生き生き人生.

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古城(山城)を行く 松森城

2018-01-11 14:57:25 | 歴史

城主   :森岡喜三左衛門尉

築城者 :不明

築城年 :1575~1577年頃

標高   :405m

形態   :山城

 

松森城は土佐の長宗我部元親の

伊予来襲に備え1575年~1577年

頃造られたものと推測される.山頂付近は、

雑木に覆われていますが、山頂は削って

平らにし、その広さは約30アール位

あります。その台地は一の丸、二の丸、

三の丸と、言えるでしょう。ここには、

昔の原形を忍ばせる堀り割があります。

この掘り割を乾堀といいます。一度,蟻が

落ち込めば、再びはい上がることが出来ないと

言うことから、実に巧妙な工夫をこらした

つくりです.そこで又の名を蟻地獄堀とも

言われています。長宗我部軍は海路より

ひそかに犬寄峠に登り、根中城を

(根中城については、改めてブログに載せます)

手中にし、尾根伝いに攻めました。又一方は、

陸地を経て川沿いに攻め、双方より雲霞(うんが)

のごとく攻め入る大軍に、遂に力尽きたのです。

この炎を見た勇敢な兵たちは、影浦の小高い

山にかけ登り、焼け落ちていく城を見やりながら

無念の涙をのみ、互いに刺しちがえ、あるいは

切腹して果てたと言われています。この地を

(みやり塚)と呼び、五輪の塔が十数基

祭られています。日浦峰成(名)に

城主森岡喜三左衛門尉・奥方の墓として

五輪の塔が二基並んでいます。更に誓明寺

には城主の位牌が祭られています。

松本城ふもとに清冷寺があります。

名を大乗山棲霊寺とも言い、城主の

ぼだい寺であったとも伝えられています。

ここには、地蔵菩薩立像が安置されています。

又清冷寺の上に武士,建岡六衛門の墓があります。

竹岡家先祖の墓標があり、その周辺には

五輪石が数多く並べられています。これらの墓等に

ついてはまだ寺の調査していませんので、時間が

かかりますが出来るだけ調べたいと思っています。

それから,城主の子は、伊予市中山町に出て商人になった。。

 

所在地

愛媛県伊予市中山町大字佐礼谷字日浦

 

松山から国道56号線を宇和島方面へ走ります。数キロ走ると

三坂峠に入り、三坂トンネルの二つ目の長いトンネル(約 1000m)を

抜けるとすぐに左方向(佐礼谷方面)へ進んでください。

 

道なりにしばらく走ります。

約30分走ると松森城、根中城の矢印看板が見えます。そこを右に緩やかな坂を走ります。

ここから約30分~40分走ると、松森城、根中城に着きます。道路は広く

アスファルトですので、外車(ヾ(@^▽^@)ノわはは)でも大丈夫

根中城と松森城は続いています。根中城の奥が松森城になります。

根中城は広場と、駐車場になっており、桜の木がいっぱいあります。

松葉城も公園になっており、遺構はあまり、ありません。

松森城に着きました

掘り切りですか?

曲輪みたいです。

掘り切りかも・・・・・

木が小さければすばらしい景色なのに、残念です。木を植えるときに、眺めのいい

すばらしいところを2~3箇所明けとけば、何年立ってもいい景色がながめるのにな~

公園用の道に切り取ったみたいだな~

ここは、公園になっていますので、桜が咲く頃家族で行くと楽しいです。

 

 

 

 

 


古城(山城)を行く  伊福城

2018-01-10 16:19:08 | 歴史

別名   :扇城

城主  :仙波盛綱(七代)・仙波盛景(十二代)・仙波盛政(十三代)・

          :仙波盛賢(十四代)   仙波盛忠(盛賢の弟、十五代)

築城者 :出渕盛景、出渕盛政(盛景の嫡男)

築城年 :1551年

標高  :437m

形態  :山城

 

城主仙波盛綱(七代)は、室町時代(1336~1573年)の初期に武蔵の国川越仙波城主でした。

足利尊氏が天皇方の楠木正成らに敗れ、いったん九州に逃れたけれど強い勢いで再起を図り、

都に攻めあがった時、武家方に味方した仙波盛綱はその九州蜂起の際の手柄によって

足利尊氏から越後守に任ぜられ、伊予の国浮穴郡七万八千石を賜って同城の城主となった。

その後十二代盛景、十三代盛政十四代盛賢ら三代の居城となりこの地を領有していた。

盛景の代に至って、家の名声が大いに上がり出渕(名)に城郭を構え盛賢寺を再建するなど

人のためを考えた良い政治をしたとのことです。

1564年曽根城主、曽根宣高は大軍を率いてこの伊福城に向かってきました。

1564年の四月~七月まで城を取り囲んで日夜双方の攻防が続きました。

味方に不利な悪戦苦闘が続きましたが決死の戦いで天運にも恵まれて曽根勢をさんざんに

打ち破り300人余りを討ち取り敗走させたといわれています。

しかし、城主盛景の死去の隙をうかがって1571年曽根勢はふたたび伊福城に兵を向けました。

そのときの城攻めに寄って盛賢の弟十五代盛忠は、遂に戦いに負けて相手方に従ったと

伝えられている。また、この城は1585年9月秀吉の四国征伐の際に長宗我部の軍勢のため

盛景寺と共に兵火にかかって炎上しました。盛忠は城を出た後、性を仙波と改めて庄屋となり、

子孫代々この村の庄屋となる土台つくりをしました。また信仰心も厚く、

兵火に焼かれた盛景寺の再建に特に力を尽くしたそうです。

 

所在地 愛媛県伊予市中山町大字出渕字漆

 

松山市内から国道56号線を宇和島方面に車で走ります。約1時間走りますと

中山町にはいります。中山高等学校から約1.3km走ります。

約1.3kmくらい走ると速度を落とし、下図を確認してください

とまった所の右図は、遊栗館公園です。ここに駐車してその先が伊福城、登り口です。

別のところから途中まで車で行けますと地元の人に聞きましたが、徒歩での挑戦

さ~出発GO,GO

昔は、上のへ行くための道、また、馬や、牛で木材をおろしていたそうです。

全く人は通りませんので、見当がつきません。

(;◎_◎)ノ ヤバヤバ     

                                  

これは、ひどいです。<(; ^ ー^) マイッタマイッタ...でも・・GO,GO  

道なき道を尾根に向かって登ります。

 

\('∇'*)や?小屋、に畑、らしい?道路?かな~

ア。。ここまで、車で向こうから、これるんだ('ε') フーン  

 

あのあたりかな?        GO,GO  

ここから、登ります

眼下は中山街です。遠くは、中山村落です

上から眺めた!

これから、林の中を登ります。目印も付けなくちゃ(● ̄▽ ̄●;)

目印を付けて登ります

尾根みたいだ!これを右?それとも左?ん~右に登ります

尾根から約30分登って遂に伊福城攻略  ヤッター!(^.^)>

遺構は、堀切が数箇所、また曲輪が数箇所あり、かなり広い城郭と思いました

往時をしのばせる墓石  激しく戦い、戦士した兵の墓

 複雑な山は下山するとき迷う恐れがあります。目印は必要です。

持ち物は,ライト、薄い合羽、ヘルメット

ロープ(8径×10m)、目印テープ、手袋、ナイフ、

カメラ、 飲料水、非常食、

獣対策の音の出るもの、

方位計,携帯電話、等