生き生き人生.

お出かけが、身体と心を元気にする。また、楽しい,うれしい,面白いこと,そして、ステキな仲間にも出会えます。

古城(山城)を行く 高尾城

2018-11-23 20:12:05 | 歴史

城主   :石川通清 河野氏

築城者 :石川通清

築城年 :享禄年間(1528~1532年)定かでない

標高   :240m/170m

形態   :山城

 享禄年中(きょうろくねんちゅう)-(1528年~1532年)周布郡(しゅうぐん)

の旗頭(きとう)に黒川氏がおりました。剣山城に居を構え、その勢力は

東へ東へと延びていました。新居(にい」郡の石川氏は高峠城にあって

二代勢力は互いにぶつかり合いしばしば不和、闘争に及んでいました。

郡堺(ぐんざかい)における領民同士の争いが原因となる両氏の

大きな戦いが、二度ほど記録されています。石川氏は黒川氏を牽制すべき

地を捜し求め、氷見尾土居(ひみおどい)に格好の場を見つけてここに

高尾城を構築し、有利な条件で和睦を結ぶことに成功しました。

高尾城が出来てからは、高峠城城主石川伊予守(いよのかみ」の家臣

である石川源田夫(げんだゆう)が、高尾城の城主として居城することと

なりました。源太夫(げんだゆう」は頭脳明唽(ずのうめいせき」で文武

両道に優れた実力者でありましたが、やがて高峠城勢に恐れられ

妬(ねた)まれるようになり、我儘や奢(おご)りによる陰謀の心ありと誘いだされて

騙し討(う)ちにあいます。場所は伊曽乃神社(いそのじんじゃ)南東の

木挽原(こびきはら)が選ばれました。

遺構は掘り切りが4条、曲輪が前方に4ヶ本丸の奥に1ヶあるようでした。

そのほかには、遺構は見つかりませんんでした。

所在地 愛媛県西条市氷見尾土居

車で国道11号線を松山市~川内町~桜三里~へと走り小松IC入り口から

約5km走ると下写真交差点につきます。そこを右に入ります

左に四国車体、右側はスーパーです、

ここから約500m進むと右へ進みます。直進すると右側に神社(行きすぎです。)

数百m走るとトの交差点があります、そこを右に入ります。

その先、右側に神社あり(行きすぎです)

先交差点(信号なし)左に曲がります。

さらに数百m進むと高速道路が見えます。その下を通過すると到着です。

登り口標柱のところが、登り口です。橋を渡ります。

道跡がありますので、当分道は、分かりやすく登れます。

先ほどの高速道路です。

西条市氷見町が見えます。

しばらく登っていくと案内板標(古い)のでどちらか少し考えて左に進みます。

正解かな?

ヤバッ(; ̄◇ ̄)

赤い印がありました。('ー^*) オッケ!!

掘り切りらしい遺構が見えてきました

掘り切り発見(1)

掘り切り(2)

掘り切り(3)

掘り切り(4)

掘り切り(5)

到着のようです?

本丸と思われます。

奥に曲輪らしい跡が2箇所ありました。

本丸からの瀬戸内海の遠望、西条市(丹原、小松、東予」、新居浜市など

見えます。本日は霧がかかっており、眺めがいまひとつですが、晴天で

運よく当たれば、すばらしい眺望が期待できます。

 

 

 


古城(山城)を行く 恵良城

2018-11-22 08:54:43 | 歴史

城主   :河野通清、河野通尭、土居通世、得意通久

築城者 :河野通清

築城年 :1180年

標高   :302,1m

形態   :山城

高縄山が河野氏発祥の地河野の郷、河野郷を忠心に周囲の

山々では全て河野氏の城塞が築かれていた。鹿島城

恵良城、名石城、日高山城、神途城、高穴城(たこな),雄甲城

(おんこう)雌甲城(めんこう)、横山城、宅並城(たくなみ)等は

いずれも重要な河野氏属城となっていた。

つまり、本城や本城の支城とノロシを上げて連絡をはかる

物見台と考えられる。湯築の本城の控え要地として河野氏盛衰

に直接的役割を果たした城です。

所在地 愛媛県松山市難波

松山市ないから196号線を今治方面へ車で走ります。

平田町より環状線に曲がり北条へ向かいます。

2ヶのトンネルを過ぎると、松山市北条(旧北条市)にはいります。

前方に見えるのが恵良城です

更に数十キロ走り、旧北条市中通のところを左に曲がります。

すると200m先ファミリーマートが見え、ここの信号を左へ

そこから約200m先を右に入ります。

さらに数百m行くと交差点(信号なし)を左に行きます

さらに突き当たりの、お堂を右に曲がります。

数百m走ると。右側に難波小学校裏側にでます。

左カーブすると、石柱で案内板があります。ここを左へ行きます

この先、先に看板があります、ここを右にはいります。道幅が狭く軽自動車で

登れます。(普通車では,行けません)

