病問題、特に胎児性・小児性水俣病問題」と題されて講演をされました。


スライドの横に立って講演される原田正純医師


水俣病事件の始まりから、患者さんに寄り添い続けている原田先生のことを「医学者に対しては社会学者のように発言し、社会学者に対しては医学者として発言する」と批判の言葉として評されることがあるそうです。

原田先生の言葉を聞くと、いつも不思議な気持ちになります。もちろんどの言葉もお医者様の言葉だと思えるにもかかわらず、聞いていると医学を語る言葉としてではなく、人間としての言葉になって残っていくからです。


ちょうど伝えるネットの活動を始めたころ、原田先生の講演を名古屋で聞いたことがあります。「水俣・名古屋展」の記念講演でした。

胎児性水俣病の話をされたときに、アイソトープを使ってラットの胎児がメチル水銀に侵されていることを写したスライドを前に、原田先生はこうつぶやかれました。

「なんと残酷な写真だろう」と。


胎児性水俣病を実証する写真として、それは、けっこう有名な、よくみる写真です。「水俣」を伝え始めて、子どもたちにも見てもらっていた写真でした。原田先生に「残酷だ」とつぶやかれて、ハッとしました。胎児性水俣病を説明する写真として、説明に夢中になって、それ以上の感慨なんて持ったことがなかったからです。以来、私は、この写真で子どもたちに胎児性水俣病の説明をしたことはありません。


原田先生は、この頃、講演の始まりに「ここには、見知った顔の方がお見えなので、毎回同じ話で申し訳ない」というようなことを挨拶されるようになりました。

そして、いつも思うのです。原田先生のお話は、いつも新しく、いつもハッとさせられる教えをいただく、と。


パネルディスカッションでの原田先生。
マイクの向こうは宮本憲一先生。撮影・田中史子さん



「わかっていないことをわかっているかのようにしてはいかん」

「一律は、医学に馴染まないんですよ」

「救済に困るほど、医学は進歩していない訳ではないんですよ」


深い意味の言葉のなかで、水俣病事件の「解決」が患者を置き去りにした、人間的想像力の欠けたものであることが浮かびあがってくるのでした。


 水俣病は、進行性の病気である

原田先生は、胎児性水俣病という人類が初めて体験する次世代を犯す病像を学術論文にまとめられた方です。その記念碑的論文に、原田先生は、自らその誤りを指摘する解題を加えて出版されました。


学術論文に縁のない私でも、それがどんなに稀有なことか、わかります。

自分で自分の論文に、間違いがあったと公表するなんて。

原田先生は、「患者の発生を時代的にも地理的にも限定的にしたこと」「脳性まひ型に限定したこと」「胎児性患者のその後を追わなかったこと」という致命的欠陥が、自分の論文にあったと自分で告発されました。

そして、その3点は、しかし、まさに水俣病救済特別措置法が内包する問題点と重なっているのです。

(当日の資料として配布もされた熊本日日新聞 2011年5月1日付特集「水俣病が現代に問うもの ~公式確認55年~」では、そのあたりを詳しく報道しています)


パネリストの一人あった水俣の「ほっとはうす」の施設長である加藤タケ子さんの報告でも、胎児性患者が加齢とともに、どのように症状を加速度的に悪化させているかの報告があって、胸が詰まる思いがしました。ことに、出前授業にご一緒した方の、ご自分でも戸惑うほどの症状の進行の様子には、ただただ思いを馳せるのみです。


胎児性水俣病患者が集う<ほっとはうす>施設長の加藤タケ子さん
撮影は田中史子さん



 「終わらせない」という「救済」のあり方

1995年の政治解決のとき救済を求めなかった方で今回の特措法の救済に申請をされている方に、何故95年には求めなかったかを訊ねられたそうです。

ひとつには、症状がなかったから。(以後、症状が出た、ということです。それは、今後も発症する人が出てくる、ということでもあります)

ふたつには、症状があってもそれが水俣病とは思わなかったから。(自己申告では限界があるんです。だれだって、自分の病気が水俣病だと知ることはつらいことですからね)

みっつには、差別を受けると思ったから。(私たちは、95年当時より差別しない人間になっているでしょうか。この社会は、差別のない社会になっているでしょうか?)


胎児性患者の症状の進行を思えば、被害にあった方が生きている限り、救済が終わることがあってはならないでしょう。

いったん成立してしまった法律をできる限り患者さんの実人生に添わせていくために、弁護士連合会のみなさんは意見書などの方策を模索されていくといわれていました。


会場には不知火患者会のみなさんもお見えでした。裁判における和解に応じたといえ、今後も、見守り続けていくと言っておいででした。


患者さんが少しでも楽になっていくことが大切だと思います。

しかし、失敗を忘れたとき再び失敗してしまうように、大きな誤り、大きな失敗は刻印されつづけるべきではないでしょうか。

私たちが「終わらせない」意志をもつことが、「救済」には必要に思えます。


 くまにちコムへ(※記事データは有料です)





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