その十円玉がいつから手元にあったのかは分からない。
ただ、その存在に気付いたのは今から三週間ほど前だった。
駅の券売機で切符を買おうと投入した十円玉が無情に吐き出されてしまう。
二度、三度繰り返してもやはり同じ。
急いでいる時に限って得てしてありがちなことだ。
「この役立たずめ!」と睨みつけてから、代わりの硬貨を投入してその場はやり過ごす。
誰もがたまに経験する日常の瑣末な出来事である。
そんなありふれている経験は、すぐに記憶から遠ざかるもの。
数日後、今度は別の自販機で同じようなことを繰り返した。
やはり、何度投入しても吐き出されてしまう。
すぐにこの前の十円玉だと思った。
「まだ財布に残っていやがったか」と舌打ちした。
日常、繰り返し経験することはリアクションまでルーチン化されている。
だから条件反射的に財布にしまいこんで、別の硬貨でやり過ごした。
ただ、しまいこむ直前、しばし十円玉を眺めてみた。
大丈夫、偽造硬貨の類ではなさそうだった。
ただ、見るからにかなり使い込まれている、年季の入った十円玉ではあった。
全体的に使い減りしていて、「昭和四十?年」の「?」の部分は、よーく目を凝らして「八」だと分かるくらいだった。
こういう硬貨でも貨幣価値にいささかの目減りもない。
人とやり取りする分には何の支障もなく使える硬貨である。
だから、こんな硬貨でも一旦財布に入ってしまえば、知らないうちに人から人へと渡っていってしまうものである。
なのでそれ以上、とりたてて気に留める必要もないのだ。
ふたたび財布に戻ったその十円玉は、私の記憶と同様、いつしか消えていくはずだった。
まさか、三度目のご対面がくることなど思ってもみなかった。
三度目は翌日だった。
自販機にいままさに十円玉を投入しようとした瞬間、その十円玉の記憶がよみがえってきた。
手にした十円玉を確認してみた。なるほど、その十円玉に違いなかった。
そして、投入した直後、その十円玉は案の定吐き出されてきた。
「また、お前か」
今度ばかりは笑いがこみあがるようだった。
よくよくその十円玉を観察してみた。
大きさ自体は他の十円玉と寸分違わないが、凹凸のエッジはメリハリを欠いて全体に丸みを帯びていた。
特に表裏にある外周の競り出た縁の部分の磨り減りが著しく、横から見ると厚みがすこしだけ薄いように見受けられた。
もしかしたらこの厚みが自販機に規格外の烙印を押させているのかもしれない。
こうも自販機が溢れていると十円玉もつらい時代だと思った。
場合によっては、日に何度も「真贋判定」にかけられる。
この「判定」のメカニズムは素人には良く分からない。
重さ、大きさ、厚みのチェックはいいとして、それ以外にもチェックをしているのかどうか。たとえば刻印模様のパターン照合、電気抵抗、熱伝導率、超音波共鳴……。
「判定」の精度を上げようと思えばいろいろ手はあるのだろうけど、百円、二百円の商品を売る自販機に大そうなメカニズムが入っているとは思えない。
せいぜい、シンプルなメカニズムを使いながら、あとは「判定」の閾値を上げることで切捨てを図っているような気がする。
世界一、自販機が普及した今の日本というのは、年季の入った十円玉には肩身の狭い生きづらい国かもしれないと思った。
この十円玉君にも若かりし頃があったはずだ、青春を謳歌する時代が。
その頃はきっと今よりエッジを効かせた凛々しい風貌だったろう。
自販機の選別にも苦もなく一発クリアできてた時代。
いつしか時は過ぎ、人から人へ、マシンからマシンへと渡り歩き、働き続けて、身をすり減らせた時、その凛々しさは手垢に染まっていったのだろう。
そして、気がつけば「ふぞろいの個性」だけが残った。
でも、それが彼にとっての勲章。人一倍頑張ってきたことの証しなのだ。
