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古城(山城)を行く 大熊城

2017-11-15 20:31:16 | 歴史

城主   :戒能通運・戒能通森

築城者 :不明

築城年 :不明

標高   :906m/比高約700m

形態   :山城

今回の大熊城探索には、大変苦労しました。下見では、大きな目印看板があるので

安心していましたが、尾根が多数あり道路からの、登り口がわかりません。

迷うこと2日、下見を含めて、計4日、費やしました。山の環境はそれぞれちがいますので

今回は良い教訓になりました。

では、大熊城について、簡単に説明いたします。大熊城は重信川支流と井内川に

囲まれた山塊の最長部、標高906m/比高約700mの地点に位置する。

中予地区の山城でも最も高い部類に属し、それだけ要害堅固な城となってるそうです。

遺構は1と2の郭があり、堀切が数個ありましたが、井戸とか、石ずみなどは

見つかりませんでした。戦国期の城主としては、戒能通運や、戒能通森が知られています。

戒能通運は、1533年支城の小手ヶ滝城を居城としていた時、久万の大除(おおよけ)城主

大野利直に攻められて大熊城にのがれ、ここで、大野軍を撃退したと言います。また

戒能通森は戦国末期の河野通直(牛福丸)の側近にあっておおくの合戦に軍功が

あったと言われています。

所在地 愛媛県東温市川内町大字則之内

松山市内~11号線を高松方面へ~川内町則之内交差点を右に(210号線)へ

道なりにしばらく走ります。

左に西谷小学校をすぎて井内地区に入ります。しばらく走ると右に西谷公民館

その先の210号線に入ります。(少し注意しながら)

しばらく走ると次を左(惣田谷へ)へはしります。

しばらく走ると左下に一軒民家があります.

この家の了解ヲ得て、お墓に駐車します。ここから見上げた奥の山

ここから、下がったところに大熊山の標識あり

ここからしばらく、コンクリート道をあるきます。コンクリートの道は、ここまで、ここから30分~40分歩くと 大熊城の山に入ります。

標識も立てましたが、目印は、大きな石が右側にあります。

薄暗い山中を尾根に向かって登ります。

城郭からの下は急峻出会うので注意して降ります。

(^-^)//""ぱちぱち 無事に下山そして大熊城攻略\(^o^)/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


古城(山城)を行く 小手ヶ滝城

2017-11-05 20:07:08 | 歴史

城主   :戒能備前守道運(みちのぶ)

築城者 :不明

築城年 :戦国時代(1497~1900年)ごろ

標高   :529m/比高170m

形態   :山城

 

地形的には南方の善神山から北に向かって伸びる尾根の先端部にあたるが

一段高く突出している為井内の集落からは独立丘陵のようにみえる。

戒能備前守道運(みちのぶ)の居城であった。道運(みちのぶ)は久万大除の城主

大野年直と戦ったが、用水路を絶たれて落城、大熊城へ逃げた。中野の畔には

無縁塚、無縁墓が数多くあるが、これはこのときの戦いに戦没した兵士の墓で

あるといわれる。主郭の南側は、急峻な崖となって大きな堀切を形成し、さらに

尾根の南方下って行く途中にも堀切があり、このように小手ヶ滝城は堀切や

土塁を多く持つことによって要害堅個な城を作りあげている。

所在地 愛媛県東温市(旧川内町)井内

松山市内~東温市則之内の信号を右に(R210号線)曲がります。

ここから道なりに約1km走ります。

 表示板が小さいので(注意しながら)走る

登り口まで、到着です。

ここに駐車します。

ここから登ります。道はそんなに悪くないです。

もう、まもなく到着です

到着です・

 

 

 

 

 

 

 


古城(山城)を行く 柴尾城

2017-11-04 16:05:30 | 歴史

 

城主   :越智通冨

築城者 :不明

築城年 :不明

標高   :419m

形態   :山城

 

城は猪木地区に有る河野神社の南背後の山にある。北に伸びた尾根の先端は

削平地があるように書かれているが、現在は見えず平坦ではない。

城の状態に関しては全壊とあるが理由はわからない。堀切と思われるもの1ヶ所

石積みのところが2ヶ所確認。

二将の墳墓:柴尾城主越智河内守(かわうちのかみ)道富。高手山城主越智甲斐守

(おちかいのかみ)通誘を葬る他。二将は親王を奉じ足利義正の兵と各所に転戦して

最後は高穴(たこな)城に拠って防戦すること月夜遂にたおる。

所在地 愛媛県松山市猪木(北条)