前方恵良城が見えます。

みかん山の中を登って走ります

鳥や(ホウジロ)、小さいため池にカモが、いました

まもなく、神社に到着です。ここに駐車いたします。

境内の中を通って進みます。

もう、そろそろ到着です。

到着しました。\(^o^)/

遺構らしきものは、見つかりません。鎖が(約15m)ある頂上へ登ります。

やれやれ!パチパチ☆

すばらしく、絶景です。

さ~、ぼちぼち下山します。

凄い。この木は逞しく生きておる、

 恵良神社までは来るまで行くことができますが、軽自動車しか行けません。注意して下さい。

山城探検日 :2018.11.16(金曜日)晴れ

 

 

 

 


古城(山城)を行く 鳥坂(とさか)城

2018-05-04 13:40:23 | 歴史

別名   :岩の森城

城主   :不明

築城者 :村上吉継

築城年 :戦国時代(1467~1590年頃)

標高   :330m/比高60m

形態   :山城

 

城郭を見つけるのに、3日を要した。国道56号線の鳥坂(とさか)隋道

を抜けてすぐ西に小高い丘が見える。それが鳥坂(とさか)城である

言は、事前に知っていましたが、戦いは峠の頂上だろうから、城郭も

その辺にあるだろうと、自分ながら勝手に思い、峠の頂上の東や

西の尾根に入ってしまい、無駄な苦労をいたしました。

は数件ありますが、普段は留守であるし、やっと会えて尋ねると

今の時代の人ばかり、仕方なくこの山は間違いないので、自分で

探さねばと思い、峠の山へ入ったしだいである。やっぱり分からない

ので、ある夜、山の下にある一軒の家をたずねました。さいわい

会うことが出来、尋ねると、以外や返答がもらえました。資料を見て

標高が330mなので、私が探した峠は500mくらいあるから、多分

すぐ近くにあるでしょうと、教えていただきました。この話を聞いて

元気が出ました。日を改めて探すことにいたし、帰宅いたしました。

さて、鳥坂(とさか)城とは、1567~1568にかけて、喜多郡と

宇和郡の境を舞台に、河野・毛利の軍勢と、宇都宮・一条の軍勢が

戦いました。戦国伊予における有数の大合戦では有りましたが

河野・毛利優勢のうちに戦いは終わりました。

所在地 愛媛県西予市宇和町久保

高速道路松山ICから大洲ICまで車で走りますICをでてすぐに

宇和島方面(無料区間)へ走ります。

しばらく走ると、(無料区間終わりの)看板が見えてきます。

そこを左に下りて行き、信号を過ぎて急56線(左へ)に進みます。

 

しばらく走ると長いトンネル(鳥坂隧道)がみえてきます。

トンネルを過ぎて(約15~16m)すぐ左へ曲がります。

前方に小高い山が見えます。鳥坂城はその奥にあります

登り口の道は現在遍路道となっており最高地点は標高470であります。

下の写真は、大洲藩鳥坂口留番所跡です。戦国時代鳥坂城が要衜で

あったように、江戸時代になっても重要な場所であった。

しばらく坂を歩いていくと(約15~16m)左側に大きな石がつきでています。

そこを左に登ります。

竹やぶの中を登るとまもなく鳥坂城に到達します。

遺構はないかな~

この鳥坂城の土地は、昭和時代個人の土地であった?

 

 


古城 (山城)を行く  米津城跡

2018-04-07 14:04:30 | 歴史

別名   :滝ノ城

城主   :津々喜谷延行 もともと鎌倉時代に、守護として国入りした宇都宮家が

      地蔵ヶ嶽城(大洲城)を築城した宇都宮豊房の治世より代々治めていた。

      その時、同族の宇都宮氏が津々喜谷性を名乗り当地に米津城を築き

      居城とした。

築城者  :定かでないが宇都宮行胤

築城年  :1334年~1338年

標高   :145/137

形態   :山城

 

城主は南北朝期から、この地域の小領主として勢威を有していた津々喜谷延行である。

喜多郡地頭宇都宮氏の代官として下野国宇都宮滝村から入部したと言う。

その後、大洲地蔵嶽地主(大洲城)宇都宮氏と共に肱川流域一帯の支配に

あたったものと思われる。その支配の拠点が本城(米津城)である。城(米津城)は

肱川のほとりの岸壁の山の上にある。天正(1579年)土佐(高知県)の長宗我部に

よって攻められ落城、津々喜延行は、大洲市(手成)の西禅寺にて自刃したのである。

又、奥方である瑠璃の方は、幼いときよく遊びに行った白滝公園へ辿りついたが

土佐の長宗我部氏に奮戦むなしく遂に落城し、2歳になる世継ぎ尊雄丸(たけおまる)