ただ、時代のほうがそれを許さなくなっていた。
たとえ貨幣価値に目減りはなくとも、自販機に認めてもらえない限り、不良品の烙印を押されてしまう世の中だ。
この十円玉が、また違う人の手に渡ったとき、また同じように「怨み節」を浴びるのだろう。
そして、いつか特定の機関にたどり着き、選別機にかけられて「不良」の烙印を押されて、回収されて廃棄されて、そして最後は原料に帰する運命をたどるのだろう。
そう考えたとき、なんだかとても不憫に思えてきた。
「昭和四十八年」製といえば中村豊と同じである。
十円玉にシンパシーを感じた私は、この十円玉に「ユタカ」と名づけた。
もしも「昭和四十四年」だったら迷わず「ひーやん」だったのだけど。
それからというもの、「ユタカ」は私の財布の硬貨入れとは違う場所に移動することになった。
それ以来、自販機に硬貨を投入する機会があれば、まず「ユタカ」を取り出して、自販機に投入することが私の日課になってしまった。
もちろん、ことごとく吐き出されてしまうのだが。
でも、「ユタカ」を受け入れてくれる自販機を見つけてみたいと思った。
偶然でも誤動作でも何でもいいから、投入後にディスプレイに「10」と表示させてみたかった。
彼の価値を分かってくれる自販機に巡りあいたかった。
それから10日くらいの期間に50台くらいの自販機、券売機で延べ100回くらい投入を試みただろうか。
にべもなく吐きだされ続けた。
100打数0安打。打率.000である。
そろそろ私も諦めかけていた。
もう、このへんにしておいてもよいと思うようになっていた。
とりあえずこの十円玉は、私の財布のお守りとして手元にずっと置いて隠居してもらうつもりだった。
仕事で訪れた、近鉄・四日市の駅前には自販機が4台ほど並んでいた。
ちょうど、人との待ち合わせで時間を持て余していた。
手持ち無沙汰にかこつけて、つい、いつものように端から1台ずつ「ユタカ」を試していった。
左から2台目に投入したときだった。
「10」
自販機にそうディスプレイされた。
ついに「ユタカ」を受け入れてくれた自販機が現れた。
私の胸は高鳴った。うれしい反面、予想外の結果に激しく動揺した。
そして、「ユタカ」をとられたくないという思いで慌てて返却レバーを引いた。
が、しかしそこから返された十円玉は「ユタカ」とは違う十円玉だった。
「え?そんな……」
てっきり、投入した硬貨が返却レバーで返ってくると思っていた。
よく知らなかったのだが、どうも返却されるのは投入した硬貨とは限らないようだった。
私は返却された十円玉を再投入しては返却レバーを引くことを繰り返した。
だが、5回、6回繰り返しても「ユタカ」は戻ってこなかった。
私は諦めた。
あれだけ捜し求めた自販機に巡りあいながら、受け入れられた途端、その自販機に激しい嫉妬を抱いてしまった。
手放したくないという情念が渦巻いた。
なんだか、タイガースの選手のトレードが決まった瞬間、急に名残惜しさが湧いてくる心情に似ている。
「おい、行かないでくれよ!」そんな心情だった。
◇
こうして、この十円玉はは私の手元を去っていった。
私と「ユタカ」の交流も終わりを告げたのだった。
それからしばし時間が経って、私には反省の気持ちが湧き上がってきた。
なぜなら、私の独りよがりの哀愁と寂寥感で、もうちょっとで「ユタカ」を引退に追いやるところだったからだ。
本人の意思とはかかわりなく。
私は常々こう思っている。
人生を評価することは、自分自身にしか許されていないんじゃないかと。
だから今では、こんな結果でよかったと思っている。
ただ、その存在に気付いたのは今から三週間ほど前だった。
駅の券売機で切符を買おうと投入した十円玉が無情に吐き出されてしまう。
二度、三度繰り返してもやはり同じ。
