2014年7月16日、水俣病資料館にて
語り部をされたあとの緒方さんとのひととき
いゃ~、2か月も経ってからの報告って、と思いつつ、7月の訪水記であります。
だって、これが、わたしたちの活動テンポなんだもん。
水俣病体験の語り部の会の会長をしていらっしゃる緒方正実さんから、この日、とても大切なものをいただいて、いただくと温めたくなるので、ひとり温め期間が必要だったのだとご理解ください。
3月に東京で、そして7月、現地でお会いする
水俣の方には、水俣現地でお会いしたい、と望んでいます。
その日の朝にご連絡して、その日にお会いできるというのは、わがままにしてラッキーでした。
ちょうど市立水俣病資料館に見学に来る中学生に水俣病体験の語り部をされる日ということで、資料館にうかがって、お話することができました。
緒方正実さんとは、3月、環境省主催の「水俣病の教訓を伝えるセミナー」でお会いしています。
毎年3月に行われるセミナーでは、水俣と新潟からそれぞれ語り部の方がお見えになり、都会にくらす私たちに、その水俣病体験のこと、そこで思ったこと、考えたことを伝えてくださるのです。
水俣病認定患者の正実さんは、しかし、その認定をすんなりと得たわけではありません。
長いこと、自分の水俣病を隠してきた、といいます。
隠しきれなくなったのは、子どもができ、親になったときだと、打ち明けてくださいます。
わが子に「ウソをつくな」と教えながら、自分自身が水俣病について大きなウソをついていることが、耐えられなくなります。
それでも、「お金が欲しいのだろう」と陰口をたたかれるのが嫌さで、認定申請はしきれないでいました。
そこにあったのが、1996年の国による和解提案です。
認定患者よりはるかに安い金額、あるいは、医療補償だけなら、と申請することになります。
結果は、申請棄却でした。
同じご飯を食べてきたごきょうだいは認定患者であるにもかかわらず、です。
ウソをつくのを止めて、(そんなこと、被害者がおもんばかる必要なんか微塵もないのに)なるべく先方の負担にならない補償なら、と申請したにもかかわらず、棄却。
存在そのもの、生きていることを否定されたような屈辱を感じて、行政不服審査請求。
かくて、2007年3月15日に 2,266人目の水俣病患者として認定されました。
たったひとりの闘いでした。
このあたりのことは、ご著書『孤闘―正直に生きる―』(創想社)に詳しいです。
その体験、経過のなかで苦しみや悲しみをウソで避けようとすることはできないこと。
むしろ、向き合ってこそ、幸せがやってくること。
だとするなら、本当のことを知り、向き合っていくことは、人間としての権利、なんだ、と語られたのでした。
語り部として、誰にとっても大切な生き方のお話をされたのでしょう、去っていく子どもたちが何とも言えない表情で、正実さんを見やっていくのが印象に残りました。
そんな正実さんを、独占して、さらに、まだまだ解決しない水俣病事件なのに、先走って語り部となっていることに批難もあることなどを、お聞きしました。
正実さんは、昨年の天皇訪水の際にも、語り部の代表として会われて、その感想などを述べておられるので、それなりに風当りもあるのかもしれません。
ただ、伝える役割というものもあるだろう、それぞれがその役割を果たしていくしかない、と、正実さんは、ご自身に頷くように語っておいででした。
正実さんから伝えるネットへの贈り物
正実さんは、建具職人さんです。
(指先を使う仕事に、水俣病の症状は、おつらいでしょう、と思わないではいられません)
なので、木工細工はお得意です。
それで、水俣湾の埋め立て地の実生の木を使ったこけしや、キーホルダーやさまざま作っておられます。
昨年、天皇・皇后ご夫妻が水俣に来られたときに、正実さんは、そのこけしを差し上げようとししたのだけど、差し上げることは禁じられていてできなかったこと。
ところが、後日、ご夫妻の方から連絡があって、正実さんのこけしを買い求められたとか。
水俣湾埋め立て地の実生の木からなるこけしが、皇居にあるっていう訳です。
でね、その同じこけしをくださったのです。
正実さんが、こどもたちにいちばん届けたい言葉を刻んだプレートといっしょに。
これ。
これから、子どもたちに出前で会いにいくときは、しのばせて行きます。ねっ!
ネコのいのち、から、原発再稼働反対へ!