を小脇に抱き60m下の滝つぼへ投身した(瑠璃姫の伝説になってる)のである。

遺構は、墓、建物などの跡などは見当たらなかった。本丸の一段下がった二の丸に

石で囲った水溜りのような形跡が見られた。又、掘り切り、二の丸、三の丸があり

本丸の斜面には竪堀が見られた。数十年~数百年前には、人が祀ったと

見られる四角い石済みがあり、その上に祠があったと思われる。

 

所在地   :愛媛県大洲市米津

松山市から56号線を宇和島方面に走り、伊予ICより約800m先を右折し378号線

を海沿いに走ります。双海シーサイド公園をすぎJR長浜駅まで約26.0km

その先の信号を左折氏、24号線に入ります。

ここから長浜駅まで約26.0km。その先の信号を左折

ここから白滝公園バス停まで約6.2km走ります。バス停を右折するとJR踏切があります。

踏み切りをわたって左折します。しばらく行くと白滝公園駐車場があります。

これから、七つの滝を見ながら階段を登って行きます。

七つの滝とは下から①落会の滝②会歓(ねむ)の滝③雄滝(おだき)④雌滝(めだき)⑤貫洞(ぬけんどう)の滝

⑥来光(らいこう)の滝⑦都の滝

 

ここが瑠璃姫が尊雄丸とともに投身した、滝壺

次に米津城へ行きます。24号線を八幡方面へ約1.1kmはしりますと斜め左へ入ります。

すぐ左に入ります(右に側にカーブミラー)があります。

ここから4.0~5.0kmで米津城跡(駐車場所)まで行きます。

この辺のの人に尋ねれば大丈夫です。

ここに車を止めます

ここから入山します。ここから米津城跡の山が見えます。道跡があり途中までは平坦な山道です

尾根を登ります。道跡があります。急な坂はありません

もう少しで到着します(頑張れ<<<)

到着したようです

ここが祠のあった石済み

東、南、西,三方は断崖絶壁です

遂に攻略成功<<オメデトピヨピヨ♪★

こんな絶壁城を長宗我部は(戦国時代)どのような戦略で勝ったのでしょう?????

戦国時代の戦いとは??

 

 

 

 

    

 

 

      


古城(山城)を行く 松森城

2018-01-11 14:57:25 | 歴史

城主   :森岡喜三左衛門尉

築城者 :不明

築城年 :1575~1577年頃

標高   :405m

形態   :山城

 

松森城は土佐の長宗我部元親の

伊予来襲に備え1575年~1577年

頃造られたものと推測される.山頂付近は、

雑木に覆われていますが、山頂は削って

平らにし、その広さは約30アール位

あります。その台地は一の丸、二の丸、

三の丸と、言えるでしょう。ここには、

昔の原形を忍ばせる堀り割があります。

この掘り割を乾堀といいます。一度,蟻が

落ち込めば、再びはい上がることが出来ないと

言うことから、実に巧妙な工夫をこらした

つくりです.そこで又の名を蟻地獄堀とも

言われています。長宗我部軍は海路より

ひそかに犬寄峠に登り、根中城を

(根中城については、改めてブログに載せます)

手中にし、尾根伝いに攻めました。又一方は、

陸地を経て川沿いに攻め、双方より雲霞(うんが)

のごとく攻め入る大軍に、遂に力尽きたのです。

この炎を見た勇敢な兵たちは、影浦の小高い

山にかけ登り、焼け落ちていく城を見やりながら

無念の涙をのみ、互いに刺しちがえ、あるいは

切腹して果てたと言われています。この地を

(みやり塚)と呼び、五輪の塔が十数基

祭られています。日浦峰成(名)に

城主森岡喜三左衛門尉・奥方の墓として

五輪の塔が二基並んでいます。更に誓明寺

には城主の位牌が祭られています。

松本城ふもとに清冷寺があります。

名を大乗山棲霊寺とも言い、城主の

ぼだい寺であったとも伝えられています。

ここには、地蔵菩薩立像が安置されています。

又清冷寺の上に武士,建岡六衛門の墓があります。

竹岡家先祖の墓標があり、その周辺には

五輪石が数多く並べられています。これらの墓等に

ついてはまだ寺の調査していませんので、時間が

かかりますが出来るだけ調べたいと思っています。

それから,城主の子は、伊予市中山町に出て商人になった。。

 

所在地

愛媛県伊予市中山町大字佐礼谷字日浦

 