急いでいる時に限って得てしてありがちなことだ。
「この役立たずめ!」と睨みつけてから、代わりの硬貨を投入してその場はやり過ごす。
誰もがたまに経験する日常の瑣末な出来事である。
そんなありふれている経験は、すぐに記憶から遠ざかるもの。
数日後、今度は別の自販機で同じようなことを繰り返した。
やはり、何度投入しても吐き出されてしまう。
すぐにこの前の十円玉だと思った。
「まだ財布に残っていやがったか」と舌打ちした。
日常、繰り返し経験することはリアクションまでルーチン化されている。
だから条件反射的に財布にしまいこんで、別の硬貨でやり過ごした。
ただ、しまいこむ直前、しばし十円玉を眺めてみた。
大丈夫、偽造硬貨の類ではなさそうだった。
ただ、見るからにかなり使い込まれている、年季の入った十円玉ではあった。
全体的に使い減りしていて、「昭和四十?年」の「?」の部分は、よーく目を凝らして「八」だと分かるくらいだった。
こういう硬貨でも貨幣価値にいささかの目減りもない。
人とやり取りする分には何の支障もなく使える硬貨である。
だから、こんな硬貨でも一旦財布に入ってしまえば、知らないうちに人から人へと渡っていってしまうものである。
なのでそれ以上、とりたてて気に留める必要もないのだ。
ふたたび財布に戻ったその十円玉は、私の記憶と同様、いつしか消えていくはずだった。
まさか、三度目のご対面がくることなど思ってもみなかった。
三度目は翌日だった。
自販機にいままさに十円玉を投入しようとした瞬間、その十円玉の記憶がよみがえってきた。
手にした十円玉を確認してみた。なるほど、その十円玉に違いなかった。
そして、投入した直後、その十円玉は案の定吐き出されてきた。
「また、お前か」
今度ばかりは笑いがこみあがるようだった。
よくよくその十円玉を観察してみた。
大きさ自体は他の十円玉と寸分違わないが、凹凸のエッジはメリハリを欠いて全体に丸みを帯びていた。
特に表裏にある外周の競り出た縁の部分の磨り減りが著しく、横から見ると厚みがすこしだけ薄いように見受けられた。
もしかしたらこの厚みが自販機に規格外の烙印を押させているのかもしれない。
こうも自販機が溢れていると十円玉もつらい時代だと思った。
場合によっては、日に何度も「真贋判定」にかけられる。
この「判定」のメカニズムは素人には良く分からない。
重さ、大きさ、厚みのチェックはいいとして、それ以外にもチェックをしているのかどうか。たとえば刻印模様のパターン照合、電気抵抗、熱伝導率、超音波共鳴……。
「判定」の精度を上げようと思えばいろいろ手はあるのだろうけど、百円、二百円の商品を売る自販機に大そうなメカニズムが入っているとは思えない。
せいぜい、シンプルなメカニズムを使いながら、あとは「判定」の閾値を上げることで切捨てを図っているような気がする。
世界一、自販機が普及した今の日本というのは、年季の入った十円玉には肩身の狭い生きづらい国かもしれないと思った。
この十円玉君にも若かりし頃があったはずだ、青春を謳歌する時代が。
その頃はきっと今よりエッジを効かせた凛々しい風貌だったろう。
自販機の選別にも苦もなく一発クリアできてた時代。
いつしか時は過ぎ、人から人へ、マシンからマシンへと渡り歩き、働き続けて、身をすり減らせた時、その凛々しさは手垢に染まっていったのだろう。
そして、気がつけば「ふぞろいの個性」だけが残った。
でも、それが彼にとっての勲章。人一倍頑張ってきたことの証しなのだ。
ただ、時代のほうがそれを許さなくなっていた。
たとえ貨幣価値に目減りはなくとも、自販機に認めてもらえない限り、不良品の烙印を押されてしまう世の中だ。
この十円玉が、また違う人の手に渡ったとき、また同じように「怨み節」を浴びるのだろう。
