THE READING JOURNAL

読書日誌と雑文

「天田愚庵」

2006-02-17 | Weblog
「日本残酷物語 第四部 保障なき社会」

第2章 ほろびゆくもの  士族のゆくえ 天田愚庵 

今日のところは、天田愚庵について。(自叙伝『血写経』による)

維新後の士族授産の歴史の多くは、生きんがための努力もかいなく、むざんな失敗の憂き 目をみたが、・・・中略・・・・ところがすでに戦乱のかげにじぶんの生涯の運命が決定され、それを死にいたるまで追うしかほかに生きる道のなかった、ひそ かな人々があった。・・・中略・・・天田愚庵もその一人であった。

愚庵天田五郎は安政元年(一八五四)に磐城平城下に生まれる。
明治元年六月、戊辰戦争磐城口の戦が始まり、長男善蔵が出陣した。
十五歳の五郎は、父母、妹とともに避難したが、味方の敗色が濃い中、兄が重症あるいは戦死の報が伝わり、出陣を決意し、父母の許しを得てある朝出陣した。
七月、平城は落ちて逃げる途中に、重症あるいは戦死と伝えられた兄と偶然あう、十一月に兵乱がおさまったので家に帰ると、父母、妹が行方不明になっていた。
翌明治二年、兄善蔵が父母妹を捜すため、関東から越後羽後を尋ねようと占者になって諸国を修行する。しかし、二年後の明治四年に兄はむなしく帰ってきた。
七月に藩校が閉鎖され五郎は、東京に出る。東京では小池詳敬に寄食し、落合直亮の弟子になり国学を学ぶ、また、山岡鉄舟に禅の事をきくようになる。その後、小池に従って諸国を巡るなどする。
その頃、国事へ積極的に関わるようになる。
明治八年春、岩倉具視暗殺計画のにかかわりあるとされ数ヶ月拘留の後禁固刑(30日)となる。
明治九年帰郷し、また父母の捜索に力をそそぐが、肺病にかかり、明治10年山岡鉄舟の援助で浅草梅園院で療養生活を送る。恩人小池詳敬が死去しその家族を送って京都まで行き、また父母の捜索をした。
明治十一年、国事への感心がまた燃え上がり、板垣退助の土佐愛国社と関係をもつ、しかし山岡鉄舟に呼び戻され叱責される。そして、ちょうどそこに居合わせた清水次郎長に厄介になることになる。(後に『東海道遊侠伝』をあらわす)
その後、一度は写真家を目指したが、明治十四年にまた清水次郎長の元に帰り、明治十五年に次郎長の養子となり次郎長の開墾事業を手伝う。しかし、開墾は失敗し明治十七年、また東京に帰った。
そして、明治二十年に雲水となり名を鉄眼(てつげん)と改める。

こうして明治戊辰の動乱に見失った父母妹を探し求めてきた天田五郎は、むなしい二十年 の末に一介の雲水となって、社会人としてのいっさいの可能性を放棄してしまったのである。父母を尋ねるための行脚旅行でなめた辛酸は、今日では想像もつか なぬほどのものであったが、それはまた見失われた過去と自身の影像を追い求めようとする五郎の、異常な衝迫にかられての旅ではなかったか。

禅僧になったのち、数々すぐれた歌を作り、正岡子規の師となり、明治中期の歌人として知られるようになった。
愚庵は明治三十七年(一九〇四)五十一歳で死んだ。

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「中学1年 英語の文型ワーク」

パターン9 He is  ~. / She is ~.

第1グループ、1サイクル

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「英会話・絶対音読 入門編」 國弘正雄 編 

Lesson 6 Gestures Talk TRACK 18 このジェスチャーはどんな意味ですか?

サイクル1回目
  1. テキストを見ながらリピーティング(5回)
  2. 音読(15回)
  3. テキストを見ないリピーティング(5回)
  4. シャドーイング(5回)
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お山の家に行ってきま~す。
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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
気節論② 豪傑 ()
2006-02-18 11:44:10
豪傑に巡りあった



子規の思いがここにあったのかも知れない。



それが失われ行く激動波乱の時期に重なる
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天田愚庵 (ツクジー)
2006-02-20 11:39:45
潔さん



どうも、コメントアリガトウございました。



天田愚庵って人については、ボクも全然しりませんでした?

経歴からいうと、世が世なら一角の働きをした人だろに・・・と思います。
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