松山から国道56号線を宇和島方面へ走ります。数キロ走ると

三坂峠に入り、三坂トンネルの二つ目の長いトンネル(約 1000m)を

抜けるとすぐに左方向(佐礼谷方面)へ進んでください。

 

道なりにしばらく走ります。

約30分走ると松森城、根中城の矢印看板が見えます。そこを右に緩やかな坂を走ります。

ここから約30分~40分走ると、松森城、根中城に着きます。道路は広く

アスファルトですので、外車(ヾ(@^▽^@)ノわはは)でも大丈夫

根中城と松森城は続いています。根中城の奥が松森城になります。

根中城は広場と、駐車場になっており、桜の木がいっぱいあります。

松葉城も公園になっており、遺構はあまり、ありません。

松森城に着きました

掘り切りですか?

曲輪みたいです。

掘り切りかも・・・・・

木が小さければすばらしい景色なのに、残念です。木を植えるときに、眺めのいい

すばらしいところを2~3箇所明けとけば、何年立ってもいい景色がながめるのにな~

公園用の道に切り取ったみたいだな~

ここは、公園になっていますので、桜が咲く頃家族で行くと楽しいです。

 

 

 

 

 


古城(山城)を行く  伊福城

2018-01-10 16:19:08 | 歴史

別名   :扇城

城主  :仙波盛綱(七代)・仙波盛景(十二代)・仙波盛政(十三代)・

          :仙波盛賢(十四代)   仙波盛忠(盛賢の弟、十五代)

築城者 :出渕盛景、出渕盛政(盛景の嫡男)

築城年 :1551年

標高  :437m

形態  :山城

 

城主仙波盛綱(七代)は、室町時代(1336~1573年)の初期に武蔵の国川越仙波城主でした。

足利尊氏が天皇方の楠木正成らに敗れ、いったん九州に逃れたけれど強い勢いで再起を図り、

都に攻めあがった時、武家方に味方した仙波盛綱はその九州蜂起の際の手柄によって

足利尊氏から越後守に任ぜられ、伊予の国浮穴郡七万八千石を賜って同城の城主となった。

その後十二代盛景、十三代盛政十四代盛賢ら三代の居城となりこの地を領有していた。

盛景の代に至って、家の名声が大いに上がり出渕(名)に城郭を構え盛賢寺を再建するなど

人のためを考えた良い政治をしたとのことです。

1564年曽根城主、曽根宣高は大軍を率いてこの伊福城に向かってきました。

1564年の四月~七月まで城を取り囲んで日夜双方の攻防が続きました。

味方に不利な悪戦苦闘が続きましたが決死の戦いで天運にも恵まれて曽根勢をさんざんに

打ち破り300人余りを討ち取り敗走させたといわれています。

しかし、城主盛景の死去の隙をうかがって1571年曽根勢はふたたび伊福城に兵を向けました。

そのときの城攻めに寄って盛賢の弟十五代盛忠は、遂に戦いに負けて相手方に従ったと

伝えられている。また、この城は1585年9月秀吉の四国征伐の際に長宗我部の軍勢のため

盛景寺と共に兵火にかかって炎上しました。盛忠は城を出た後、性を仙波と改めて庄屋となり、

子孫代々この村の庄屋となる土台つくりをしました。また信仰心も厚く、

兵火に焼かれた盛景寺の再建に特に力を尽くしたそうです。

 

所在地 愛媛県伊予市中山町大字出渕字漆

 

松山市内から国道56号線を宇和島方面に車で走ります。約1時間走りますと

中山町にはいります。中山高等学校から約1.3km走ります。

約1.3kmくらい走ると速度を落とし、下図を確認してください

とまった所の右図は、遊栗館公園です。ここに駐車してその先が伊福城、登り口です。

別のところから途中まで車で行けますと地元の人に聞きましたが、徒歩での挑戦

さ~出発GO,GO

昔は、上のへ行くための道、また、馬や、牛で木材をおろしていたそうです。

全く人は通りませんので、見当がつきません。

(;◎_◎)ノ ヤバヤバ     

                                  

これは、ひどいです。<(; ^ ー^) マイッタマイッタ...でも・・GO,GO  

道なき道を尾根に向かって登ります。

 

\('∇'*)や?小屋、に畑、らしい?道路?かな~

ア。。ここまで、車で向こうから、これるんだ('ε') フーン  

 

あのあたりかな?        GO,GO  

ここから、登ります

眼下は中山街です。遠くは、中山村落です

上から眺めた!