そして、いつか特定の機関にたどり着き、選別機にかけられて「不良」の烙印を押されて、回収されて廃棄されて、そして最後は原料に帰する運命をたどるのだろう。
そう考えたとき、なんだかとても不憫に思えてきた。
「昭和四十八年」製といえば中村豊と同じである。
十円玉にシンパシーを感じた私は、この十円玉に「ユタカ」と名づけた。
もしも「昭和四十四年」だったら迷わず「ひーやん」だったのだけど。
それからというもの、「ユタカ」は私の財布の硬貨入れとは違う場所に移動することになった。
それ以来、自販機に硬貨を投入する機会があれば、まず「ユタカ」を取り出して、自販機に投入することが私の日課になってしまった。
もちろん、ことごとく吐き出されてしまうのだが。
でも、「ユタカ」を受け入れてくれる自販機を見つけてみたいと思った。
偶然でも誤動作でも何でもいいから、投入後にディスプレイに「10」と表示させてみたかった。
彼の価値を分かってくれる自販機に巡りあいたかった。
それから10日くらいの期間に50台くらいの自販機、券売機で延べ100回くらい投入を試みただろうか。
にべもなく吐きだされ続けた。
100打数0安打。打率.000である。
そろそろ私も諦めかけていた。
もう、このへんにしておいてもよいと思うようになっていた。
とりあえずこの十円玉は、私の財布のお守りとして手元にずっと置いて隠居してもらうつもりだった。
仕事で訪れた、近鉄・四日市の駅前には自販機が4台ほど並んでいた。
ちょうど、人との待ち合わせで時間を持て余していた。
手持ち無沙汰にかこつけて、つい、いつものように端から1台ずつ「ユタカ」を試していった。
左から2台目に投入したときだった。
「10」
自販機にそうディスプレイされた。
ついに「ユタカ」を受け入れてくれた自販機が現れた。
私の胸は高鳴った。うれしい反面、予想外の結果に激しく動揺した。
そして、「ユタカ」をとられたくないという思いで慌てて返却レバーを引いた。
が、しかしそこから返された十円玉は「ユタカ」とは違う十円玉だった。
「え?そんな……」
てっきり、投入した硬貨が返却レバーで返ってくると思っていた。
よく知らなかったのだが、どうも返却されるのは投入した硬貨とは限らないようだった。
私は返却された十円玉を再投入しては返却レバーを引くことを繰り返した。
だが、5回、6回繰り返しても「ユタカ」は戻ってこなかった。
私は諦めた。
あれだけ捜し求めた自販機に巡りあいながら、受け入れられた途端、その自販機に激しい嫉妬を抱いてしまった。
手放したくないという情念が渦巻いた。
なんだか、タイガースの選手のトレードが決まった瞬間、急に名残惜しさが湧いてくる心情に似ている。
「おい、行かないでくれよ!」そんな心情だった。
◇
こうして、この十円玉はは私の手元を去っていった。
私と「ユタカ」の交流も終わりを告げたのだった。
それからしばし時間が経って、私には反省の気持ちが湧き上がってきた。
なぜなら、私の独りよがりの哀愁と寂寥感で、もうちょっとで「ユタカ」を引退に追いやるところだったからだ。
本人の意思とはかかわりなく。
私は常々こう思っている。
人生を評価することは、自分自身にしか許されていないんじゃないかと。
だから今では、こんな結果でよかったと思っている。

両足義足のフルマラソンランナー
島袋勉さん
島袋さんと元マラソンランナーの増田明美さんの対談記事(「論座」
増田:最初に走った距離は、どのくらいだったんですか?
島袋:トリムマラソンというのがあって、3キロでした。それも、練習してやっと走れた3キロです。
増田:島袋さんのようなケガをされた方はふつう、マラソンの「車いすの部」とかにチャレンジするんでしょうけど、そういうことは考えなかったのですか?