別れ際、正実さんが、「ネコのいのち」のことに触れられました。
実は、今年3月の環境省主催のセミナーのときのことです。
正実さんは、その発言を記憶されていたのでした。
その通りですよ、って。
ボクは、飼い犬が死んだときお葬式しました、って。
嬉しかったです。
もちろん、偉そうなことは、私も言えません。
「ネコがかわいそう」という感想に、私自身、「え~、ネコなの~! ひとでしょ、ひとっ!」って思ったは、その通りだったからです。
私自身が いのちを量る側の人間でした。
それを、気づかせてくれたのは、子どもたちです。
子どもたちとのやりとりのなかで気づいたのです。
いのちは量ってはならない、と。
いのちは、何かと比べて量るようなものではないのです。
ましてや、お金といのちを量り比べることはできません。
正実さんのほしかったのは、認定補償ではなく、健康だったのです。
水俣病体験の教訓は、水俣にくらすひとにも遠いのでしょうか?
川内原発再稼働反対の決議が水俣市議会に提出されたそうです。
しかし、残念ながら否決、採択されるには至りませんでした。
私たちは、まだまだ、水俣病の教訓を手にしていません。
語り部をされたあとの緒方さんとのひととき
いゃ~、2か月も経ってからの報告って、と思いつつ、7月の訪水記であります。
だって、これが、わたしたちの活動テンポなんだもん。
水俣病体験の語り部の会の会長をしていらっしゃる緒方正実さんから、この日、とても大切なものをいただいて、いただくと温めたくなるので、ひとり温め期間が必要だったのだとご理解ください。
3月に東京で、そして7月、現地でお会いする
水俣の方には、水俣現地でお会いしたい、と望んでいます。
その日の朝にご連絡して、その日にお会いできるというのは、わがままにしてラッキーでした。
ちょうど市立水俣病資料館に見学に来る中学生に水俣病体験の語り部をされる日ということで、資料館にうかがって、お話することができました。
緒方正実さんとは、3月、環境省主催の「水俣病の教訓を伝えるセミナー」でお会いしています。
毎年3月に行われるセミナーでは、水俣と新潟からそれぞれ語り部の方がお見えになり、都会にくらす私たちに、その水俣病体験のこと、そこで思ったこと、考えたことを伝えてくださるのです。
水俣病認定患者の正実さんは、しかし、その認定をすんなりと得たわけではありません。
長いこと、自分の水俣病を隠してきた、といいます。
隠しきれなくなったのは、子どもができ、親になったときだと、打ち明けてくださいます。
わが子に「ウソをつくな」と教えながら、自分自身が水俣病について大きなウソをついていることが、耐えられなくなります。
それでも、「お金が欲しいのだろう」と陰口をたたかれるのが嫌さで、認定申請はしきれないでいました。
そこにあったのが、1996年の国による和解提案です。
認定患者よりはるかに安い金額、あるいは、医療補償だけなら、と申請することになります。
結果は、申請棄却でした。
同じご飯を食べてきたごきょうだいは認定患者であるにもかかわらず、です。
ウソをつくのを止めて、(そんなこと、被害者がおもんばかる必要なんか微塵もないのに)なるべく先方の負担にならない補償なら、と申請したにもかかわらず、棄却。
存在そのもの、生きていることを否定されたような屈辱を感じて、行政不服審査請求。
かくて、2007年3月15日に 2,266人目の水俣病患者として認定されました。
たったひとりの闘いでした。
このあたりのことは、ご著書『孤闘―正直に生きる―』(創想社)に詳しいです。
(『孤闘』で、私がいちばん胸の詰まる思いで読んだのは、認定をかちとったくだりです。
報われて認定をかちとったのですから、周りの方々は、「おめでとう」と祝ってくださった。
しかし、ご自身は、病気と認定されたことが嬉しいことなのか、と思い、ああ、やっぱり水俣病なのだ、自分は治らない病気にかかっているのだと、さめざめと隠れて泣いた・・・というところでした。
自ら認定を求めても、なお、健康こそが本当にほしいものなんだ、って。)
報われて認定をかちとったのですから、周りの方々は、「おめでとう」と祝ってくださった。
しかし、ご自身は、病気と認定されたことが嬉しいことなのか、と思い、ああ、やっぱり水俣病なのだ、自分は治らない病気にかかっているのだと、さめざめと隠れて泣いた・・・というところでした。