これから、林の中を登ります。目印も付けなくちゃ(● ̄▽ ̄●;)

目印を付けて登ります

尾根みたいだ!これを右?それとも左?ん~右に登ります

尾根から約30分登って遂に伊福城攻略  ヤッター!(^.^)>

遺構は、堀切が数箇所、また曲輪が数箇所あり、かなり広い城郭と思いました

往時をしのばせる墓石  激しく戦い、戦士した兵の墓

 複雑な山は下山するとき迷う恐れがあります。目印は必要です。

持ち物は,ライト、薄い合羽、ヘルメット

ロープ(8径×10m)、目印テープ、手袋、ナイフ、

カメラ、 飲料水、非常食、

獣対策の音の出るもの、

方位計,携帯電話、等

 

 

 

                                                    

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


古城(山城)を行く 菅田城

2017-12-06 14:34:40 | 歴史

城主   :大野直之

築城者 :大野上総介直之

築城年 :戦国時代(1467~1590年頃)

標高   :200m(比高/130m)

形態   :山城

築城期は確定していないものの、大洲城の支城として戦国期(1467~1590年頃)

大野直之が築城したと言われてる。大野氏は久万高原町の大除(おおよけ)城主

大野道直の六男とも言われてる。伊予大野氏の名が出てくるの

南北朝期(1336~1392年頃)1368年、丹波、丹波守護であった仁木義ヲ(よしただ)が

武家方(幕府)として伊予に入ったとき南朝方として仁木義ヲ(よしたか)と戦ったのが、

大野氏や吉岡、森山と言われてる。しかし、この戦いで大野氏らは、敗れる。

大野直之については、戦国期における下克上のもっとも殺伐とした時代を、代表するような、

残忍、冷酷な首領であった。

伊予での戦いの場所は、現在の内子町東部小田川周辺部であったと言われているため

久万高原町地域を本拠としたのはその後と思われる。下って室町期(1336~1573年)

にいたると、大野氏は、隣接して支配していた森山氏と共に細川氏と仲間になり

伊予河野氏と対立していた。

遺構は,郭、空堀、石ずみなど、見る事ができた。 

 

所在地   :愛媛県大洲市菅田町菅田

高速道路内子ICを降りて左に曲が直進します。

 

約100mくらい進むと斜め左へ進み信号を左に(五十崎町方面)進みます。

しばらく進むと信号を左(橋)わたり右に進むと内子町市役所があります。

次にその先の交差点を右に(橋)をわたりそれから左(R229号線)になります。

しばらく道なりに走ります。

 

左の店から約10分~20分走ると橋と信号のところに到着します。

この信号を大洲方面へ走ります.約7.3km走ると菅田町商店街入り口につきます。

菅田町商店街入り口です。

少し先を右に曲がります。

泉徳寺方面へ坂を走ります。

泉徳寺へお願いすれば、駐車できると思います。

今回は、寺の下の空き地に無断駐車しました。

ここから登山口までが、分かりぬくいので、写真どうりには自信ありません。

出来れば、民家がありますので、尋ねてください。

駐車した所から歩きます。ここから数百m戻ります。

ここの民家の方がおられましたので、訪ねると、この先の谷川に沿って登れば

尾根に着きます。尾根に着いたら、右に尾根を歩きます。

右側が谷川です。ここからが少しきついかな(*'へ'*) ンー

険しい道になりそうだ~

(;◎_◎)ノ ヤバヤバ  この先簸、想像できません、とにかく尾根まで。。。。

まだ今のところ道らしい、いまのところ安心!

谷川から離れていきます、目印を付けなくちゃ

もう少しで、尾根かな?

尾根に到着 ヤレヤレヽ(~~~ )ノ

城の周りが見えてきた     石積みだヤッター!(^.^)>

 

 

 

郭の周辺は急な崖になっておるので、持参のロープを使って降ります。

下山途中、目印が分からず迷いました。仕方なく尾根からは、まっすぐ下に降りれば何とかなる

だろと思い、山を降りました。着いたところは、朝、登ったと所とは、あまり離れたところではありま

せんでした。の人に尋ねると、登山口も2~3ヶ所あり、また、登山口までが道が狭いのと、

入り口がたくさんあるので地元の人に尋ねれば、教えてくれるそうでした。

それでは、菅田城の城主(大野直之)の墓があります。現在大野直之の家系に

ある人(大野さん)が管理されてるそうです。日を改めて家を訪ね、話が聞ければと

、思っています。では、大野直之の墓へ行きます。最初に駐車したところからの道順です。

泉徳寺までいきます。

泉徳寺とは関係ないそうですが、住職様に許可を得てここに駐車します。

矢印の方に坂を歩きます。泉徳寺の墓を通ります。

ここが、大野直之の墓です

 

イソヒヨドリが無事お帰りとささやいてくれています♪~( ̄。 ̄)

 