島袋:やっぱり「車いすマラソン」をすすめられました。一番になるのが目標ではなく、どんなに遅くてもゴールまで走り続けることが目標なので、ふつうの人と一緒に走りたかったんです。
増田:でも、トリムマラソンの1ヵ月後にはホノルルマラソンに挑戦されたんですよね。
島袋:トリムでゴールしたあと新聞記者から「次の目標は?」と聞かれたんです。そのとき、会場の垂れ幕に「ホノルルマラソン2名さまご招待」とあったのがたまたま目に入ったので、「いつかホノルルマラソンに出たいですね」と答えてしまった(笑い)。さすがに、「いつか」と強調して言ったんですけど、それが新聞に掲載されたあと、読んだ人たちが次々に「次のホノルルマラソンにでるんですか?」と聞いてくるんですよ。私、この人たち、アタマがおかしいんじゃないかと思いました。やっと3キロ走れた人に、「42キロ走るんですか?」と聞くんですからね。それでも、「いい義足ができて、もっと練習をしてからでます」と答えていたんですが、もしかしたら自分は言い訳をしているかもしれないと思ったのです。「両足がないから今すぐにフルマラソンには出られない」と。足がないぐらいであきらめちゃいけない、言い訳をしてはいけないと気がついて、それでホノルルに出ようと決意しました。
義足と簡単にいうが、義足さえつければ歩ける、走れるという、生易しいものではないらしいのだ。はじめのうちは立っていることすら大変で、ずっと痛みを伴うものらしい。だから、いくらなんでも、家の中では車椅子で生活せざるをえないのだという。しかし、高次脳機能障害のためには、歩いたり、走ったりするのが良い効果をもたらすので、義足によるランニングをはじめたんだとか。それでも努力して、やっと3キロ走れた次が、いきなり42キロのフルマラソンというのは、誰が見ても無謀すぎる。いくら良い作用をするからと言って、ものには加減がある。どう考えてもフルマラソンを走る理由が見つからない。それでも、うっかり口走ってしまうのは、この人の持つ骨太な楽天的性格によるものでしょう。結局、この人をフルマラソンに駆り立てたのは、次の目標を煽って書きたてた新聞記者でも、その記事を読んで早とちりした人でもなく、島袋さん自身ではないか。言い訳する自分に疑問を持ち、いまの義足の性能では「両足義足でマラソンは無理」と断言する医者や義肢装具士、家族の言葉に反発し、世界で誰一人、両足義足でマラソンを走った人がいないのなら、工夫してでも走ってやろうと考える前向きさによるものだと思うのだ。
『義足の性能が向上してから走ろうと思っていると、いつまでもスタートできないので、いま与えられた環境でできるだけのことをやろうと思っています。』と島袋さんは言う。そのポジティブさには驚かされる。結局、杖をついてでも前人未到の両足義足でのフルマラソン(ホノルルマラソン)に挑戦することになる。
増田:――島袋さんはホノルルマラソンを12時間59分で見事完走されたんですね。ゴールまで遠かったでしょう。
島袋:スタートして2キロぐらいで後悔しました(笑い)。足に痛みが出て、傷ができ始めたので、どうしてこんなことを始めたんだろうかって。
増田:でも、まだ40キロ残って……。
島袋:――足の痛みや苦しさを意識するとつらいので、あと100メートル先へ進んで、そこでどうするか考えよう、あと100メートル、あと100メートル……、ずっとそう考えて、ゴールをめざしたんです。
増田:それを12時間も続けたわけですか?
島袋:両足義足だと、足に血がまわらなくなってしびれてしまうんです。もう立っていられなくなるので、途中からロフストランドクラッチという杖をついて体を支えていました。
かかとのない足で支えるのだから、義足のソケットに接触する個所の痛みは避けられない。片足義足の人は、義足でないほうの足に重心をかけている間、義足の足を休めることができるから、まだよいほうなんだとか。その点、両足義足だと、つねにどちらかに重心がかかるため、痛みは間断なく襲ってくるらしい。長時間、義足で歩き続けると、ソケットに接する部分に血がにじんで、下手するとそこから皮膚が壊死する危険もあるというのだから。
ホノルルマラソンで自信をつけた島袋さんは、その後、全部で8回のフルマラソンを走りぬき、走るたびに記録を更新させて、ニューヨークシティマラソンでは、ついに8時間を切って7時間台で走れるようになったんだという。
増田:ところで、来年東京マラソンがありますけど、ご存知ですか。
島袋:もう申し込みしました。(笑い)
増田:あれは制限時間が7時間ですけど。
島袋:7時間で大丈夫だろうと思っています。
増田:また一つ、大きな目標ができましたね。パラリンピックは目指さないんですか?