松山市平田町からR196号線大谷トンネル~栗井坂トンネルを過ぎて北条に入る。

しばらく走ると右に文化の森が見えてきます。そこから数百m進むと信号を右に

R17号線に入り、道なりに走ります。しばらく数キロ走ると北条カントリー(ゴルフ場)

入り口を右に見て約1kmはしると才の原標識が見え、民家のところに赤い回転灯が

見えます。そこを右に登ります。

到着です。

今日は晴天で遠望が良く見えます。

今日は、柴尾城と勝根山城を攻略いたしました。

 

 

 


古城(山城)を行く 勝根山城

2017-11-04 12:57:43 | 歴史

 

城主   :杉宣親

築城者 :不明

築城年 :不明

標高   :395m

形態   :山城

 

城は猪木地区の北東背後の山頂、道がないので山を尾根に向かって登って行き城郭

らしい所に到着した。どうも城跡の雰囲気がしない。自然の山にしか見えず削平

されてるような地形も見当たらない、近くの柴尾城が(全壊)とあり、柴尾城も

城郭の雰囲気が残ってないことから勝根山城も破壊されたのかもしれない。

所在地 愛媛県松山市猪木(旧北条)

松山市平田町196号線から大谷トンネル~栗井坂トンネルを過ぎると北条にはいります。

 しばらく道なりに走り右側に文化の森が見えてきます。そこから数百m先に信号があります。

 その信号を右へ17号線(北条~玉川線)はいります。そして道なりにはしりますと、右側に、民家

 に取り付けてある赤い回転灯のところを右に登ります。

勝根山山城はまっすぐ進みます。

ここから歩いて登ります。車はここに駐車です。

ここが本丸と思われる.遺構は確認できませんでした。

入り口が少しわかりずらいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


古城(山城)を行く 森山城

2017-11-04 09:07:30 | 歴史

城主   :富永直安

別名   :沖のもり城

築城者 :不明

築城年 :不明

標高   :35m(比高20m)

形態   :丘城

 

肱川とその支流である八河川が合流する地点の東に低い丘にある。

現在は神社の境内なっており周囲は水田であるが地元の人が言うには

もともとは肱川の氾濫による湿地帯であった。道路から田んぼのあぜ道を

通って行く。頂上は西側が一段高く、櫓台状になり、その上に社が祀られておる

曲輪が2ヶ所ある。道路を挟んで反対側ん民家の庭に墓石がある。

その人の話では、もともと違う場所に転がっていたのを、先祖のひとが、ここに

持ち帰り、この庭に立て、今も管理してるとのこと、どうも、戦いで討死した兵の墓らしい。

 

所在地 愛媛県大洲市森山

内子ICを下りて、左に曲がり、その先を斜め左に進み次の信号を左に走る。

内子五十崎に入り、内子役場に到着

  

  

       

その先を右(橋を)渡り、信号を左に行き179号線を行きます。     

 

 

道なりにしばらく走ると、道の駅(清流の里ひじかわ)が見えてきます。

更に走ると前方に信号と橋が見えてきます、そこを左にとり橋を渡ります。

橋を渡り終わったら、すぐ先を右に走ります。

更に進むと大洲市大川公民館の前、小学校前を通るとまもなく右側に小高い

森が見えてきます。

民家の庭にある討死した兵の墓と思われる。

裏の肱川には、水がきれいですので、鮎、ハヤ、小魚、また野鳥もいるそうです。

昨年と、今回2回行きました。

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 


古城(山城)を行く 三滝城

2017-11-03 21:33:48 | 歴史

 

別名   :御岳城

城主   :紀氏  初代は実定(甲之森城主)

築城者 :紀実次

築城年 :1429~1441年ごろ

標高   :642m(比高258m)

形態   :山城

 