古城(山城)を行く 八黒城

2017-12-05 17:56:49 | 歴史

別名   :古城

城主  :八黒氏

築城者 :不明

築城年 :不明

標高  :80m/比高40m

形態   :丘城

歴史的には、詳細不明であるが汗生城(あせぶ)の支城で八黒氏の居城であったらしい

道路が城の前後を通りぬけており、その間に遺構が残っている。

現状では、曲輪(くるわ)、土塁(どるい)また主郭(しゅかく)と思われる南背後に

大土塁があったと思われる。

 

所在地 愛媛県大洲市肱川町宇和川

高速道路、内子ICを降りて左に走ります

高速道路の下を走り、次の信号を左に(五十崎町方面)はしります。

しばらく走ると突き当たりを左に曲がります(橋をわたる)次の信号を

右に曲がると、すぐ、内子市役所があります。

更に、すぐ先の信号を右に曲理ます(橋を渡る)そしてR197号線を野村方面へ

しばらく道なりに走ります。

信号が見えてきたら、そこを左に曲がります。(橋を渡ります)

ここから、約1kmで萩の尾のバス停我右側にありますから、注意しながら走る。

ここの、バス停から約100m車で登ると、左に小さい小屋があります。

ここから200m先を緩やかな左カーブした所で、止まります。

ここから入山します。入って左に入ると八黒城の石柱があります。

駐車している後方に石柱が立っています。電柱柱もそばに立っています。

見つかると、な~んだと思いますが、なかなか攻略は大変ですヤレヤレヽ(~~~ )ノ

 

 

 

 

 

 

 

 


古城(山城)を行く 大熊城

2017-11-15 20:31:16 | 歴史

城主   :戒能通運・戒能通森

築城者 :不明

築城年 :不明

標高   :906m/比高約700m

形態   :山城

今回の大熊城探索には、大変苦労しました。下見では、大きな目印看板があるので

安心していましたが、尾根が多数あり道路からの、登り口がわかりません。

迷うこと2日、下見を含めて、計4日、費やしました。山の環境はそれぞれちがいますので

今回は良い教訓になりました。

では、大熊城について、簡単に説明いたします。大熊城は重信川支流と井内川に

囲まれた山塊の最長部、標高906m/比高約700mの地点に位置する。

中予地区の山城でも最も高い部類に属し、それだけ要害堅固な城となってるそうです。

遺構は1と2の郭があり、堀切が数個ありましたが、井戸とか、石ずみなどは

見つかりませんでした。戦国期の城主としては、戒能通運や、戒能通森が知られています。

戒能通運は、1533年支城の小手ヶ滝城を居城としていた時、久万の大除(おおよけ)城主

大野利直に攻められて大熊城にのがれ、ここで、大野軍を撃退したと言います。また

戒能通森は戦国末期の河野通直(牛福丸)の側近にあっておおくの合戦に軍功が

あったと言われています。

所在地 愛媛県東温市川内町大字則之内

松山市内~11号線を高松方面へ~川内町則之内交差点を右に(210号線)へ

道なりにしばらく走ります。

左に西谷小学校をすぎて井内地区に入ります。しばらく走ると右に西谷公民館

その先の210号線に入ります。(少し注意しながら)

しばらく走ると次を左(惣田谷へ)へはしります。

しばらく走ると左下に一軒民家があります.

この家の了解ヲ得て、お墓に駐車します。ここから見上げた奥の山

ここから、下がったところに大熊山の標識あり

ここからしばらく、コンクリート道をあるきます。コンクリートの道は、ここまで、ここから30分~40分歩くと 大熊城の山に入ります。

標識も立てましたが、目印は、大きな石が右側にあります。

薄暗い山中を尾根に向かって登ります。

城郭からの下は急峻出会うので注意して降ります。

(^-^)//""ぱちぱち 無事に下山そして大熊城攻略\(^o^)/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


古城(山城)を行く 小手ヶ滝城

2017-11-05 20:07:08 | 歴史

城主   :戒能備前守道運(みちのぶ)

築城者 :不明

築城年 :戦国時代(1497~1900年)ごろ

標高   :529m/比高170m

形態   :山城

 

地形的には南方の善神山から北に向かって伸びる尾根の先端部にあたるが

一段高く突出している為井内の集落からは独立丘陵のようにみえる。

戒能備前守道運(みちのぶ)の居城であった。道運(みちのぶ)は久万大除の城主

大野年直と戦ったが、用水路を絶たれて落城、大熊城へ逃げた。中野の畔には

無縁塚、無縁墓が数多くあるが、これはこのときの戦いに戦没した兵士の墓で

あるといわれる。主郭の南側は、急峻な崖となって大きな堀切を形成し、さらに

尾根の南方下って行く途中にも堀切があり、このように小手ヶ滝城は堀切や

土塁を多く持つことによって要害堅個な城を作りあげている。

所在地 愛媛県東温市(旧川内町)井内

松山市内~東温市則之内の信号を右に(R210号線)曲がります。

ここから道なりに約1km走ります。

 表示板が小さいので(注意しながら)走る

登り口まで、到着です。

ここに駐車します。

ここから登ります。道はそんなに悪くないです。

もう、まもなく到着です

到着です・

 