島袋:今のところありません。一番を目指して走ることよりも、ふつうの人と一緒にスポーツしたいんです。短距離なら両足義足でも走れます。100メートル、200メートル走は競技としてよくおこなわれていて、私も障害者の大会に出たことがあります。出ると金メダル間違いなしなんですよ。でも、それじゃ楽しくありません。
島袋:マラソンもそうなんですけど、ケガをしてから新しい目標をつくったわけではなく、どんな状況でも夢をあきらめたくなかったので、もともとやりたかったことを続けているんですよ。小学校で話をする機会があったときに、2年生の生徒から「小さいときの夢は何ですか」って質問されて、そういえばマラソンのほかに山に登りたいという夢があったな、と思い出しました。そのとき思い描いていた山がエベレストだったので、今度はエベレストに挑戦つもりです。
マラソンに飽き足らず、スキューバダイビングや岩登りにもチャレンジして、いつの日かエベレストにも挑戦する気でいるらしい。いやはや恐れ入る。
また、こんなことも話している。
島袋:子どものころからやりたかったことをやっているだけですから。状況が悪いからと言って目標を変えるのは、よくないことです。学校や企業に呼ばれてお話しすることが多いんですけど、「あきらめない」「言い訳をしない」ということを強調しています。私は「足があれば」という言葉を使わないようにしてますし、「足がないからできない」「記憶障害があるから覚えられない」「目が悪いからできない」と自分の障害で言い訳しないようにしています。
私には、まがりなりにも、きちんと動作する二本の腕と二本の足が備わっていると言うのに。(ああ、穴があったら入りたい心境・・・)
そして、最後にこう付け加えている。
島袋:こんな大きな事故にあって、運が悪かったと考えるか、助かって運が良かったと考えるか、それだけで人生は大きく変わってくると思います。私がケガをして変わったとすれば、人はいつ死ぬか分からないんだから、やりたいことを先延ばしにしてはいけない、ということを強く感じるようになったことですね。
メメント・モリ(Memento mori)
ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句である。
「自分が死すべきものである」ということを人々に思い起こさせるために使われた言葉。
島袋さんを、ここまで突き動かす原動力は何だろう。生来、前向きな性格で、子どものころからやりたかったことをやっているんだというのだが、その根底にあるものは、この「メメント・モリ」(「死を想え」「死を忘れるな」)ではなかろうか。一命を取り留めたとはいえ、大きな代償を支払わされた彼の人生。死と対峙して初めて覚醒するものがあったはず。島袋さんの言葉の端々に、「自分がいつか死すべきものである」ことを覚醒し続けようとする強い意志が感じられる。その意志こそが、貪欲なチャレンジ精神を生んでいる源ではなかろうか。近頃、死に急ぐ人々が急増している。その人たちに、島袋さんのメッセージを伝えてあげたい。逆説的かもしれないが、「メメント・モリ」を問うてあげたい。そんな思いを強くした。
この対談で語る島袋さんは、内容から想像する重さとは裏腹に、実に淡々と語っているのがすがすがしい。中でも島袋さんに向けられる視線について、日本と外国のお国柄に言及している個所はとても興味深い。島袋さん曰く、『日本では障害者は見てはいけないと思っているみたいで、道で通りかかるときも見てない振りをしながら、すれ違った後で振り向くのに対して、アメリカ人だと、近寄ってきて「クール!」と声をかけたり挨拶してくる』のだという。
また、マラソンのとき、『日本ではゴールしたときはすごく拍手してくれるのに、スタート時は反応しないのに、アメリカだと、走り始めから声援がすごい。日本は結果評価を重んじるのに対して、アメリカ人はチャレンジすることを評価するからではないか』と分析する。なるほどと思わせる。