三滝城主は紀貫之の末裔であるといわれ、貫之13世の孫式部卿紀、実定が伊予国周知郡

北ノ川庄5300貫を拝領して京都より下向、甲ヶ森領7城22邑の大守なったと伝えられる。

実定の孫実次は三滝山に築城してこの要害に移った。孫実道の子勝千代(実勝)が継いで

早世し、その弟道安が相続、湯築城河野の女をいれて室とし家紋を丸の沢潟の紋所から

角切内糸輪縮三文字に代えた。その子経安は北之川庄を窪野村、土居村に改めた。

その室は土居清良の女である。経安の子親安が相続して七城の主となり、その武威は

近隣になった。長曽我部元親の妹婿波川玄蕃の女を入れて妾とした。

波川玄蕃の叛意に気脈を通じた言う口実をもって、元親は部下の将久武後内蔵介、

桑名太郎左衛門らに手勢一万三千余騎を与え、この三滝城を攻めさせた。

城兵火花を散らし防戦したが敵は新手を入れ替え、入れ替え攻めかえし、本丸を乗っ取り

二之丸にせまった。三滝勢の大半は討死した。親安、もうこれまでと依岡左京と組み打ちして

悲壮な最期を遂げた。1583年一月十三日でした。

 

所在地 愛媛県西予市城川町土居

内子ICを降りて左に走りすぐ先を斜め左に入り、次の信号を左にまがります。

内子役場を過ぎて右に曲がり、橋をわたります。

橋を渡り左229号線をはしります。

道なりにしばらく走ると道の駅(清流の里ひじかわ)が見えてきます。

更に走ると前方に信号がみえます、その信号をひだりに(橋です)とります。

ダム湖畔を過ぎ、トンネルにはいります。

道なりにしばらく走ると城川地区にはいり、道の駅(きなはい屋しろかわ)に到着。

道の駅(きなはい屋しろかわ)のすぐ先の信号を左(2号線)に入りトンネルにはいり

道なりに走ります。

もう少しで、三滝城入り口の標識(注意してみる、右側)

ここからは、車ではいけません。ここからの距離約500mです

もう少しで到着します。

1日で攻略しました。


古城(山城)を行く 甲之森城

2017-11-03 13:37:01 | 歴史

 

別名   :かぶとのもりやま城 ・甲が森城

城主   :紀氏(実次) ・長山伯守豊岡

築城者 :紀実定

築城年 :1394~1428年ごろ

標高   :451m(比高251m)

形態   :山城

伝承では、甲の森城は紀貫之13代の孫式部卿紀実定が伊予国周知郷北之川床5.300貫を

拝領して、京都より下向して築城されたとされている。資料が少ないためあくまで伝承です。

そして当城主は、下記の7城と22ヶ村の太守となったと言われてる。

1:甲之森本稿

2:三滝城

3:大香城

4:鎧ヶ端城

5:白岩城

6:猿ヶ森城

7:白石城

 

1585年(戦国時代)土佐の長宗我部氏が南予に侵入し、甲之森城の城代、長山伯耆守豊岡は

当城に拠って守備したものの衆寞敵せず落城。長山白耆守豊岡は自害したとされるが、一説ではその後

長宗我部氏の被官となって活躍したとも言われてる。電波塔が立ってるところが、本丸、二の丸

三の丸といわれてるが、現在は電波塔関連の施設が出来たためその他の遺構は

確認できなかった。

 

所在地 :愛媛県西予市城川土居

内子ICを降りて左に走りすぐ先を斜め左に入る

内子市役所を過ぎすぐ右の橋を渡り229号線を走ります。

 

 

川沿いに沿って道なりに走りしばらくすると、前方に橋と信号が見えてきます。

その信号を左に曲がり、橋をわたります。

さらに走ると、道の駅(清流の里ひじかわ)が見えてきます。

更に進んでいくと左にダム湖見ながらトンネルに入ります。

道なりに走ると城川に入ります。しばらく走ると道の駅(きなはい屋しろかわ)が

見えてきます。

道の駅(きなはい屋しろかわ)のすぐ先の信号を左(2号線)にはいります。

トンネルをすぎ道なりにしばらく走ります。

オレンジの標識ポールから焼く400m先を左(坂道)に登ります。

頂上に到着しました。

ここを左に数約十m進むと甲之森城跡です。

甲之森城跡

以上2日で攻略です。ヤッター!(^.^)>