 

 

 

 

 

 


古城(山城)を行く 柴尾城

2017-11-04 16:05:30 | 歴史

 

城主   :越智通冨

築城者 :不明

築城年 :不明

標高   :419m

形態   :山城

 

城は猪木地区に有る河野神社の南背後の山にある。北に伸びた尾根の先端は

削平地があるように書かれているが、現在は見えず平坦ではない。

城の状態に関しては全壊とあるが理由はわからない。堀切と思われるもの1ヶ所

石積みのところが2ヶ所確認。

二将の墳墓:柴尾城主越智河内守(かわうちのかみ)道富。高手山城主越智甲斐守

(おちかいのかみ)通誘を葬る他。二将は親王を奉じ足利義正の兵と各所に転戦して

最後は高穴(たこな)城に拠って防戦すること月夜遂にたおる。

所在地 愛媛県松山市猪木(北条)

松山市平田町からR196号線大谷トンネル~栗井坂トンネルを過ぎて北条に入る。

しばらく走ると右に文化の森が見えてきます。そこから数百m進むと信号を右に

R17号線に入り、道なりに走ります。しばらく数キロ走ると北条カントリー(ゴルフ場)

入り口を右に見て約1kmはしると才の原標識が見え、民家のところに赤い回転灯が

見えます。そこを右に登ります。

到着です。

今日は晴天で遠望が良く見えます。

今日は、柴尾城と勝根山城を攻略いたしました。

 

 

 


古城(山城)を行く 勝根山城

2017-11-04 12:57:43 | 歴史

 

城主   :杉宣親

築城者 :不明

築城年 :不明

標高   :395m

形態   :山城

 

城は猪木地区の北東背後の山頂、道がないので山を尾根に向かって登って行き城郭

らしい所に到着した。どうも城跡の雰囲気がしない。自然の山にしか見えず削平

されてるような地形も見当たらない、近くの柴尾城が(全壊)とあり、柴尾城も

城郭の雰囲気が残ってないことから勝根山城も破壊されたのかもしれない。

所在地 愛媛県松山市猪木(旧北条)

松山市平田町196号線から大谷トンネル~栗井坂トンネルを過ぎると北条にはいります。

 しばらく道なりに走り右側に文化の森が見えてきます。そこから数百m先に信号があります。

 その信号を右へ17号線(北条~玉川線)はいります。そして道なりにはしりますと、右側に、民家

 に取り付けてある赤い回転灯のところを右に登ります。

勝根山山城はまっすぐ進みます。

ここから歩いて登ります。車はここに駐車です。

ここが本丸と思われる.遺構は確認できませんでした。

入り口が少しわかりずらいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


古城(山城)を行く 森山城

2017-11-04 09:07:30 | 歴史

城主   :富永直安

別名   :沖のもり城

築城者 :不明

築城年 :不明

標高   :35m(比高20m)

形態   :丘城

 

肱川とその支流である八河川が合流する地点の東に低い丘にある。

現在は神社の境内なっており周囲は水田であるが地元の人が言うには

もともとは肱川の氾濫による湿地帯であった。道路から田んぼのあぜ道を

通って行く。頂上は西側が一段高く、櫓台状になり、その上に社が祀られておる

曲輪が2ヶ所ある。道路を挟んで反対側ん民家の庭に墓石がある。

その人の話では、もともと違う場所に転がっていたのを、先祖のひとが、ここに

持ち帰り、この庭に立て、今も管理してるとのこと、どうも、戦いで討死した兵の墓らしい。

 

所在地 愛媛県大洲市森山

内子ICを下りて、左に曲がり、その先を斜め左に進み次の信号を左に走る。

内子五十崎に入り、内子役場に到着

  

  

       

その先を右(橋を)渡り、信号を左に行き179号線を行きます。     

 

 

道なりにしばらく走ると、道の駅(清流の里ひじかわ)が見えてきます。

更に走ると前方に信号と橋が見えてきます、そこを左にとり橋を渡ります。

橋を渡り終わったら、すぐ先を右に走ります。

更に進むと大洲市大川公民館の前、小学校前を通るとまもなく右側に小高い

森が見えてきます。

民家の庭にある討死した兵の墓と思われる。

裏の肱川には、水がきれいですので、鮎、ハヤ、小魚、また野鳥もいるそうです。

昨年と、今回2回行きました。

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 


古城(山城)を行く 三滝城

2017-11-03 21:33:48 | 歴史

 