増田明美さんのインタビューは、とても謙遜ながら、島袋さんから話の本質を引き出すことに成功している。良い仕事ぶりです。

「君はいいな。足がないから足がつることがなくて」
機会があれば、こちらの方も読んでみたいと思った。
「義足のランナー~ホノルルマラソン42.195Kmへの挑戦」栗田智美・島袋勉共著 文芸社
このところ、パソコンのハードディスクの調子が思わしくなかったのだが、とうとうこの週末に、「X-デイ」が訪れた。ディスクエラーが頻発して、まともに動かなくなってしまった。
パソコンが動かないというのは、私にとっては一大事だ。なぜなら我が家において、私がチャンネル権、録画権を有するテレビとビデオは、このパソコンだけだからだ。こいつが動かないことには、タイガースの試合をテレビで見ることができなくなる。こいつは弱った。復旧が急がれる。幸いだったのは、少し前から壊れる予兆信号を発してくれたこと。おかげでバックアップと心の準備は万全だった。
データのバックアップは完璧だし、ディスク交換もたやすいこと。問題はOSから、再インストールしてやらなければいけないこと。OSを流し終えたら次は、ひとつひとつソフトを元通りに入れなおす作業が待っている。思いのほかに時間がかかる作業だ。でも実は、私、この作業があまり嫌ではない。増築に増築を重ねた木造旅館を解体して、更地から新たにホテルを新築するような喜びを感じるのだ。
言うなれば、「リセット」する感じ。
『リセットして、ゼロからやり直したかった』
自宅に放火した奈良の有名進学校に通う高校生の言葉だった。
社会というシステムに身を置くと、誰もがどこかに「異物感」みたいなものを感じるもの。ただ、雑多な日常が、そんな「異物感覚」を、都合よく忘れさせてくれるものだ。だからそのことに、ことさら気をとられすぎずに、生きてゆけるんじゃないだろうか。しかし、なかにデリケートで知覚過敏な人たちがいて、「異物感」を払拭することができないでいる。常に知覚し続け、どんどんストレスを溜め込んでいってしまう。そのとき彼らのとるべき方法はふたつ。「異物感」と共生する道を探るか、「異物感」を排除する術を見つけるか。少年の選択は後者だった。しかし、その方法はあまりに稚拙で短絡的で想像力に乏しいものだった。
そして、この不幸な“事件”が起きてしまった。
パソコンもテレビゲームも携帯も、リセットスイッチが備わっていることは、誰もが知っていること。だから、ついつい頼ってしまう。だって面倒なことはすべて、リセットひとつで呪文のように、全部なかったことにしてくれるんだから。一瞬にしてゼロに戻してくれる。
少年はすべてをゼロに戻そうと、リセットスイッチに手を触れた。
でも、少年にはひとつだけ考えが及ばなかったことがあった。
パソコンと違い人生には、ゼロより向こうがあることを。
そして彼の人生はマイナス側に振れてしまった。

人生リセットスイッチ(非売品)
あなたの人生をリセットします。
■ 使用上の注意 ■
・1回限りの使いきり商品です。
・本品は試作品のため、日付指
定機能はありません。どの日に
リセットされるかは不明です。
パソコンが動かないというのは、私にとっては一大事だ。なぜなら我が家において、私がチャンネル権、録画権を有するテレビとビデオは、このパソコンだけだからだ。こいつが動かないことには、タイガースの試合をテレビで見ることができなくなる。こいつは弱った。復旧が急がれる。幸いだったのは、少し前から壊れる予兆信号を発してくれたこと。おかげでバックアップと心の準備は万全だった。
データのバックアップは完璧だし、ディスク交換もたやすいこと。問題はOSから、再インストールしてやらなければいけないこと。OSを流し終えたら次は、ひとつひとつソフトを元通りに入れなおす作業が待っている。思いのほかに時間がかかる作業だ。でも実は、私、この作業があまり嫌ではない。増築に増築を重ねた木造旅館を解体して、更地から新たにホテルを新築するような喜びを感じるのだ。