自ら認定を求めても、なお、健康こそが本当にほしいものなんだ、って。)
その体験、経過のなかで苦しみや悲しみをウソで避けようとすることはできないこと。
むしろ、向き合ってこそ、幸せがやってくること。
だとするなら、本当のことを知り、向き合っていくことは、人間としての権利、なんだ、と語られたのでした。
語り部として、誰にとっても大切な生き方のお話をされたのでしょう、去っていく子どもたちが何とも言えない表情で、正実さんを見やっていくのが印象に残りました。
そんな正実さんを、独占して、さらに、まだまだ解決しない水俣病事件なのに、先走って語り部となっていることに批難もあることなどを、お聞きしました。
正実さんは、昨年の天皇訪水の際にも、語り部の代表として会われて、その感想などを述べておられるので、それなりに風当りもあるのかもしれません。
ただ、伝える役割というものもあるだろう、それぞれがその役割を果たしていくしかない、と、正実さんは、ご自身に頷くように語っておいででした。
正実さんから伝えるネットへの贈り物
正実さんは、建具職人さんです。
(指先を使う仕事に、水俣病の症状は、おつらいでしょう、と思わないではいられません)
なので、木工細工はお得意です。
それで、水俣湾の埋め立て地の実生の木を使ったこけしや、キーホルダーやさまざま作っておられます。
昨年、天皇・皇后ご夫妻が水俣に来られたときに、正実さんは、そのこけしを差し上げようとししたのだけど、差し上げることは禁じられていてできなかったこと。
ところが、後日、ご夫妻の方から連絡があって、正実さんのこけしを買い求められたとか。
水俣湾埋め立て地の実生の木からなるこけしが、皇居にあるっていう訳です。
でね、その同じこけしをくださったのです。
正実さんが、こどもたちにいちばん届けたい言葉を刻んだプレートといっしょに。
これ。
これから、子どもたちに出前で会いにいくときは、しのばせて行きます。ねっ!
ネコのいのち、から、原発再稼働反対へ!
別れ際、正実さんが、「ネコのいのち」のことに触れられました。
実は、今年3月の環境省主催のセミナーのときのことです。
「水俣病の教訓をどう次世代に伝えるか」というパネル・ディスカッションのときのことです。
水俣病資料館の職員の方が「子どもたちが大勢来てくれて、それは、うれしいのだが、感想が、ネコがかわいそう、というものでガッカリする」と発言されました。
伝えるネットは、ネコをシンボルにしています。
ひとに先駆けて罪もないネコたちから病んでいったことを、私たちは忘れません。
気付いたら、挙手して発言していました。
「ネコがかわいそう、という感想にガッカリって、なんだ。その発言こそ、ガッカリです。 水俣病は、いのちの重さは量れない、量ってはならない、ということを教えているのに」って。
水俣病資料館の職員の方が「子どもたちが大勢来てくれて、それは、うれしいのだが、感想が、ネコがかわいそう、というものでガッカリする」と発言されました。
伝えるネットは、ネコをシンボルにしています。
ひとに先駆けて罪もないネコたちから病んでいったことを、私たちは忘れません。
気付いたら、挙手して発言していました。
「ネコがかわいそう、という感想にガッカリって、なんだ。その発言こそ、ガッカリです。 水俣病は、いのちの重さは量れない、量ってはならない、ということを教えているのに」って。
正実さんは、その発言を記憶されていたのでした。
その通りですよ、って。
ボクは、飼い犬が死んだときお葬式しました、って。
嬉しかったです。
もちろん、偉そうなことは、私も言えません。
「ネコがかわいそう」という感想に、私自身、「え~、ネコなの~! ひとでしょ、ひとっ!」って思ったは、その通りだったからです。
私自身が いのちを量る側の人間でした。
それを、気づかせてくれたのは、子どもたちです。
子どもたちとのやりとりのなかで気づいたのです。
いのちは量ってはならない、と。
いのちは、何かと比べて量るようなものではないのです。
ましてや、お金といのちを量り比べることはできません。
正実さんのほしかったのは、認定補償ではなく、健康だったのです。
水俣病体験の教訓は、水俣にくらすひとにも遠いのでしょうか?
川内原発再稼働反対の決議が水俣市議会に提出されたそうです。
しかし、残念ながら否決、採択されるには至りませんでした。
私たちは、まだまだ、水俣病の教訓を手にしていません。