別名   :御岳城

城主   :紀氏  初代は実定(甲之森城主)

築城者 :紀実次

築城年 :1429~1441年ごろ

標高   :642m(比高258m)

形態   :山城

 

三滝城主は紀貫之の末裔であるといわれ、貫之13世の孫式部卿紀、実定が伊予国周知郡

北ノ川庄5300貫を拝領して京都より下向、甲ヶ森領7城22邑の大守なったと伝えられる。

実定の孫実次は三滝山に築城してこの要害に移った。孫実道の子勝千代(実勝)が継いで

早世し、その弟道安が相続、湯築城河野の女をいれて室とし家紋を丸の沢潟の紋所から

角切内糸輪縮三文字に代えた。その子経安は北之川庄を窪野村、土居村に改めた。

その室は土居清良の女である。経安の子親安が相続して七城の主となり、その武威は

近隣になった。長曽我部元親の妹婿波川玄蕃の女を入れて妾とした。

波川玄蕃の叛意に気脈を通じた言う口実をもって、元親は部下の将久武後内蔵介、

桑名太郎左衛門らに手勢一万三千余騎を与え、この三滝城を攻めさせた。

城兵火花を散らし防戦したが敵は新手を入れ替え、入れ替え攻めかえし、本丸を乗っ取り

二之丸にせまった。三滝勢の大半は討死した。親安、もうこれまでと依岡左京と組み打ちして

悲壮な最期を遂げた。1583年一月十三日でした。

 

所在地 愛媛県西予市城川町土居

内子ICを降りて左に走りすぐ先を斜め左に入り、次の信号を左にまがります。

内子役場を過ぎて右に曲がり、橋をわたります。

橋を渡り左229号線をはしります。

道なりにしばらく走ると道の駅(清流の里ひじかわ)が見えてきます。

更に走ると前方に信号がみえます、その信号をひだりに(橋です)とります。

ダム湖畔を過ぎ、トンネルにはいります。

道なりにしばらく走ると城川地区にはいり、道の駅(きなはい屋しろかわ)に到着。

道の駅(きなはい屋しろかわ)のすぐ先の信号を左(2号線)に入りトンネルにはいり

道なりに走ります。

もう少しで、三滝城入り口の標識(注意してみる、右側)

ここからは、車ではいけません。ここからの距離約500mです

もう少しで到着します。

1日で攻略しました。


古城(山城)を行く 甲之森城

2017-11-03 13:37:01 | 歴史

 

別名   :かぶとのもりやま城 ・甲が森城

城主   :紀氏(実次) ・長山伯守豊岡

築城者 :紀実定

築城年 :1394~1428年ごろ

標高   :451m(比高251m)

形態   :山城

伝承では、甲の森城は紀貫之13代の孫式部卿紀実定が伊予国周知郷北之川床5.300貫を

拝領して、京都より下向して築城されたとされている。資料が少ないためあくまで伝承です。

そして当城主は、下記の7城と22ヶ村の太守となったと言われてる。

1:甲之森本稿

2:三滝城

3:大香城

4:鎧ヶ端城

5:白岩城

6:猿ヶ森城

7:白石城

 

1585年(戦国時代)土佐の長宗我部氏が南予に侵入し、甲之森城の城代、長山伯耆守豊岡は

当城に拠って守備したものの衆寞敵せず落城。長山白耆守豊岡は自害したとされるが、一説ではその後

長宗我部氏の被官となって活躍したとも言われてる。電波塔が立ってるところが、本丸、二の丸

三の丸といわれてるが、現在は電波塔関連の施設が出来たためその他の遺構は

確認できなかった。

 

所在地 :愛媛県西予市城川土居

内子ICを降りて左に走りすぐ先を斜め左に入る

内子市役所を過ぎすぐ右の橋を渡り229号線を走ります。

 

 

川沿いに沿って道なりに走りしばらくすると、前方に橋と信号が見えてきます。

その信号を左に曲がり、橋をわたります。

さらに走ると、道の駅(清流の里ひじかわ)が見えてきます。

更に進んでいくと左にダム湖見ながらトンネルに入ります。

道なりに走ると城川に入ります。しばらく走ると道の駅(きなはい屋しろかわ)が

見えてきます。

道の駅(きなはい屋しろかわ)のすぐ先の信号を左(2号線)にはいります。

トンネルをすぎ道なりにしばらく走ります。

オレンジの標識ポールから焼く400m先を左(坂道)に登ります。

頂上に到着しました。

ここを左に数約十m進むと甲之森城跡です。

甲之森城跡

以上2日で攻略です。ヤッター!(^.^)>