言うなれば、「リセット」する感じ。
自宅に放火した奈良の有名進学校に通う高校生の言葉だった。
社会というシステムに身を置くと、誰もがどこかに「異物感」みたいなものを感じるもの。ただ、雑多な日常が、そんな「異物感覚」を、都合よく忘れさせてくれるものだ。だからそのことに、ことさら気をとられすぎずに、生きてゆけるんじゃないだろうか。しかし、なかにデリケートで知覚過敏な人たちがいて、「異物感」を払拭することができないでいる。常に知覚し続け、どんどんストレスを溜め込んでいってしまう。そのとき彼らのとるべき方法はふたつ。「異物感」と共生する道を探るか、「異物感」を排除する術を見つけるか。少年の選択は後者だった。しかし、その方法はあまりに稚拙で短絡的で想像力に乏しいものだった。
そして、この不幸な“事件”が起きてしまった。
パソコンもテレビゲームも携帯も、リセットスイッチが備わっていることは、誰もが知っていること。だから、ついつい頼ってしまう。だって面倒なことはすべて、リセットひとつで呪文のように、全部なかったことにしてくれるんだから。一瞬にしてゼロに戻してくれる。
少年はすべてをゼロに戻そうと、リセットスイッチに手を触れた。
でも、少年にはひとつだけ考えが及ばなかったことがあった。
パソコンと違い人生には、ゼロより向こうがあることを。

人生リセットスイッチ(非売品)
あなたの人生をリセットします。
■ 使用上の注意 ■
・1回限りの使いきり商品です。
・本品は試作品のため、日付指
定機能はありません。どの日に
リセットされるかは不明です。
いまさら”ブログの時代”とは、誰も言わなくなったくらいだから、すでに市民権を得た、ネットの必需品と化したのだろう。大手検索サイトがブログ検索を始めだしたことからも、そう断言できる。
ロングテイル
ある人はブログを称してこう呼ぶんだとか。
”インターネットのウェブから伸びる「情報の尻尾」。リンクにリンクがくっついて数珠つなぎになり、限りなく長い尻尾がウェブの隙間を走っていく光景”から、そう連想するらしい。
ブログがウェブや、いわゆる日記サイトと決定的に違うのが、この「情報の尻尾」にある。トラックバックが「情報の尻尾による数珠つながり」であり、RSSやAtomなどの通知機能が「情報の尻尾の公示」といえようか。ブログの本質が「情報の尻尾」にあり、そこに可能性が秘められているのだ。
しかし可能性あるところ、かならず私利私欲が見え隠れする。企業もネット商人たちも見過ごすはずがない。ブログはもはや個人の手の届かない次元に踏み込みつつあるのだ。WWW爆発から5~6年経過した。BLOG爆発も一段落したいま、メールやウェブがたどった受難を、ブログが迎えつつあるのだという。
”自由に遊ぶなら、界を限ったブログでいまのうちにたのしむことだ。”
松岡正剛 千夜千冊「ブログ」(ダン・ギルモア著)
そうしよう。急がなければ。
ロングテイル
ある人はブログを称してこう呼ぶんだとか。
”インターネットのウェブから伸びる「情報の尻尾」。リンクにリンクがくっついて数珠つなぎになり、限りなく長い尻尾がウェブの隙間を走っていく光景”から、そう連想するらしい。
ブログがウェブや、いわゆる日記サイトと決定的に違うのが、この「情報の尻尾」にある。トラックバックが「情報の尻尾による数珠つながり」であり、RSSやAtomなどの通知機能が「情報の尻尾の公示」といえようか。ブログの本質が「情報の尻尾」にあり、そこに可能性が秘められているのだ。
しかし可能性あるところ、かならず私利私欲が見え隠れする。企業もネット商人たちも見過ごすはずがない。ブログはもはや個人の手の届かない次元に踏み込みつつあるのだ。WWW爆発から5~6年経過した。BLOG爆発も一段落したいま、メールやウェブがたどった受難を、ブログが迎えつつあるのだという。
”自由に遊ぶなら、界を限ったブログでいまのうちにたのしむことだ。”
松岡正剛 千夜千冊「ブログ」(ダン・ギルモア著)
そうしよう。急がなければ。